2026-02-15

No sugar, thanks.

 「彼」と言葉を交わしたのは実に数年ぶりだった。
 もっとも、自身の護衛対象である令嬢がこの学園に入学が決まったときから、いつかはどこかで会うだろうとは予想していた。まさか、令嬢の担任になるとは思っていなかったが。
 けれど、その前から彼の居場所は知っていたし、会おうと思えばその機会は幾らでもあった。
 ただ――理由だけがなかった。
 
 護衛対象であるベッキー・ブラックウェルを迎えるため、校内の車止めに駐車をして外に出ると、聞き慣れた杖の音が響いた。
「お迎えご足労様です。しかしながら、我が三組は授業の進行が少々遅れておりましてな。三十分ほど授業を繰り下げております。貴殿たちには大変申し訳ないが、初等科のカフェを開放しておりますからそちらでしばしお待ちいただきたい」
 ベッキーの担任であるヘンリー・ヘンダーソン教諭が、迎えに来た使用人たちにそう謝罪した。
 使用人たちは一瞬ざわめいたが、さすが大邸宅に勤める者たちらしく、不満ひとつ口にせず促されるままカフェへと移動しだした。
 マーサも彼らと同じようにカフェへ移動しようと歩き出す――が、立ち止まり、少しだけ思案すると、「ヘンリー」と、校舎に戻ろうとしていたヘンダーソンに声をかけた。
 ヘンダーソンが一拍遅れて振り返る。杖先が石畳を叩く音が、そこでふっと止まった。
「――マーサ」
 そのひと言だけで、数年分の空白が満ちる。
「あなたの『お茶会』はもう止めてしまったの?」  
 ヘンダーソンは一瞬驚いたように目を開いた。が、すぐいつもの渋い顔に戻る。
 授業の遅れ、児童の下校手配と使用人たちの誘導。教諭としてやらねばならない段取りが頭の中で手際よく並び替えられていくのが、顔に出なくてもわかる。
「今は務めの途中だが――まあ、いいだろう」
 彼は咳払いをひとつして、背筋をいっそう伸ばしながら「ついてこい」というように踵を返した。
 以前の彼なら――マーサがよく知っている彼なら考えられないことだった。
 変わったのだ。
 彼も――自分も。
 マーサは、自分が発した言葉にほんの少しの苦さを味わいながらその背を追った。

