その日、ロイドは家族で家から一番近い食料品店に来ていた。
歩いて数ブロックのこの店は、セントラルパークにも近く、品揃えも充実しているのでフォージャー家の行きつけの店だ。妻と娘を促して店内に入ると、娘はさっそくお菓子売り場の方向に走っていく。
「おかーし、さくさくとほろほろ〜」
「アーニャ走るな。あとウロチョロするな」
「私、アーニャさんについてますね。アーニャさんの気が済んだらそちらに行きますから。ロイドさんは先にお買い物なさってください」
「ああ、すみません」
ヨルさんがこちらに微笑んで、走っていくアーニャに付き添ってくれた。助かる。彼女はこういう時すぐ動いてくれる。しかも頭ごなしに怒るでもなく、アーニャをうまく誘導してくれる。すぐ自分のルールに相手を従わせようとする自分とは大違いだ。
商品棚の影に隠れて見えなくなるまでその後ろ姿を見送る。
さて、この隙にこちらも必要なものを買わなければ。
ロイドは気を取り直して目の前のタスクに集中する。カートを押しながら、商品をどんどんカゴの中に入れていく。
基本的に買うものは事前にヨルさんと決めている。彼女はあまりこだわりが強い方ではなく、どちらかといえば自分やアーニャのほうが強いくらいだ。もっとも自分はそこまでではない。ただ、無いからといって他の商品で代用する気にはならない。買わないだけだ。
ただ、この店に限っていえば、フォージャー家として暮らしてからずっと利用しているため、どこに何があるのかもほぼ完璧に頭に入っているし、なんだったらいつも購入している銘柄がいつ入荷するかも把握している。あまり買い物に時間をかけたくないからだ。
常に「効率良く」がモットー……というかクセになってしまっているな。
ロイドは食品ラベルの賞味期限を確認しながら、眉をしかめた。ただ、これは仕方ない面もある。
フォージャー家は、はっきりいってアーニャひとりに自分とヨルさんの二人がかりで対応してようやくタスクがこなせているといっていい。世の中の親はこういう場面でどうやってこの偉業をこなしているんだとつくづく疑問だ。しかも近年、下降気味とはいえ、今のところ東国も西国も女性の生涯出生率は二.〇を維持している。つまり、フォージャー家でいえばあとひとりくらい子どもが増えてもおかしくない計算なのだ。
……いや、もちろん! そんなことには! な、ら、な、い、が‼
ゴホン、ゴホンと無意味な空咳をして、自分の想像を慌てて取り消す。
そんなことにはなるはずがない。というか、絶対にごめんだ。アーニャが複数いると想像しただけで頭か痛くなる。
いや、しかしもしかしたら、あんなフラフラと好き勝手に歩き回るのはうちの子だけで、他のご家庭の子どもはみんな扱いやすいのかもしれない……ぶらぶらと野菜売り場を歩きながらそんなことを考える。
シュパーゲル(ホワイトアスパラガス)が安い。予定には無いが、買いだ。
大きくて瑞々しいシュパーゲルの束を手にしてカゴに入れる。これは、カロチン、ビタミンCとEが豊富で、サポニンという免疫力を高める栄養素も豊富だ。アーニャはあまり好きではないが、茹でてオランデーズソースをかけて、いや、アーニャには溶かしバターにしたほうが……と献立の組み合わせを考えながら、ふと気づいて深いため息が出た。
ここ半年くらい、この店に来るといつも同じことを考えている気がする。アーニャの野菜嫌いをどうやって克服させようかとか、ヨルさんの好物をさり気なくカゴに入れたりとか。
いかんな。フォージャー家は、あくまで「作戦ストリクス」を遂行するためだけの隠れ蓑でしかない。WISEの諜報員「黄昏」としては無関係だし、黄昏は別任務もこなさなければいけないのだ。あまり「ロイド」に軸をおくのは好ましくない。そんなことを、トマトを手に取りながら改めて戒めた。
……ちょっとこのトマトは熟しすぎてる、却下。
手にしたトマトを戻して、他の物を触って確かめていると、アーニャが「ちちー、アーニャおかしきめたー」とお菓子を持って走ってきた。
「走るな」
「うーい」
アーニャはいい加減な返事をしながら、背伸びして持っていたお菓子をカゴへ投げていく。
