2023-11-17

エリカ・ムスターマンの死 04

 市役所の昼休みは正午から十三時までと決まっている。
 一階の市民窓口課はきっちりその時間には全員無人になり、ロビーの電気も消される徹底ぶりだ。
 ヨルがいる課も、ほぼ全ての職員は正午になるとランチをとるために席を立つ。ただ、そうはいっても電話番は必要なため、誰かひとりは休憩時間をずらして課に残る。
 他の課はローテーションで回しているようだが、ヨルがいる課に限っては、その役目はたいていヨルの仕事だった。
 時間になると、まわりは一斉に立上がって当たり前のようにランチに出かける。多くの人はヨルが残ることを前提としていて、確認もせずに出ていく。ひとりだけ、座り続けるヨルにチラッと視線を送る人物がいたが、ヨルは集中していたため気がつかなかった。
「カミラ、はやくー」
 呼ばれたカミラは、「わかってる」と返事をしてから微かに舌打ちをして出ていった。
 誰も居なくなった部屋にタイプライターを打つ音だけが響いていた。
 ヨルは、脇に置いていた下書き原稿を穴が開くくらい見ながらタイプしていく。
 早くしないと十四時からの会議に間に合わない。
 本当はこの書類の提出期限は今日の午前中までだった。一度提出したものの、課長にミスを指摘されて急いで打ち直しているところだ。
 焦らないように、焦らないように。スペルを間違えるとまた最初からやり直しです……。
 打ち間違い程度なら専用の修正液を使ってその部分だけを直せば事足りるが、課長から全部打ち直せと指示された。そのほうが早いとも。そのくらい間違えていたらしい。
 なんとか打ち終えて、手書きの書類と見比べて間違いがないことを確認する。今度は間違えていないようだ。ホッとひと息つく。だが、文書は完成してもこれで終わりではない。これから会議に出席する全員の分を印刷しなくては。
 専用の印刷室に急いで入ると、インクの独特な臭いがした。良かった、誰もいない。印刷室は三階フロアにひとつしかなく、他の課と共用のため、いつも取り合いになる。さっそく蝋引き用紙に打ち終えたばかりの書類を一枚ずつ重ねて感熱機に通していく。こうすると蝋引き用紙側に文字が転写される仕組みだ。ヨルは慣れた手つきで転写された蝋引き用紙を専用の謄写版にセットし、ハンドルをくるくると回す。すると、反対側にセットしてあった白紙に文字が印刷されていく。
 今日の書類は全部で五枚あるので、転写をするのが五枚、会議に出席するのは十五人で、議事録用に一部必要なため、合計十六枚を五回繰り返さなくてはならない。
 転写さえしてしまえば印刷自体はすぐ終わるが、刷り終わったら広い場所でインクを乾かす時間も必要だし、書類の順番を間違わないように綴らなければいけない。それでやっと完成だ。壁にかかった時計をみると、もう十二時四十五分だった。十三時までには印刷室をでないと。ヨルは慎重かつ、迅速に作業を進めた。
 なんとか印刷が終わって、さて乾かす場所を探そうとキョロキョロと部屋を見回すと、ちょうど昼休憩から帰ってきたカミラたちと目が合った。
「ちょっと先輩、会議の資料作りまだやってたんですか⁉」
「あ、カミラさんお帰りなさい。いえ、今から乾かしてセットしたら終わります」
 つかつかとやってきたカミラに成果を見せながら説明する。十四時の会議には間に合うはずだ。ヨルの顔は達成感で満ちていた。
「なにやり切ったみたいな顔してるんですか。先輩お昼まだじゃないですか。いいですよあとは私がやるから。さっさとお昼入っちゃってください」
「あ、で、でも、私がミスして遅くなったのですし……皆さんにお渡しするところまではやりませんと……」
 私でしたら、五日くらい何も食べなくても平気ですし……。
 昔は、ユーリに食事を譲って自分は食べないことなどしょっちゅうだった。空腹を我慢することには自信がある。けれど、それを言うまえにギロリと睨まれた。
「いいから! 倒れられたらこっちが迷惑するんですよ! ほら財布!」
