2026-01-01

暮色

 ふと気がつくと、影がずいぶん伸びていた。
 背後の窓から射す西日が、床に細長い帯のような影を描き出している。
 いったいどれくらい同じ姿勢で座っていたのだろう。膝のうえの書類が冷たくなっていた。
 昨日の、ウィンストン・ウィーラーとの交戦をまとめた報告書だ。あらかた書き終え、チェックしていたはずが。うたた寝でもしていたのか。
 ――やはり腑抜けているな。
 叱咤しながら、書類を片付けるために立ち上がる。
 長く動かしていなかった体がゆるやかに抵抗を示す。重く鈍い音が背骨のあたりで軋んだ。
 軽く首を回すと、陽の悪あがきが目を焼く。
 反射的に目を細める。けれど、その陽から視線を外すことなく窓へ近づいた。
 指の端でそっとカーテンに触れると、薄布の透け目から茜色の矢がまっすぐ部屋を射抜いた。
 矢筋は身体をすり抜け、反対の壁に跳ね返りながら堕ちていく。
 ゆっくりと。
 音もなく。
 気がついた時にはもう遅い。闇が濃くなるほど判断は鈍り、進むべき道が見えなくなる。曖昧になる。
 誰が味方で、誰が敵で、自分がどこに立っているのかさえ。
 いつも――いつもだ。
 手に持つ数枚の紙がやけに重く、それでいて脆かった。
 指先に力を込めると、紙の束は簡単に撓む。それでいて角立ってよじれ、指の先を鋭く突いた。
 その不釣り合いな痛みを噛みしめる。
 求められているのはただひとつ。結果だ。
 迷いは許されない。
 ――黄昏。
 その名を、胸の奥に刻む。
 もう一度、深く。
 いつの間にか西日は滲み、柔らかな昏さが漂っていた。
 部屋の片隅にあるスタンドライトに手を伸ばしかけて、やめる。
 今、光を足すのは憚られた。してしまえば、影はまた、輪郭を変える。
 それが、怖かった。
 自分の身体の影で足元がより濃く映る。
 奈落に沈むような感覚を、足の指で踏みとどめた。
 部屋のなかは静かだ。
 数刻前まで、扉の向こうからアーニャとヨルさんの賑やかな声が響いていた。
 今は音が途切れている。
 ――出かけてしまったのか。
 無意識にノブに指が触れ、離れた。
 扉一枚隔てた先の気配に耳を澄ます。
 この扉を開けたら、「ロイド」にならなければならない。いっときも気は抜けない。
 任務であり、自分が選択した状況だ。この生活にも慣れた。
 けれど――今は、その「慣れ」がかえって煩わしかった。
 軽く開けられない。軽く笑えない。
 その理由を探すのさえ躊躇してしまう。
 ――混沌としている。何もかも。
「……」
 ゆっくりと目を閉じ、長く息を吐く。儀式めいていた。
 ノブに手をかけて、扉を開いた。
 
 廊下には照明が付いていなかった。ヨルさんの配慮だろう。
 その先のリビングは窓の向きのせいか、まだ陽の名残りが明るく、やわらかく満ちていた。けれど、いつの間にか先ほどまでの賑やかさは鳴りを潜めている。
 空のカップを手にリビングの入り口まで近づくと、妻と娘が寝入っていた。
 アーニャはボンドの腹を枕にして床に転がり、その傍らでヨルさんもローテーブルに突っ伏していた。
 なにやら騒いでいたようだし、疲れたのだろう。
 呑気だなと思う反面、胸の奥がふっとゆるむのを止められなかった。
 窓辺の光はまだ明るく穏やかで、先ほど目を焼いた鋭さとはまるで別物だ。
 妻と娘の輪郭を柔らかく包み、眠りだけを縁取っている。
 つられるように、欠伸をひとつつく。
 その呼吸の反復で、知らず身体に張りついていた緊張が少しだけ剥がれた。
 ふたりから視線を外し、キッチンへ向かう。キッチンのなかはいっそう昏さが増していたが、それでも明かりをつける気にはならずに、そっとカップを置いた。コーヒーの作り置きをすることはないが、代わりに、すぐ使えるようドリッパーがセットされていた。
 これもヨルさんの配慮だ。
 小さく上下する彼女の背中に視線を送ると、知らず目元が緩んだ。 
 蛇口に触れかけて、やめる。
 水音ひとつで、この静けさを揺らしたくはなかった。
 代わりにユーティリティスペースへ行き、備え付けの棚の中から毛布を二枚引き抜いた。
 まず、アーニャへ。小さな体に布を落とすと、呼吸に合わせて毛布がかすかに上下した。ボンドが気がついて微かに首を上げるが、動くことはせず尻尾だけで応えた。
 次に、ヨルさんの背へ――触れようとした瞬間、彼女は音もなく身を起こした。
「え……ロイドさん!?」
「――すみません、起こしてしまいましたね」
「まあ! すみません。また私、ロイドさんのお手を煩わせて」
 広げたブランケットを見て理解したのだろう。ヨルさんは身を起こしたまま、慌てて謝った。
「いいえ。おかげさまで、久しぶりにゆっくり出来ました」
「よかった」
 ヨルさんはホッとして笑顔を見せた。次いで床に寝転がるアーニャに気がつく。
「あらあら」
「ああ、ボクが部屋まで連れていきますよ」
「ありがとうございます。では、私はコーヒーでもいれますね」
「いいですね。ちょうど飲みたいと思っていたところです」
 そっとしゃがみ込み、アーニャの膝裏に手を差し入れた。
「……んにゃー、ぼんどー」
 寝ぼけているのか。
 ボンドが鼻先を持ち上げて、短く息を吐く。見送るように尻尾が一度だけ揺れた。
 抱き上げると、アーニャは一度だけ眉をひそめ、けれど起きる様子もなく寝息を立てている。そのまま、小さな頬を腕に寄せてきた。
 アーニャの温もりが、腕の内側に広がる。
 その熱が、瞼の裏に移って滲んだ。
 立ち上がった瞬間、カチリと音がして、部屋のなかが明るくなった。
 ヨルさんが、明かりをつけていた。
「ロイドさん、ミルク入れます――どうかしました?」
 キッチンから顔を出したヨルさんが、不思議そうにこちらの顔を見て尋ねる。
「いいえ――明るいなと思って」 
 さっきまで床に溜まっていた影が、輪郭を失ってほどけていく。
 自分の影もまた薄くなり、足元の奈落が遠のいていた。
「え……? いつもと変わりありませんけれど……」
「そうですね。いつもと変わりありませんね」
 緩く笑うのが精いっぱいだった。彼女はまた不思議そうな顔になるが、それに軽く笑んで背を向けた。
 アーニャの重みが、腕のなかで確かだった。
 言葉にならない思いが――認めるわけにいかない感情が、湧き上がったまま居座る。
 目眩のような揺れを覚えた。
「バウッ」
 その揺らぎを分かっているかのように、ボンドがこちらを見上げてひとつ鳴いた。
「あらあらボンドさん、お腹が空きましたか?」
 ヨルさんの声が聞こえ、ボンドはのそりと立ち上がりキッチンへと向かう。
 すれ違いざま、尻尾が足元を軽く叩いた。
 まるで、叱咤するみたいに。
 気の所為だ。もしくは、都合のよい解釈。
 けれど――
「……」 
 無言で、抱きしめる指にわずかに力を込める。
 その力加減さえ、起こさないように注意しながら、昏さが増した廊下へ踏み出す。
 背中から差し込む灯りが、足元の影を静かにほどいていった。

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