2023-10-31

ヒアシンスと苺と悪魔 01

『ねえキミ、ストロベリーは好き?』
 彼は開口一番そう聞いた。

 どこの家でもそうだろうが、月曜の朝はちょっとした戦場だ。ことに日曜日が一日中雨が降っていて、夜明け前にやっとのことで上がったとくれば、それはもう一階のキッチン兼リビング兼ダイニングは言葉で表せないくらいの惨状になる。
 今日がちょうどその日に当たった。
 キッチンでは、一家の主婦であるソフィーが、朝から忙しく立ち働いている。それを横目で見ながら、マルクルは鞄の中身を確認した。
 口には二切れ目のベーコンを頬張ってもぐもぐしている。出かける寸前になって仕度をするなとソフィーに何度もたしなめられているのだが、どうにも直らない。
 理由は分かっている。いつもと同じく、昨夜もヒンと疲れ果てて寝るまで遊んでしまったからだ。
「全部揃ってる?」
 ソフィーがマルクルの前に紅茶のカップを置きながら訊ねる。
「うん、大丈夫」
 マルクルは口の中のものを紅茶で流し込みながらそう答える。ソフィーはそれを見て「もう、お行儀が悪いわよ」と柔らかくため息をつきながら、今度は「おばあちゃん、ちゃんと着れた?」とリビングの一角に設けられたベッドルームに向かって聞いた。
 ソフィーはいつもくるくる踊るように動いている。
「ああ、まってよ、もう少し……」
 元・荒地の魔女がカーテンの向こうでもぞもぞと動き回る。どうやら服を着るのに戸惑っているらしい。
「マルクル、悪いけどおばあちゃんを手伝って」
「うん」
 マルクルは手についたパンの粉をパンパンとはたくと、魔女へと駆け寄ってファスナーを上げてあげた。
「あんたもう学校へ行く時間だよ」
「うん、もう行く」
 時間を心配する魔女の手を引いて椅子に座らせてやると、マルクルも柱の時計をチラリと見た。魔女が言う通りもう八時近かった。本当だ、もう行かないと遅刻してしまう。編入したばかりで目立ちたくは無い。
 マルクルはこの九月から学校に通っていた。
 ソフィーが強く勧めたからだ。
 最初は全然行くつもりなど無かった。第一、学校に行くには色々費用がかかるのだ。
 だがソフィーは「あなたがそんなこと気にする必要無いわ」と笑うだけだったし、ハウルも「行きたければ行けばいいよ」と言ってくれた。
 正直な話、ソフィーよりもハウルのその言葉がマルクルを動かした。
 そのとき階段が軽く軋む音がして、ハウルが階段を下りてきた。
「おはよう、諸君」
 彼は優雅に階下の人間に笑顔で挨拶をする。今日は薄い金の髪に、赤と灰色のフロッグコートを優雅に肩にかけている。彼が動くたびに、ヒアシンスの匂いが部屋中に漂った。
「何がおはようだ、もう陽はとっくに昇って西の彼方だぜ」
 カルシファーがふわふわ浮きながらハウルの周りにまとわりついて言った。
「嘘言うんじゃないよ、まだマルクルだっているじゃないか」
 ハウルはマルクルをちらりと見て、邪魔そうに火の悪魔を追い払う。
「お前が早く降りてこないから、おいらは朝っぱらから二度もフライパンを頭に乗せるはめになるんだ、少しは協調性ってのを持って欲しいね!」
「あら、ちゃんとわかってるじゃないカルシファー。だったら早く暖炉に戻って?」
 ソフィーがハウルの分の朝食を作ろうと、卵とフライパンを持ってカルシファーににっこりと笑った。
「ああ、ごめん朝食はいらないよ。これからすぐに出かけなきゃ」
 夫は申し訳無さそうに彼の妻へ告げた。
「まあ、どこに行くの? 昨日はそんなことひと言も言ってなかったじゃない」
「王宮。今さっきこわーい人に呼び出しくらってね」