 カミラはヨルの財布を胸元に押し付けて、代わりに書類を引ったくると、早く行けと言わんばかりに急き立てた。あわあわしながら廊下に出てると、カミラはさっさと部屋の中へ入ってしまった。中から「えー! あたしらがやるのぉー⁉」という声だけが聞こえたが、戻ったらまた怒られそうなので、大人しくお昼に向かうことにした。
 ひとりで黙々とする作業は嫌いではないが、いかんせんうっかりなミスが多い。店長は、あなたに最適だからとこの職場を斡旋してくれたが、とてもそうとは思えない。課長には怒られるし、同僚には笑われるか、イラつかせることが多い。挙句の果てにはマクマホン部長からも「あまり悪目立ちをしないよう」と注意を受けた。いつも何かしら同僚をイライラさせているので、本当に向いてないのだろう。
 ぞくぞくと帰ってくる職員たちと反対方面に進みながら、小さなため息をつく。
 こんなに沢山の人間がいるのに、相変わらず自分ひとりだけ方向が違う。
 ずっと気にせず生きてきたのに、最近はそんな些細なことがひどく気になる。
 ――もともと「接客」のカモフラージュのために始めた仕事だ。いつ辞めても良いとさえ思っていたし、正直「接客」だけをしていたほうが体力的にも楽だ。いっそ、本当に辞めてしまおうか……そんな言葉がフッと脳裏をかすめるが、すぐにいやいや! と頭を振る。
 いけませんよヨル、それは逃げです。せっかく店長さんがご紹介くださったのですし、市役所のお仕事だって、お国のためになる立派なお仕事です。
 それに……。
 考えごとをしながら階段を降りようとしたとき、後ろから「フォージャーさん」と声をかけられた。
 エリカだった。
「こんにちは、ムスターマンさん」
 ヨルは、振り返って相手を確認すると、少しだけほっとして表情を崩した。
「今からお昼?」
「はい」
「私もなの。ご一緒していいかしら」
「あ、はい! よろこんで」
 エリカとは、彼女が本庁に来てから何度かランチを一緒にする仲になった。彼女は屈託のない性格のようで、タイミングが合えばこうして気軽に声をかけてくれる。かといって、いつも一緒に行動を強要するようなこともない。付かず離れずといった感じで、それが人づきあいが得意とは言い難いヨルには心地よかった。
 彼女と話していると、ふと既視感が湧き上がる。だが、それが何なのかはわからなかった。そして話しているうちに、そんな感覚は流れて消えていく。
 二人で談笑しながら階段を降りて、職員通用口から外へ出る。途中で入れ替わるように、職場へと戻る男性職員の集団とすれ違った。みんな一様に笑顔のヨルに驚いたような顔をする。中には立ち止まって呆けたような表情で見送る人もいた。ヨルも見られていることは気がついたが、また何かおかしなことをしたかと少しどぎまぎする。インクか何かが付いてしまっているのだろうか。以前も謄写版を使った際に、インクをこぼしてスカートを汚してしまった。どうやっても落ちなくて、結局総務課に謝って新品に取り替えてもらったのだ。もちろん嫌味を言われたし、顛末書も書いた。まだそんな昔の話ではない。
「どうしたの?」
「あの、私、なにか変でしょうか……? インクとかついていませんか?」
「いいえ、どうして?」
「えっと、ちょっと視線を感じまして」
「え? ……やあね」
 エリカはそう言って笑った。だが、笑っているだけで理由は教えてくれなかった。
 外に出ると昼下りの気温がちょうどよくて気持ちがいい。こんな日はフォージャー家のみんなでドッグパークでも行ってのんびりしたい。
 最近になって既婚者たちがしきりに「ピクニックに行きたい」と言う理由がわかった気がした。
 エリカも同じように「こんな日は仕事なんてせずに、一日ビアでも飲んでいたいわ」と言ったので笑ってしまった。みんな一緒だ。
 少し歩いて手近な店に入る。ここは値段も手頃で、市役所の職員の間では定番となっている店だ。そのため場合によっては満席だったり、売り切れたりもする。案の定、店内に入るなり店員からランチは終了したとそっけなく告げられた。店内も閑散としており、店を閉めて早々と休憩に入る前のようだ。ここら辺のお店はランチの混雑がひと息つくと休憩に入る店が多い。
 ヨルが諦めて違う店にしようとエリカを見ると、彼女はすっと前へ出て店員と交渉しだした。
