2023-09-19

音読 -おんどく-

 かすかな音がして、まどろんでいた世界から呼び戻された。
 ぼんやりとした意識の中で何度か瞼を瞬かせながら音の先を確かめる。
 外から聴こえてくる風の音だった。そろりと起きあがり、窓のカーテンをそっと持ち上げて外をのぞく。先には暗闇が深く佇んでいて、あるはずの月の光は今日ばかりは微笑んではくれない。代わりに、等間隔に並ぶ街灯が誘導するようにぼんやりと浮かんでいる。
 風自体は決して強くは無かったが、それでもカツン、パシンと窓を叩き飛散している。まるで、何かを訴えるように、静寂の世界を切り裂いている。
『亡霊たちがすり抜けていく音だ』
 むかし、父がふざけて弟を怖がらせていた。母と一緒になって怒ったことを懐かしく思い出す。
 夕方から雨が降っていた。長らく雪の知らせばかりだった天気予報は、ここ数日の間に芽吹きの訪れをさかんに謳い始めた。そんな矢先に、不意に訪れた春の嵐だ。
 予報では雨は今夜遅くからと言っていたが、少し早まったようだ。雨に混じって風も吹いていて、窓の枠を気まぐれに揺らす。
 今夜、アーニャさんはベッキーさんの家へ泊まりに行っている。きっと今頃はおふたりで夢の中……いや、もしかしたらまだ夢中でお話されているかもしれない。なんにせよ、こんな日に彼女がひとりで寝なくて良かったと安堵する。弟は、かなり大きくなるまで嵐や雷が苦手で、私が寝かしつけてやらねばならなかった。
 ロイドさんも遅くなるようだったので、夕食はひとりで済ませた。この家に来てから初めてのことだ。がらんとした誰もいないダイニングとリビングは、ぐずついた天気の影響か、いつもとは違う顔をみせて、知らない場所のように思えてひどく落ち着かなかった。ボンドさんが珍しく近くに来てずっと寄り添っていてくれたけれど、居心地の悪さは抜けなくて早めにベッドへ入った。
 だからか、こんな変な時間に目が覚めてしまったのは。時計を見るとすでに真夜中過ぎだ。
 ふ。と笑いとも、溜息ともとれない呼吸を漏らしカーテンから手を離そうとした。すると、同じ並びの窓からうっすらと明かりが漏れているのが目にとまった。消し忘れたかしらと椅子にかけてあったカーディガンを羽織り、冷気が立ち込める廊下へとそっと足を向けた。
 廊下はひんやりとしていた。セントラルヒーティングが部屋中を絶えず循環しているとはいえ、まだこの時期の夜はどこか冷える。無意識に羽織ったカーディガンの前を合わせて進む。隣の部屋の扉が少しだけ開いていた。中をそっと覗くと、暗い部屋の床に巨体が寝そべっている。ボンドさんは普段アーニャさんの部屋だったり、リビンクで休んだりと気ままだ。今日はアーニャさんの部屋にしたらしい。きちんと消灯されているのを確認して、そっと戸口から離れた。
 寝室が並ぶ廊下は、リビングからみると大きく凹状になっていて、夜は照明を落としてある。夜中にアーニャさんがトイレなどで起きた時に足元が見えるよう、突き当りに置いてある卓上ライトだけを点けることになっていた。
 その役目は大抵ロイドさんだ。彼はこの家で一番遅くに寝る。今はその卓上ライトに明かりは灯っていなかった。まだ帰ってないのかとも思ったが、ライトとは反対側になるひらけたリビングの先から薄い灯りがぼんやりと射していて、僅かながら人の気配を感じた。
 彼はソファに座っていた。窓際の間接照明がひとつだけ灯っていて、その姿を柔らかく包み浮かび上がらせている。帰ってきたばかりなのか、着替えもしていない。几帳面な彼には珍しく、上着がソファの背もたれに無造作にかけられていた。
 眠っているのかと思った。こんなところで寝ていたら風邪をひいてしまう、そう思って近づくと、ゆっくりとこちらを向いて微笑む。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「いえ。雨の音で目が覚めてしまって。今お帰りですか?」
「少し前に。ちょっと降られて身体が冷えてしまって。手っ取り早く温めようかと」
 そう言って、小さく微笑みながら手にしていた琥珀色のグラスをこちらに傾ける。珍しい、寝酒に頼るなんて。けれどもそのグラスの表面は水滴がずいぶん浮かんでいる。氷も小さくなっていて、グラスの上澄みに融けた真水がアルコールと混ざらずに浮いている。注ぎはしたものの、体内には入れていないことを示していた。
 その嘘には気づかないふりをした。小さく鳴いた胸の痛みにも。
 努めて顔には出さずに、指の腹に小さく爪を立てて体内の風雨を鎮める。
「アーニャは寝ていますか?」
「あ、いえ。アーニャさん、今日はベッキーさんのお宅でお泊まり会なんです」
「ああ……今日でしたか」
 言われて、やっと思い出したかのように口に手を置いた。ロイドさんは、ここ数日朝早くから出かけていて、すれ違いの生活が続いていた。アーニャさんも少し寂しそうだった。
「帰っていらしたら、たくさんお話聞いてあげてくださいね」
「……ええ、そうします」
 彼が開いていた本を閉じながら微笑んだ。
