「……は?」
マルクルはジェンキンスを見上げながら、その言葉の意味がわからずに素っ頓狂な声を出す。
ストロベリー? ストロベリーってなんだろう?
何かの呪文? ぐるぐると考えが頭を駆け巡るが、答えはひとつとして浮かんでこない。
すると魔法使いがもう一度聞く。
「ベリーだよ、好きかい?」
「ええと、ええーと、好き、だと、いいです……」
マルクルは咄嗟にそう答えた。だって素直に「好き」と言ったらどんな呪いをかけられるかわかったもんじゃないし、「嫌い」と言ったらそれこそ本当に殺されてしまうかもしれないと思ったので。
だが、その答えを聞いてジェンキンスは「ふーん」と鼻を鳴らしながらわずかに口の端を上げる。
見ようによっては笑っているようにも見えた。
「じゃあ、僕はちょっと出てくるから、キミ、留守番しててよ」
「…………はい?」
今度こそ本当に意味がわからなかった。だが、ジェンキンスは「はい、どいてどいて」とマルクルを立たせて家の内側に追いやる。
「あの、待ってください、どういうこと!?」
マルクルは必死にジェンキンスを引き止めようとしたが、それより早く彼はさっさと出て行ってしまった。
マルクルはバタンと閉められた扉を呆然と見つめる。ジェンキンスが立ち去った辺りに、いい匂いが微かに残った。
自分の身に何が起こっているのかまだ理解出来ていなかった。
今、留守番してろと言った?
あの人、目が見えないんじゃないだろうか。自分はもう何週間も風呂にも入ってなくて、頬は泥だらけで髪もベタベタ。どう考えても汚らしい浮浪児だ。そんな自分を入れるなんて……と、マルクルはキョロキョロと周りを見渡した。
扉の先にはすぐ石の階段が数段あって、その先は見えなかった。恐る恐る階段を登ってそーっと部屋の中を覗いてみると、中は普通の部屋だ。ちょっと普通じゃないくらいに暗くて汚れて埃っぽかったが、魔法使いの住み家だと思えば納得できる。彼らの部屋は大抵ガイコツだの毒草がたくさん詰まった瓶だのイモリの燻製だのがいっぱいあって、暖炉の大きな釜で毒薬を作っているらしいのだから。マルクルはどこからか聞いた噂を思い出した。
彼はごくりとつばを飲み込みながらそろそろと階段を上がった。
部屋の一片の壁には噂どおり大きな大きな暖炉があって、そこで火がぱちぱちと燃えている。毒薬が入った釜は暖炉にかかっていなかった。
彼は急いで暖炉に近寄ると手をかざして冷え切った身体を温めた。まだ10月とはいえ、夜と昼との寒暖差はかなりのものだ。パチパチと燃える炎が傷ついた節々を優しくほぐした。
しばらくその火に当たってから、ようやっとほっと息をついた。
マルクルにとっては家が無くなってから初めての火だった。
ああ、温かい。こんな温かいのは久しぶりだ。
心が軽くなって、だんだん気持ちが落ち着いてくる。だが、同時に不安がどんどん頭をもたげた。
先ほどのジェンキンスのことだ。
「何なんだろうあの人、僕を食べる気だろうか? 安心させて、寝入ったところを一気に皮でも剥いだりして」
マルクルは誰に言うわけでもなく声に出す。強いて言うなら暖炉の炎に向かってだ。炎はゆらゆらと熱を出しながら高く燃えていて、まるでマルクルの背丈に合わせるように向かい合った。炎の真ん中がぼわんぼわんと広がって、まるで人の顔のようだ。
マルクルは何の気なしにその炎を相手に話をしていた。
「……あいつの趣味は最悪だけど、子供を食べるのは見たこと無いぜ、チビっちゃいの?」
「わぁ⁉」
どこからか急に聞こえた声に、心臓が跳ね上がる。慌てて辺りを見渡すが、誰もいない。
暗い部屋の隅に誰かうずくまってるのかも、と思ったがそこにも人はいなかった。噂の悪魔だろうか⁉ どうしよう、食べられてちゃう!