「何か簡単なものでも出来ない? テイクアウトにして公園で食べるから。私たちに作ってから休憩してちょうだいよ。開いてる店をうろうろ探してたら休憩時間が終わってしまうし、遅番でやっとの休憩でお腹がペコペコなの。そんな状態であなたの店にまっすぐ来たよ?」
 決して威圧的でなく、軽口ながらもはっきりとそう言うと、店員は苦笑しながら、軽いサンドウィッチなら作れると言った。
「ありがとう、最高よ! もちろんコーヒーもつけてね。ヨルさんも同じでいいかしら?」
「あ、はい」
「じゃあそれをふたつ。早くね」
 最後に彼女はウィンクまでしてみせた。
 同じ物が二セット出てくると、エリカは代金を払いながらにこやかにお礼を言って店を出た。料理を待っている間にすっかり店員と打ち解けてしまい、店を出る際には店員が店先まで見送ってくれたほどだ。初めて来た店だとエリカは言っていたが、とてもそうは思えなかった。
 ふたりで近くの公園のベンチに座る。ランチが入っている紙袋を開けると、食欲をそそる香りがフワッと立ち昇った。バゲットに白身魚のフライがサンドしてあってとても美味しそうだ。フライは揚げたてのようだった。わざわざ揚げてくれたのか。ヨルひとりだったら絶対にこんなランチはありつけなかっただろう。彼女の交渉術に素直に感謝した。
「あ、お金! 代金お支払いします」
「ううん、いいわ。今日は私が払うわ。次お願いね」
 恐縮するヨルに、エリカはほがらかにそう言って笑った。
 「次」。その言葉に、ヨルはなんとなく面映ゆい気持ちになりながら、「ぜひ」と頷いた。
 ふたりとも、しばらく黙ってサンドを頬張る。白身魚の柔らかさと表面のパリッとした歯ごたえがなんともいえない。香味野菜がたっぷり入ったタルタルソースも絶品だった。これならお魚や野菜が苦手なアーニャさんも好きかもしれない。今度ロイドさんに提案してみよう。
 最近は、ロイドさんとふたりでアーニャさんが率先して食べてくれるレシピをあれこれ探している。ロイドさんの料理はどれも美味しいけれど、アーニャさんはそれでも自分の嫌いなメニューは頑として食べないので、大人達が外で食べて美味しかったメニューを控えて、家で作ってみたりする。
 もっとも、作るのはもっぱらロイドさんだ。ロイドさんは日々頭を悩ませているが、実はそんなことをふたりで話し合う時間がとても楽しい。
「美味しかった。やっぱり中央は安くて美味しいお店が揃ってるわね」
 しばらくして食べ終えたエリカが、コーヒーを飲みながら口を開いた。砂糖もミルクも入れていない。ブラックで飲むタイプのようだ。
「イーデン地区はこういうお店は無いのですか?」
「あるけど、お金持ちの奥様がお茶会するようなお店が多いわ。大衆向けは少ないんじゃないかしら。物価もここよりは高いしね。あそこで働いて得したのは家が近いってことと、静かってことくらいね」
 エリカはなぜだか困ったように微笑んでから「まあ、私みたいな庶民には縁遠いお店ばっかりよ」と付け加えた。
「ヨルさん、お住まいはずっとセントラル地区なの?」
「はい。生まれは南部の方ですが。首都に越してきてからはずっと」
「ああ、セントラル地区に住んでたら、わざわざ他の地区には行かないわよね」
「……そう、ですね。あまり……」
 実際は色々行ってはいる。「接客」の仕事で首都中の様々な場所へ行くし、イーデン地区には高級ホテルも多い。たいていターゲットとなる「売国クソ野郎さん達」はそういう場所にいるからだ。
 なにより、「ガーデン」がイーデン地区の辺りにある。
 といっても、ヨルは実際には「ガーデン」の正確な場所を知らない。
 ガーデン、ヨルにとっては店長がいるあの庭そのものを指すが、あの場所へ行く際は、いつも目隠しをされて車で送迎されていく。そして古い建物の敷地内に入ってから目隠しを外し、そこからさらに地下通路を抜けてやっとあの庭に出る。
 敵に捕まって拷問を受けたとしてもあの場所がバレないようにだと、マクマホンから聞いていた。彼自身はさすがに把握しているようだが、ヨル以外の組織の者もみなそうらしい。まだこの仕事を始めたばかりのころ、「この仕事を長く続ける一番のコツは、余計な詮索をしなことだ」と、彼からそう教えられたので言われた通りずっと守っている。
