「あの……、これは、ロイドさんの胸に秘めていただきたいのですが……」
彼女が急にそんなことを言い出すので少し驚いた。けれど、その表情は真剣そのものだった。
「なんでしょう?」
食器棚から出すところだった皿を戻し、棚の扉も閉めて、こちらも神妙な顔で彼女に向き合う。
もしや、この生活に嫌気が差したのだろうか。
または、誰か他に好きな人が出来て、契約結婚自体を見直したいのだろうか。正直、それは困る。オペレーション《梟》に多大な影響が、と嫌な考えがぐるぐると回る。
彼女はほんの少し言おうか言うまいか迷うような表情で、けれど、意を決したように顔をあげた。
「あの、実は……」
「はい」
ごくり、と渇いてもいないのに喉がなる。
「私」
「はい」
「私ですね」
「はい」
「実は……」
「……」
「あの、私、実はすごくお腹が丈夫なんです!」
「…………はい?」
休日の穏やかな午前、今日は『ロイド』としても休日で、作戦会議で呼び出されてもいない。
これ幸いと、午前中のうちにアーニャの勉強を見た。本人はブーブー言っていたが、先日のテストの結果を目の前に掲げると大人しく筆記用具を取りに行った。一時間ほどスペルの書き取りをやらせ、さすがに集中力が切れてきたところで、ココアの甘い香りと、次いでコーヒーの深みのある香りが漂ってきた。ちょうどキリも良かったので一旦終わることにした。
「わーい! あにめみるー!」
「夕方さっきのところもう一度見直すからな」
ヨルさんが持ってきてくれたコーヒーを受け取りながらアーニャに釘をさす。
「うーい!」
ココアを持ってテレビの前に陣取ったアーニャは、こちらを振り返りもせずに調子の良い返事を返す。
……現代っ子がとか、ジェネレーションギャップとか今どきの子どもはとか、そんなありきたりなことは言いたくはないが、どうしてもそんな言葉が浮かんでしまう。
アーニャを引き取ってからすぐに図書館で育児本を借りて読んだが、正直全然役に立たない。
どこかにうちの娘専用のハウトゥー本はないだろうかと切実に思ってしまう。あるなら絶対に予算を組むのに。
深いため息つきながら、時計を見ると既に昼近かった。
気を取り直して昼飯でも作るかと、飲み終わったカップを持ってキッチンへ行くと、ヨルさんが食器を洗っていた。
「ランチはあるもので適当でいいですか?」
「もちろんです」
ざっと冷蔵庫とキッチン奥のパントリーを見て献立を決める。バゲットと生ハムとチーズ、それに今朝出したディルサラダの残りがあるので、簡単にバゲットサンドでもするかと皿を出そうとしたところでさっきの台詞だ。
「…………えー、と?」
彼女はわりと普段から突拍子もないが、今日は輪をかけて絶好調らしい。
何が言いたいのかさっぱりわからない。
任務がらみではあるが、女性経験は豊富なほう……だとは思っていたのだが、彼女は本当によくわからない。
うん……誰かフォージャー家の女たちに関するハウトゥー本を授けてくれオレに。
いや、彼女たちを選んだのはオレ自身だが。
「あ、すみません。いきなりじゃわかりませんよね」
「はい、まあ……ええ」
「あの、実は昨日カミラさんとお話をしてまして……」
ああ……と何となく察する。彼女は自分が少し他とずれていることを気にしていて、わりと人の意見を聞きたがる。だが何というか、聞く対象の彼女の同僚もかなり個性的……というか、彼女の対極にいるような連中らしく、どだい彼女には合わない価値観を植え付ける。
それを彼女もまた律儀に鵜呑みにしてはおかしな方向にずれていく。
「それで、料理の話になって。この間の南部シチューはたまたま上手くいきましたけど、他に作った料理は料理じゃなくて『劇物』だと言われまして……」
なかなか上手いことを……と思ってしまってから、コホンと咳で取り繕う。
「気にしなくていいと思いますよ? この間のシチューは本当に美味しかったですし」
「でもやっぱり少しは料理出来るようになった方がいいかな、と。それで、味見をしないのかとカミラさんに言われて。普通にしますし、出来たものを食べたりもするのですが、私は全然、自分が作ったもの食べても平気で」
「ユーリ君も平気でしょう?」
「そう思ってたんですが、あれは食べながら吐いてるから実はあまり食べてないって言われて……」
ああ……咀嚼はしても摂取はしてないわけか。逆に高度だ。
「それで、あの……、料理をロイドさんに教えて頂きたいなって思ったのですが、あの……問題がひとつあってですね」
「はい」