 彼の執務室は、彼の人生そのものを映し出していた。
 窓辺に置かれた観葉植物は手入れが行き届き、葉の一枚一枚が瑞々しい。机の上に余計な紙はなく、万年筆立てと、黒い革表紙の手帳、それから時間割が几帳面に揃えられている。
 重厚な空気のなかにも、漂うのは簡素さだ。
 彼は伝統や格式を重んじる傾向があるけれど、実はかなりの本質主義者エッセンシャリストだ。 
 ヘンダーソンは、マーサに背を向けて戸棚を開けた。
 そこから取り出したのは、白磁の小さなポットと、同じく白磁のカップ。装飾のない、これもまた簡素なものだった。
「変わってないのね」
 そのカップは、イーデン校の食堂で昔から使われているものだ。昔――毎日のように『お茶会』でも使っていた。その懐かしい感触を指の腹で楽しむ。
「さすがに同じものではないがね。なに、これだったら食堂に大量にあるからな。借りても文句は言われん」
「返す気もないでしょうに」
 軽口を叩きながら、湯が沸くのを待った。
 やがて、コポコポとケトルの底から音が跳ね、次いで注ぎ口から湯気が立ち昇っていく。 
「あまり凝ったことはできんがね」
「充分よ」
 彼は慣れた調子でスプーンで茶葉をすくってポットに適量落とすと湯を注いだ。懐から懐中時計を取り出し、音になるかならないかの声で「三分」と呟く。
 その懐中時計が、彼の亡き妻からのプレゼントであることは知っていた。
 使い込まれた美しい時計だ。彼の手に馴染んでいるであろうその時計を、彼はまた胸ポケットに仕舞う。心臓の一番近くに。
 彼と、彼の妻が刻んだ「時間」。
 この茶器と同じく、 彼はこの場所で、この先も大事に大事にそれらを慈しんでいくのだろう――。
 茶葉の乾いた香りが湯気にほどけて漂う。渋みのある気配がマーサの輪郭にまとわりついた。 
 吸い込んだだけで、彼女の中の時間が一段、古い層へ沈む。
 思えば、かつて『お茶会』と呼んでいたものは、ふたりがありのままでいられる、短い避難だった。
 少なくとも、マーサにはそうだった。
 彼がどうだったかは分からない。
 今さら問うつもりもない。ただ、そうであったら、と、過去の日々を願うだけだ。
 ポットの中で茶葉が踊る。
 赤褐色、深い琥珀――。
 見えはしない。けれど、滲むように、ゆっくりと透明な湯が色づいていくのを肌で感じる。 
 ――同じだ。変わったのに、同じところもある。
 ポットの蓋を閉じたまま、ヘンダーソンは戸棚をもう一度開けた。今度は砂糖壺とミルク差しを取り出す。ミルク差しの脚の部分が少し欠けていた。誰かが乱暴に扱ったのではない。時間がそうさせた、そんな欠け方だった。彼は気にした様子もなく、それらを机に置く。欠けたからといって取り替える気はないようだ。
 彼の真意をそこに見た気がした。
 ヘンダーソンがカップを差し出す。
 マーサの前に置かれた白い器の縁が、湯気で淡く曇った。
「――砂糖はふたつだったか」
 問いではない。ただの確認だった。
 『あの頃』と同じ数。
 その数より、もっと多く流れた日々が胸に刺さる。
 マーサは一瞬だけ、自分の舌の記憶を確かめるように口を閉じた。
 甘みを求める自分は、もういない。あるいは――いないことにした。
「いりません」
 言ってから、少しだけ付け足す。
「ストレートでいただきます」
 ヘンダーソンの手が、砂糖壺の蓋に触れたまま止まった。ほんのわずかな間。
「……そうか」
 砂糖壺は、元の場所に戻された。
 代わりに、彼は再度ポットを手に取り、マーサのカップに紅茶を注ぎ足した。
 紅茶がカップに落ちる音は、細く、しかし確かな重みがあった。
 カップのなかの茶葉が、琥珀色から紅褐色へと変化する。
「ありがとう」
 カップを両手で包むと、白磁越しに熱が伝わり、指の節がじわりとほどけていく。
 口をつける前に、湯気の匂いを吸い込んだ。
 渋い。けれど、ただ苦いのではない。
 渋みは輪郭を作る。
 彼女は一口、飲んだ。
 舌の奥に、乾いた渋みが置かれ、そのあとで柔らかな香りが追いかけてくる。
「あの頃と同じ味ね」
「少しは良い茶葉が入るようになったがね」
「そうね、でも……」
 そのあとの言葉は続かなかった。
 『あの頃』とは違う。
 その事実がまだ舌に残る。もうとっくに嚥下したはずの感情が、不意に蘇る。
 けれど――、その渋みさえ、『今の自分』は楽しめるようになった。
 その感情を。あの日々を、大事に思えるようになった。
 それは、彼女にとっての誇りだ。
 ヘンダーソンは何も言わず、彼女と同じストレートのカップに口をつける。
 しばらく沈黙が支配した。
 彼らは思い思いにこの時間を楽しんでいる。
 やがてマーサはカップのなかの紅茶をすべて飲み干すと、「戻ります」とひと言告げて立ち上がる。
 三十分が過ぎていた。
「そうだな」
 ヘンダーソンも立ち上がる。机のうえには、ふたつのカップと、ミルク差しと、使わなかった砂糖壺。
 あの頃と同じ配置で、あの日々がすぐに蘇る。
 けれど、砂糖は使わなかった。
 同じようでいて、同じではない。 
「では」 彼女が言うと、ヘンダーソンは頷く代わりに咳払いをひとつした。
 それもまた、言葉の代わりだ。
 胸の奥に残るのは、渋みだけではない。
 熱が抜けたあとに残る、ほんのわずかな温度。
 ――それだけで充分だ。
 
 車止めまで戻ると、学園の音が一気に戻ってきた。
 児童の笑い声、足音、教師の呼びかけ。規律の中のざわめき。
「あー! マーサぁ!」
 視線の先に警護対象であるベッキーを見つけると、同時に彼女がこちらに向かって大きく手を振ってきた。
「ねー、マーサ聞いてよ! 今日アーニャちゃんったらねー」
 ベッキーは今日も楽しそうに、その日一日あったことを話し出す。
「お嬢さま。車のなかで伺います」
 マーサはいつもの通り、ベッキーを車内へ促すと運転席に座る。
「ベッキー、またしたたー!」
「じゃあねー、アーニャちゃん!」
 発車の間際、バックミラー越しに別れを惜しむ級友たちを微笑ましく見つめる。
 ベッキーの友人であるアーニャ・フォージャー嬢は、ヘンリー・ヘンダーソン教諭と一緒に、バス停のほうへと歩いていく。
 ヘンダーソンは振り返らなかった。
 マーサももう彼とは違う方向を向いている。自分の任務は、これからベッキーを安全に自宅まで送り届けることだ。
 マーサはイグニッションキーを回すと、しっかりと前を向いて車を滑らせた。

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