2023-09-18

中庭 -なかにわ-

 いつかは忘れてしまうのでしょう。
 それとも、もう忘れたのか。
 もしかしたら、初めからそんなものは無かったのかもしれない。
 あなたの中には。
 オレが。
 オレだけが、覚えているだけで――。

 イーデン校の初等部第二図書室の裏側には、重厚な校舎に囲まれた中庭がある。
 初等部の図書室といってもその蔵書は膨大で、市中の図書館となんら遜色は無い。レンガ造りの校舎は三階まであり、庭を挟んだ向かいにある職員棟と外観は同じ作りになっている。
 そのふたつの校舎をアーチ型の回廊が結んでいて、間の空間が中庭として設えてあった。
 もちろん、国内随一の格式と伝統を誇るイーデン校だ。この他にも数多のテラスや贅を凝らした庭園やガゼボなども点在し、生徒や職員や施設のスタッフに自由に解放されている。その観点からいくとこの中庭は小規模といってもよかった。
 ただ、箱庭のようなこの場所は校舎の奥まった場所にあり、日当たりが良いにもかかわらず訪れる者もまばらだ。
 あまり注目されたくはない人と会うのには最適な場所といえた。
 この学校に入学した年、わずか六歳だった少年は、そこまで考えて父との待ち合わせにこの場所を指定した。
 そして、今もあの日と全く同じ場所でずっと待っている。
 中庭の先に見える時計は十五時をとうに過ぎていた。
 今日は午後から懇親会が行われていて、「皇帝の学徒《インペリアル・スカラー》」を保持している生徒以外は全員下校するよう指導されている。
 けれど、その指導を無視してこの中庭にいる。
 あの日のように。
 そろそろ懇親会も終わる頃だろう、一時期やけに静かだったが、先ほどから車の音や誘導笛の音などが遠くに聞こえて始めている。
 この中庭に父を呼び出していた。
 あの日と同じように。
 もう、何回目になるだろう。懇親会があるたびに、毎回伝え続けている。
 『来て欲しい』と――。
 実際には、兄に頼んで伝言をしてもらっているだけだ。まだステラを規定数以上獲得できていない自分には懇親会に出る資格がない。
 それは、そのまま父と会う機会がないということを意味していた。
 伝言を受けた兄は、いつものように「期待するな」とそっけなく言って電話を切った。
 そんなことはわかっている。
 現に、父は兄を伴うこの懇親会にすら毎回出席しているわけではないとも聞いた。
 けれど、期待せずにはいられない。
 一度は来てくれたのだから。
 縋らずにはいられない。
 ――ここは、あの日、自分だけに笑顔をくれた、あの庭とよく似ているのだから……。

