「ぶぇーっくしょいっ!」
冬の寒空に豪快なくしゃみが響く。あまりに大きいので、周りの人間が何事かと振り返ったほどだ。千秋はその人達に「すみません」と軽く頭を下げると、声の主を自分の方に引き寄せる。
「お前なぁ、くしゃみするときは口くらい押さえろよ」
ポケットから携帯用ティッシュを取り出し、ため息をつきながら差し出す。
「だって、へんぱい、ここ寒いんれすもん」
のだめは赤い鼻をしながらティッシュを受け取ると、鼻をずるずるいわせながら文句を言う。
「外でカウントダウンしたいって言ったのお前だろうが!」
「そうですけどぉ~……っくっしょっ!!」
のだめは鼻声で情け無い声を出す。
まったく勝手なヤツだ、千秋はぶつぶつ独りごちながら首に巻いたマフラーを深く引き寄せる。
「大体、何だってこんな寒空に外に出なきゃいけないんだ」
「だって、ニューイヤーですヨ? ニューイヤーっていえば、みんなでカウントダウンしてお酒飲んでフィーバーするのが決まりデスよ? 」
「大声出すな! それにフィーバーって死語!」
千秋は、のだめの頭をぴしゃりと叩いた。
まったく。自分の立場が分かってるのかこいつは。
……わかって無いらしいのだめは、「だってぇ~」とまた唇を尖らせた。
今年最後の夜。
もうそろそろ日付が変わる時刻だ。おそらく気温は零度に近い。
だが、そんなことにはお構い無しとばかりに、街は人で溢れていた。
年明けをこの寒空のしたで過ごそうという、奇特なお祭り好きのフランス人が繰り出しているのだ。
フランスでの年越しといえばエッフェル塔のカウントダウン花火などが有名だが、それ以外にもいたるところで花火が上がる。ふたりがいる公園も、隣接する教会の敷地内で花火が上がるとあって、近くのアパルトマンに住む住人たちでごった返していた。また、付近のレストランもこの日ばかりはかきいれ時と店を夜半まで開け、寒さに耐え切れなくなった住人たちを快く店に促している。
いつもの閑散とした静かな雰囲気とはうって変わって、酒が入って陽気になった赤ら顔の人たちが大挙して集まり、勝手気ままな歌を歌って盛り上がっている。
既に泥酔状態の人間もチラホラいるようだ。
それが悪いことでは無いけれど……。
だが、本当ならこんなところで夜明かしなど身体に悪いに決まっている。特に今朝まで熱を出して寝込んでいた人間ならばなおのことだ。
のだめは数日前から発熱してずっと寝込んでいた。冬だというのに薄いワンピース一枚でフラフラしているのだから自業自得といえばそれまでなのだが、それ以外にも理由があった。
……暖房をつけるのも忘れてピアノに没頭していたのだ。
原因は、コンセルヴァトワールでの年内最後の授業で教師に言われた一言だという。
『あなたは片想いで満足なんでショ? 』
それを聞いたのはフランクとターニャから。のだめはそのことには一切触れなかった。
――だが、嘘ではないのだろう。その証拠に、クリスマス休暇に入ってからも、のだめは寝食を忘れてピアノに向かい続けたのだから。
……その教師は事実を伝えたのだと思う。
事実は、時に残酷な刃物になる。のだめは今までずっと、ただ自分が楽しいという理由だけでピアノの前に座っていたのだから……。
確かに、パリに来てのだめのピアノに対する気持ちには変化が見られる。だが、それはまだきちんとした形にならずにモヤモヤと宙を舞っていて、ともすると淡雪のように他人の熱で儚く消えてしまう。
『あなたはピアノから好かれようとしていない』
一方通行の想いだけで満足していたのだめにとって、その言葉はどんなに響いたことだろう。
それが分かっているから……自分にもその想いがあったからこそ、千秋はその言葉を払拭しようと躍起になっているのだめを止められず、連日連夜隣から聞こえてくる音に、ただ耳を澄ました。
その音が急にピタリと止んだのが一昨日の夜。はっとして扉を開けると、鍵盤に突っ伏して倒れているのだめが目に飛び込んできた。
……のだめはピアノに熱中するあまり、暖房もつけずに弾き続けていたのだ。
白い息が目の前で綿菓子を作る。
さすがに夜中になるとぐっと冷え込む。エルメネジルド・ゼニアのコートと、いつもはしない揃いのマフラーでもこの冷気は抑えられなかった。
思わず身を縮こまらせてポケットの中に手を入れる。
――指先にクシャリと紙が当たった。
のだめは風邪など忘れたかのように、公園の人だかりに興奮している。
「……年明けたらすぐ帰るからな」
「ええー、だってカウントダウン終わったらここでシャンパンが配られるってターニャが言ってたんですよ? 先輩お酒好きでしょ!? しかもタダですよ、タダ!」