「本を読んでいらしたのですか?」
 専門書だろうか。彼はリビングにいる時はたいてい何かを読んでいる。けれどこんな時間までも。本当に大変なお仕事なのだ。自分の立場からは意見することは憚られるが、彼の激務を思うと少し心が痛む。
「いえ、とくに。ここら辺にあった本を何となくパラパラとめくっていて」
 ロイドさんが膝の上のハードカバーを掲げる。表紙には、つばひろの帽子をかぶった髭面の男のイラストが描かれている。本の傾きで、柵のむこう側から様子を伺っている男と目が合った。
 有名な児童書だ。幼い子供なら誰もが一度は読んだことがあるはずの。人形劇にもなっていて、子ども相手の巡業などでも人気がある。昔住んでいた家にも本であって、弟に読んであげた記憶がある。図書館で見つけて、懐かしくなって思わず手に取った。アーニャさんが、キャラクターは見たことがあるが詳しい内容は知らないというので借りてきたものだ。
「それ、この間アーニャさんと一緒に図書館で借りてきたんです。アーニャさんには少し難しいみたいなので、この間から寝る前に少しずつ読んであげていて。つい昨日読み終わったんです」
「へえ……」
 とある田舎町に住むおばあさんが、誕生日プレゼントに贈られた大切なオルゴール付きのコーヒーミルを盗まれてしまい、孫とその友人が取り返すために冒険へ出る。そんな話だ。この国と似ているようで、でも少し違うファンタジー仕立てになっていて、大泥棒や悪い魔法使い、美しい妖精なども出てくる。途中、敵につかまってしまったり、それを知恵で乗り越えたりして、母に読み聞かせてもらいながらベッドの中でわくわくしたことをよく覚えている。
 ――父母から貰った最後の誕生日プレゼントでもあった。
 父母が亡くなってからも、弟には父母の思い出とともに読んであげた。ユーリもこの話が大好きで、いっとき、枕元にずっと置いていた。
 そんな、特別な本だった。
 生活におわれて、いつの間にか思い出すことも無くなり、ユーリが成長するにつれてそんなことすら忘れてしまっていた。けれど時を経て、こうして母と同じように自分も娘に渡せたことが嬉しかった。
「アーニャさんもとっても気にいったみたいで」
「そうですか。ありがとう、ヨルさんがそうやってアーニャに優しくしてくださるので、安心して任せられます」
「いえ、そんな。大したことでは」
 慌てて謙遜する。私がしていることなんて、ただ母がしてくれたことをなぞっているだけだ。
「十分です。どんなに助かっているか」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
 いつかアーニャさんも、自分のお子さんが生まれたら本を読み聞かせてあげる日がくるかもしれない。その一端を担えたなら。そんな未来を想像して、少しくすぐったくなった。
「そうだ。それで、アーニャさんが同じものを自分用に欲しがっていらして。シリーズであと数冊あるので、揃えてあげてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
「良かった。アーニャさんもきっと喜びます。ロイドさんもこの話お好きですか?」
「――いえ、読んだこと無いです」
「え? そうなのですか?」
「有名な童話ならさすがに。でもこういった児童書には縁がなかったですね」
 思ってもみなかった言葉だ。この国の子どもなら誰でも知っているのかと思っていた。そのくらい有名な物語だ。確か、一部分が教科書にも採用されていたはずだ。
「意外ですか?」
「え? ええ……あ、いえ……」
 顔に出ていたのだろう。彼がこちらを見て笑う。
「これに限らずですけどね。こういった物があるような家じゃなかったんです」
「児童書は、あまりお好きでは無かったですか?」
「どうかな。まあでも、本を読むよりは外で遊んでばかりいましたね」
「活発だったのですね」
「田舎でしたしね。他に娯楽はなかったし」
「私もよく外で遊んでいましたよ。バトミントンとか、ゴムとびとか……あ、サッカーとかも」
「サッカー? ヨルさんが?」
「ええ。あの頃流行っていたんです。近所の男の子たちと一緒になってやりましたよ」ボールを蹴る真似をして少しおどける。
「ヨルさんもだいぶ活発だったんですね」
「そうかもしれません」
 ふふふ、と笑い合う。そして、ふと思いついた。
「あの、私、これ読みましょうか?」
「この本を?」
「ええ、良かったら。本当にとっても面白いんです。アーニャさんもすごく気に入ってらして。一章だけでも試してみませんか? 私が読みますから、聞くだけでも」
 少し強引かと思ったけれど、彼にも知ってほしかった。私とアーニャさんが好きになった物語を、ロイドさんとも共有したい。この家で彼だけが知らないことがあるなんて何だか寂しい。ただの、私の勝手な感傷だけれど。
「あ、でも疲れていらっしゃるなら……」
 言ってから、彼が帰ってきたばかりだと思い出す。
「……いいえ。じゃあお願いします」
 彼は少し笑いながら、膝に置いていた本を渡してくれた。
 