恐怖で歯の根がカチカチと鳴る。だが、マルクルは肩にかけたショールを握り締めながらも懸命に怒鳴った。
「だれ! 誰なの⁉」
すると、目の前の炎が一瞬ぼわんっと煙突近くまで立ち上ってケラケラと大きく笑った。
「恐がってる、恐がってるぞ! そうとも、これが正しい人間の反応ってもんさ! ああ、ここにハウルがいないのが残念だったら!」
炎はケラケラ笑いながらマルクルの背丈まで縮んだ。炎の端っこは楽しそうにユラユラ揺らめいていて、その真ん中に小さな目と口が嬉しそうな表情を作っていた。
「驚いた! 炎が生きてる。君が噂の悪魔なの?」
マルクルは珍しそうに炎に近寄って聞いた。正体がわかれば好奇心のほうが勝った。それに、この炎はなんというか……とても可愛かった。
「そうさ、おいらは火の悪魔! どうだ、恐いだろう?」
炎は口をくわっと開けて、マルクルを襲うようにまた火柱を大きくした。
「ちょっと驚いたけど、でももう平気。それよりもちょっと炎を弱めて。暑いよ」
「な、何だよそれ! もっと恐がれよ! まるでハウルみたいな言い方じゃないか、チビっちゃいくせに!」
炎は気分を害したらしく、ぷんぷん! と炎をいっそう大きくして怒った。だが、それもなんだか赤ん坊が癇癪を起こしているようで、マルクルは全然恐くなかった。
「ハウルって誰?」
「……さっきお前と入れ違いに出てった奴」
炎はぶすっと身体を小さくさせながら答える。マルクルが恐がらないので面白くないようだ。
「あの人、ジェンキンスじゃないの?」
「ハウエル・ジェンキンスってのが本名なんだ。でもおいらはそんなご大層な名前で呼んでやらない、ハウルで充分さ」
やはり、あの人が魔法使いなのだ。そしてこれが噂の悪魔。マルクルは驚きが収まると今度はちょっとだけ呆れた。だってこの悪魔ときたら、暖炉に座ってぼうぼう燃えているだけ。それにその炎はマルクルにはとても心地良いのだ。
「なんだ、噂ではすごく悪い悪魔がいるって言ってたけど全然違うんだね、キミ名前は?」
「おいら悪い悪魔じゃないけど、充分すごいぞ! お前のことだって戸口に居座ったときからずっと知ってたんだから!」
火の悪魔はえっへんと威厳を誇示するように言った。
「それにな、名前を名乗るときはまず自分から名乗れよ!」
順序を気にするなんてずいぶん人間っぽい悪魔だ。それとも悪魔はみんなこんなものなのだろうか。マルクルは本当に呆れた。
「僕はマルクル。マルクル・フィッシャーっていうんだ」
悪魔はそれを聞いてからカルシファーだよと名乗った。
「ねえ、それより最初から知ってたってほんと?」
「そうさ、おいらは扉の近くにいる奴のことは大抵わかるんだ、お前が二日前の夜からあそこに居座って、りんごを食べながらぼーっと海を見てたことも知ってる。おいらハウルに言ったんだ、『扉の真ん前にいられちゃ営業妨害もいいとこだぜ』って!」
その言葉にマルクルがはっとなる。
「じゃあジェ、ハウル……さんも知ってたの?」
「そう言ったろ。それなのにハウルときたらそこの窓から様子を見るだけで何にもしやしないんだから!」
カルシファーはブツブツとハウルの文句を並び立てた。だが、その言葉を聞いて、マルクルの胸に熱いものがこみ上げてくる。
あの人ならわかってくれるかもしれない……。
可哀相ねって言って優しくしてくれて、そしてこれからマルクルがどうしたらいいか考えてくれるかもしれない。
「ぼ、僕は、父さんが死んでひとりになっちゃったんだ。それでずっと野宿してて……」
マルクルはカルシファーにこれまでのことを全部話した。だが、カルシファーは話を聞き終えても「ふーん」とつまらなそうな返事をしただけで「なあ、そこの薪取ってくれ」と言った。
マルクルはそんなカルシファーの態度に少しムッとした。
「僕、これからどうしたらいいのか……お金も無いし、行くところもないんだ。キミにはわからないかもしれないけど」
マルクルは近くの薪処から一本薪を取ってカルシファーにくべながら嘆く。
「わかんない。だってお前ちゃんと話してくれないんだもん」
カルシファーは薪を受け取りながらそっけなく言った。
「な……、何がわかなんないのさ⁉」
その言葉にマルクルはカッとなって声を荒げる。と、そのときコンコンと扉が叩く音がして、カルシファーが突然「ポートベイヴンの扉!」と大声を出した。