 詮索したとしても、広大すぎて、垣根や壁などの境界は一切見えないあの場所がどこにあるのかを正確に把握するのは難しい。目立つの特徴はガゼボだが、それだって外部から見えるとは思えない。
 だから確証はない。なんとなく、移動にかかる距離や太陽の位置と高度から、イーデン校の辺りかなと推測しているというだけだ。
 もっともそう思ったのも、アーニャがイーデン校に入学してからだ。試験でイーデン校に行った時に、もしかしたらあの庭の近くかしらと、ふと思っただけだ。
 だから誰にも言っていないし、ましてやエリカに言えるはずもない。なので、そのまま詳しくないふりをした。
「アーニャさ……あ、ぎ、義理の娘なんですが、その入学試験で行ったくらいです」
「ああ、お嬢さんイーデン校だったわね。すごいわ、優秀なのね」
「あ、ありがとうございます」
 ロイドさんとアーニャさんを褒めてもらえるのは素直に嬉しい。思わず顔を綻ばせると、エリカもつられたように笑った。だが、その顔はどこか影が指しているように見えた。
「エリカさんのご自宅はイーデン支所のお近くなんですか?」
「ええ。一応高級住宅街って言われているエリアにあるの。といってもうちは普通の家よ。庭が広いばっかりの古い家。家と職場が近いことが唯一便利なところだったんだけど、本庁からじゃ一時間以上かかるから大変だわ」
 エリカがコーヒーを飲みながら肩をすくめて言った。ヨルもコーヒーにミルクと砂糖を入れてから口をつける。
 出勤に一時間以上もかかるのでは大変だろう。
 首都は放射状に鉄道が通っていて、各方面からセントラル駅に向けて一斉に集まるような構図になっている。その放射網を結ぶようにトラムが円を描いて走ってはいるが、一車両しかない路面電車では焼け石に水で、結局みんないちどセントラル駅に出て乗り換えることが多かった。そのため、通勤時はかなり混み合う。
 ヨルも地下鉄こそ使うが、フォージャー家から市役所までは三十分ほどだ。ロイドが勤める病院も確か同じくらいのはずだ。
 そういえば、フォージャー家からイーデン校も少し距離がある。アーニャはまだ一年生で、授業時間も他の学年よりは過密ではないと聞いたが、スクールバスであちこち寄って一番最後に降りるため、家族の中で帰宅するのはいつもアーニャが一番遅い。
 ロイドさん、なぜもっと学校の近くに住まないのかしらとふと思った。
 スクールバスは自宅前まで送迎してくれるので心配はないが、あの家は賃貸だと言っていたし、ロイドならイーデン校の近くに引っ越しても不思議ではない。
 彼はあの学校へアーニャを入学させることに並々ならぬ熱意を持っていた。なにせ、試験を突破するためだけに自分と偽装結婚までしたのだ。
 それが「よくあること」でないことはヨルにもわかる。
 結婚前にひとり暮らしをしていた家より職場へ近くなったので気にもしていなかったが、ロイドにはあの家を離れられない理由でもあるのだろうか、と考えてからハッとなった。
 ――もしかして、今、私が使わせていただいてるお部屋、お亡くなりになった奥様のお部屋なのでは……。
 あの家自体が奥様との思い出の家ならば離れがたいはずだ。それならば納得がいく。
 と、同時に鳩尾の辺りが急に切なく鳴いた。何故だが、急に胸が重くなって息苦しい。
 甘くしたはずのコーヒーがやけに苦かった。
「――坂が嫌いなの」
 エリカが突然話題を変えたので、思考が中断された。
 彼女を見ると、彼女も思案深く何かを見ていた。
「……坂、ですか?」
 エリカはゆっくりと微笑みながらヨルのほうに向く。
「家が坂を登り切ったところにあってね。毎日、毎日、坂道を登ったり降りたり。正直――あまり好きじゃないのよ」
「坂がですか?」
「そうね――坂もね」
 ヨルの言葉にエリカは曖昧に笑った。
「そうだ、ヨルさん買わない?」
「え? なにをですか?」
「うちの家」
「家⁉」
 驚いて聞き返すと、エリカは悪戯っ子のような顔になる。
「坂上っていったけど、高台だから景色もいいし静かよ。庭もあるし。イーデン校にも近いしね」