「――いかがでした?」
 読み終えてから、聞いてみる。
 結局、最後まで読み切ってしまった。章ごとに彼を見たが、ずっと目を閉じたままで止められることは無かった。時折口角も上がっていたので、ちゃんと聞いていたようだ。それがまた嬉しくて、抑揚をつけて最後まで読み切ってしまった。
「面白かった。ヨルさん、読み聞かせすごく上手ですね。すっかり入り込んでしまいました。アーニャが夢中になるのもわかる」
「ふふ、ありがとうございます。ね? 大人が読んでもとっても面白いでしょう? 私、昔からこのお話が大好きで。ユーリにもよく読んであげたんです」
「ヨルさんが昔から読み聞かせを?」
「ええ。最初は自分のためだったのですけれど。私は声に出して読んだほうが頭にはいるみたいでそうしていたら、ユーリったらいつの間にかちゃっかり隣に座って聞いてるんです。でもそれが嬉しくて。それで、私が読み聞かせてあげるようになったんです」
「ああ、いいですね。音読は黙読するより脳が活性化しますしね」
「そうなのですか?」
「ええ。内容が頭に入りやすいっていいますよ」
 言いながら、そうか、アーニャにも音読させれば……とひとりごちている。それがなんだか微笑ましい。ロイドさんはいつもアーニャさんのことを考えている。
「アーニャさんもとても喜んでくださって。自分の好きな物を、他の人も好きになってくださるって嬉しいですね」
「あいつのことだから、『天井に吊るされたソーセージ』のくだりに反応したんじゃないですか?」
「当たりです」
 ふふふ、とまたふたりで笑い合う。
「……こういうのも読めばよかったですね。小さい頃に」
 テーブルに置いた児童書に触れながら、ロイドさんがしみじみとした口調で呟いた。
「ちょっと意外でした。いつも何か読んでらっしゃるから、昔から読書がお好きなのかと」
「反動かな。家では勉強、勉強ってうるさくてね……父親が特に。それに反発するように外に出ていたので、家で遊んだ記憶があまりなくて」
「どんな遊びをされたんですか?」
 何気なく聞いた。特に意味があったわけじゃなく。言ってから、そういえばロイドさんとこういった過去の話をするのは初めてだと気がついた。
 彼は一瞬こちらを見て、そして視線を落とす。
 何かを隠すような視線だった。その横顔に、驚くほど深い苦悶が浮かぶ。
「……ごっこ遊びですかね」
「おままごと?」
「いえ。戦争ごっこ――敵味方に分かれてね。たくさん、殺しました」
「それは……」
 そんな遊びなら、近所に住んでいた活発な男の子達がよくやっていたのを見たことがある。きっと同じようなものだろう。敵味方に分かれて、お互いの陣地を取り合うというものだ。自分も弟も、あまりそういった遊びは好まなかったが、男の子なら誰しも覚えがある遊戯ではないだろうか。当時、それを不謹慎だと言う人は誰もいなかったはずだ。
 たとえ、まったく同じことが現実に起こったとしても。
「――後悔、されていらっしゃるんですか?」
 何に、とは聞かなかった。
 彼もただ静かに「どうかな」とだけ呟く。
「……後悔とか、そんな感傷でもないかな。小さな頃なんてそんなものでしょう。何も……考えてなかったんですよ」
「……」
 なんと返せばいいのかわからずまごついていると、彼がこちらを見て淡く微笑む。まるで、告解を終えた罪人のように。その寂寥を湛えた瞳にひどく心が揺れた。
「まあ、でも、実はあまり覚えてないんです。あの頃、自分が何を考えていたのかとか……意識して置いてきたので」
「置く、ですか?」
「抱えたままでは走れなくてね――わざと置いてきた」
「……」
「だからかな。たまに、自分があまりに何も知らなくて愕然とする」
「ロイドさんが?」
「ヨルさんとユーリ君を見ていると、つくづくね」
「私?」
「ヨルさんのアーニャに対する接し方とか、ユーリ君への態度を見たらね――きっと、仲の良い、普通のご家庭だったんだろうなって」
「そ、そうです、か?」
 そんなこと思ったことも無かった。私が「普通」と言われるなんて。私自身は、いつも人さまや、社会と折り合いのつけ方がわからずに萎縮しているというのに。
「そういう『普通』をね、覚えてない……いや、違うかな――必要無いとさえ思ってきたから……けど、今になって……」
 その先の声が消える。見ると、少し俯いたまま、過去へ旅しているようだ。どこまで還っているのだろう。私の知らない、どこまで……。
 不意に、目の前に見たことのない女性と、ロイドさんの姿が浮かぶ。その美しい女性は、アーニャさんによく似ていて、なぜだか目の奥が熱くなる。
 あなたが……あなたが愛した奥さまは、その孤独を埋めてはくださらなかったんですか。どうしてそんな。まるで、ずっとひとりで生きてきたような言い方。
 あなたがいつも、たったひとりで心を痛めながら馳せている世界にはもう、愛する人が誰一人として存在していないような……。
 その言葉が喉まで出かかるが、ぐっと飲み込む。それは言ってはいけないと、本能のようなものが静止する。言葉にしてしまっては、何かが壊れてしまうような……。
 彼は彼で自嘲気味に、「でもまあ」と続ける。
「自分では、もうこれでいいと思っているし、言ったところで今さらですしね」
「そ、そんなこと無いと思いますっ!」
 思わず、大きな声が出てしまう。ロイドさんは驚いたように目を大きくした。
「あ、すみません、つい……で、でも、今さらなんて。そんなこと無いです。それに、ロイドさんはいつもアーニャさんのことを考えてらっしゃるでしょう? 私のことだって……」
 私のことだって……一度も否定したことがない。
 皆に「おかしい」と言われ、「普通」でないと指を差して笑われる私のことを。
 こんな私を、彼は「素敵」だと言ってくれた。
 暴れている患者さんに襲われて、咄嗟に割り込んで倒してしまった時も、怒るでもなく「すごいですね」と笑い飛ばしてくれた。
 そのひとつひとつの優しさや気遣いが、私の胸に書き込まれている。たまに取り出して、思い返しては、その温かな思い出を何度も心に刻んでいる。
 それなのに、彼自身がそんな風に自分を卑下するなんて……。
「ありがとう」彼は少しだけ笑うが、すぐに「もう寝ましょう」と切り上げようとした。こちらを見ずに。目を伏せたまま、テーブルのグラスを片付けようと手を伸ばす。
 咄嗟に、その水滴のついたグラスを奪って一気に煽った。
「え、ちょ! ヨルさん、それロック!」
「でも父親です!」
 喉がカッと火を呑み込んだように熱く焼ける。勢いに任せてだん! と大きい音を立ててグラスでテーブルを叩いた。
「えぇ⁉」
「父親なんです! ロイドさんはちゃんとアーニャさんの立派なお父さんです! それに、それに……わ、私の、オットです! だから、だから……」
 それが「普通」なんじゃないですか。
 あなたが作って、あなたとアーニャさんが迎えてくれたここが、この家こそが、普通の家庭なんじゃないですか。
 そう、言葉にしようとするが、声が出なかった。
「――なぜヨルさんが泣くんです?」
「……わかりません」
 わからない……。何故、目の奥が熱くなるのか。何故、こんなに悔しいのかも……。
 彼は少しとまどいながらも「そうですか」とだけ言いながら、優しく頬に触れて、指先で輪郭を伝う雫を拭ってくれる。その手のひらに、甘えるように自分の手を添え目を閉じた。
 温かな手だった。身体が冷えたなんてきっと嘘。そう思える程に。
 温かな人だ。
 いつも。いつも……。
 出会ってから、何度この温もりに救われてきただろう。学がなく、ともすれば常識にも疎い私を、彼は馬鹿にすることも、呆れることもなく優しく導いてくれる。
 雪解けを促す春の雨のようなその優しさは、その度に、私の中に静かに染み込んで潤っていく。
 たぶん、私は自分が思っているよりもずっと強く、はげしくこの温もりに焦がれている。
 だから聞きたくない。聞きたくなかった。
 彼の口から、自分自身を貶める言葉を。
 閉じていた瞳を開くと、すぐ先の、薄い青碧せいへきの瞳と交わる。
 二度目だ。彼の瞳に、こんなにもはっきりと自分の姿を映すのは。一度目は、結婚を決めたとき。けれど、一度目とはまるで違う。あの時は、自分の姿と利益、そして打算しか映っていなかった。
 けれど、今は。
「病める時も、悲しみの時も」
 あの時の言葉通り。そんな瞳だ。いつもより、少しだけ濃く、そして潤んでいる。ぼやけた光と横暴な雨、この夜の儚さすべてを取り込んだように、朧げに揺れている。
 その濡れた瞳にそっと近づく。その瞳の奥をもっとよく見たくて。
 そして――前からの約束のように、自然にその唇が重なった。