「なに? 何してるの? ここがポートヘイヴンなのは当たり前じゃない」
「違う、あの扉はキングズベリーにも繋がってんのさ。ああ、それよりもお客だ、お前出ろよ」
カルシファーは説明するのも面倒くさそうにマルクルを見た。
「出ろって、僕が⁉」
「お前、ばか? 他に誰がいんのさ」
「でも、僕ここのこと何にも知らないし……」
第一、どうして自分がここにいるのかも良くわかってないのだ。
「ハウルはお前に留守番してろって言ったじゃないか。早くしとくれよ! 扉を叩かれたのに見過ごすくらい嫌なもんは無いんだ!」
カルシファーはいらいらしたように言った。どうやら「扉を叩かれたら必ず出る」というのが彼のルールらしい。扉を開くが全くの行きずりの孤児だとかそういうのは、この悪魔には一切興味が無いようだった。しぶしぶ扉を開けると、人の良さそうな青年が「ちわ! 頼まれたエビ十匹と大牡蠣八個でーす!」とにこやかに言った。
「エビ十匹⁉」
見ると、男の足元には港でよく見る魚を入れる木箱が三つほど積まれていて、少し開いた中から赤い大きなエビがビチビチと動いていた。
「なんですかこれ?」
マルクルは驚いて男を見上げる。何かパーティーでもするんだろうか? それにしたってここいら辺で取れるエビなら一匹で大人ふたりが充分食べられるくらいなの大きさなのだ。エビ十匹なんてどれだけ人がくるんだろう。
マルクルは父の職業柄そういったことは何となく知っていた。
「さっきジェンキンスさんがお見えになって、うまそうだから店にあったやつ全部くれって言ってくださったんでさ」
男は得意客を見つけた喜びでにこにこと顔を崩して言うと、扉の中にどんどんと荷物を運び込んで帰っていった。
「カルシファー! これどうすればいいのー⁉」
マルクルは悲鳴に近い声で叫ぶ。だが、カルシファーは「あいつ、また……」とうんざりしたような声を出しただけだ。
とりあえず、この木箱を階段の上に上げなくては扉も閉めれない。マルクルはエビがたくさん詰まった木箱をひとつうんしょっ! と持ち上げる。
と、まだ生きているエビがポーンと木箱の中で大きく跳ねた。
「うわあっ⁉」
それに驚いて、マルクルは階段の上でがくっと態勢を崩した。
転ぶっ!
だが、そう思った次の瞬間、ふわっと体が軽くなって、マルクルは持っていた木箱ごと宙に浮いていた。
「危ない、危ない」
宙に浮いた変な格好でマルクルが見たのは、大きな荷物を抱えながら魔法を使うハウルの姿だった。
「ハ、ハウルさん……」
またマルクルの鼻腔を、あのいい香りがふわりとくすぐる。それは以前マルクルの家の窓辺に咲いていたヒアシンスの匂いだった。
どうやらハウルの香水の香りらしい。まるでその香り自体が魔法のようでもあった。
ハウルはそのまますいーっと手をわずかに動かして、木箱とマルクルを暖炉の前に運んだ。
これが魔法というものか。
間近で魔法の力を見たのは初めてだった。なんて凄いんだろう。マルクルは驚きで胸がいっぱいになる。
ハウルはすぅ、と優しくマルクルを床に置くと、自分も魔法のように軽やかに階段を登った。
そして、持っていた荷物を本や薬が山積みになったテーブルにどんと置いてマルクルに笑顔を向けた。
「危なかったね」
「え、あ、ハイ」
マルクルは自己紹介も忘れてぼけっとハウルに見とれた。
「こんなに早く来るとは思わなかった、重かったろう?」
ハウルはテーブルの上に荷物を広げながら謝る。
「え、あ……ハイ……」
だが、マルクルはそれだけ答えるのが精一杯だった。頭の中では、ハウルにどうしていきなり留守番してろなんて言ったのかとか、あの魔法はどうやってかけたのかとか、そのエビをどうするんだとか色々なことが浮かぶ。だが、彼を前にすると頭が真っ白になってしまった。
ハウルはそんなマルクルに気遣う様子も無く、上機嫌で袋の中身を出していく。
袋にはおいしそうなカンパーニュとチーズとワインなどが入っていて、それらが見る見るうちにテーブルの上を飾っていった。
だがマルクルが一番目に留まったのは、ハウルがパンと一緒に買ってきた大きな白い箱だった。
「さあカルシファー、食事にしよう!」
ハウルはカルシファーを振り向くと薪をくべようと手を伸ばした。
「おいら、いらない。もうマルクルがくれたもん」