 父と一緒に暮らした記憶はない。
 自分が生まれた時から国家統一党の総裁だった父は、仕事の関係なのか暗殺を危惧してか、妻子と同じ屋敷で寝起きをすることは無かった。
 父に直接会えるのは、イースター、クリスマス、ニューイヤーなどの「家族で共にいることが相応しい」と言われるイベントの時だけ。それも、必ず記者やカメラマンが脇に付き、絶えず「家族の肖像」を求められる。
 だが他の家庭のことはよく知らなかったし、そういうものだと疑いもしなかった。ただ、その日に会える優しい笑顔の父が大好きで、新聞やニュースで父の功績が伝わるたび誇らしくて嬉しかった。
 たとえ、その笑顔が自分には向いたことがなくとも。
 いつだっか、執事に今日は屋敷のガゼボがある中庭で遊ぶようにと言われた。
 誘拐の危険があるため戸外に遊びに行くことはない。屋敷のさらに奥に専用の遊び場が設けられていて、ユーインやエミールがやってきてはそこで遊んだ。
 だがその日はなぜかふたりは屋敷には来ず、いつもは立ち入ることも無い中庭にひとり連れてこられた。意味が分からなかったが、最新で実際に飛ばせるという模型飛行機やサッカーボールが与えられ、訳もわからずそれらに夢中になった。
 しばらくすると、遠くから父が歩いてくるのが見えた。
 傍らには異国の人らしい、見たことのない民族衣装を身につけた人、それに通訳と警護と思われる者が何人もいて、父は彼らの先頭に立って何やら庭を案内しているようだっった。
 イベントごとが無い時期に父がこの屋敷にいたことはなく、驚いて立ち止まってその様子をまじまじと見ていると、父がこちらに向けて手をあげ、傍らの集団になにやらにこやかに話しかけた。
 彼らはこちらに気がつくと全員が破顔し、父に異国の言葉で何かを呟いた。父はこちらに近づきながらまたその人たちに何かを言った。距離が近づいたため話し声は聞こえるようになったが、聞いたことの無い言語と、見たことの無い父の表情に気を取られてなんと言っているのかは把握できなかった。
 ただ、異国の言葉と東国語を交えたその言葉は、「私の大事な息子」と言っているように聞こえた。
 その言葉が、心臓の奥まで届いて高く跳ねて、まるで木霊のように全身を震わせた。
 父は続けて、自分が末の息子であることや、老いてからの子どものためつい甘やかしてしまうことなどを通訳を通じて伝えていた。話している間中、莞爾として笑いながら、その手はずっと自分の肩に置かれていて、そこだけがやけに熱かった。
 異国の客人が自分の目線まで屈みながら、片言のオスタニアの言葉で「オ父サンハ、ヤサシイデスカ?」と笑顔で聞いた。狼狽えながら見上げると、父は「本当のことを言って良いんだぞ」と、自分にも見たことのない笑顔で言った。
「も、もちろんです! ちちうえは、あこがれです」とつっかえながら伝えると、頭上から大人達のどっとした笑い声が聞こえ、「うらやましい」とか「さすがは総裁ですな」とかの和やかな声が聞こえた。その後、父たちはまた何かを話しながら屋敷に入っていった。
 彼らは国の重要な外交相手で、何かの契約を結ぶために父が招待したらしかった。党の総裁が自らの私邸に招き、家族まで紹介して歓待したことに相手はいたく感激したらしい、それは父側に有利な条件でまとまったと、追従している記者が興奮気味に話しているのが聞こえた。
 客人が帰った後、食事も摂らずに帰る父を見送るために執事と一緒にエントランスで待機していた。
 自分の前を通り過ぎる際、父はひと言だけ「よくやった」と言った。
 驚いて先ほどと同じように父を見上げるが、その時には父はすでにポーチまで出ていて振り返ることもなく車に乗り込んで行ってしまった。
 執事に早く中に入るよう促されるまで、ずっと車が走り去った跡を見つめていた。
 覚えている限り、記者のいないところで父から直接声をかけられたのは初めてだった。
 肩に手を置かれたのも。
 自分だけに言葉をかけてもらったのも。
 その言葉は、自分の中の一等大事な場所へ大切にしまった。たまにそこから取り出しては、何度も何度も反芻するようになった。
 ――嬉しかった。
 父上のお役に立てた。兄ではなく、自分が。
 あの時から、父からの肯定の言葉は何にも代え難い宝物になった。
 自分にとっては、あの言葉こそが「星《ステラ》」だ。
 あの言葉があれば、これから始まる学校も、寮生活もなんてこと無いように思えた。
 きっと学校でも上手くやっていける。成績も常に一番になって、兄のようにすぐステラも捕れるはずだ。
 そうしたら、もっと父上のお力になれる。
 そうしたら、今日のようにまた褒めていただける。
 そうしたら、そうしたら……もっと、一緒に過ごす時間も取っていただけるかもしれない。
 きっと、そうだ。
 だから大丈夫。
 今度お会いする日に言ってみよう。
 またお仕事のお手伝いをしますと。
 なんでも言ってくだされば、きっと成果を上げてみせます、と。
 だって、自分は父上の子なんだから。
 その日のことを思って、人知れず顔を綻ばせながら、屋敷に入った。
 その日はすぐ来るような気がしていた。

