2024-03-17

閉ざされた日記

 その「日記」には、かつて鍵がかかっていた――そんな形跡があった。
 南京錠を通すための取り付け金具が付いた表紙。だが錠は無かった。代わりに、引きちぎられた錠とおぼしき残骸が重厚なデスクの上に転がっている。
 ――持ち主の亡骸と共に。
 
 別任務として侵入したとあるオフィス。表向きは健全でホワイトな企業を装っているが、その実、かなりあくどい手で勢力を伸ばしているマフィアの本拠地だった。薬物、違法カジノ、売春、盗品、臓器、人身販売。あげればきりがない。
「まるで悪事のデパートだな。その点からみれば一流だ」上司がそんな不謹慎なことを言いながらふんと冷笑していたが、全く笑えなかった。
 それでも、そいつらが東国だけで満足していれば問題にすることも無かった。事実、状況は把握してはいたが、歯牙にもかけてはいなかった。
 だが、勢いづいた組織は拡大の手を我が国まで伸ばしてきた。それでも、そこまでだったらただの犯罪でしかない。そんなものは警察や公安の仕事だ。たが、そいつらの取り扱いに、大量の武器の密輸が関わってきた時点でさすがに動くことになった。第三国から輸入した粗悪な武器を自国と我が国のテロリストに巧妙に売りさばいている。そんな情報が入ったからだ。
 両国の悪感情を肴に私腹を肥やしている。
 その先に待っているものが、何であるかも考えずに。
 ――本来の任務は、その武器売買の証拠を掴むことだけだった。かなり大きな組織になっていて、ボスや幹部なども慎重になっているため、まずは情報を持ち帰ってきてほしい……そんな内容だ。
 与えられた任務は絶対だ。
 例え、この組織になにがしかの感情を持とうとも、そんな個人的なことは戒めるべきだ。
 目を閉じて、ひとつ大きく息を吐く。
 感情を殺して沈め、ただ目の前の「任務」に集中する。
 目を開いて、すぐに行動に移した。
 体勢を低く取り、壁伝いに侵入口まで進む。辺りはしんと静まり返っている。健全な企業を装っているため、とっくに無人になっている時間だ。静かなのは当たり前だが……違和感が浮かぶ。ただの勘に過ぎないが、従った方が良いと長年の経験も警告をした。
 情報屋からは、監視カメラさえ壊すか誤作動を起こさせれば誰に見咎められる心配は無いと言っていたが……そこまで考えて、ハッと思い当たる。
 監視カメラが作動していない……?
 外壁に取り付けられたカメラは、ただそこにあるだけだった。強い違和感を持ちながらも、念のために顔を隠して目立たないようにして潜入する。だが、内部通路に等間隔に並んだカメラも同じようにただのオブジェになっていた。
 何も映していない。真っ黒な凸レンズに歪んだ自分の姿だけが映る。
 ありとあらゆる監視カメラ、そのすべてが機能していなかった。
「……」
 ゴクリとわざとらしいくらい大きく喉が鳴った。
 首の後ろにざわざわとした虫唾のような不快感が走る。こんな感覚は久しぶりだ。
 そろりと通路の角から少しだけ顔を出して先の廊下へ視線を送る。視線の先にこの屋敷の執務室と思しき重厚な扉を認める。
 おそらくこの屋敷の主人の部屋だろう。その扉はぴったりと閉まっていて、あたりには誰の気配もない。不自然だ。
 ――あそこへ行け。行って扉を開けて有益な情報のひとつでも持って帰れ。いつものようにだ。それがお前の任務だ。
「…………」
 本能で暗闇を恐れる子どものように軸足が躊躇していた。
 ――行ってはいけない。触れてはいけない――この先へは。
 ともすれば後ろへ下がりたくなるような気持ちを叱咤する。
 もう一度だけ細く長い息を吐いて、覚悟を決めて床を蹴った。

「……こんなこと、あり得るのか……」

 目的の部屋へ難なく侵入して、思わず声が出た。
 情報屋の言ったことに間違いはなかった。確かに誰にも見咎められること無く侵入は出来た。
 今まで誰もいなかったことが嘘のようだ。通路に監視のひとりもいなかったわけだ。何のことはない、すべての人間がこの部屋に集まっていたようだ。まるでレセプションの開幕祝いで集まっているかのように、大勢の人間が部屋中にひしめいている。その数は監視カメラの比ではなかった。そいつらは思い思いの姿勢で好きな方向を向いている。
 扉にごく近い人間たちはほとんどすべてがこちらを向いていた。数十人の視線がいっせいにこちらに集まっている。
 だかその瞳は何も映していない。
 先ほどの監視カメラと同じだ。虚ろなレンズに、自分だけが揺らいで映っている。
 部屋の奥には、写真で見たこの組織の中心人物の姿を認める。
 折り重なる人々をぬうように奥へ進む。デスクに座っている男にそっと近づいて頸動脈に手を当てた。
 見なくてもわかるが、念のためだ。だが、見た通りだった。
 全員、同じ顔をして時が止まっていた。驚愕に顔を歪ませている。意図せず自分の中のハイドと遭遇したジキルような顔だった。信じられないものと対峙したとき人間はこんな顔をするのか。そんな場違いな感想がふっと頭をかすめた。
 少し混乱しているのかもしれない。
 かぶりを振って目を凝らす。
 だが、どこまでいっても現実感のない部屋だった。
 まるでこの部屋だけが蝋人形館の一角にでもなったようだ。いや、数でいえば動いている自分だけが異分子なのかもしれない。そんな錯覚を覚えるほどだ。
 全員死んでいる。
 全員。
 全員だ。
 累々と積み上がる死体をひとつひとつ確かめる。何かの間違いのような気がする。間違いであってくれとさえ思う。
 あの悪夢のような戦地でさえ生きてうめいている人間はいたんだ。
 死んだほうがましだと思ったあの地でさえ――。
 心臓、こめかみ、喉仏、頸動脈。急所に鋭利な刺し傷を認める。しかもひとりにつき一ヶ所ずつ。おそらく即死のため、それ以上は傷を付ける必要がなかったのだろう。
 間違いなくプロの手によるものだ。しかも恐ろしく手練の。
 あまりにも鮮やかな手口に高揚が湧き上がる。だが、その感情に唾棄もした。
 眉を顰めながら、マホガニーのデスクの上にある冊子を手に取る。表紙には流麗な字で「Diary」と印字がされている。錠はあるが、引きちぎられていて錠自体がバラバラになっている。その本の隣で眠る男の手には大事そうに鍵が握られていた。
 中を開くと、やはりそれは日記などではなく、この組織の裏帳簿だった。
 念のため、部屋の隅々も、足元の亡骸も調べる。たが、この日記以上の収穫は無かった。
 何故、この証拠を残していったのか……到底理解の範疇を越えていても、なおも考えずにはいられない。
 証拠を掴んだからには長居は無用だ。だが、それでも動けずにいた。
 もう一度部屋の中を見渡す。
 ……おそらく……ひとり。多くても二人だ。この死体の山を築いた人間は。
 痕跡がそれを物語っている。
 なんの目的でここへ来たのか……マフィアの命ともいうべき証拠にも触りもせず。
 ただ、ただ……殺しに来ただけなのだろうか。まるで「死」にしか興味がないとでもいうように。
 首筋にフッと、死神の鎌を当てられたような気配がした。ゾクッとして思わず後ろを振り返る。
 少しだけ開いた窓のから、生ぬるい風が入ってシェードカーテンを揺らす。

 その風がこちらまで流れてきて、机の上のかつて閉ざされた日記のページがはためいた。

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