カルシファーはつれなくそう言ってふーんとそっぽを向いた。カルシファーのおかけで自己紹介をする手間が省けた。だが、ハウルは面白く無さそうに「あっそ」とだけ言って、そこらにあったポットをカルシファーに無理矢理持たせた。
「やだやだ! 水を頭に乗せるなんてまっぴらごめんっ!」
カルシファーは嫌そうにポットを避けて火花を大きくする。
「我慢してカルシファー、僕はもう喉がカラカラなんだ。あとでエビと牡蠣の殻を全部あげるから」
「それだってどうせおいらに網を乗せて焼くんだろう? もう! おいらやなんだよ水っぽいのは!」
「水は垂れないようにするさ、約束する」
ハウルはカルシファーにウィンクをすると、やはりどこからか網を持って来て、カルシファーの開いている部分に網を乗せるとその上でエビと牡蠣を焼き始めた。それらがジュージューと音を立てる間に、今度はチーズをふたつフォークに刺してあぶり始めた。
「なんたる屈辱! 悪魔をこんなにこき使う魔法使いなんてインガリー中探したっているもんか!」
「悪魔にこんなごちそうを食べさせてやる魔法使いだっていやしないさ」
ふたりは軽口をたたきながらどんどん料理を作っていく。
マルクルは蚊帳の外でぼけっとそれを見守るだけだった。
だが口は開かなかったものの、だんだんと部屋の中に溶けたチーズのおいしそうな匂いが充満しくると、マルクル胃がそれを求めてキリキリと鳴った。一昨日から何も食べていないのだ。思い切ってそのチーズひと切れでいいから貰えないかと頼もうと思ったとき、ハウルがくるりとマルクルを振り向いて「座りなさい」と静かに言った。
見るとテーブルにはちゃんと皿が二人分並んでいて、その上には厚く切ったカンパーニュと少し焦げたチーズが乗っている。
ハウルはちゃんとマルクルの分も作っていてくれた。
そして彼は、あの大きな白い箱からそれは見事な苺のタルトを取り出した。
「……!」
マルクルは息を呑んだ。
それは、父が誕生日に買ってくれると約束してくれたあの苺のケーキだった。
マルクルの腕の長さくらいはあるだろう、サクサクして見るからに美味しそうなタルト生地の上に、これまた大きくて形の良い苺が一面に乗っていて、艶だしに使ったのか甘いハチミツの匂いもした。
いつもショーウィンドウに見本として飾られているケーキだ。
ハウルがそのタルトの上で人指し指をスッスッと何度か交差させると、タルトは綺麗な6分割に切れた。彼はぼんやりとその光景を見つめるマルクルの前にそれらを置いて「好きだといいね」と静かに笑った。
「さあ諸君、いただこう」
ハウルはそう言うと、テーブルに乗った見事な食事の数々を黙々と平らげていく。さっきはいらないと言ったカルシファーでさえ、やはり牡蠣の殻をバリバリと頬張っていた。
それにしてもすごいごちそうだ。それに量が半端じゃなかった。
「さあ、このタルトも食べるといい。町で評判のケーキ屋なんだ」
ハウルは苺のケーキを一切れ取り分けてマルクルの皿に乗せてくれた。
「どうせひっかけた女の子から教わったくせに」
カルシファーが横から茶々を入れる。
「あの……、ハウルさんはいつもこんな食事を?」
マルクルは甘いスポンジケーキを頬張りながら、おずおずと聞いてみる。本当は他に言いたいことがあるのだが、とっかかりが欲しかった。
「いや、今日はまとまった金が入ったからね。ちょうど腹も減っていたし」
「欲しいと思ったら全種類そろえなきゃ気が済まないんだ。分別が無いのさ」
「ひどいなカルシファー! ちゃんと考えてるさ。だけど、たっぷりあったほうがいちいち買い物に行かなくていいじゃないか」
「本当に考えてるんなら魚介類やら生菓子やらをこんなに一度に買うもんか! それでいっつも食べ切れなくて悪くしちゃうんじゃないか! おいらもうカビたパンを食べるのはごめんだからね!」
「いいさ、今日はマルクルがいる」
マルクルはその言葉に心が躍った。
「さて、と」
ハウルは自分の皿の料理をあらかた食べ終えると、「カルシファー、お湯だ!」と立ち上がって軽快に階段を登り始めた。カルシファーの言う通り、テーブルの上には料理がまだたっぷりと残っている。
「またかよ⁉ 今日はこれで二度目だぜ!」
「いいじゃないか、港まで行ったから潮でベタベタなんだ、早くね!」