「そ、そう言われましても……」
 びっくりして返事に詰まる。なんと答えていいかわからなかった。
 家……。
 エリカが言っているのは戸建てという意味だろうが、自分にはまったく縁の無い言葉だ。
 確かに生まれた家は一軒家だった。父母が亡くなってからもユーリと数年間はそこで暮らしていたが、ユーリが飛び級で大学へ進学することになった時に売ってしまった。
 もっとも、その手続きも「ガーデン」が代行してくれたたため、売買手続きなどさっぱりわからない。ヨルはただ引っ越して、あとから家を売った代金を受け取っただけだ。
 そしてその金もユーリの生活費にと、そっくり彼の口座に送ってもらったため、実際に金額を見たわけでもない。
 だから「家を買う」といわれてもいまひとつピンとこない。
 それに、家に関することなんて自分にはまったく権限はない。
 いま住んでいる家だって、もともとはロイドとアーニャがふたりで住んでいた家だ。自分はそこに同居させてもらっているだけに過ぎない。
 また鳩尾の辺りが重くなった。
「お嬢さん、イーデンなら近いほうが何かと良くない?」
「えぇっと……私の一存では」
「パートナーの方とそういった話はしない?」
「そう、ですね……あまり」
 そもそもそんな関係ではない、と言いそうになって慌てて濁した。
 エリカはそうか……と少し残念そうな顔をした。
「まあ、セントラル地区の方がやっぱり便利ですもんね」
「えぇ、まあ……はい」
 曖昧に笑って誤魔化すと、エリカもそれ以上は踏み込んでこなかったのでホッとなった。
「ああ、でも良いわね。私もできるならもっと自由な場所に住みたいわ」
「でも、お庭があるおうちなんて素敵ではないですか。私の知り合いにもすごく綺麗にお花を咲かせる方がいらして。私はそういったことにさっぱりなので尊敬します」
 ヨルは、店長の顔を思い出す。そう頻繁にいくことは無いが、行くといつも美しい花々が迎えてくれる。
「そうね……庭だけは広いわ。でも私はガーデニング関係はさっぱり。母が最近精を出してはいるけれど。正直、何が面白いのか」
 エリカの言葉に、ふと違和感を覚えた。
「あ、エリカさん、お母さまと暮らしてらっしゃるんですね」
「え? ああ、言ってなかったかしら。そうよ、母とふたり暮らしなの」
 エリカは少し驚いたように笑った。自分よりいくつか年上のようだったので既婚者だとばかり思っていたが、どうやら独身らしい。
「残念ながら機会が無くて……意外だった?」
「えぇ……あ、いえ!」
「ふふ。いいのよ。確かにこの年で独り身はなにかと……ね」
 エリカは声を小さくしながら肩を竦めた。
「あ、あのでも、私も人のことは言えませんので……」
「あら、ヨルさんは素敵な旦那様がいるじゃない」
「えぇ……そう……なんですが……」
 またも本当のことが言えずまごまごとした。
 エリカは簡単に自身のことを話してくれた。
 父親はだいぶ前に亡くなっているが、父の残した家がイーデン地区にあって、そこで母親と二人で暮らしていると言った。
「母が少し厄介な病気でね。年のせいもあるんでしょうけど。ずっと家に引きこもりがちで。……ああ、そうね、やっぱり難しいかな……」
 母をなんとかしなくちゃ引っ越しなんて無理ねと、エリカは独り言のように言ってまたコーヒーに口をつけた。
「でも、イーデン支所の修復が終わったら、また戻られるのではないですか?」
「そうね……どっちが先かしらね」
「何がです?」
「戻るのが先か……」
 エリカはその先を告げる前にふっと口をつぐむ。そしてまたパッと明るい表情になってこちらに顔を向けた。 
「ねえ、私が独身なの意外だった?」
「え? あ、いえ……ええっと……ごめんなさい。少し……」
 ヨルはとっさに肩を竦めた。
「いいのよ。この年だと結婚してるのが普通だしね」
「でも、あの……大丈夫なんですか?」
 なんとなく、先程車が通り過ぎていった方に視線を向けながら聞いた。
「大丈夫って?」
「ええっと、独身の方は……その」
 口に出すのも憚られて、語尾まできちんとは言えない。けれど、エリカにはそれだけで伝わったようだった。
