2023-11-21

SCORE -スコア-

 ドスドスドス!
 螺旋階段の床板が重い、重いと悲鳴を上げる。疲れている上にこの荷物、おまけに外は結構な量の雨とくれば、泣言を言いたくなるもの無理は無い。
 だが、悲鳴を上げたいのはむしろこっちだ。
 苦手な飛行機で何とか帰ってきたと思えばこの仕打ち。
 あのヤロウっ!
 ムカムカしながら一気に階段を駆け上がる。足の先は真っ直ぐに自分の部屋に向かっていた。
 いや、正しくは一人暮らしの自分の部屋から聞こえてくる見事な調べに。
「……やっぱりいるんじゃねぇかっ」
 やや乱暴にノブを回して部屋に入る。
 アパートの近くまで来たところで、ピアノの音が聞こえたから間違いないと思った。
 音大生がたくさんいるこのアパートではいつも誰かしらが弾いてはいるのだが、こいつの音色をオレが間違えるわけが無い。
 けれど、同時に少し腹が立った。
 人の部屋でのんきにピアノを弾いている姿を想像して、少し。
 だが、のだめは驚いた表情をしながらもぱぁっと明るくのんきな笑顔を向けた。
「ほえ? あれー、お帰んなさい早いデスね」
「……早くねぇ、予定通りだ」
 どさっと荷物を下ろしてからまず煙草に火をつける。
 イライラしているのを悟られたくなかった。
「だって帰ってくるの二十六日って言ってたじゃないデスか」
「二十六じゃねぇ、二十五だ」
「あれ? そでした?」
 のだめはきょとんとした顔をしながらも、悪びれた様子も見せずヘラヘラと笑った。
 ……ったく!
 毎度のことだが、こういう扱いが一番イラっとくる。
 指折り数えて待ってろとは言わないが、曲がりなりにもえーと、……あれだ、うん。だから帰国日くらいは覚えていて欲しかった。
「だいたいなぁ、いつも言ってるが電話くらい出ろよ、かけても全然出ねぇじゃねぇか」
 スーツケースを開きながら洗濯物と楽譜を取り出しながらブツブツと文句を言う。
「だって最近ガコが忙しいんですもん。室内楽もまだまだ全然合わないし」
 のだめは楽譜を受け取りながら悪びれもせず答える。だが、顔は難しい表情だ。六月の試験で黒木君たちと室内楽の合奏をするらしい。それがなかなか上手いこといかないのだと、旅に出る前に愚痴っていたのを思い出した。
「なんだよ、まだつまってんのか?」
 確か練習を始めてからだいぶ経っていたはずだが。
「だって……そんなすぐピタリとは合いませんよ、のだめと先輩じゃないんデスから」
 のだめは憮然と言い訳をする。
「…………ふーん…………」
 いかん、ここで笑っては。
 コホンと咳払いで平静を装う。だがこういう時だけ目ざといのだめは、にやっと不適な笑顔を向けて、側にあった自分の楽譜を突き出した。
「せ・ん・ぱーい」
「……な、なんだよ……」
「このページのね、解釈がね」
「知らねぇよ、黒木君に聞けばいいだろ」
「またまたぁ、男の嫉妬はみっともなかデスよ先輩」
「嫉妬なんかしてねぇ! 放せっ」
 確かに部屋に入る前は嫉妬と、加えて拗ねてもいたのだ。それがのだめの一言であっさり機嫌が治ったなど認めたくは無かった。
 絡みつくのだめの腕を邪険に払う。その拍子にスーツケースにけつまずいて、のだめが手に持っていた楽譜がばさりと床に散らばった。
「あーあ」
「あーあじゃねぇよ、拾えってもうっ」
 落ちた拍子にのだめと千秋の楽譜がごちゃ混ぜになる。楽譜に挟んでいたメモ用紙もソファの下にヒラヒラと入り込んでまった。楽譜の余白が足りなくて家に帰ってからきちんと書き込もうと思っていたメモだ。
 今回もメモだけは大量に使った。だが、その量と結果が比例しているのかというとそうでもない。
 新しいオケは思ったよりも難物で、なかなか思うようにいかなかった。けれどここで諦めるわけにはいかない。取りあえず自分だけは勉強を怠ることはしたくなかった。この大量のメモたちはその決意のようなものだ。