 

++

 

 始まりはとても静かで、それでいて深かった。
 唇を合わせるだけの行為から、やがて上唇と下唇を交互に喰むような口づけに。同時に、驚くほど強い力で引き寄せられて、彼の腕の中へ身体が沈んでいく。
「ふ……」
 僅かに開いた隙間から、声とも振動ともつかない音が溢れ出る。彼は、ゆっくり、けれど深く舌を差し入れてくる。
 こんな口づけは初めてだった。口づけ、自体も初めてだけれど。
 唇が触れるだけの軽いじゃれ合いなら、幼い頃に父母や弟としたことはある。けれどこれは違う。どこか支配的で、それでいて従属的で、その境目が無い。
 直接触れる唇の感触と、温もり、そしていつもより間近な彼の薫りが靄のように立ち昇って、私と彼に沿って膜を張っていく。
 座っているソファやテーブル、その上に置かれた本やグラスが急に曖昧になって焦点がぼやける。自分自身ですら、あやふやになっていく。
 それなのに、彼だけはひどく鮮明だった。彼の存在だけが強い輪郭を放って浮かび上がっている。それに縋るように、彼の首に廻した腕に力を込めると、同じだけの力で抱きしめられて、怖れと心地良さ、そしてそれを上回る歓喜が火照りとなって身体の芯から湧き上がる。
 その火照りは段々と下腹部の方へ集まりだしている。
「力、抜ける?」
「や、わ、わからな……」
 自分の身体が制御できない。初めてのことに、感情とは裏腹に身体を硬くする。
 怖くて、恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて顔を彼の首筋に埋める。それが、彼をいっそう刺激していると、そんなことすら分からない。
 首をすくめるように、彼の腕の中で小さくなる。情けない。もう、いい大人なのに。こんな時でさえうまく立ち回れずに、ただ肩を震わせることしか出来ない。
 それでもロイドさんは、優しく、どこまでも優しく、幼子をあやすように髪を撫でてくれる。そして耳の近くで「止めましょうか」と囁いた。
「え、やです」
 咄嗟にはしっと彼の服の袖を掴むと、彼は驚いたような顔をする。それから少し困ったように笑った。
「無理をさせたいわけじゃないんです」
「無理、じゃない、です……」
 止めてほしいわけじゃない。
 無理をしてるわけでもない。
 ……困らせたいわけでも……。
「ご、ごめんなさい……」
「――どうして謝るの?」
「あの、や、止めてほしいわけじゃなくて……」
 そうじゃなくて。
「怖くて……」
「じゃあ、やっぱり」
「ち、違います。『それ』が怖いんじゃなくて……あの……空っぽ、なんです……」
 彼は少しだけ黙って、促すように首を傾ける。その瞳はとても優しい。それがかえって恥ずかしくて下を向いた。
 「……空っぽなんです。わたし」
 私には何もない。
 ずっと、弟を育てること、悪い方たちを倒して身の回りをきれいにすること。それしか考えてこなかった。それ以外に考えることなんてなかった。
 世の中の有り様を知ることも、お医者様になって誰かに尽くすことも、勉強して、いい学校に入るなんてことも考えたこともない。
 ただ、ただその日その日を生きてきただけ。
 白紙だ。
 もう二十数年も生きているのに、何も書き込むことをしてこなかった私の本には真っ白なページしかない。
 だから、空っぽ。
 ……それを、悟られるのが……怖い。
 つまらないと厭きられてしまうかもしれない。失望されてしまうかもしれない。そんな、何もない自分を晒す勇気が、どうしても……。
「――オレも同じです」
「え……?」
 顔を上げようとするが、頭を押さえられたまま、ぐっと腕の力が少しだけ強くなって、彼の腕の中に深く沈む。
 彼の鼓動だけが強く耳に響く。
「……オレも同じ。装丁だけ」
 上辺だけ取り繕って、綺麗なふりをして。
 そのくせ、誰にもページを開いてほしくなくて、必死に内側から抑えてる。
「『見ないでくれ、見ないでくれ』って……そう、ずっと……」
 驚いた。同じだなんて。いつだって自信に満ちた彼からは考えられない……それに、それを吐露する姿も……何もかも意外すぎて目眩がする。
 彼の腕からなんとか抜け出して顔を上げる。顔は伏せられ、瞳は前髪で隠されている。
 ……自嘲気味に歪む口元だけが見えた。
 先ほどの彼と同じ動作、両手を頬に当ててそっとその顔を持ち上げると……ゆっくりと覗いたその瞳は、やはり濡れていた。
 見つめ合ったまま、彼も先ほどの私と同じ仕草で、頬に添えた私の手に自分の手を重ねてくれる。
 その手が、微かに震えているような気がした。
「……なのに、君にだけは理解してもらいたいなんて……矛盾してるね。オレも……君も」
 ――ああ、同じなんだ。
 髪の色も、瞳の色も、性別すら何もかも違うのに、まるで同じ。
 私が、いる。
 彼の中に私がいて、私の中にも彼がいる。
 そのまま、少し背筋を伸ばして彼を抱きしめる。
 私が、「わたし」を抱きしめる。
 今度は自分から唇を落とした。頬、額、瞼、鼻、顎。少しずつ場所を変えながら、軽く喰むように触れていく。額同士を密着させながら頬に手を添えて、そのまま少ししっとりとしている首筋から肩に指先を移動させる。
 どこか、ほんの少しでも触れていたかった。
 彼が「くすぐったい」と小さく笑う。その、熱を含んだ言葉の上にも唇を重ねる。先ほどとは違い、大胆に舌を差し出して彼の舌に触れる。彼も受け入れてくれて、深く、強く貪り合う。
 角度を変えながら、何度も何度も深く交わると、また身体の芯が火照りだして、種火を作った。彼の手が、そっと脇腹から撫でるように上がってくる。胸の頂きを指の腹で触れられると、経験したことのない情慾がその炎を大きくした。彼の肩に置いた指に力がこもって、たまらず声を上げる。
「ロイド……さん」
 涙目になりながら名前を呼ぶ。この時は知らなかった。名前や、吐息にまで誘う力があるなんて。
 ただ、このじくじくと燻る火を何とかしてほしくてこいねがう。
「……オレの部屋でいいですか?」
 耳元で甘く誘惑するその囁きに、こくりと、ひとつだけ頷いた。