 ハウルが悪戯をした子供のように舌を出して妻に告げた。
「サリマン? サリマンかい⁉」
 魔女がピクリと反応してハウルを見た。
「そうですよ、マダム。ご伝言があれば承りますが?」
「あるわけないじゃないの」
 魔女はふん! とそっぽを向きながら吐き捨てるように言ってハウルを苦笑させた。
「マダム・サリマンが何の用なのかしら? あなた本当に行くつもり?」
 ソフィーは夫を心配そうに気遣う。以前はソフィーを真っ先に行かせるほど会うのを嫌がっていた相手なのだ。心配は無理も無かった。だが、ハウルは「僕は変わったって言ったろ?」と妻に優しく微笑むだけだ。
「ではマダム、調合はお願いしますよ。なるべく早く帰るからね、ソフィー」
 ハウルはソフィーの頬に軽くキスをすると、キングスベリーへのダイヤルを回して出て行った。
 ハウルの残したヒアシンスの残り香だけが部屋の中にふわふわと漂う。
「忙しい人ねぇ」
 ソフィーはやれやれとため息をつきながら、自分もお店の用意をする為にエプロンを外した。
「ソフィー、店に出る前にカミツレの花びらと吾亦紅われもこうの葉を出しておいておくれ」
「ええ、いいわ。乾燥したものでいいのよね?」
 魔女の頼みにソフィーは快く応じた。
 魔力は無くなってしまったものの、荒地の魔女の知識は未だに健在だ。彼女はその知識を使って薬などの調合をしていた。あとでその薬にカルシファーかハウルが改めてまじないをかけるのだ。そして、それを帽子屋の跡地に始めたソフィーの花屋でポプリとして売っていた。
 その薬はかなり人気があるらしく、<がやがや町>以外の町がわざわざ買いに来ることもあるらしい。「いっぱい売れるから嬉しいわ」とソフィーは顔をほころばせた。
「あの、僕ももう学校行くね」
 わいわいと話し始めるソフィーと魔女たちに、マルクルはそっと告げて家を出た。背中からソフィーが「忘れ物無い?」という声が聞こえたが、聞こえなかったフリをして走り続けた。
 マルクルは、ただ闇雲に力の限り走った。
 全速力で走ると人も建物も凄い速さで後ろのほうに流れていく。その力だけに神経を集中させると、色々な感情が通り過ぎていく景色に吸い取られていくようで気持ちが良かった。
 そのままいくつかの階段を一段抜きで登り切り、長く続く急な坂を登っていく。だが、頂上に近づくにつれその速度がだんだん弱まり、やがて完全に止まってしまった。
 そこは、ちょうど町全体が見渡せる小高い丘の上だった。丘全体が大きな公園になっている。町の反対側には、動く城が以前あった丘陵地帯へと繋がっている。見晴らしのいい展望台への階段を駆け下りると、真正面からぶわっと一陣の風が吹いて丘のほうへ流れいった。
 どんなにこの風を受け止めても、潮の香りは少しもしない。変わりに鼻をくすぐるのは、稲穂がたくさん詰まったやわらかい匂いだ。
 この風はソフィーと同じ匂いがする。
 穏やかで優しくて、それでいてとても強い。
 マルクルは、ソフィーが生まれ育ったこの風の匂いが好きだった。
 だがたまに、ごくたまに、あの香りを思い出しては懐かしくなる。
 ポートヘイヴン。
 自分が生まれ育った、あの潮と鉄と、そして古い油の混ざった臭い。決してこの町のような爽やかな匂いではないが、それでもあれが自分の故郷の匂いだ。
 そして、ハウルと初めて出逢ったのもあの町だった。
 季節は――そう、今と同じく夏が終わり、秋も深まってそろそろ冬の気配が忍び寄ってきそうな日のことだった。

 

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