2024-06-11

エリカ・ムスターマンの死 11

 布地の帽子は、あまり役目を果たしていなかった。
 激しさを増す雨に打たれながら、ユーリは重くなった帽子のつばの位置を直す。無いよりはいくぶんマシだが、帽子が帽子の意味を成さなくなるのも時間の問題のように思えた。
 体中に打ち付ける雨が、あっという間に体温を奪っていく。視界も悪く、雨の音が思考と集中力の邪魔をする。
 おおよそ調査や偵察には向かない天候だ。
 言われた通りに戻って書類仕事をしていたほうが良かったか。
 建物の外壁に手をつきながら、早くも後悔が頭をもたげた。
 中尉の手助けをしようと勢いづいて出てきたが、見当違いだったのかもしれない。
 仕事がら、「そういった」雰囲気を持つ人間への嗅覚は発達しているが、少なくともこの建物周りにはそういった人物の姿は見えなかった。どこかに潜んでいる気配も無い。
 この建物の周りには他に建物は無い。木々が建物に沿って迫るように立ち並んでいるが、ひとつひとつの幹は若くて細いものが多い。遠目には林のようだが、実際にはまばらに植えられているだけで、とても身を隠せるような場所ではなかった。
 その木々の奥は公共墓地になっていて、ぽっかりとした空間が拓けている。
 その辺りにも目を凝らすが、簡素な木製の墓標が等間隔に地面に打ち付けてあるだけだった。
 それぞれの墓標には名前すらないのかもしれない。ただそこに誰かが埋まっているという目印のようにしか見えなかった。
 墓地はあまり人が立ち入るような場所でもないため、一見すると秘密の接触には都合が良さそうだが、逆にそれだけ人目につきやすい。プロなら、もっと人が密集した駅や大衆ホールなどを選ぶことが多い。
 やはり特別な意味などなく、代理で出席したに過ぎないのか。
 ただ、中尉はなかなか内側を見せない人物ではあるが、普段あんな人を食ったような言い方はしない。だからこそ、この葬儀か、この場所に何かがあるのではと踏んだのだが……。
 気を取り直して、前を向く。
 今いる場所は、入り口の脇から壁伝いに歩き、建物の奥に回り込んだところだ。
 多くの教会に準じた建物がそうであるように、この建物もバシリカ式という縦に長い箱のような形をしている。
 入り口から入ると、内部は身廊と呼ばれる長い通路があり、真正面に祭壇が掲げられている。
 祭壇のすぐ脇には翼廊と呼ばれる場所が両側に二つ作られているのが一般的だ。
 真上から見るとちょうど十字架の形をしている。
 今はその祭壇の辺りということになる。
 それを裏付けるように、少し上を見ると、大きなステンドグラスがはめ込まれている窓が見えた。今日はあいにくの雨だが、晴れていれば陽の光が差し込んでさぞや厳かなことだろう。
 壁づたいに歩いてきた身廊部分も、同じようなはめ込み型のステンドグラスで、中をうかがうことは出来なかった。
 祭壇を通り過ぎて反対側の翼廊部分をのぞき込む。
 こういった建物は、翼廊のどちらかに小部屋付きの出入り口があるのが普通だ。
 司祭などの控え室や棺の搬入などに使用するためだ。
 思った通り、こちら側の翼廊の部分には扉が見えた。そこから中をうかがえるかと思ったが、そこも簡素な木の扉で窓が無かった。
 中ではまだビューイングの最中なのか、扉はしっかり閉められている。人が出てくる様子も無い。
 前方へ目をやると、こちらも反対側と同じくステンドグラス型の窓があるだけだった。
 半ばがっかりしながら、一気に長い外壁を入り口付近まで駆け抜ける。それでも辺りには何の変化も無かった。周囲には人影はおろか不審物すらない。
 やっぱり大人しく本部まで戻るか……。
 そんなことを考えながら正面玄関が見える位置まで足を進めると、ちょうど建物の中から出てくる人影が見えた。
 男のようだった。
 中尉かと思ったが、違う。
 咄嗟に物陰に隠れた。
 もう葬儀が終わったのだろうか。
 だが、彼に続く人影は見えないため、彼だけひと足先に帰るのかもしれない。
 壁伝いにそろりと顔だけ伸ばして様子をうかがうと、男は建物から出てすぐのポーチで傘をさした。
 傘が邪魔で首から上を確認することができない。
 ずいぶん仕立ての良いスーツだ。地味だが、洗練されたシルエットなのが雨の中でも感じられた。その上等の服が跳ね上がる雨粒で更に濃く染まっていく。
 けれど、男はまるで頓着しないかのようにその場に留まっている。ポーチの一番上で、傘をさしたままそこから動こうとはしなかった。
 誰かを待っているのだろうか。
 何をしているのかと、もう少しだけ首を伸ばす。
 と、直後に男がこちらに振り向いた。
 まずい!
 咄嗟に首を引っ込めて息を潜めた。
 見られただろうか。視線は合わなかったから大丈夫だと思うが、秘密警察がこんな場所で様子をうかがっていたことを見とがめられるのも具合が悪い。
 だが、男はそれ以上動く様子も無く、こちらに来る気配も無かった。
 少し間を置いてから慎重にまたそろりと男の様子をうかがう。
 男はもうこちらに振り向くことはなく、かといってまだそこから動こうともせず、ただ黙って立っている。
 背の高い男だ。
 少なくとも自分よりは高い。自分が知っている中で最も背の高い男はロイド・フォージャーだが、やつと同じくらいかもしれない。
 視覚から読み取れる情報を残さず頭にたたき込んでいく。
