カチャリと軽い音を立ててリビングの扉が勢いよく開いた。
持っていた音楽雑誌から視線だけをその方向にチラリと向けると、湯気がほんの少しだけ見えた。そのついでに、頭にタオルを巻いたのだめの気の抜けた面も一緒に見える。
「ふぁあ~、いいお湯でした。先輩、ありがとうございマス」
湯上りの上気した顔を幸せそうに緩めて、ご満悦だ。
「先輩の部屋ってのだめの部屋よりもお風呂も大きんですね~」
いいなぁ、毎回こっちに来ようかなぁと、勝手なことをほざきながら洗濯物が入った紙袋や洗面器、化粧(?)ポーチなどを床に転がして当たり前のようにくつろぎ出す。
「先輩、この部屋扇風機無いですね」
「クーラーあるからな」
視線を元に戻してぶっきらぼうに返す。
「え~!? それはダメですよ先輩。そりゃこの部屋涼しいですけど、やっぱりお風呂上りには扇風機を浴びないとっ! 扇風機を真正面に浴びて『あぁ~』って変な声出して牛乳飲むのがサイコーなんデスよ先輩! あ、牛乳あります?」
「……ねぇよ」
視線は絶対に上げないと決めた。目を合わせたくないのだ。気になって気になって仕方の無いことを聞いてしまいそうだからだ。
だが、それは俺には直接関係の無いことだ。
絶対に聞かない。
絶対に、だ!
「えぇ~? 牛乳も無いんですかぁ~!? 先輩、お風呂をナメてますね?」
「お前が言うか?」
しょうがないなぁ、という口調に思わず顔を上げて反論してしまう。
だが、のだめは分かってないらしい。タオルを巻いておでこが全開になった顔をきょとんとさせている。
……汲み取れよニュアンスをよ……。
だが、気になるのはそんなところじゃない。
ああ、やっぱり駄目だ、どうしても気になる。
「……ところでお前、ちゃんと髪洗ったのか?」
軽くこめかみを押さえながら、襲ってきそうな頭痛と必至で戦う。
頭に巻かれたタオルのせいで、のだめの髪が濡れているのか判断できない。
だが、おそらく、きっと、多分、十中八九その下は濡れてない。
「かみ? ……洗いましたよ?」
のだめはそう答えながらもつつーっと目を逸らしていく。
「……なんでこっち見ねーんだよ」
「え? だって先輩があんまり激シク見つめるから……」
照れちゃいマス~と両手を頬に当ててシナを作る。だが、視線は床に落ちたままだ。
……決まりだ。
「ならタオル取ってみろ」
「え……だってまだ乾いてないデス」
「うるせぇ、いいから取れ!」
「ぎゃぼー! えっち~!!」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねぇ!」
無理矢理タオルを取り上げると、案の定全く濡れていない髪がバサリと広がった。ところどころ濡れているように感じるのは脂のせいだ。おそらく三日は放置したままと見た。
「やっぱり洗ってねぇじゃねえかっ!」
「だって、ダッテ! 髪は一昨日洗ったから今日は体の日なんデス!」
「ふざけんなっ!」
ぷちんと血管が切れて、嫌がるのだめの襟首を掴んで風呂場にとって返す。
ついさっきまで使っていた浴室はまだ湯気が充満していたが、構わずのだめを蹴って放り込む。そして自分も、シャツの袖とジーンズの裾を手早くめくって一緒に中に入った。
「そんな汚ねぇナリでオレ様の部屋に居座るな、このフケ女!」
怒鳴りながらのだめの首根っこを押さえてバスタブに突き出すと、勢いよくシャワーを浴びせる。のだめの着替えたばかりのワンピースは見事にぐっしょりと濡れてしまったが無視だ。
「熱い、あついデス!」
「我慢しろっ」
脂とホコリまみれの髪だ。洗う前に熱湯消毒しないと触りたくもない。
それでも視線の脇で設定温度をきちんと確かめて、ブラシでからまった髪を念入りに解いていく。だが、頑固な毛先は毛玉になってなかなか解けない。ムキになって力を加えると髪の中ほどでかなりの量がブチブチと切れた。
「痛い、痛い、先輩いた~いっ!」
「うるせぇ、甘ったれんな!」
毛先と格闘すること数分、何とか一通りブラシが通る髪になる。
これでやっとシャンプーが出来る髪になった。のだめはなおも小声で「痛いよぅ、痛いよう~」と涙ながらに訴えているが完全無視だ。
そもそもこんなになるまで放っておくヤツが悪い。毎度思うが、本当に女かこいつは!?