 軽々と横抱きにされて部屋に導かれる。その間も惜しむようにずっと唇での交わりを続けた。止めてしまったら夢になりそうで、ずっと縋ってしまう。
 いつの間にかベッドへ寝かされていたが、それでも離れ難くて、懇願するようになおも首筋にしがみつく。彼は少し笑って、私の手をシーツに縫い付けながら耳やうなじにそって唇を這わせていく。その動きにあてられて、深い官能の吐息が漏れる。恥ずかしくて口を抑えたいのに、縫い付けられた手首は思ったよりも深く寝具に沈んで動かせない。その不自由さと首筋を這う唇の感覚が、ある種の倒錯を生んで、身体の中がいっそう昂ぶっていく。
 いつの間にか、裾の長い夜着の中に手を入れられて弄られても、上までたくし上げられて剥ぎ取られても、されるがままになる。
 あらわになった肌が、花冷えの外気に直接触れて細かく泡立った。彼の手の温もりがその肌に直接撫でられると、どうしようもなく鼓動が速まり、次いで体温も上がる。
 彼が、ネクタイとベスト、それにワイシャツなど全て脱ぎ捨てて、こちらに覆い被さってくる。暗くて、月明かりもないはずなのに、夜目に慣れた自分にはその姿がつぶさに見え、あまりの色香にそれだけで身体が切なげに鳴く。
 素肌だけで重なり合うことが、こんなにも心地良いと初めて知った。夢見心地で彼の肩や背中にそっと手を添えると、手のひらが思いもよらない記憶に触れた。
 彼の身体には、無数の裂傷があった。言葉が出ない。けれど、全てのことが腑に落ちる。
 彼が「昔のことです」と笑う。その声に、また目の奥が熱くなってひとすじの雫がシーツに染みを作った。
 ただただ、彼のあの、たったひとりで馳せる瞳を思って涙が出た。
「大丈夫なんですよ、もう」 
「はい」
 信じよう。それだけを強く思って、もう一度肩の傷に口づけを贈る。そんなことで癒えるはずがない。それは分かっていたけれど、どうしても。
 さわさわと、撫でるように肩や脇腹を触れていた彼が「怖いですか?」と問うた。
「え……えと、はい、少し……」
 ぼんやりとした知識しかなく、これから先が見えない不安と、そんな胸中とは真反対に期待で濡れる身体。全てが、差し潮のようにじわじわ溢れてきて、いつの間にか溺れそうになっている。正直に答えると「じゃあ、怖くないようにしましょうか」と、いく分艶めいた声音で囁かれた。
「え……ど、どうやって?」
「そうだな――今から、色んなところ舐めますね」
「え、な……それって……びゃ!」
 唇、顔、耳、うなじ、鎖骨と執拗に舌を這わせながら、片方の指で胸の頂きを摘まれる。もう片方の手が臍から太腿、そして下腹部の芯へと降りていき、舌と指先で身体の曲線をなぞられる。けれど肝心の場所には触れてくれない。すでに自覚できるほど濡れているそこに触れて欲しい。けれど、恥ずかしくてとても口には出せない……歯がゆくて意地悪で、こちらを挑発するようなその指使いに、心臓と声が同時に高く鳴る。
「ひゃ……や、あ、は……」
「ああ、甘い。いいですね、その声」
「や、ぁ、ああ、甘いって……」
「甘いですよ、ヨルさん。どこも、かしこも」
 胸を喰まれ、舌の先で凝り固まった頂きをさらに弄られる。
「ここもほぐしましょうね」
「あ……は、あぁ……あ、やっ……」
「嫌じゃ無いでしょう?」
 彼はやっと花芯に手を伸ばした。すでに充分濡れているそこを、彼の指先が撫でるように触れる。
「……っ」
 羞恥で頭がグラグラする。けれど身体のほうは、やっと与えてもらった快感を貪っていく。
 少し抵抗しながらも彼の指を受け入れた途端、びくっと身体中の内壁が震えて背中が反る。無意識に足先に力が入り、滑らかなシーツの上を搔いた。
「力を入れるとあとが辛いですよ」
 耳朶の裏から首筋にかけて執拗なくらい舌を這わされながら、愉悦を含んだ声で諭される。そんなことを言われても、身体はまったくいうことをきかない。ろくな返事も出来ずにただ、彼に翻弄される。
 完全に身体も精神も支配されていた。彼のひとつひとつの振る舞いに抗うことも出来ず、ただ従うだけしかゆるされない。けれどそれこそが正しいことのようにも思えてくる。
「そ……や、あ、あ、そこ、や……!」
 彼の指が胎内で鉤型に曲がり、また私自身も知らない箇所を抉るように責める。その場所に触られた途端、身体が弾けるように弓なりに反り返った。今までとは明らかに違う婬悦に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。 
「――イってていいですよ」
「ぁっ、や、あ、あぁ――!」
 その声が合図になって、悲鳴とも、嬌声ともつかない声が喉の奥からほとばしる。耐えられないくらいの熱い痙攣が身体中を駆け抜けて、そして弛緩した。
「素直な身体ですね」
 ぐったりと呆けたように寝具に沈む耳に、ずい分楽しげな声音が響く。それに反応するようにまた全身が紅く染まる。
「な……ん、で、声に……ぜんぶっ……ゃ、あ、また……っ」