 大事なものなのに……。
 ブツブツと文句を言いながらひょいとソファの下を覗くと、見慣れない冊子が落ちていた。なんだろうとずるずると引っ張り出すと、出てきたのは一冊の楽譜。まだ新しいであろうその楽譜は、あまり誇りも被っていなかった。見たことのある表紙だが、手に持った感覚が自分のものではないと語る。
「これ……」
「あ、それっ」
 中を見る前にのだめがパッと奪い取る。
「ダメですっ、これはのだめのデスからっ!」
「え……?」
 のだめが珍しく頬を染めながら必死に隠す。
「おまえのって……それ総譜じゃねぇか」
 指揮者用の総譜。確かにピアノ部分も書かれてはいるが、普通ピアノを弾くだけならそんなものは必要ないはずだった。
 楽譜のタイトルはラフマニノフの<ピアノ協奏曲第3番ニ短調>。
 去年千秋も指揮したことのある曲だ。
 脳裏に去年の映像がフラッシュバックのように蘇る。
 指揮棒を降る左後ろには大きなグランド・ピアノ。奏者は若い頃から天才と名高い孫Rui。
 あれは確か、シュトレーゼマンの代わりに立ったコンサートの……。
「――はぁん」
「…………な、なんなっ!?」
 のだめはうろたえると大川弁が丸出しになる。
「いや、別にぃ?」
 ガラにも無く表情筋が活発になるのが自分でも抑えられない、正比例するようにのだめはフイッとそっぽを向いた。
 わずかに頬が赤くなっているのが見て取れる。
「――なんだよ、そんなに悔しかったのか?」
「…………」
 からかい半分の千秋の口調に、のだめは無言できゅっと唇を噛んだ。それだけでどれだけ悔しかったのかは充分に伝わった。
 あー……。
 ぽりぽりと頬をかきながらも悪い気はしない。だが、実はのだめはこういう風にからかわれるのが一番嫌いなのだ。長年の付き合いだからそれはわかる。それに、千秋の指揮でピアノ協奏曲をやるのは自分だと言い張っていたのに差し置いてしまったのだ。仕事とはいえ少し罪悪感もあった。
「…………ごめんな」
「――別に、謝ることなかデスよ……」
「うん……でも、ごめん……」
 ポンポンと軽く頭を撫でると、のだめはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと肩の力を抜いた。
「――また機会はあるさ」
「うん……」
 コクリと頷いたのだめは、とても殊勝だ。
 いつもこうなら文句無いんだが――。
 やれやれと少し楽しげなため息をつきながら、千秋はのだめの肩をそっと引き寄せた。
 まるで本物の……えーと、あれだ、うん。
 シトシトと降る雨の音が、音楽のように聞こえてくる。それはとても静かな空間で、千秋の心をも落ち着かせる。
 先ほどまでのイライラした気分はどこへやら。
 こいつといると振り回されることも多いが、こうやって自分が一番落ち着くのものだめの側なのだ。
 ふぅっと満足気なため息をついてから、ついでとばかりにクイッとのだめの顎に手をかける。が、次の瞬間、のだめに襟首を掴まれて、その試みは失敗に終わった。
「先輩、連弾しましょう連弾!」
 パァッと明るく言い放つのだめに、千秋は素っ頓狂な声を出す。
「はぁっ?今から!?」
「いいじゃないデスか、学際の時みたいに先輩オケの部分弾いてくだサイよ、それで許してあげマス」
「何を偉そうに……」
 それよりこの宙に浮いたオレ様の手をどうしてくれる……だが、まあそれも悪くない。何よりのだめの機嫌が直っているし。
「でもこには連弾用のピアノなんかねぇぞ」
「ガコに腐るほどありマスよ」
「オレは部外者だっ!」
「わかりゃしませんって」
 のだめは「ねっ!」とねだるような視線で千秋に擦り寄る。