 けれど、イーデン入学前に父に会ったのは、その日が最後だった――。

 風が出てきた。
 時計を見ると、いつの間にか十六時を過ぎている。静かに太陽が陰ってきていた。あんなに騒がしかった喧騒もいつの間にか潮が引くように無くなっていた。
 周りには誰もいなくて、自分の影だけがそっと寄り添っている。
 その影ですら、そろそろ太陽と一緒に消えるだろう。
 未練がましく、渡り廊下の先のアーチ型の入口に目をやる。けれど、当たり前のように誰の人影もなく、アーチ型の形をした影が濃くなるばかりだった。
「……」
 おそらく、父はこの中庭に足を運ぶことはないだろう。
 次に会えるのは自分が星を八つ取った時だ。
 ……なんとなく、そんな気がした。
 果然さと落胆と焦燥と、そしていつも心に巣食う微かな痛み――。
 そんなものを消化させる術もなく、ただ、ため息をついて立ち上がる。
 芝生に直接座っていたためか、足首に泥がついていた。チッと小さく舌打ちをして泥を取るために下を向く。
 ――どうしてか、そこから顔を上げることができない。
 雨も降っていないのに、芝生に水滴がひとつ落ちた。
 ガサッ
 突然、頭上から何かの音がして、後頭部に軽い何かが当たって地面に落ちた。
 え?
 面食らいながら視線を音がした方に向けると、先ほど水滴が落ちた場所の上に小さい袋がひとつ落ちていた。
 はあ⁉
 小さな駄菓子の袋だった。
 光沢のあるパッケージに『Erdnuss《ピーナッツ》 』とだけ書かれてある。
 ……それだけで誰の仕業か理解する。
 見上げると、図書室の三階の窓辺に思い描いた顔が見えた。
 そいつは窓から手を伸ばして、手の平を下に向けていた。
 カッとなって怒鳴りつけようとすると、その顔がゆっくりとこちらに向いて視線が交わった。

「……」
「――」

 驚いた。
 その瞳が――。
 深い、森を映したようなその瞳には覚えがあった。
 鏡で見たことがある。
 ――そんなこと、あるはずはないのに。
 でもそれは確かに、誰かの愛を渇望する者だけが持つ瞳の色だった。
 そんなこと……。

 ――彼女の父親とは、一度だけ話したことがあった。
 そいつは、この場所で父を初めて呼び出した時に偶然現れた。娘に泣かれてキーホルダーを探しに来たと言っていた。そのうえで、自分が誰かわかると、入学式での一件を自分と父に謝罪した。
 多少……いや、正直かなり親馬鹿だとは思ったが、娘の成長に心を砕いているいい父親だと思った。
 噂では母親は継母らしいが、彼女の口からよく話題に登っているのを知っていた。料理が下手だの野蛮だのと散々なことを言ってはいたが、ケラケラと笑いながら言うその砕けた口調から、むしろこれ以上ないくらい仲が良いように思えた。
 父親にも、継母にすら愛されて可愛がられている奴が自分と同じはずがない。
 そう思うと、また腹が立ってきっと上を向いて睨みつける。
 すると、彼女のほかにもよく見知った顔が窓辺にいくつも覗いていて彼女を𠮟っていた。
「何やってんだこのばか!」
「三階から物投げる奴があるか!」
「もっと軌道を計算したまえ! 当たるか当たらないかを攻めるんだ!」
「そういう問題か!」
「バレたら雷だよ~」
 ……全員いんのかよ……。
 入学してすぐの頃からなんとなくの腐れ縁でズルズルとつるんでいる連中だった。進級するにつれて選択科目もクラスも違ってきているのに、何故か一緒にいることが多い。
 そういえば、近いうちにいつものメンバーで勉強会をするとかなんとか言っていたような気がする。
 定期試験の前後で皆で集まって勉強会みたいなことをここ数年欠かさずしている。成績上位の自分からしたら馬鹿馬鹿しいが、誰かに教えることは理解への早道だと言われてその気になった。それがいつの間にか習慣化してしまったものだ。
 だが、今日じゃなかった気がするが……そこまで考えて、はぁとまたため息が出た。
 ……お節介な奴らだ。
 思わず笑ってしまう。だが、不思議と不快な笑いではなかった。
「じなーん! べんきょーしないならアーニャもうかえるぞー!」
 少女が三階からふんぞり反ってそう叫ぶ。
 あの、いつもの可愛気のない、ふふんと口角だけあげる表情で。
「あぁ⁉」
 そう声が出たが、他のみんなも「お前が言うな!」とまた少女を叩いていた。
 その光景に、また違う声が出る。
 ふいに、目の前にあの日の「彼ら」が浮かぶ。
 背の高い、見上げるほどだった「彼ら」は、いま自分とそう変わらない目線で対峙していた。