「何がシャンパンだ! だいたい、お前まだ熱あんだろーがっ!」
「もう、下がりました!」
「嘘つけ!」
……まだある。絶対。
ふーんと尖らせる唇に色が無い。そして反対に頬は火照っている。
「そんなんでま悪化したらどうするつもりだ、休み明けにすぐ試験だろ? 」
「……ですけどぉ……」
それからのだめはむっつりと黙り込む。教師の言葉を思い出したのだろうか。
「こじらせて試験に響いたらどうすんだよ」
「だって、せっかく先輩と一緒に年越しなんですもん、楽しみたいじゃないデスか。去年はできなかったし、今年は世界のあちこちで浮気しちゃうし……」
「してねぇ!」
今度は自分の声で周りの人間が振り返った。千秋は慌てて声のトーンを落した。
「ふーん……? 」
のだめは疑わしそうにじろっと上目遣いで睨む。やけに強いその視線に、身に覚えも無いのに何故かしどろもどろになってしまう。
「してねぇって……」
「もういいデスよ」
「何がいいんだコラ」
「いいんデスよ、先輩は忙しいですもんね。先輩にとってのだめはオマケみたいなもんですし」
どうやら、この一年ずっと公演などで留守がちにしていたのを怒っているらしい。のだめはそう言うと振り返りもせずスタスタと公園中央の並木道を目指して歩いていく。言葉と態度がまったく逆だ。置いていかれた千秋は、心で舌打ちした。
たまに、のだめのこういう態度に戸惑ってしまう。
元々があまりに変態なために、それだけがクローズアップされて、思いがけず普通の女の子がするような言動をとられるとつい戸惑ってしまうのだ。
……オマケごときのために予定を棒に振ってまで看病するかっての……。
ポケットの中の紙を所在なさげに握り締める。音こそ聞こえなかったが、またクシャリと潰れる鈍い感触が指先に残った。
振り返らないのだめの後ろ姿を途方に暮れたように見つめる。何故か歯がゆさがイライラと積もっていった。
と、いつもと違う服装が目に留まった。
「おまえ、マフラーどうしたんだ? 」
いつも首に巻いているストライプのマフラーをしていなかった。のだめはやっと振り返ってあー……と目を泳がせた。
「カフェでコーヒーこぼしちゃって。ターニャがクリーニング出してくれたんデスけど、取りに行ったら休みになっちゃってて」
「ばっか……」
日本じゃないのだ。ヨーロッパの店が大晦日までやっていると思ったら大間違いだ。パリに来てもうすぐ一年になるというのに、相変わらずヌけている。
だが、千秋はそんなのだめにどこか安堵する。
千秋は自分がかけていたマフラーをフワリとのだめの首にかけてやる。
「先輩? 先輩が寒いですよ? 」
のだめは驚いて見上げる。
「いいんだ」
「……へへ、あったかいデスね」
のだめは、少し大きめなマフラーを嬉しそうに引き寄せる。どうやら機嫌は直ったらしい。その表情に、どこかホッとした。
そのままゆっくりと並んで歩き出す。公園の中心部には並木道が長く延びていて。その先の広場に小さな教会が建っている。周りの人々はそこへ向かってぞろぞろと歩いていた。千秋たちも人波にならってその方面を目指す。どうやらそこの前庭で年明けのシャンパンが振舞われるらしい。空に向かって広がるライトによって浮かび上がった教会に、人々の笑い声が溢れていた。
「先輩、今度のミルヒーの演奏会っていつからでしたっけ」
歩いている途中、のだめが思い出したようにそう聞いた。
「……明後日」
「ふーん……」
もう何度も答えているはずなのに、知らないフリなのか。千秋も何気ない素振りで答えた。
「今度はどのくらい? 」
「――たぶん、四ヶ月くらい」
返事は無かった。
しばらく沈黙が流れる。
公園に規則正しく植えられた街路樹。
葉を落としきったその幹に、蒼い電球が無数に巻きついて星のようだ。冷たい外気に晒されて、その色が一段と色鮮やかに飛び込んでくる。
辺りは段々人ごみが激しくなった。賑やかなはずなのに、千秋には聞こえる音といえば自分とのだめの白い呼吸だけ。
「先輩、寒い」
沈黙を破ったのはのだめのほうだった。
「じゃあ帰る? 」
「ヤです」
「……」
喧騒が一段と大きくなって、既にあたりは人ごみでごった返している。教会の中央には急ごしらえのステージのようなものがあり、その上で酔っ払った男たちが陽気に歌っていた。
あまりその近くまで行きたくなくて、のだめの腕を軽く引っ張って近くの街路樹の下に立つ。電飾がからまった幹に身体を預けて、並んで立つのだめの顔をチラリと覗く。のだめは黙っていつもと違うマフラーを口元に当てていた。
のだめは静かだった。