 この雨の中を、しかも旅から帰ったばかりの人間捕まえて、なんて勝手な女…………。
 千秋は軽い眩暈にも似た感覚に襲われる。
 けれど。
「――よしっ、そんじゃ行くか」
「え、ホントに!?」
 のだめが逆に驚いた顔をする。
「おまえ、弾きたいんだろ?」
「デスけど……」
 無視されるか殴られると思っていたのだろうか、いつもより積極的な千秋にのだめは少し戸惑っているようだ。
「ま、オレもラフマはもう一度勉強してみたかったし」
「…………ふうん、じゃ、一応楽譜も持ってきますね」
 のだめは少し首をかしげながらも愛用のカバンに自分の総譜を詰め始めた。
「あ、オレの総譜なら書き込みが――…………」
「?先輩?」
 言いかけたまま黙り込んでしまった千秋の前で、のだめは不思議そうにヒラヒラと手を上下に振った。
「あ……ああ、悪りぃ、何でもない」
「疲れてるんじゃないデスか?のだめはまたでもいいデスよ」
 さすがののだめも少し心配そうに覗き込む。
「……らしくねぇ……」
 プッと吹きだすと、のだめはムキーっ!と髪を逆立てて怒り出した。
「のだめだって真一くんの心配くらいしますよっ!」
「はいはい、ごめんごめん」
 ポンポンと背中を押して宥めながら扉に誘導すると、床に散らばったままの楽譜がカサリと足に絡まった。
「あれ、これって先輩の?」
 のだめは床に散らばった楽譜の中から、千秋のラフマの三番を見つけて手に取る。その楽譜のどのページにもこれ以上書ききれないというほどの書き込みがしてあった。
「ふぉー、すごい書き込みがびっしり」
「――じじいの代役で急にやらされた曲だからな。時間も無くて、あんまり書き込んでねぇけどな」
 本当に急遽決まったのだ。勉強はしていたものの、自分の中では納得っていなかった。
 いつかもう一度演奏したいと思っていた曲だ。
「じゃあこの楽譜で弾きましょうよ。これで孫Ruiとやったんでしょ」
「ん?…………んー、いやいい」
 千秋はしばらく考えていたが、軽く首を振ると自分の総譜をソファに投げた。孫Ruiに拘っているのだめは不満気だ。
「なんで?」
「これは……いいんだ。おまえはおまえの演奏をすればいいんだからさ」
 真っ白な楽譜を手にしたときのあの鼓動。
 その感情を言葉で表すならば、「期待」とでも言えばいいのか。
 自分の軌跡を示す書き込まれた楽譜は何よりの宝だ。
 だが初めての楽譜を手にしたときの、あのワクワクした感情。
 その気持ちをのだめにも感じて欲しかった。
 それは何よりもかけがえなく尊いもの。
「おら、置いてくぞ!」
 頭を軽くはたいて、するりとのだめが手にしていたカバンを肩に背負う。
「??? 今日の先輩、ヘン」
 のだめの訝しげな顔に、だが何も言わずに笑顔で返す。
 ……手の中には真っ白な楽譜。
 こいつと弾くラフマニノフはどんな曲になるだろう。
 きっと孫Ruiも、シュトレーゼマンでさえ経験したことの無い素晴らしい曲になるだろう。
「いいか、せっかくだから自分で思いついたこととか感じたことをこの楽譜に書き込んでけよ」
「え?ヤです、だってその楽譜先輩の誕生日プレゼントを削って買った楽譜なんデスヨ」
「――なんだとっ!?」
 どうりでプレゼントがショボかったはずだ。
「いいじゃないデスか、先輩ぼっちゃんでショ?」
 のだめはあははと笑いながら螺旋階段を駆け下りる。
「そういう問題じゃねぇだろっ!大体おまえはなぁっ!」
 トン、トントン……。
 のだめを追いかけて踏み鳴らす螺旋階段が、軽く優しい音を立てる。
 全ての期待をこの真っ白な楽譜に詰めて。
 それは、これから訪れるであろう可能性を暗示していた。

end.

 

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