 抗議しようとするが、きちんとした言葉にはならなかった。彼の指は止まることなく、中から滴り落ちるように溢れ出る粘液を掻き出してはまた押し込んでいく。そんな反復を、くちゅくちゅとはしたない音を立てながら続ける。
 いつの間にかまた指も増えていて、ひとつひとつが中で違う動きをしてうねっていた。一度達して放出した身体に、また無理やり熱を宿される。
 いや、と何度頭を振ってもゆるしてもらえなかった。
 耳殻の中に舌を入れられ嫐られ、先ほどと同じ悲鳴にも似た淫らな声が上がる。
 彼はこちらに覆いかぶさって指を動かしたまま、耳元で「音読」と言った。
「な、なん……」意味を理解した途端、耳から全身が朱に染まる。そして、彼の指先に纏わりつく液が嵩を増した。
「さっき、ヨルさんが読み聞かせしてくれたお返しに」
「いら、や……そん……」
 いりません! そんなの。そう言おうと思うのに、ちゃんとした言葉にならない。彼も分かっていてわざとしている。いつもとは違い、かなり意地悪だ。
「だってヨルさん、これから何が起こるのかとか、何をされるのかとか、わからなくて怖いでしょう?」
「そ、それは……」
「恐怖ってね『無知』に対する防衛反応なんですよ。わからないから怖い。でも何が起こるのかあらかじめ分かってたら、怖くないでしょう?」
 だから言っておいてあげようと思って、と彼は実に楽しそうにクスクス笑う。
「嘘です……そんなの……」
 非難めいた口調でやっとそれだけ言う。だって笑ってるじゃないですか。自分でも顔が真っ赤になっているのがわかる。こんなのあんまりです……先ほどの傷痕を見てしまった気まずさとか、緊張は確かに緩んだけれど。
「ごめん、ごめん」
 彼はひとしきり笑ってから、両方の手のひらで頬をそっと包み込む。フッと揶揄の瞳を消して、「本当に、ごめん……」と言った。
「――オレには、今あなたにいだいているこの感情が、恋なのか、執着なのか、それとも別の何かなのか、それすらも分からない……でも今はただ、君が欲しい」
 欲しいんだ、と苦しそうに吐露する。その剥き出しの感情に歓喜した。
 言わなければわからないのに。こんな時まで、どこまでも誠実な人だ。でも、そんな人だからこそ……。
 答えるかわりに、もう一度引き寄せて口づける。
「私も……欲しい……」
 ロイドさんが。ロイドさんの全てが欲しい。
 恋でも。恋じゃなくても。
 今、この瞬間のあなたを手放したくない。
 いっそう深くなった口づけに思いを乗せて伝える。不思議と、声に出さずともお互いが理解できた。
 彼の指先が膨らみにそっと触れて、また頂きを弄り始める。先ほどとは違い、今度はとても優しく高めてくれる。その愛撫がたまらなく心地良くて、深いため息にも似た艶の含んだ吐息を漏らした。
 もう何も考えられなかった。
 一頁一頁、進んでは戻って、ゆっくりと文字をなぞりながら意味を理解するように、彼の指先が身体の中の性的な感覚を暴いていく。その度に、自分でも知らなかった快感が身体の奥底から掘り起こされて、つまびらかになる。
「あっ……は、あ、」
 優しく、ゆっくりと彼が自身を進めてくる。与えられるその感覚を追うことしか出来ない。
 痛みはあったが、満ち足りた記憶のほうが大きかった。いつも心を占めている葛藤や劣等感や、焦燥。そんな負の感情がさらさらと溶けてほどけていく。
 彼に求められている充足感で、私自身が生まれ変わっていく。
「ごめん……痛む?」
 全て繋がってから、彼が心配そうに声をかけてくれる。瞼や唇に優しく自身の唇を落として、痛みで強張った身体を緩めてくれる。彼だって、そんなに余裕があるようには見えないのに。
 ウソつき。
 本当に嘘つきな人だ。
 こんなに、こんなに慈しんでくれるのに、分からないなんて。
 でも、私も同じ。
「平気、です……お願い」
 何度目か、もうわからない口づけをまた交わして、自分の中に湧き上がる物に蓋をする。今はまだ……言葉ではなく感覚を優先したかった。
 さっきよりも艶のある、少し高い声が出る。でももう恥ずかしさはない。
 もっと聞いてほしい。あなたに聞いてほしい。知って欲しい。私が今、どれだけ感じているか。どれだけあなたを近づきたいか、どれだけあなたが欲しいか。
 ぜんぶ。
 全部。
 たぶん、今、ロイドさんも同じことを思っている。
 それだけは分かる。
 そして、その全ての感情と感覚が、少し荒々しい、けれど確かな慈しみとなってお互いの中に交わって、やがて弾けた。
 気がつくと、彼はまだ中にいて優しく髪を梳いてくれている。少しぼうっとしていた。
 髪に触れている腕に自分の腕を絡めて頬を寄せて甘える。
 身体がぐったりと重くて、頭を動かすのも億劫だった。まだ、いろいろ話したいことがあったのに、思考がばらばらとしてうまくまとまらない。
「疲れたでしょう。少し寝てください」
 彼がそう言いながら、指先でそっと瞼を抑える。
 待って、まだ……。そう言いたいのに、身体が動かない。
「目が覚めたらね……そばにいますから――おやすみ」
 まるで催眠術のような、低くて心地良いその声に誘われて、幕が降りるように意識が引いていった。