バタンと二階の扉が閉まる音がして、次いでジャーと水が勢いよく流れる音がしだした。そういえばマルクルもすごく汚れている。ハウルもカルシファーもそんなことには全く頓着しない様子だったが、それにしたって気持ちが悪い。
ハウルさんが出たら僕もお風呂を貸してもらおう。それで落ち着いたら自分のことを話そう。とっても優しい人だし、きっと協力してくれるに違いない。そう思ったら、なんだか心が軽くなった。
「カルシファー、ケーキいる?」
「いる」
マルクルは自分の皿に残っていたスポンジ部分を全部カルシファーの炎に投げ入れる。ケーキもまだあるし、もう一切れ貰ってもいいだろう。それを食べながら、今までのことをどんな風に話そうか、そして、自分がどんなにハウルに感謝しているかをどうやって伝えようかとあれこれ考え始めた。
マルクルは今にも踊り出したい気分だった。
だが、ハウルが風呂から出てくる頃にはそんな気持ちは無残にも消えそうだった。
――風呂が長いのだ、あまりにも。
二時間ほど経った頃、やっとトントンと階段が軋む軽い音がした。少しウトウトとしていたマルクルは、はっとして階段を見上げる。まずお風呂を貸してくださいと言おうとしたその時、ハウルの姿を見てぎょっとなった。
階段を降りてきたのは金髪の男の人だった。
肩の辺りまであるプラチナ・ブロンドを無造作にたらして、赤と灰色のコートを優雅に肩に羽織っている。最初に見た黒髪の面影は何処にも無いが、唯一漂う甘いヒアシンスの香りが、それがハウルだと物語っていた。
これも魔法の一種なのだろうか。マルクルは言葉が出ずに呆けたようにハウルを見つめた。
ハウルは少し気取って階段を降り切ると、颯爽と扉へ向う。
「どこ行くんだ? 今日はおいらに本を読んでくれるって約束だぜ⁉」
カルシファーが驚いたようにハウルに噛み付く。
「野暮なことは言っこなしだよカルシファー、さっき買い物の途中でかわいい娘さんに出逢ってね。あとでデートするって約束しちゃったんだ」
ハウルは全く悪びれもせずにカルシファーにウィンクする。
「また手当たり次第女の子を口説いたな! もう、おいら『星色の娘』に言っちゃうからな!あんたがどんなに惚れっぽくて飽きやすくて酷い人間かってこと、あんたが風呂に入るくらいの時間をかけて全部喋ってやるんだ!」
「そりゃいい。じゃあ、ついでに僕が『一緒に暮らそう』って言ってたって伝えておいて」
ハウルは軽口をたたいて出て行った。その間、一度もマルクルを見ることは無く、彼はぽつんとそのまま一人置き去りにされた。
「ちぇ、ちぇっ! なんだい偉そうに!」
「『星色の娘』ってなんのこと?」
「お前には関係無いや!」
カルシファーは、ハウルに無視されて屈辱とばかりにマルクルに当り散らした。
マルクルだってハウルに色々相談したいことがあったのに、当てが外れて気分を害した。どうも、ハウルはそこいらの大人たちとは少し違うように思える。マルクルはここにきてやっとそれだけぼんやりと察しをつけた。
だが、今の自分にはハウル以外に頼れる人は居ないのだ。ハウルは遅くとも夜には帰るだろうし、そしたら何としてでも相談に乗ってもらわなくちゃ。
マルクルはそれだけ決心すると、とりあえず風呂に入ろうと階段を駆け上がった。
さっぱりして戻ってくると、カルシファーはまだブツブツ文句を言っている。あまりに怒ったので薪を使い果たしたのだろう、少し炎が小さくなっていた。マルクルは薪所からそっと一本引き抜くと、暖炉にぽいっとくべてやる。
「カルシファー、ハウルさんは何時ごろ帰ってくるの?」
「知るもんかっ! いつも星色の娘以上に好きな子は出来ないとか言っときながら、しゃあしゃあと他の子とデートしてるんだもん! あいつはどうしようもない嘘つきなのさ! 仮に帰ってくる時間を言ってたとしてもおいらは信じないよ!」
カルシファーはムシャムシャと薪を頬張りながらぷんぷんと怒って言った。
マルクルはちょっと肩をすくめると、そのまま黙ってソファに座った。ハウルが帰ってくる時間がわからないとなればずいぶん時間が空いてしまう。キョロキョロと改めて部屋の中を見渡した。