「ったく、夏は毎日風呂入れ! 入ったら必ず髪洗え!!」
「だって、あんまり髪洗うとハゲるって洋子が言ったんですもん~」
「しなさ過ぎが一番禿げんだよ!」
これは本当だ。フケやゴミが毛穴に詰まると毛根が炎症を起こす。ひどいときには粃糠性脱毛症ということにだってなりかねない。大体、既にブラッシングだけでこんなにブチブチと切れている。相当髪が痛んでいる証拠だ。
のだめの髪は茶色くて細い、いわゆるネコっ毛だ。
こうい髪は元々痛みやすいし切れやすいのに、この女はそんなことお構い無しだ。
ぶつぶつ言いながらシャンプーを取ろうと手を伸ばすが、ハタと気づいて手が宙を踊る。
……これじゃ駄目だ。
「じっとしてろよ!」
そう釘をさして脱衣所に戻ると洗面台の下を探す。数々の掃除用具の中に混じって、ひとつだけ趣の違う容器を取り出した。
透明のポリ容器にはアンバーの液体がどろんと入っている。
先日、シャンプーを買いにドラッグストアへ行った際にたまたま目に付いたものだ。
先頃発売になった画期的なシャンプーだとドラッグストアの店員は言っていた。
『天然ハーブをそのまま使用しいてとっても良い匂いなんですよ。是非彼女にも勧めてくださいね』
話し好きらしいその店員は、にこにこと教えてくれた。
英語のシャレた商品名とカモミールの絵。シャンプーには珍しい色の液体と透明の容器。容器の内側に描かれたカモミールの花が液体から透けて拡大される。その下には「乾燥・ダメージヘアに潤いを取り戻します」と書いてある。まあ、どこのシャンプーも同じことを謳い文句にしているものだ。それなのに手に取る気になったのは、ふとある顔を思い浮かべたからだった。
買い物カゴの中には自分がいつも使っている愛用のシャンプー。だが、これだとのだめには合わない気がする。
――あいつにはこっちの方が良いかも。
そんなことを思いながら何気なくレジに持っていって、何気なく金を払い、何気なく家に帰ってきてから激しく後悔した。
なんで、俺があいつの髪の心配してんだっ!
しかもそれを何の違和感も無くレジに持っていった自分に更に腹が立つ。
だが、今更言っても仕方がない。そう諦めたが、さりとてすんなりのだめに使わせるのも業腹だ。結局、そのシャンプーは無かったことにして棚にしまいこんだ。
それが、思わぬところで役に立った。
実際、あんなに痛んでいる髪にはやっぱりこっちのほうが良いだろう。置きっぱなしも勿体ないし、仕方ないから使うことにする。
いいか、あくまで仕方なく! だ。
そう自分に言い聞かせ、浴室に戻る。
透明で少しとろみのある液体が手のひらにたまると、花の匂いがふわんと鼻腔をくすぐった。
「ふわあ、いい匂いですねえ」
浴槽に顔を向けたままのだめが声を上げる。
「ああ、まあ……」
本当にかなり良い匂いだった。香り自体は強いが、合成洗剤が入りまくりのシャンプー特有のいやらしさが全然無い。香水などは苦手だがこの程度なら逆に好きな部類だ。「天然ハーブ」と謳っているのは伊達じゃないようだ。
髪につけて洗っていくと、すぐに真っ白な泡がむくむくと立ち始める。その泡からまた草の薫りが浴室中に広がる。
と、楽しくなったのか、のだめはいきなり鼻歌を歌いだした。
聞いたことのない曲だ。
「何だよその曲」
「えへへ~、今思いつきまシた」
「何だ、いつものか」
のだめは気分がのるとよく即興で鍵盤を叩く。わけのわからない曲も沢山あるが、たまにかなり耳を引く曲もある。今も鼻歌を口ずさみながら浴槽の淵を鍵盤に見立てて指を踊らせていた。
「タイトルは『恋とお風呂と千秋先輩』デス」
「……殺すぞ」
えェ~ひど~い、とケラケラ笑いながら指は止まらない。フンフンと一見でたらめなメロディーを口ずさんでいる。だが、その旋律にはしっかりと強弱もラインもある。
それになによりのだめが実に楽しそうだ。
『千秋、日本ではミュージックを「音楽」と言いマス。これはとても正しい。音は、正に楽しむものでしょう?』
シュトレーゼマンの言葉がふいに蘇る。くどいくらいにあの巨匠が口にしていた言葉だ。
……今はその意味がよくわかる。
のだめの指先は、いつも何の縛りも気負いも無い。
ただ、楽しんでいるだけなのだ。
こいつには浴槽の淵だろうが、カーネギーの大ホールだろうが同じことなんだろう。