 

 

++

 

 ――たぶん、夢を見ていた。
 とても温かい場所にいて、辺りには何もない。
 がらんと、すべてが白くひらけた場所だった。
 地表も白くて何かの跡のような、隆起なのか陥没なのかはっきりしないものがところどころ足もとに現れている不思議な場所だ。
 でも美しいと思った。
 何もない、白くぼやけた空間なのに、とても美しいと。
 その、淡く柔らかな空気が全身を包みこんで温かい。見上げると、空から音もなく何かが降ってきている。
 濡れることは無かったが、その雫のようなものが周りに落ちて地面に染み通っていく。時折、地表に薄く浮かぶあの跡のようなものと結びついて、いっそう濃くなる。あの雫は何処からきて、何処へ還るのだろう。そんなことを思いながら地表を眺めていると、視界の端に見慣れた靴が映る。
 彼はすぐ近くにいた。顔がすぐそばに。けれど逆光なのか、表情がよく見えない。口元だけがかろうじて見て取れる。
 その唇が、ゆっくりと弧を描いた。
 意味もわからず胸がキュッと締まって、それから奥深い場所からじわじわと温かいものが染み出してくる。
 ああ、笑ってる。笑っている。良かった。
 同じように弧を返す。
 そこで、目が覚めた――。
 