この部屋は、暖炉を中心に部屋がまとまってる感じだ。暖炉を前にして左側には小さなキッチンがあって、流しにはいつ洗ったのかもわからない食器が山となって積んである。その横には重そうなフライパンやら、さっき使った網などが無造作に壁に引っかかっている。そしてキッチンの手前には扉へと続く階段、その横には小さな窓があった。
おそらく、ハウルがマルクルを見ていた窓というのはあそこだろう。
ぐるっと回ってその窓のちょうど反対側には、小さいながらもしっかりした戸棚があり、そこにはいかにも魔法に使いそうな髑髏だのニンニクだの乾燥した薬草だのが置いてあった。
ハウルが魔法を作るのはこの辺りかしら。
マルクルは興味を引かれてその戸棚に近寄ってみる。
イモリやコウモリの燻製もあったりして。
恐る恐る戸棚の引き出しを開けると、中にはカビたパンが1個ごろんと入っているだけだった。
「……カルシファーパンいる? カビてるけど」
「お前までおいらをバカにすんのかっ!」
カルシファーがキーキーと火花を散らした丁度そのとき、ドンドン! と扉を叩く音がした。
「ポートヘイヴンの扉! マルクル出ろよ」
「うん」
マルクルが扉を開けると、見るからに海の男といったオヤジが立っていた。
「ちは。今日が約束の日なんで取りに来ました。魔法使いのだんなはいますかい?」
男は帽子を深く被り直しながら、もそもそとしゃべった。魔法使いの家なんて到底恥ずかしくて人様に見られてたくない、といった態度だ。
「ええ、と、あの……ハウルさん、いえ、魔法使いは出かけてて……」
だがそれを聞くと、男はみるみる顔を赤らめて怒り出した。
「なんだと! 今日取りに来るって言ってあったはずだ! こっちゃ明日から航海で金だっ前金で払ってんだ、馬鹿にしてんのか⁉」
ええ⁉ マルクルは仰天する。
だってハウルはそんなこと一言だって言ってなかったのだ。
「ええと、えーと、ちょっと待ってください!」
マルクルは急いで扉を閉めると慌ててカルシファーのもとに駆け寄った。
「ど、どうしよう! ハウルさんが今日なんか約束してたらしいんだけど、いないって言ったら怒っちゃって」
「ああ⁉ おいらそんなの知らないぜ?」
「そんなあー、すごく怒ってるんだってば!」
ドンドン!とイラついたように扉を強く叩く音が響く。
「どうしようカルシファー!」
「どうしようったって……。ハウルが客の注文を忘れたことなんて無かったし……。そいつどんなまじないを注文したんだよ?」
「え、聞いてない」
「なんだいそりゃ! それじゃ何にもわかんないじゃないか!」
カルシファーは怒ったようにマルクルを責めた。
「そんなこと言われたって……!」
カルシファーの理不尽な言葉に、マルクルは口を尖らせるが、はたと思い立って大声を上げた。
「あ、でもあの人漁師みたい! 明日から航海なんだって言ってたし」
「なら風のまじないだ! そんならハウルが戸棚の引き出しに作り置きをしまってたぞ!」
「とだな⁉」
マルクルは急いで部屋の反対側の戸棚に駆け寄って、引き出しという引き出しを広げて中身を床にぶちまけた。
「これ? 違うの⁉ じゃあこっち⁉……はあい、ちょっと待ってっ‼」
ドンドンドン! となおも叩き続けられる扉に向かって叫びながら、マルクルはカルシファーにいちいち聞いてやっと風の護符を見つけ出した。
「これを渡せば良いんだよね? ああ、でも殴られたらどうしよう」
扉は今にも壊れそうに叩かれている。どうやら蹴られてもいるらしい。マルクルは以前の八百屋の店主のことを思い出してビクビクと奮えた。
「マルクル、あれ着て出ろよ」
と、カルシファーが壁にかかっている紺色のマントを差し示して言った。
「これ?こんなの着てどう……わあ⁉」
マルクルが言われた通りにマントをはおると、なんとまるで老魔法使いのような気味の悪い姿に変わった。
「姿変えのマントなんだ。それ着てハウルの弟子ってことにすれば殴りゃしないだろ」
「う、うん分かった!」
マルクルはごくりと唾を飲み込んで大騒ぎな扉へ向う。年老いた弟子らしく「待たれよ」なんてもっともらしいことを言いながら扉を開くと、怒り狂っていた男が途端に大人しくなった。その姿にぎょっとしたらしい。
「あ、あんたも魔法使いかい?」
「そうじゃ。師匠から護符は預かっておる。先程はわしの孫ゆえ何も知らないだのじゃ。そんな子供に手を挙げようとするとは……」