まったく! アーニャを軽く睨みながら乱雑に入ったお菓子のパッケージを整理する。するとアーニャが、カゴの中のシュパーゲルを見るなり「うえー」といった表情をした。
「アーニャ、しゅぱーげるすきじゃない」
「野菜を食べないなら、お菓子も戻してこい」
「うえー!」
「あたりまえだ」
抗議しながら足元にじゃれつく娘を小突きながら、引き離そうとする。恥ずかしい、通りすがりのひと達が笑っているじゃないか。そう周りを見渡して、ふと気がついた。
「ヨルさんは?」
「あっち。おはなししてる」
「誰と?」
「しらん」
アーニャは、カートに足を乗せてよじ登りながら通路の先を指さした。ずっと先、店の出口付近の棚の辺りにヨルさんの後ろ姿が見えた。アーニャの言う通り、誰かと話をしているようだ。だが、相手の顔は棚が邪魔して見えない。ヨルさんの向きが少し変わって、彼女の横顔が見えた。
手を口に当てて楽しそうに笑っている。
ずいぶんと砕けた表情だった。
途端、身体の中のどこかからインクのようなものが落ちて、ウォータークラウンのような波紋を作った。
綺麗なミネラルウォーターの中に、インクが一滴だけ。
混ざってしまったそれは、水の中で溶けてすぐに色を無くす。他の人が見たら何も変わっていない。けれど自分だけは知っている。
その水には、確かにインクが溶けていて、もう飲めない。
彼女を黙って見ながら知らず知らずに、カートの取っ手を強く握る。すると、こちらを見ているアーニャと目があった。
「なんだ?」
「おはなししてるひと、おんなのひと」
「……ふーん」
そう声に出すと、なんとなく力が抜ける。だが、はたと気がついて今度は別の意味でムッとした。
「だからなんだ。というか、カートから降りろ。危ないだろうが」
アーニャの額を中指で軽く弾いて床に降ろさせた。アーニャは「んにゃー!」と猫のような泣き真似でおでこをおさえながら「やつあたりだ……」とぶつぶつ言った。
「――取り敢えず、買い物続けるぞ」
「うい」
片手でアーニャの手を握って別の通路に行こうとすると、ちょうどヨルさんと目があった。アーニャと一緒にいるこちらを見て、慌てて相手に何かを言っている。どうやら別れを告げているらしい。「こちらはいいから」と身振りで伝えようとしたが、その前に別れたようで、慌ててこちらにやって来る。棚から離れる際、相手がヨルさんに腕を伸ばして挨拶をする手首が一瞬だけ見えた。
白くてしなやかな女の手だった。
「すみません! 私ったら、またアーニャさんから目を離してしまって!」
「いえ、大丈夫ですよ。アーニャもちゃんとこちらに来てましたし」
「アーニャまいごにならなかった」
「おりこうでした、アーニャさん」
「えっへん」
「良かったんですか?」
「え?」
「お友だち」
「え? あ、ええ! 彼女ももう帰らなくちゃいけないみたいなので。お家がイーデン地区なので、少し遠いみたいで」
「アーニャのがっこあるとこだ」
「そうです、そうです。アーニャさんの学校のことご存知でしたよ。イーデン校なんてすごいわねっておっしゃっていただけました」
ヨルさんはアーニャを抱き上げながら嬉しそうに報告した。
「えっへーん!」
アーニャも嬉しそうにヨルさんに抱きついて笑い声を上げた。それから二人でカゴの中を見ながら、シュパーゲルのことや選んだお菓子のことを話しながらまた笑っていた。
そのまま三人で通路を歩きながら買い物を再開する。
「そういえば、エリカさん、イーデン支所から来た方なんです」
しばらく店内を歩きながら、ふとヨルさんが思い出したように言った。
「エリカさんて、さっきの方のことですか?」
「ええ。エリカ・ムスターマンさんていうんです」
「……え? へえ……」
思わずふっと、鼻を鳴らしてしまった。
「あ、それ」
「え? どれ?」
ヨルさんが突然こちらに向かって指をさすのでキョロキョロと見てしまった。
「今、ロイドさんが笑ったのです。なぜ皆さんエリカさんの名前で笑うんでしょうか?」
「え……?」
いきなりふられてドキリとした……そ、れは……説明しづらい。
「えーと……誰かも笑ってらしたんですか?」