「私、その、小さい頃に毒……じゃなくて……えーと、わりと何でも食べる訓練……じゃなくて、習慣? みないなことを続けていて。それが原因かは分かりませんが、お腹も壊さないですし、何でも美味しく食べられてしまうのであまり自分の味覚とか体調の変化とかに自信が持てなくて……」
「ああ……」
言い淀んでいるが、彼女は幼い頃に両親を亡くしひとりで弟を育てていたと聞いた。きっと弟に食事を譲って自分は料理とも呼べないようなもので糊口をしのいだこともあったんだろう。
自分の経験を思い出して胸が痛む。
「その前に不器用ですし、野菜の皮もろくに剥けないですし……そのうえ味音痴だしで……本当に、本当にご迷惑かとは思うんですが、その……」
「どうして料理ができるようになりたいんです?」
「え?」
「ここに来るまでは、しなくても問題なかったわけでしょう?」
「そうですけど……やっぱり、母としてとか妻としてとか……」
「もしかして面接でのことまだ気にされてますか?」
「いいえ! あれはもう全然! そのあとにロイドさんにも色々フォローしていただきましたし!」
彼女は全力で否定したが、少なからず陰を落としているのは事実だろう。
あの男、やはり助走もつけて殴っておくべきだった。
「料理は苦手でも、他は完璧に近いと思いますよ」
それは事実だ。実際彼女が来てからは自分の部屋以外の掃除などはしていないが、誇りひとつ落ちていない。
洗濯も貯めることなく適宜清潔なシーツを渡してくれるし、スーツなどもいつの間にかきちんとクリーニングに出されている。
料理以外の水回りのことが苦手って感じでもない。
家事というのはトータル評価だと思うし、着地点が合格であれば経過は気にしなくていいのではないかと思っている。要するに滞りなく生活ができれば問題ないのであって、「誰が」は関係ない。出来る方がすればいい。
「それは……、ロイドさんはすごく合理的な方ですし、そういう考えに私もとても助かっているのですけれど……」
彼女は考えあぐねて視線を彷徨わせる。自分でもうまく説明ができないようだった。
だが、ふとキッチン越しに視線を止める。その先にはテレビを見ているアーニャの後ろ姿があった。
「たぶん……私は、料理を通して『母』を見てるんだと思います」
彼女は静かに言った。
「母はとても料理が上手で……。嫌なことがあっても、母の料理を食べると元気が出ました。それで母が亡くなった時、まず最初にユーリにはごはんを作ってあげなくちゃって思って……それからずっと料理を通して『母』を再現していたのかも」
なるほど。彼女の原体験が『料理=母親』になっているわけだ。珍しいことではないが。
「おこがましいのですが、アーニャさんにもそういう経験をさせてあげたくて……。いえ、差し出がましいのは重々承知しているのですが……その、これからどんどん成長なさっていくとやっぱり父親に話せないことも出てくるでしょうし。そういう時に一緒に料理をしたり、そういう何気ないことをしながら話を聞くのも……その、大事かなって」
いえ! おこがましいのは本当にわかってるんですが! と謝りながらも一生懸命話す。
ああ……、この人は……。
「わかりました」
「え?」
「いいですよ。そういうことなら。まず簡単なものからレクチャーしていきましょうか」
「本当ですか?」
「ええ」
そう請け負うと、彼女は花が咲くように笑顔になった。つられてこちらの表情も緩む。
「じゃあ、さっそくなんですがこういうのを買いまして!」
ヨルさんはキッチンボードの扉から数冊の本を出してきた。どうやらレシピ本らしい。
タイトルは「世界の宮廷料理」「一流シェフの道」「三ツ星レストランの極意」等々。
「ヨルさん」
「はい!」
「何処を目指してるんですか?」
「普通の主婦を!」
「……」
今日中に、WISEに妻のハウトゥー本を申請しようと心に誓った。
「えーっと、ではまず献立は変えません。今日はバゲットとサラダです。それに卵料理を一品加えます」
「はい……」
ヨルさんに「夢は見るな」とオブラートを数十回くらい包んだ言い方をして、レシピ本は下げてもらった。
とりあえずバゲットは切ってあるので、軽く焼くためにグリルにいれる。
サラダは今朝の残りだ。チーズも生ハムもスライスしてあるし、あとは焼き上がったバゲットに挟むだけ。
一度献立を全部作らせて食卓に並べる。
「完成させる」ということを目的にするつもりだった。
「で。卵料理ですが、とりあえず目玉焼きでもしましょうか」
「はい、目玉焼きですね! それなら作ったことあります!」
ヨルさんは早速卵を出して、フライパンに直接落とそうとする。
「あ、まって。フライパンで直接割らないでください」