 部屋の中は白々とした優しい光に満ちていた。瞼を通すその柔らかな光が、いつもと違う方向から差し込む違和感で重い瞼が上がる。
 視線の先に、彼はいた。
 もうすでに起きていて、見慣れたルームウェアを着ている。そしてベッド脇の椅子に腰掛けたまま、また外を見ていた。ただいつもと違い、その視線は穏やかだ。微かにだが、口元も緩く弧を描いている。
 ――笑っている……良かった。
 くるまっている寝具の中から、そっと片手だけを伸ばす。気がついた彼が、その手を優しく取りながら「おはよう」と微笑んでくれた。
 夢と同じように弧を返す。
 絡め合った指先が温かい。その温かさに安堵して、また瞼が重くなる。
「身体、大丈夫ですか?」
「……雨、止みました?」
「え? ……ああ、うん。晴れてますよ」
 うつらうつらしながらその声に満たされる。意識はまた半分、あの平原に帰っていた。
 もう雫は落ちていない。全て白い地表に染み込んでいる。素足の裏側で少し撫でると、表面はさらさらとして、雫が染み込んだことさえ忘れたようだった。
 もう、少し……でも、きっと大丈夫。
「ヨルさん?」
 スプリングが沈む気配がして、見上げる。同時に白い空間に少しだけ陰が射して、目の前に見慣れた顔があった。
「……具合でも?」
「ふえ……?」
 彼が心配そうに、こちらを覗き込んでいた。
 あ、ロイドさんだ。ロイドさん……。
「ロイドさん⁉」
 いきなり覚醒して、ガバっと飛び起きた。慌てて辺りを確認する。ロイドさんの部屋で、ロイドさんのベッドだ。はっと見ると……着せてくれたのか、きちんと下着も付けている。
「体調は? つらくないですか?」
 ロイドさんは、お医者様らしく、頬や首筋に手を当てながら、いく分過剰なくらい心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「え、ええと……」
 だんだん昨夜のことが鮮明になって、じわじわと羞恥が湧き上がる。そのまごつきを勘違いしたのか、「……ごめん、無理をさせた」とそっと髪を撫でてくれた。そして、サイドテーブルに置いてあったグラスを持たせてくれる。中には美味しそうなミネラルウォーターが注がれている。それを見た途端、喉の渇きを覚えて、こくこくと一気に飲んだ。瑞々しい天然の気付け薬がすぐに身体中を巡って、満ちて潤っていく。
 ほう、と息を吐いてその清々しさを堪能する。
「少し空気入れ替えますね」
 彼が立ち上がって、ヘッド側の窓の桟を少しだけあげる。ふわっとレースのカーテンの裾が翻って、雨上がりの澄んだ空気が部屋に入り込んだ。空になったグラスに春陽の光が反射してシーツに虹を作る。きらきらとしてとてもきれいだ。
 ああ、もう春だ。
 その新鮮な空気を吸い込むと、走り出したい衝動に駆られる。気持ちが上向いていて、この空気を少しでも多く肺に入れて深呼吸をしたかった。
「もう少し休みますか?」
「いいえ、大丈夫です」
「そう? 何か体調が変だとか、そいうこともないですか?」
 あまりに心配性なその言葉に、ふふっと笑みがこぼれた。
 本当は、変わったところなら、ある。
 気持ちが。気持ちのほうが、昨夜とはまるで変わっている。
 彼との夜の名残りがインクとなって、真っ白だったページの隅々にまで何かが書き込まれたのを感じている。けれど、それが何なのか。まだ、上手く言葉にはできない。
 この沁み込んで刻まれたものが、文字となって、言葉となって、意味となるのはもう少し――時間がかかる。
「ヨルさん?」
 彼が心配そうに近寄ってきて、こちらに屈み込む。それに、にっこりと笑顔で返した。
 
 でも、それでいい。
 それでいいと思った。
 それでも。
 きっとロイドさんは認めてくれる。
 許してくれる。
 ――そして、待っていてくれる。

「ロイドさん、これからボンドさんとみんなで、アーニャさんをお迎えに行って、帰りに本屋さんに行きませんか?」
「本屋?」
「ええ。昨日の続きがあと2冊あるんです。私……また、おふたりに読んであげますね」
 そして私が愛したあの優しい家庭を、あの温かな場所をあなた達にも渡したい。
 そうやって、ひとつひとつ、あなた達と想いと記憶を重ねていきたい。
「それは嬉しいですが……体調は、その……本当に大丈夫ですか?」
「ええ、まったく全然! ごきげんです!」
 そう元気に答えた途端、彼はぶはっ、と吹き出す。そしてそのまま俯いて肩を震わし始めた。
 ……なぜ笑われるんだろう……また、おかしなことを言ってしまったのだろうか。
「すみません、私、なにかまた……」
「いや……」
 ひとしきり俯いたあと、彼は口元を抑えながらこちらを見て、実に楽しそうに「それは何より」、と。

 目に涙を溜めながらそう言った。

 

 

 

end.

 参考文献:「大どろぼうホッツェンプロッツ」/オトフリート・プロイスラー著

 

 

 

 

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