「ええ、カミラさん達が」
ああ……だろうな。
とすれば、オレも彼女たちとそう変わらないってことか……いかんな。口を押さえて反省する。あまり品がいい笑いとは言えないからだ。
「ロイドさん?」
ヨルさんは、アーニャ二人で顔を見合わせて不思議そうな顔でこちらを見た。
「ええっと……あまり楽しい笑いじゃないんです。どちらかといえば意地が悪いくらいの……揶揄っていえばいいのか」
「揶揄?」
「ええと……だから、エリカ・ムスターマンていわゆる『平均的』というか……」
しどろもどろになってしまう。我ながら弁解がましいなと思う。けれど、さすがにはっきり馬鹿にしましたとは言い難い。そこまで明確な悪意は無かったからだ。だが、彼女の裏表の無い無垢な顔を見て、観念した。
「……市役所や銀行などで市民が手続きする書類には、必ず記入例かあるでしょう?」
「ええ、ありますね」
「たいていそこに書いてある名前なんです。エリカ・ムスターマンとか、マックス・ムスターマンとか」
「ああ……そういえば」
スペルなども間違える心配がなさそうな名前……ということなのだろう。エリカも、マックスも、ムスターマンも。反転すれば、「とこにでもある名前」とレッテルを貼られたようなものだ。加えてもうひとつ別の意味もある。
「……あと、身元不明の……その、遺体なんかに仮につける名前なんです」
「え……? あ、そう、なんですね……」
英語圏ではジョン・ドゥとか、ジェーン・ドゥという名前に相当するだろうか。国によって色々あるようだが、どちらにせよあまり気分の良いものではない。だから、自然とフルネームでその名前になる人はあまりみかけない。
「アーニャのくらすにもいる。えりかってこ。むすたまんっておとこもいる。こないだくらすのこが『ふたりけっこんしろ』ってからかってたら、えりかがないちゃって、せんせえにおこられてた」
アーニャが思い出したように言った。
「まあ、そうはいっても、この国は結婚などで女性の姓が変わるので。エリカって名前の女性が、ムスターマン姓の方と結婚してその名前になるって例も別にいなくはないですが……」
「そういうことなんですね……でも、ごめんなさい、やっぱりそれでも、それが笑う理由になるのが、よく……」
「いや、わからないほうがいいです」
それは強く否定した。そんな心理を知る必要もないし、迎合する理由もない。
「そうでしょうか……?」
ヨルさんは、少しだけ疑わしげにこちらを見る。
「ええ、自分でも反省しています。あまり好ましくない笑いの類でした」
本心だった。そういったことを揶揄ったり、陰で笑ったり。よくあることと見過ごしてしまいがちだが、自分は精神科の医師でもあるのだ、気を引き締めなければ。
同時に、ヨルさんがそういったことをしない人で本当に良かったと思う。彼女は自身が周りと違うことを過剰なくらい気にしているが、変に世間に擦れていない分、考え方がとてもフラットだ。
先入観で物を見ることもないし、他者にレッテルを貼ることもない。
誇張ではなく、彼女は間違いなく自分が今まで出会った中で、最も公平に物を見る人だ。
……それは、嘘ばかりの自分に、ほんの少しの安らぎを与えてくれている。
「信じられない?」
「いえ……。でも……そう、ですね。ロイドさんがそうおっしゃるなら」
ヨルは少し考えて、やがてすっきりした様子で笑った。
その笑顔は、その年頃の女性にしてはあまりに無垢で、ホッとしたのと同時に、少しだけ心が痛んだ。
「――あ、それでエリカさん、もともとイーデン支所に勤めていたんですけど、やっぱり戻るのにだいぶ時間がかかるみたいで」
買い物を終えて家に帰る道すがら、ヨルさんがまた思い出したように言った。
「全焼はしなかったんでしょう? そんなに激しく燃えたんですか?」
場所はイーデン地区だが、学校と近いわけでもないため行ったことはない。というか、学校自体が広すぎて、まだ校舎や、教務棟くらいしか侵入できていない。寮や牧場、森といっても差し支えない山林や、果ては渓谷まであるのだ。