……本当に好きだよな。
苦笑しながらも、何故だかその様子がたまらなく嬉しい。合わせるように、リズムを取りながら指の腹で丁寧に頭皮をマッサージしていくと、のだめがくすぐったそうに首をすくめた。
「先輩、くすぐったい」
「いいから、止めんな」
「はぁい」
鼻歌は止むことなく泡のこすれる音とハーモニーを描いてどこまでも暢びていく。
真っ白な泡がのだめの髪を包んで洗われていく。髪をかきあげて覗いた白いいうなじが、メロディーにのるようにサワサワと揺れる。意外に華奢な首筋から肩にかけてのそのラインが、波を打つように弧を描いた。
――全く予期だにしないことだった。
間違っても起こるはずの無いことが自分に降りかかった場合、えてして直前まではその姿は微塵も見せない。
だが、唐突に理解するのだ。
頭ではなく、どこか別の何かで。
体温が上がって頭の上まで突き抜けたのはほんの一瞬だった。
動いていた指がピタリと止まる。
相変わらずメロディーは耳を通り抜ける。そして、浴室の壁がわずかに反響してその声を増幅させて鼓膜を震わせた。
――これ以上は無理だった。
「……あとは自分でやれ」
そのままのだめと目を合わせずに脱衣所に引き返す。
「えェ~!? 最後までやってくださいよぅ~」
「うるせぇ、注ぎぐらい自分でやれっ」
捨て台詞を投げ付けて浴室の扉を乱暴に閉める。洗面台に据えられた鏡に、耳まで真っ赤な間抜けた男の姿が写った。
……不覚。
まさか、のだめごときに……。
頭を抱えてその場にしゃがみ込む。あまりの衝撃に貧血を起こしそうだ。だが、体温と鼓動の早さは相変わらず高いまま。
……ホントかよ!?
まさかの事態になすすべもなく途方に暮れる。
浴室では、一度止んだシャワーの水音が再び聞こえだした。その音に混じってのんきな鼻歌も再び始まる。どうやら一曲完成させる気らしい。
その歌声と、白い首筋がまたよみがえって体温が更に上がる。
たまらずに、洗面台の蛇口を大きく開いて頭から水を被る。勢いよく出た水が、洗面台や鏡や辺りの床にはじけて飛び散った。
頭からずぶ濡れなって、何とか冷静さを取り戻す。
扉の中ではまだのだめがフンフンと口ずさんでいる。
……取りあえず落ち着こう。
今はまず、自分を取り戻すのだ。
そう自分に言い聞かせて、人生で一番大きな深呼吸をする。
大丈夫だ、こんな不測の事態はあの胴体着陸から比べたらどうってこと無い。
取りあえず濡れたシャツを取り替え無くては。あいつにこんな醜態見せられるか。そう思って振り返ると、いきなりのだめの顔が目の前に現れた。
「あれ、なんで先輩も濡れてるですか?」
髪を洗い終わったのだめが勝手にあがってきたのだ。しかも、濡れそぼった髪からボタボタと滴が落ちている。
「いきなり目の前に出てくんじゃねぇ!」
バスタオルを数枚顔面に投げつけて、また蹴って浴室に戻す。
「いいか、これで浴室全部拭いてこい! それまで出るな!」
「そんなぁ~、先輩ヒドイです~風邪ひいちゃいます~っ」
「ひくかっ! 終わったら脱衣所もちゃんと拭けよ!」
「ぎゃぼー!? ズルイ、そっちはほとんど先輩がぬらしたんじゃないですかぁー!!」
「うるせー、文句言うな!」
のだめはバンバンと扉を叩くが、体重をかけて閉じ込める。
やがてくすんくすんというわざとらしい泣き声と一緒に、しぶしぶと浴室を拭きだす影が扉越しに写った。
……ほんとに、勘弁してくれ……。
その姿を背中越しに感じながら、これまた人生最大のため息をついた。
頭の上まで一気に昇った血液が頭痛となってこめかみを襲う。
取りあえずシャツを着替えて、コーヒーと煙草で落ち着こう。
……そしてよく確かめよう。
まだ時間はたっぷりある。
ゆっくり考えればいいんだ、たぶん。
まず、のだめが出てきたら何気ない顔をしてドライヤー当ててやって、飯を作る。
それからのだめはきっとピアノを弾くだろう。
さっきあの曲。
あいつの頭から抜け出る前に一度きちんと作らせよう。何なら連弾してやってもいい。
きっと、おそらく絶対、あいつは喜んで弾くだろう。
……その笑顔を見てからでも、きっと遅くは無いはずだ。
end.







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