少し節目がちなその視線の先に何を見ているのか。はっきりとは言え無いが、自分と同じもののような気がした。
「先輩、のだめと先輩はこうやってずっと一緒に年越せるといいデスね」
「え……? 」
ワァァァ!と教会の前で歓声が上がる。どうやらカウントダウンの準備が始まったらしい。誰が持ってきたのだろうか、ステージにはよく競技場で見る大きなデジタル時計が「4:58、57...」と刻一刻とその時を刻んでいた。そして、その喧騒を上回るように一回、心臓がドクンと叩く。
のだめとは振り返るといつもそばにいて。それが当然なのだといつの間にか思っていた。
12ヶ月前、決してそうではないと思い知らされたのに……。
だが、肯定の言葉が上手く口に出来ない。何かが……上手く表現できない何かがその言葉を阻んでいた。
千秋は、ただ黙って前を見つめる。
均等に並んだ街路樹には、何組ものカップルが身を寄せ合っていて。恋人たちが愛しそうに指を絡ませて、男のコートのポケットに手を入れていた。手にいれるのは簡単に出来そうなその光景。だが、そうなってしまうことをどこかで惜しんでいる自分がいる。安易にその言葉を囁けば、今まで築き上げてものが壊れてしまいそうな……。そんな危うさが、自分とのだめにはあった。
「先輩、のだめ達もアレしましょうよ」
「え? 」
先ほどの言葉など忘れたように、のだめが間の前の恋人たちを指差して、問答無用で千秋のコートのポケットに手を入れようとした。
「だ、ダメだ、ふざけんなっ!」
「いいじゃないデスかっ! 恋人同士なんデスし!」
「誰が恋人だ!」
千秋は咄嗟にポケットを引き寄せてのだめを拒絶する。
結果は違えど、同じことを考えているのだから参ってしまう。だが、千秋にはそうされたくないもうひとつの理由があった。
手のひらには、握り締めてくしゃくしゃになった二枚のチケット。
オペラ座で毎年開かれる大晦日の特別公演。ほとんど入手困難なそのチケットを何とか手に入れたのは数週間前のこと。それから、年越しまでシュトレーゼマンの面倒を見させようとたくらむエリーゼとオリバーを振り切って、何とか休みを確保した。いつもはうるさいあのジジイが「年末はいらない」と言ってくれたのも幸いしたが、どうやら彼には見透かされていたようだ。最後に会ったときに「のだめちゃんによろしくネ」とにやりと笑われた。
……今度会うときが恐ろしい……。
だが、そんな思いをしてまで手に入れた休みを丸々全てのだめの看病に使われたのだった。今は用無しになってしまったチケットだが、何となく捨てられずにポケットに入れっぱなしになっている。それをのだめに伝えたくなくて、必至に抵抗する。
強固に拒まれたのだめは、またぷっくりと頬を膨らませた。
「ケチ」
「うるさい」
「ケーチ、真一君のケーッチ!」
「なんだと!? お前オレがどんだけ……」
ドレダケ――……
そのとき、パパーン、パーンと、冬の空に大きな音が響き渡った。
「うっひゃーぁ! 先輩見てみて!」
のだめが歓声を上げながら夜空を指差す。
赤、黄、緑、蒼。
天空に色とりどりの光が溢れて、まるで万華鏡のようだ。
この時を待ちわびていた人々が、「Bonne annee!」「Bonne annee!」と一斉に声を掛け合い喜びあった。
年が明けたのだ。
辺りは一斉にお祭り騒ぎとなり、クラッカーや電飾が今や盛りと花を咲かせる。教会の中央部でポーンポーンとコルクの抜ける軽快な音が響いた。
「――ぱい!」
「あー? 聞こえねぇ!」
周りはかつて無いほどの喧騒に包まれて、のだめの声がよく聞こえない。
「こ と し も! よろしくお願いしますー!!」
のだめはぴょんぴょ飛び跳ねながら、夜空の咲く花のように笑った。
「――」
「えー? 何ですかぁ? 」
「……もういい」
「ええーっ!? 何ですか、聞こえなかったんデスってば!」
「いいって!」
千秋は背伸びして覗き込むのだめをうるさそうに追い払う。
「あ、ほら、シャンパン配り始めた、行くぞ」
「もう! いつもそやってゴマかすんですから!」
「……置いてくぞ」
「ぎゃぼーっ! 待ってくダサいよー!!」
「痛いって」
のだめが慌てて千秋の腕にしがみついて必至にすがる。千秋は笑って手を差し出した。
絡まったのだめの指は暖かくて。
永遠とは言わないが、それに近いくらいこの一瞬が続くことを、何かに願わずにはいられなかった。
こちらこそ、
ずっと よろしく。
end.







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