学内だけは一応全て現地確認する必要性は感じているが、そこまで時間が取れていないのが現実だ。ただ、今後愛国婦人会のメンバーなどが患者として来た際にはイーデン支所にも行く必要が出てくるかもしれないとは思っていた。全ての公的な個人情報があそこにあるからだ。
その矢先の火事だった。
「建物自体は残ったんですが、やっぱり建て直すことにしたみたいです。耐火の問題とかで。でも税金を使うので色々大変みたいで」
「へえ……」
「あと、イーデン地区に住んでいる方の家族簿が燃えてしまったらしくて、それも大変だって言ってました。全員分を作り直すのに一年じゃ足りないらしくて」
「ああ……」
この国の身分登録は大きく分けて四つに分類される。「出生簿」「婚姻簿」「家族簿」「死亡簿」だ。重複する項目もあるが、この四つは厳密には管轄が違う。成り立ちからいえば歴史の授業になってしまうが、もともと国家主導と教会主導で作られたのものがそれぞれあり、それが時を経て国家が一括管理することになったが、一元管理には至っていない。ある程度紐づいているが、例えば助成金や補助金などはそれぞれの記録簿をもとに申請することになっており、自動的に受給できるというものでもない。
そして今のところ、東国では一般市民用のそれら記録は全て紙ベースだ。
軍や秘密警察では磁気テープやASCII(アスキー)を使用した記録媒体も実用化されてはいるが、市場にはまだ出ていなかった。
「でも、家族簿が全部燃えたんですか?」
普通、ああいった重要書類を保管する場所は、わざと室内の空気量を減らして、万が一火が出ても火災自体が維持できないようにする、酸素低減システムを導入するのが一般的なのだが。バックドラフトでも起こったのだろうか。そんことが頭をよぎったが、話題にはしなかった。
「さあ……ごめんなさい、私は詳しくなくて」
「ああ、いや。すみません、ちょっと気になったので」
慌てて取り繕う。あまり立ち入って聞いても疑われる、この辺でこの会話を切り上げるべきだろう。
「殿方はそうみたいですね。うちの部署も課長やドミニクさんが毎日その話をしてます。何かの陰謀じゃないかとか、スパイさんの仕業じゃないかとか」
「スパイ……ですか? まさか」
まさか。スパイがそんな素人にすぐ推測されるような痕跡を残すわけがない。ましてや火災を起こすなど。少なくとも自分の周りのエージェントにそんな間抜けはいない。アニメじゃあるまいし。
ヨルさんの顔を見ながら笑うと、彼女も「ですよね」同じように笑った。彼女とは笑ってる意味が違うが、周りにはさぞ仲の良い夫婦に見えるだろう。
これも任務だ。ロイドとして、こうやって家族全員で近所を歩くのも、そうやって「仲の良い家族」を印象付けるためた。
真実なんてどうだって構わない。こうやって仲睦まじく見えてさえいれば、誰に気にされることない「風景」になる。
家庭を持っていること、いわゆる「家庭人」は、やはりそれだけで「社交性を保持している人物」と周りには映る。
第三者からの根拠のない信頼。
それがこの茶番を維持し続ける理由だ。
――どうせ、誰も本当のことなど興味無い。
自嘲めいた吐息が身体を包んで、世界が曇った。
くい、と片方の手を強く握られて思考を中断される。
下を見ると、アーニャが繋いだ手を強く握ってうつむいていた。さっきまであんなにはしゃいでいたのに。
「どうした、眠いのか?」
「アーニャさん、疲れちゃいましたか?」
「……」
しゃがんでおでこに手を当てるが、熱はなさそうだ。アーニャは普段は溌剌としているが、同級生たちより体が小さく、体力もある方ではない。発熱などはあまりないが、少し疲れやすい。
引き取るまでいた孤児院があれだけ劣悪だったのだ、無理もない。
ヨルさんが荷物を持ってくれたので、抱っこをしてやると、甘えるように肩に頭を乗せて体重を預けてくる。
「帰ったら夕飯までちょっと昼寝するか?」
「うん……」
「夕飯終わったら少しだけでも勉強しような」
だが、それに返事はなく、首筋に回した腕に力を込められただけだった。







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