 人と人は理解できない、と「彼」は言った。
 その通りだと、「彼」も頷いた。

「んぎゃー! ひどい! とっとおきのぴーなつあげたのに!」
「投げちゃ駄目なの!」
「そーだそーだ! ダミアン様に当たったらどうするつもりだ!」
「いや、当たってたような……」
「当たったのか! すごいな、もう少し肩のひねりを加えればさらに威力が増すぞ!」
「さっきっから何の話してるのさ」
 こちらの気持ちなどお構いなしに、頭上では喧々囂々と言い争いをしている。先程までの静寂がうそのように賑やかだ。
 人の気も知らないで。
 半ばうんざりとしながら、芝生に落ちた小袋を拾い上げる。
 本当に、人の気持ちなんてお構いなしの奴らだ。
 けれど――。
 そうだろうか。
 本当に、人と人はわかり合えないんだろうか。
 だとしたら、なぜ。
 なぜ。
 オレは、彼らの気持ちが分かるんだろう?

 ――その通りだと、「彼」も言った。
 でも……。
 でも、だからこそ、人は歩み寄るのだとも……。

 たぶん、どちらが正しいとかじゃない。
 どちらが間違っているかでもない。
 嘘じゃない。
 父を追い求める気持ちも。
 父に縋りたくなる気持ちも。
 けれど、父とは違う意見も確かにある。
 例えば。
 例えば――。 

 目を、閉じる。
 一回だけ大きく息を吐いた。
 考えろ。
 自分の頭で。
 自分の心で。

「ほらぁ! ダミアン様怒っちゃったじゃないか!」
「謝れ! 地面に頭擦り付けながら謝れ!!」
「じなんはおこんない! アーニャのぴーなつよろこんでる!」
「現実を見ようよアーニャちゃん」
「でもピーナッツは身体にいいんだぞ。悪玉コレステロールが減るとダディが言ってた」
「ビルくん、そろそろ流れ読もう!」

 頭上では相変わらずのん気な会話が繰り広げられている。
 そのくだらない会話で。
 くだらない奴らの声で、何故か心が凪いでいく――。

 目を、開く。

 ……答えは、いつか出る。
 今すぐじゃなくとも。
 今は、まだ無理でも。
 ……オレは、きっと父とは違う。
 父には無いものが、オレにはある。
 オレだけの答えが、きっとあるはずだ。
 あの頃には戻れない。
 父の言葉だけをすがっていた頃には。
 けれど、もう――。
 戻らなくても良いと思った。 

 手にしていた小袋を見つめ、次いで三階をまた見上げると、十二個の瞳が一斉にこちらを向いた。

 どいつもこいつも――。

 その全員分の瞳を自分の瞳に映す。
 そして、その中の少女に向かって同じようにふふんと口角だけあげた。
 少女がことさら驚いたような顔をした。

「な、に、を、えらそうに――」
 袋を持った利き手を大きく振りかぶる。

「命令してんだてめえーっ‼」

 手から離れた小袋が放物線を描きながら宙を舞う。
 十四個の瞳を浴びたその袋に、太陽の柔らかな光が反射する。

 それはまるで、空へ還る星のようにキラキラと輝いていた。

 

 

 

 

 

end.

[お題]
ダミアニャさんには「いつかは忘れてしまうのでしょう」で始まって、「あの頃には戻れない」で終わる物語を書いて欲しいです。シリアスな話だと嬉しいです。

[引用元]https://shindanmaker.com/828102

改稿:2023.08.22

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