ふと気がつくと、影がずいぶん伸びていた。
背後の窓から射す西日が、床に細長い帯のような影を描き出している。
いったいどれくらい同じ姿勢で座っていたのだろう。膝のうえの書類が冷たくなっていた。
昨日の、ウィンストン・ウィーラーとの交戦をまとめた報告書だ。あらかた書き終え、チェックしていたはずが。うたた寝でもしていたのか。
――やはり腑抜けているな。
叱咤しながら、書類を片付けるために立ち上がる。
長く動かしていなかった体がゆるやかに抵抗を示す。重く鈍い音が背骨のあたりで軋んだ。
軽く首を回すと、陽の悪あがきが目を焼く。
反射的に目を細める。けれど、その陽から視線を外すことなく窓へ近づいた。
指の端でそっとカーテンに触れると、薄布の透け目から茜色の矢がまっすぐ部屋を射抜いた。
矢筋は身体をすり抜け、反対の壁に跳ね返りながら堕ちていく。
ゆっくりと。
音もなく。
気がついた時にはもう遅い。闇が濃くなるほど判断は鈍り、進むべき道が見えなくなる。曖昧になる。
誰が味方で、誰が敵で、自分がどこに立っているのかさえ。
いつも――いつもだ。
手に持つ数枚の紙がやけに重く、それでいて脆かった。
指先に力を込めると、紙の束は簡単に撓む。それでいて角立ってよじれ、指の先を鋭く突いた。
その不釣り合いな痛みを噛みしめる。
求められているのはただひとつ。結果だ。
迷いは許されない。
――黄昏。
その名を、胸の奥に刻む。
もう一度、深く。
いつの間にか西日は滲み、柔らかな昏さが漂っていた。
部屋の片隅にあるスタンドライトに手を伸ばしかけて、やめる。
今、光を足すのは憚られた。してしまえば、影はまた、輪郭を変える。
それが、怖かった。
自分の身体の影で足元がより濃く映る。
奈落に沈むような感覚を、足の指で踏みとどめた。
部屋のなかは静かだ。
数刻前まで、扉の向こうからアーニャとヨルさんの賑やかな声が響いていた。
今は音が途切れている。
――出かけてしまったのか。
無意識にノブに指が触れ、離れた。
扉一枚隔てた先の気配に耳を澄ます。
この扉を開けたら、「ロイド」にならなければならない。いっときも気は抜けない。
任務であり、自分が選択した状況だ。この生活にも慣れた。
けれど――今は、その「慣れ」がかえって煩わしかった。
軽く開けられない。軽く笑えない。
その理由を探すのさえ躊躇してしまう。
――混沌としている。何もかも。
「……」
ゆっくりと目を閉じ、長く息を吐く。儀式めいていた。
ノブに手をかけて、扉を開いた。
廊下には照明が付いていなかった。ヨルさんの配慮だろう。
その先のリビングは窓の向きのせいか、まだ陽の名残りが明るく、やわらかく満ちていた。けれど、いつの間にか先ほどまでの賑やかさは鳴りを潜めている。
空のカップを手にリビングの入り口まで近づくと、妻と娘が寝入っていた。
アーニャはボンドの腹を枕にして床に転がり、その傍らでヨルさんもローテーブルに突っ伏していた。
なにやら騒いでいたようだし、疲れたのだろう。
呑気だなと思う反面、胸の奥がふっとゆるむのを止められなかった。
窓辺の光はまだ明るく穏やかで、先ほど目を焼いた鋭さとはまるで別物だ。
妻と娘の輪郭を柔らかく包み、眠りだけを縁取っている。
つられるように、欠伸をひとつつく。
その呼吸の反復で、知らず身体に張りついていた緊張が少しだけ剥がれた。
ふたりから視線を外し、キッチンへ向かう。キッチンのなかはいっそう昏さが増していたが、それでも明かりをつける気にはならずに、そっとカップを置いた。コーヒーの作り置きをすることはないが、代わりに、すぐ使えるようドリッパーがセットされていた。
これもヨルさんの配慮だ。
小さく上下する彼女の背中に視線を送ると、知らず目元が緩んだ。
蛇口に触れかけて、やめる。
水音ひとつで、この静けさを揺らしたくはなかった。
代わりにユーティリティスペースへ行き、備え付けの棚の中から毛布を二枚引き抜いた。
まず、アーニャへ。小さな体に布を落とすと、呼吸に合わせて毛布がかすかに上下した。ボンドが気がついて微かに首を上げるが、動くことはせず尻尾だけで応えた。
次に、ヨルさんの背へ――触れようとした瞬間、彼女は音もなく身を起こした。
「え……ロイドさん!?」
「――すみません、起こしてしまいましたね」
「まあ! すみません。また私、ロイドさんのお手を煩わせて」
広げたブランケットを見て理解したのだろう。ヨルさんは身を起こしたまま、慌てて謝った。
「いいえ。おかげさまで、久しぶりにゆっくり出来ました」
「よかった」
ヨルさんはホッとして笑顔を見せた。次いで床に寝転がるアーニャに気がつく。
「あらあら」
「ああ、ボクが部屋まで連れていきますよ」
「ありがとうございます。では、私はコーヒーでもいれますね」
「いいですね。ちょうど飲みたいと思っていたところです」
そっとしゃがみ込み、アーニャの膝裏に手を差し入れた。
「……んにゃー、ぼんどー」
寝ぼけているのか。
ボンドが鼻先を持ち上げて、短く息を吐く。見送るように尻尾が一度だけ揺れた。
抱き上げると、アーニャは一度だけ眉をひそめ、けれど起きる様子もなく寝息を立てている。そのまま、小さな頬を腕に寄せてきた。
アーニャの温もりが、腕の内側に広がる。
その熱が、瞼の裏に移って滲んだ。
立ち上がった瞬間、カチリと音がして、部屋のなかが明るくなった。
ヨルさんが、明かりをつけていた。
「ロイドさん、ミルク入れます――どうかしました?」
キッチンから顔を出したヨルさんが、不思議そうにこちらの顔を見て尋ねる。
「いいえ――明るいなと思って」
さっきまで床に溜まっていた影が、輪郭を失ってほどけていく。
自分の影もまた薄くなり、足元の奈落が遠のいていた。
「え……? いつもと変わりありませんけれど……」
「そうですね。いつもと変わりありませんね」
緩く笑うのが精いっぱいだった。彼女はまた不思議そうな顔になるが、それに軽く笑んで背を向けた。
アーニャの重みが、腕のなかで確かだった。
言葉にならない思いが――認めるわけにいかない感情が、湧き上がったまま居座る。
目眩のような揺れを覚えた。
「バウッ」
その揺らぎを分かっているかのように、ボンドがこちらを見上げてひとつ鳴いた。
「あらあらボンドさん、お腹が空きましたか?」
ヨルさんの声が聞こえ、ボンドはのそりと立ち上がりキッチンへと向かう。
すれ違いざま、尻尾が足元を軽く叩いた。
まるで、叱咤するみたいに。
気の所為だ。もしくは、都合のよい解釈。
けれど――
「……」
無言で、抱きしめる指にわずかに力を込める。
その力加減さえ、起こさないように注意しながら、昏さが増した廊下へ踏み出す。
背中から差し込む灯りが、足元の影を静かにほどいていった。






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