「ああ、そうね。独身女性はいろいろ怪しまれるわよね」
「やっぱり、そうなのですね」
「あら、でもフォージャーさんはそんな心配しなくても大丈夫でしょう? ご主人がお医者様なら世間的に信用もあるでしょうし」
「ああ、えっと……、そうなんです……けど」
 独身女性は「独身」だという、たったそれだけのことで世間から怪しまれる。ひどいと秘密警察の標的になると以前カミラたちが言っていた。
 ヨルも、まさにそれが理由でロイドと偽装結婚したのだ。
 今となってはあの日彼と出会えて、そして勇気を出して自分から結婚の提案をして心から良かったと思っている。
 打算しか無かった自己中心的な提案だったと今でも思う。けれど、アーニャさんも可愛いし、ロイドさんとの偽装関係も想像したよりずっと順調だ。弟に心配をかけさすこともなくなったし、もう心配することも無い。
 けれど、もし、あの時、他に方法があったのなら……。
 もし、当時それを知っていたら、自分はロイドさんに結婚を提案しただろうか。そんな思いが頭をよぎる。
 ――多分……しなかっただろう。
 その考えに、なぜだかずきりと心が痛んだ。
 けれど、今後のこともある。
 考えたくはないが、もし……もし、あのクルーズ船の時のように、自分の仕事のせいで彼らに迷惑がかかるようになった時は……すぐにでもフォージャー家から離れなければならない。
 彼らに迷惑がかかるようなことは絶対してはらない。そのためにも知っておきたいと思った。
 選択肢は……多いにこしたことはない。
 想像しながら、胸や頭が何故か痛む。落ち着かなくて指を交互に組み替えながら、視線が彷徨った。
 エリカは少し眉を寄せたが、「そうね……結局、生まれかしら」と静かに言った。
「生まれ?」
 訝しげな表情のヨルに、少し同情めいた顔になる。
「うちは、もともと亡くなった父が国家保安省の人間なの」
「あぁ……そう、なんですね」
 国家保安省は秘密警察を統括している省だ。いわゆる政府直轄府でかなりの権限を有している。この省に入る人間は主に軍でそれなりに実績があるもの、または推薦や引き抜きでなるのが主だと言われていた。故に、この省に所属していることが、そのまま身分保障になるとも言われている。
 もっとも、知り合いに秘密警察の人などいないので噂に過ぎないが。
「それにイーデン地区に持ち家もあるしね。イーデン地区って、あまり秘密警察がいないって言われているの。監視の対象地区からわざと外されてるって、そう言われている。自分達の身内が多く住んでいるからかもしれないけれど……嫌な言い方だけど、そういう意味では『優遇』されてるエリアなの」
 聞けば、イーデン地区は地区の特性として「それなり」の人間しか居住を許されないのだという。意図的に集合住宅の建築は許されておらず、いわゆる「国が認めた」人間しかいないとのことだった。初めて聞く話だ。てっきり土地や家賃が高いからだと思っていた。
「じゃあ、イーデン地区に住んでいる方は、監視対象から外されるんですか?」
「さすがに全員じゃないわ。でも、地区の中でも山の手……いわゆる高級住宅街辺りの人間はそうじゃないかしら。もっとも、その辺りに住んでいるのはそもそも『あちら側』の人が多いから」
「では、私みたいな田舎出身の人間ではそもそも無理なのですね」
 何となくホッとしてそんな言葉が出た。
「嬉しい?」
「え?」
「いえ、なんか嬉しそうだから」
「え、そ、そうですか⁉」
 嬉しいのだろうか。
 ――よくわからない。
 自分自身の気持ちが一番わからない。
「えっと、そうなんでしょうか?」
「いやね、知らないわよ」
 素直にそう答えると、エリカは声を出して笑った。
「フォージャーさんて面白いわよね」
「ええ⁉ そ、そう、ですか? 普通じゃないとは言われますが」
「普通じゃない?」
 今度はエリカが訝し気な顔をした。言っていいだろうか……少し躊躇しながらおずおずと答える。
「……ええと、皆さんの言動や、おっしゃってることの意味がわからないことがあって……私の行動が……他の方と違っていたりするみたいで」
「ああ、なんだそんなこと。そんなの私だってしょっちゅうよ」