そう言って止めると、彼女は不思議そうな顔をする。
「直接入れてはいけないのですか……?」
「いけなくはないですが、最初は小さいボウルに入れて、そこからそっとフライパンに入れましょう」
彼女は何のために? と訝しげだが、素直にボウルに卵を割る。と、きれいに割れずに黄身が崩れて殻も少し入ってしまった。
「ああああ……!」
慌ててフォークで殻を取ろうとするが、さらに黄身が完全に崩れてしまう。
「ああ……すみません。私、卵もろくに割れなくて……目玉焼きひとつできないですね」
彼女はがっくりとうなだれる。だが、これでいいのだ。多分そうなる可能性を考えてボウルを使わせたのだから。
「いや、いいんです。卵料理なので。目玉焼きは止めてオムレツかスクランブルエッグにすれば」
不思議そうにこちらを見る視線に、笑顔で返す。
「目玉焼きがだめだったら、違うのにすればいいだけです。卵料理には違いないでしょう?」
「はぁ……はい」
フライパンに直接入れて、それが崩れてしまったら『目玉焼きの失敗』ということになるが、一回ボウルを挟むだけでまた別の料理にできる。
そうやって色々可能性を残しておいて、「目玉焼きの失敗」ではなく、「卵料理の成功」という認識に変える。
ヨルさんはなるほど、と目から鱗が落ちたような顔で言った。
本業でもよく使う方法だ。我々スパイの仕事は結果が全てであって過程はそう問題ではない。
プランAがダメそうだったら、プランB、けれどもAの余地も残しておく。それもダメならプランC。そうやってあらゆる可能性に種をまいて、刈り取る方法をいくつか用意しておく。そういう視点は普通の生活でも有効だと思った。
ヨルさんも把握したのか、もう一度なるほどと言って嬉しそうに微笑んだ。
「さて、ではそれはスクランブルエッグにしましょう」
「はい!」
そう言うと、彼女はフライパンにバターを溶かして卵を流し込む。あとは手早く木ベラでかき混ぜるだけだ。ヨルさんもこれなら出来るかもと嬉しそうだった。
素直だし、学習能力もあるほうだろう。料理だけ力が入りすぎなのだろうか……?
考えながらサラダを出すと、ヨルさんがあ、と気がついてすまなそうに言った。
「すみませんロイドさん。出来たらそのディルサラダにチーズを混ぜてはいけませんか?」
「え? ええ、いいですが、苦手でした?」
ディルはハーブだ。一般家庭でもよく食べられるが、苦手な人はいる。
「ええと、私ではなく、アーニャさんにはちょっとまだ苦味が強いかもしれません」
「え?」
言われてみればアーニャが食べなかったので残ってるわけだ。
「す、すみません! 勘違いかもしれませんが!」
「いえ、たぶんそうなんだと思います。……ありがとう、ボクは全く気にもしなかった」
「あ、いえ、ユーリも小さい頃苦手だったので……」
ヨルさんはそう控え目に笑う。娘を気遣う、それでいて自信なさげなその笑顔に少し感情が動く。
彼女は決して……、決して……。
「あの……」
彼女にそれを伝えようとしたとき、ふと視線を感じる。見るといつの間にかアーニャが床に大の字になって、顔を逆さに向けながらこちらを見ていた。
「……なんだその目は」
「ゲプ」
「は?」
眉根をしかめてこちらを見ながら、一言だけそう言う。すると、今度は何かに気づいたように起き上がった。
「……ちち、くさい」
「あ? ……え? あ! グリル!!」
グリルから黒い煙が出ていた。
「きゃー! ロイドさんバゲット焦げてます!」
「すいません忘れてた! って、ヨルさん卵!」
慌てて真っ暗になったバゲットを取り出すと、驚いてこちらを見ているヨルさんの背後からも煙が上がっていた。
「ぎゃー!!」
あっちとこっちで右往左往する大人たちを尻目に、アーニャが呆れた目でボンドに囁く。
「――アーニャ、むねやけがすごい」
そんな娘の声はキッチンで絶叫している大人二人には届かなかった。
「すみません……。結局、卵料理失敗してしまいました……」
「いえ、ボクもバゲット焦がしましたし……」
ずーんと、下を向いて落ち込むヨルさんに、自分も反省の弁を述べる。結局バゲットと卵料理はひとり分丸々焦がしてしまった。
責任を取って焦げた分を食べると言い張るヨルさんとまたひと悶着あったが、結局大人ふたりで痛み分けすることでまとまった。
アーニャにはちゃんと出来たものを取り分け、自分とヨルさんで皿をシェアする。
「うう、不甲斐ないです……」
ヨルさんは落ち込みながら焦げた卵をもすもすと口に入れる。
自分もそれ以上フォローできずに黙ってバゲットを千切る。
「あ、これおいしい」