「あ、いや! こっちもちょっと気が立っちまったもんでっ、ダンナのお孫さんとは知らず、その……」
男はぶるぶると首を振って必死に取り繕った。
「まあよい」
マルクルは男の言葉を制して護符を渡した。男は自らにいらぬ災いが降りかかるのを怖れて、ペコペコ頭を下げながら帰っていった。
「大丈夫だっただろ?」
カルシファーは暖炉から身を乗り出して様子をうかがっていた。
「まあね。だけどハウルさんも客が来るんなら来るで、言ってってくれればいいのにさ」
「だけど何とかなったじゃないか! ハウルはちゃんと護符の作り置きはしてたし、おいらもその場所を知ってた。何も問題ないだろう?」
「そりゃあね。だけど僕は護符があるなんて知らなかったし、実際お客さんを怒らせたじゃないか」
「おまえ、ばか?」
マルクルが素直に意見すると、カルシファーはカチンときた顔でぷんぷんと火花を散らした。
「そんなのはお前がもっと上手く言や、全然問題にもならないことだろう? おいらが知ってることをいちいちまたお前に教えるなんて手間じゃないか、そんなこともわかんないのか!」
カルシファーはキーキーと癇癪を起こして火花を散らした。
どうにも不思議な関係だった。
カルシファーは、自分ではハウルのことを悪し様に言うくせに、人がハウルの悪口を少しでも言うとぷりぷり火花を出して怒るのだ。
「そんなこと言われたって……」
マルクルもぶすっと言い返そうとしたとき、また扉がトントン! と今度は幾分軽やかに鳴った。
「キングズベリーの扉!」
カルシファーは火花をひっこめて大声で叫ぶ。すると、扉のすぐ横の振り子のようなものがカチャンカチャンと音を立てた。
「ほらマルクルお客だよ。今度はキングズベリーだ」
「キングズベリーって王都じゃないか!」
マルクルは意味がわからずに素っ頓狂な声を出す。するとカルシファーは、にやっと嬉しそうに笑った。
「おいらが今さっき魔法でキングズベリーに移動させたんだ。開けて見ろよ、たまげるぜ」
「あの扉?」
本当に開けたら王都なんだろうか、マルクルはまだ一度も王都を見たことが無い。恐る恐る扉を開けると、いきなりけたたましい声と一緒に、化粧の濃い女が両手を広げて抱きついてきた。
「ああっ、ペンドラゴン! あたくしとうとう来ましたわ、貴方の妻になるために!」
「えええっ⁉」
マルクルは別の意味でたまげた。あまりに驚いたので景色を見る余裕なんて無い。
と、女も「あら……」と期待が外れたといった顔でマルクルをマジマジと見つめた。
「失礼、執事さま。彼はいらっしゃる?」
女はすばやく身なりを整えて優雅に言った。だが、気だるそうな瞳や必要以上に濃い化粧のおかげでその態度がまるで似合ってない。どうやら彼女はマルクルをハウルの執事と間違えたようだ。ふとみると、マルクルはまだマントを羽織ったままだった。女はあくまで優雅に、だが戸口で1回転して夢見るような目でマルクルを見つめた。
「あたくし、とうとう屋敷を出てきましたの。だってお父様とお母様ったら、あたくしがペンドラゴンと一緒になりたいって言ってもまるで本気にしないのですわ! お前が平民の暮らしに耐えられるものかっておっしゃって。ああ! お父様はあたくしの決意を分かってらっしゃらない! あたくしはあの方と一緒ならどんな粗末な暮らしだって耐えて見せますのに! だってそれが『愛』というものではなくて? ねえ、ですからどうか執事様、ああ、早くあたくしの愛する人に会わせて下さいまし!」
まるで舞台の役者のようにオーバーな身振りで女は懇願した。
「……ま、待たれよ」
マルクルは内心汗だくになりながら、静々と扉を閉めてカルシファーの元に駆け寄った。カルシファーは悦に入った表情を浮かべた。
「どうだい、おいらの魔法は?」
「それどころじゃないよ! 何か変な女の人がハウルさんの妻になるとか何とか! どうしたらいいの⁉」
「んん~⁉」
カルシファーはその場で目を細めて様子をうかがった。
「ほんとだ。ハウルのやつ、住処を悟られるなんてポカしたな。マルクル、お前追い返して来いよ」
「僕が⁉」
「お前のほかにいないだろ!」
「できないよ僕!」
マルクルはブンブンと首を振った。あんなテンションの女の人は見たことが無い。マルクルは男として本能的に恐怖を覚えた。一体ハウルはあの人のどこが良かったんだろう?