 今は何もなくとも、いつ何時覆るかは分からない。正体不明の人物を見たら、即座に記憶に刻むように訓練されている。
 他と違うもの、違和感。なんでもいい。凝視しながら視線を下に送ると、スーツの袖からだらりと地上へ降ろした手のひらを捉えた。
 ずいぶん浅黒い手だ。労働者かとも思ったが、そういう類いの黒さでは無い。どうやら皮膚自体が東国人とは違っているようだ。移民だろうか。
 数はそれほど多くは無いが、東国にも移民はいる。ただ、移民にしてはやけに着ているスーツが上等のようにも思えた。偏見かもしれないが、移民は居住権はあっても参政権などの資格を有している者はほとんどいない。自然、仕事は肉体労働や日雇いに偏らざるを得ず、彼らの暮らしは裕福とは言い難いはずだ。
 ――それに……。
 もう一度、男のほうへ視線を送る。
 送りながら、ゆっくりと背中側に忍ばせている銃に触れた。
 男は手持ち無沙汰なのか、持っている傘をくるくると回したり、つま先立ちになったりとせわしなく動いている。まるで小さな子供が雨にはしゃいで鼻歌でも歌っているようだ。
 ――なのにまるで隙がない。
 ただくるくると馬鹿みたいに回している傘すら、こちらが一歩でも動くと即座に目の前に打ち込まれそうな迫力があった。
 そうは見えないが、傭兵上がりの軍隊経験者だろうか。それとも西側の奴だろうか……。
 これ以上近づくのは危険だと思いつつ、もっと情報を探りたくてギリギリまで顔を出す。
 すると、ちょうど駐車場の入り口から黒塗りの車がゆっくりと滑り混んできて、男の目の前で停まった。
 その車を見た途端、危うく声を出しそうになった。
 あの車は……。
 必死に喉の奥で停めながらも、食い入るように車の動きを追った。
 この車を待っていたらしい。すぐに運転席から秘書然とした男が出てきて、恭しく後部座席を開ける。
 男は優雅な足取りで階段を下りながら、慣れた様子で後部座席へと乗り込んだ。
 持っていた傘を運転手に手渡したその一瞬、男がこちらに視線を送って笑った気がした。
 すぐまた首を引っ込めたため、はっきりとは分からない。 だが、なぜかそんな気がした。
 なんだ……あの男……。
 顔は見えなかった。
 状況からみたら、ただ男が迎えにきた車に乗ったに過ぎない。ただそれだけのことなのに、いつの間にか汗が背中を伝っていた。
 まるで笑いながら刃物の切っ先を突きつけられたようだ。
 それでいて、殺意などはみじんも無い。
 それが帰って異様に思えた。
 ドクドクする心臓をなだめながら、遠ざかっていくエンジンの音を拾う。
 再び顔を出すと、もう車は駐車場から出るところで、ウィンカーを出していた。秘密警察の本部とは逆の方角だ。あの先にはセントラル地区へと続くバイパスが通っている。
「………………」
 しばらく雨の冷たさと辺りに漂う排ガスの臭いに包まれながら、微動だにできなかった。
 頭の中でものすごい速度で考えを巡らせる。
 また、先ほどと同じように選択を迫られていた。
 どうする?
 どうするのが正解だ?
 中尉はまだ中だ。入ってからそう時間は経っていないし、時間がかかるかもしれないと言っていた。
 中尉が中へ入ったまま戻らない以上、中尉が用があったのはあの男ではないのだろう。注意すべきはあの男では無いのかもしれない。
 だが、あの男をこのまま見過ごして良いのだろうか。
 それにあの車。
 なぜ。
「――なぜ移民が秘密警察の車に乗ってるんだ……」
 東国で一般市民が乗る車はたいていは「トラバント」と呼ばれる国内生産の車種だ。他の車種もあることはあるが、バスやトラックになってしまう。
 一方、秘密警察の車両はフーガリア製の車両が配備されている。詳しい理由は知らないが、単純に自国の車よりは性能が良いからだろうと思っている。
 だがそのおかげで、ある特定の車種に関しては、秘密警察の占有車種のようになっている。一般にあの車種が使用されていることは無いはずだ。
 色も秘密警察が使用しているのと同じ色だ。
 よって、あの男達は秘密警察の人間と言うことになる……だが、ユーリはあの男を見たことはないし、ましてやあのナンバーにも覚えが無い。
 記憶力は良い方だ。一度見た車両は忘れない自信はある。ナンバーもだ。
 少なくとも、自分が入庁してからは出会ったことがない。運転手の男も、乗り込んだ男にもだ。
 西国の奴らが偽装した車両という可能性もある。そんな目立つことをする意味も理由もわからないが、こちらを攪乱させる陽動作戦かもしれない。
 万が一、億が一それが本当だったら、そんな大胆不敵なことを起こすのは……。
「たそがれっ!」
 慌てて先ほどの車両に目をやる。
 車両は既に駐車場を出て、その先の信号を曲がろうとしていた。
「……くそ!」
 考えている余裕は無かった。
 勢いよく駆け出すと、開いたままの入り口の扉の前を突っ切って、建物の反対側に停めていた車まで戻る。
 このまま逃がしてたまるか!
 びしょびしょの服のままイグニションキーを思い切り回し、アクセルを力一杯踏みしめ、猛スピードで前の車を追いかけた。

 中尉のことも、姉と葬儀の関係性なども、すっかり頭から抜け落ちていた。
 

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