ふたりを交互に見ていたアーニャがサラダに口をつけるとそう言った。
「ああ、チーズ入れてみた。食べられるか?」
「うん。これならすき」
今朝同じサラダを食べなかったアーニャが笑った。
「……だそうです。良かったですね『お母さん』」
「え?」
ヨルさんに向かってそういうと、彼女はキョトンとした顔でアーニャと自分を見た。
「アーニャ、これならすき」
アーニャがヨルさんに同じ事をもう一度言う。
「食べられますか?」
「うん」
「良かった」
ヨルさんが、ホッとしたようにようやく笑った。
「……前にも言いましたけど、ヨルさんはもう立派なアーニャのお母さんですよ」
本当にそうだと思う。
本人に自覚はないようだが、彼女はとてもよくアーニャを見ている。娘の味覚だとか、成長した先の未来とか。そういうものをちゃんと考えている。
……それは、自分には全くないものだ。
任務に必要はないと切り捨てているともいえるが、正直自分には思い浮かびもしないことも多々ある。
「そうでしょうか……?」
彼女はこんなことで? とまだピンと来てないようで、アーニャと自分を交互に見る。
きっと彼女が思い描く「母親像」はもっと完璧で大きなイメージなのだろう。
だが、本当にそうなのだろうか? と思う。
もう自分もだいぶ昔に捨て去ってしまったが、それでも彼女といる時に思い出した「母」との思い出。
あれは何てことの無い日常の寝る前のひと時だった。
あんな何気ない毎日をふと思い出しては心を揺らす。
「……案外、そんな他愛ないことなんですよ。きっと」
彼女の目をまっすぐ見つめる。
彼女も自分を真摯に見つめ返す。
「――ヨルさん、必ずココアから作りますよね」
「え?」
ヨルさんが最初にこの家に来た日の夜に、アーニャがココアが飲みたいとヨルさんにねだった。彼女は最初にココアを作って、その次に大人たちのコーヒーを入れた。それは今でもそうだ。必ず甘い香りが先にして、次にコーヒーの香りが漂う。この順番が変わることは覚えている限りでは今までない。
まだ熱い物が飲めないアーニャのことを考えて、先にココアを作って自然に冷ましている。
そして、最初の夜から当たり前のようにアーニャの隣に座った。食事の時も、誰もなにも言わなくてもヨルさんとアーニャは必ず隣に座る。
「それは……」
でも……と、彼女はまだ少し懐疑的だ。彼女にしてみたら当たり前すぎることなのだろう。
けれど、自分も実際にはアーニャを引き取っているから、わかる。
ああいう態度は普通、すぐは取れない。
「あなたはずっと、……最初からずっとアーニャの母親でしたよ」
利害でしか選ばなかった人だが、妻がこの人で本当に良かった。
……アーニャと彼女を出逢わせて本当に良かったと。
今だけは、そう……そう、思いたい。
「そうですか……アーニャさん、私ちゃんとお母さんですか?」
ヨルさんが、アーニャに向かってそう聞くと、アーニャはにっこり笑って、「ゲプ」とだけ言った。
「……さっきっから何なんだ、それ」
「なんでもなーい! アーニャへやであそっぶー!」
アーニャはいち早く食べ終えると、ぴょんと椅子から降りてふふーんと変な鼻歌を歌いながらかけていく。
「こら! さっきの復習は!?」
「ちち、ゆうがたでいいっていったー!」
……まったく、ああ言えばこう言う。
呆れながらも、ヨルさんと目があって苦笑し合う。
「さあ、こっちも食べちゃいましょうか」
「そうですね。あ、ロイドさんコーヒーお代わりなさいますか?」
「お願いします」
カップを渡してからバゲットを口に放り込む。
真っ暗に焦げたそれは、いうほど悪くはなかった。
「ちちー、ははー」
部屋に入ったアーニャが、思い出したように首だけをぴょこんと出す。
「そーいえばアーニャ、ベッキーからこゆうときにつかうことばおしえてもらった」
「こういう時ってどういう時です?」
コーヒーを注ぎながら、ヨルさんがアーニャに聞く。
「どうせドラマかなんかだろう」
それを受け取りながら、呆れ声でこちらも反応する。
えーっとね、たしかね、とアーニャは宙をみる。
ちょっとだけ考えて、思い出したのか、こちらを見ながらにかっと笑った。
そして大きく息を吸って、たったひと言。
『どうも、ごちそーさまでした!!』
end.
[お題]ロイドのお話は、「ねえ、秘密の話なんだけど」という台詞で始まり「焦げたトーストは、苦いのにやたら美味しかった」で終わります。
[引用元]https://t.co/fCrXktkwf4







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