「だって、ここに入れたってハウルはあの女を奥さんになんかしないよ。あいつは星色の娘以外とは結婚しないっていつも言ってるもん」
「そんなのわかんないじゃないか。キミだってさっきハウルさんは嘘つきだって」
「他はどうでも、ハウルは星色の娘に関しては嘘言う奴じゃない。おいらそれだけは信じてる」
カルシファーは当たり前だい! と言うように炎を大きく揺らした。
「でも、だからってあんな人をどうやって追い返すのさ」
マルクルはまた腰が重くぶちぶちと言う。扉ではコンコン! と先ほどよりも焦ったようなノックの音がしていた。
すると、カルシファーはにやりと意地悪そうな笑顔を浮かべる。
「簡単さ。そのマントを脱いで『お父さんはいません。』って言や良いんだ」
「ええーっ⁉ それじゃ嘘つきじゃないか!」
「嘘じゃないさ、お前本当に父親いないだろう」
「そうだけど……」
何だかんだ言っては彼は本当に悪魔らしい。カルシファー実に楽しそうににんまりと笑った。
マルクルは渋々マントを脱いで扉を開く。外では、今度こそハウルが出てくると思っていた女がぱぁっと顔を輝かせた。だが、マルクルの姿を見ると、またもやがっかりした顔になる。
「坊や、ここの子? 使用人の子供なのかしら? 悪いけど、ご主人様を出して欲しいの」
「あの……」
マルクルはぎゅっと目をつぶって叫ぶように言った。
「お父さんはいないんですっ!」
すると、部屋の奥から火花が爆笑してポーンと灰が飛び散る音が聞こえた。
女の顔も見る見る青ざめる。
「お……お、とう……?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ! さっきまではいたんです! だけど買い物の途中で綺麗な子に会ったって言ってその子とデートに……」
「デ、デート……っっ⁉」
マルクルは言わなくてもいいことまでスラスラとしゃべりだす。こうなるともう止まらなかった。部屋の奥ではもう駄目! と炎が暖炉からチラチラと飛び出しながら大笑いしていた。
「あの、それでいつ帰ってくるかもわからないんです。今日は泊りかも。だから、その、ここに居てもハウルさんには会えなくて……」
女はその場でヘナヘナと崩れるように座り込む。涙で化粧が禿げて目の周りが熊のようで気持ちが悪いかった。
「お嬢様! だからお嬢様は騙されておりますとあれほど!」
近くにいたお付きの男たちがワラワラと駆け寄って、ふらふらになった女を担いで馬車に乗せて去って行った。
「もうお前、さいっこう! こんなに笑ったのは久しぶりだぜ!」
カルシファーは帰ってきたマルクルを見ると、堪えきれないとばかりにまたゲラゲラと笑い出した。マルクルはどっと疲れてソファに崩れこんだ。
なんか……なんだか、ハウルさんって僕が考えてるのとだいぶ違うみたいだ。こんなんで本当に助けてらえるのかなぁ、とマルクルは不安になった。
「おい、どうしたんだよ?」
ひとしきり笑ったカルシファーは、動かなくなったマルクルに声をかけた。
「うん……実はね……」
カルシファーからもハウルに言ってもらえれば望みは高まるかもしれない。いくらハウルが忘れっぽくて嘘つきで女ったらしだといっても、何も出来ない子供を放り出すほど無慈悲な人間には見えなし、マルクルはそれに架けるしかなかった。もう野宿に戻るのだけはごめんだ。マルクルは自分の考えをカルシファーにも伝えようと顔を上げた。
と、またコンコン! と扉を叩く音がする。
「ちょっと待って。今度はまたポートヘイヴン!」
カルシファーは大声を出してまた振り子をカチャンと元に戻す。すると、また「んん~?」と目を細めて微妙な顔をになった。だがほんのりと口元は笑っている。
「な、なに?」
マルクルはビクッとカルシファーを睨む。
「今度はちびっちゃい女の子だぜ。お使いの子かな、それともハウルの隠し子だったりして。マント被ったほうがいいかなあ? 迷うなぁ。なあ、お前どっちが良い?」
カルシファーはにやにやとマルクルを見た。その炎が今まで無いくらいにキラキラと嬉しそうに輝いていた。
そんなの、そんなの……。
「そんなの知らないよーっっ!!」
のどかなポートヘイヴンの町に、マルクルの絶叫が轟いた。







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