「え、そうなんですか⁉」
「そうね。だから親とはよく衝突したわ……ああ、いえ……今でもかしら」
 エリカはそういうと、自嘲めいた顔をした。その顔が酷く歪んでいた。
「えっと……お母様と、仲がお悪いのですか?」
「どうかしら。でも、そうね、仲がいい悪いとか、それ以前の話かもしれないわね。結局、合わないのよ」
 エリカは、ぐしゃっとコーヒーカップを潰した。あまりに強い眼差しだった。一点だけを見つめているが、何を見ているのかわからなかった。
 先ほどと同じだ。彼女の瞳にどこか既視感のようなものを感じる。
「――気にしなくていいと思うわ」
「え?」
「みんなと同じとか、同じじゃないとか。普通とか普通じゃないとか。そんなこといちいち気にすることないわ……だって、結局」
 途中で彼女の言葉が途切れる。何かを見つけたようだった。彼女の視線を追うと、まっすぐ公園の外を見ていた。その先の道路に一台の車が信号待ちで停まっている。よくある大衆車だが、ガラスが全て黒くなっており、中を伺うことはできない。
 ロゴも何もないが誰でも知っている。秘密警察の車両だ。
 通常、秘密警察は一般的な警察のような警邏業務はないので、あの車両が走っているということは「誰か」が連行されるか、されているという事だ。
 見慣れた光景だが、決して慣れることはないだろうとも思った。
 道行く人々も、控えめにだが車両に視線を送っている。誰も彼も、「いつか」を想像して身震いしている。身に覚えが無くてもだ。
 秘密警察はそんな暗澹とした存在だった。ヨルは、あまり世情に明るくはないが、自身が清廉潔白の身とは言い難いことは自覚している。それに誤解とはいえ、以前彼らに絡まれたこともある。なんとなくうっすらとした居心地の悪さを覚えてそっと視線を外した。
 
「――そろそろ帰りましょうか」
 しばらく視線を送っていたエリカが、思い出したように言った。その声は普段と変わらない。
「はい。あの、本当に代金お支払いしなくて大丈夫ですか?」
「ええ。いいお店とか教えてもらって嬉しいし。ほんのお礼よ」
「ありがとうございます。今度は必ず私がお支払いしますね」
「期待している」
 エリカは笑いながらベンチ近くの公園にゴミを捨てに行った。ヨルも立ち上がって少しだけ伸びをする。ふと見ると、いつの間にか黒い車両も姿を消していた。腕時計を見ると、そろそろ市役所へ帰る時刻た。
 資料はもう出来たでしょうか。きっとカミラさんのことだからそつ無く終わらせているでしょうけど……。ええっと、今日の議事録の記録係はシャロンさんとカミラさんでしたっけ。だとしたら、留守番は私とミリーさん……大変、急がなくちゃ。
 急に午後からの仕事を思い出す。終業まであと2時間程度だ。きちんと仕事をしなければ。そんな風にあれこれ頭の中で考えを巡らせていたので、エリカの様子に気が付かなかった。彼女は黙ったまま、また公園の先の通り過ぎる車を、どこか夢見がちな表情で見ていた。
「エリカさん? どうかしました?」
 呼びかけると、エリカははっとして「ううん」とかぶりを振りながらこちらに来る。にっこりと笑っているが、気もそぞろな様子だった。
「何かありました?」
「ううん、別に」
 そのまま二人で市役所に向けて歩き出す。彼女の様子が少し気になったが、こんな時すら、どういったらいいかわからない。結婚してだいぶ「普通」になったと思っているが、本当にまだまだ世の中は割らないことだらけだ。ヨルは、エリカに気づかれないようにさくため息をついた。
「そうだ……ね、お返しってことなら、ひとつお願いを聞いていただけない?」
 市役所の階段をのぼりながら、エリカが思い出したように言った。
「お願い……ですか?」
 振り返って首を傾げたヨルに、エリカはまた笑う。その顔は、先ほど見たどこかいびつな形だ。 
「ええ……簡単なことよ」
 
 ――その表情を見て、唐突にヨルの頭にある人物の顔が浮かぶ。

 その顔は、奇妙なほど自分の夫に似ていた。

 
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