2025-12-21

エリカ・ムスターマンの死 14

『おっまえこのヤロ! ひとに調査を急ぎで頼んでおいて取りに来ねえってのはどういうことだ!』
 キンキンと響く罵声が公衆ボックスのガラスを震わせた。
 ロイドは思わず受話器を耳から離すと、隣のボックスにいた男が怪訝そうな顔をする。
 そちらへ取り繕った笑顔を見せながら背を向けた。
「仕方ないだろう、いろいろあったんだ」
『知るかっての! 言っとくが、調査対象が死んじまったからって料金はビタ一文まけねーからな!』
 電話した理由も、エリカのこともまだ話をしていないのに何の用で電話したのかを把握している。さすがは情報屋だ。
「分かってるなら話は早い。すまないが、その調査対象について分かったことを教えてくれ」
『電話で? こっち来ねぇのかよ?』
「今は……少しまずい」
 チラリと慎重に辺りを伺った。ガラス越しに、通りを歩く人が大勢見える。こちらに注意を向けている人物はいなかった。まだ午前八時を過ぎたところだ。多くの人は、勤務先に向かって無言で歩いて行く。
 本来なら出勤途中に立ち寄って書類を受け取るべきだが、昨日の今日だ。秘密警察と接触した直後に、情報屋のもとへ赴く気にはなれなかった。
 フランキーもそれ以上踏み込んでは来なかった。受話器の向こう側で書類を引き寄せる音が聞こえる。
『で? なにを知りたいって?』
「そうだな、まず基本的なこと」
『エリカ・ムスターマン。市役所勤めの三十歳。独身。実家住まい。以上』
「いや、経歴はいい。他の」
『勤続十四年』
「ふざけて――」
『ねえよ。それしかねえの』
「趣味とか、交友関係とか。あるだろう、少しは」
『だから無いんだって』
「まったく?」
『まったく』
 フランキーが、指を折るような声の調子で続ける。
『親しい友人はいない、会社の飲み会にも参加しない。休みの日も出歩かない。目撃されんのは朝の通勤と退勤の姿。あとはたまーに近所の食料品店で買い物している姿くらい』
 脳裏に、生前会った女性が毎日同じ行動を繰り返すイメージが浮かんだ。まるで昔の喜劇王の映画のようだ。周りは変化していくが、彼女だけはずっと同じ動作を繰り返す。「彼女なら」そう違和感はない。
 だが、一方でその解釈を制する――職業的な――アラームが響いた。
 あまりにも均質すぎる。まるで何者かが意図的に「普通の人間」を演じさせていたような……生活の痕跡はあるのに、人間の輪郭だけが抜け落ちている。
「本当に何もないのか。移民てわけじゃないんだろう?」
『そりゃまあ、父親が政府系のいいとこまでいってるしな。母親の家系も元貴族らしいし、世が世ならってやつだな。けど、本人の情報がまったく。遊びに行った形跡もなけりゃ、誰かと会っていた記録もねぇ。写真も、艶っぽい噂話もなし――お前みたいだな』
 情報屋の最後の言葉に、知らずに唇を引き結んだ。
 もう一度、あの喫茶店で会ったエリカの顔を思い出す。確かに社交的ではなさそうだったが、そこまで人嫌いという印象も受けなかった。
 何か見落としが?
 情報がないという情報。それ自体が異常だった。
 意図――誰が? エリカが? いったい何のために。
『ただな』
 フランキーの声が一拍おいて落ち着いた。
『職場での評判はむしろ“悪くない”んだ。地味かと思いきや意外と華があったらしい。人間関係も卒なくやってたようだ。けっこう男たちから誘われたらしいが、母親の看病があるからってえ理由で断ってたらしい。もったいないねぇ』
 脳裏に、また、昨日の雨の葬儀が浮かんだ。その母親も一緒に死んでいる。これは新聞にも載っていたから間違いない。父親が死んでから母娘ふたり暮らしだったと書いてあった。
 そういえば、あの日も、母親から薬をもらうよう頼まれたと言っていた。
 一見すると、慎ましく暮らしていた親子を襲った悲劇でしかないが……。
「父親は? 秘密警察に所属していたらしいが」
『オイデン・ムスターマン。秘密警察の副長官だった男だな。十五年前に死んでる。が、こっちは娘よりは情報があるな』
 フランキーは、電話口の向こうで鼻を鳴らした。先日まで生きていた人間より遙か昔に死んだ男のほうがまだ「情報」としては価値があるとでもいうような口調だ。
「死因は?」
『交通事故。ま、本当はどうだかわからねーけどな』
「疑問が?」
『知らねーよ。父親をメインに調べたわけじゃねーし。ただ、秘密警察のナンバー2といや、恨みを買うことも山ほどあるんじゃねえの。あの頃は軍の上層部だのなんだの、ころっころ変わってたんだよ。暗殺だの更迭だのってさ』
「なにがあってもおかしくはない、か」
 受話器を持ったまましばし考える。
 今日の午後に昨日の秘密警察の男と会う約束になっていた。
 ユーリの上司の男は、よりにもよってヨルさんに話を聞きたいといいだした。単なる確認とのことだったが、万が一にもフォージャー家が仮初めの家族だと疑われるのも都合が悪い。そう思って、ヨルさんの代わりに自分が応対するとしゃしゃり出てしまったが。
 エリカの死因は失火の事故ということになっているはずだ。何か不審なことがあったとしてもそれは一般の警察の仕事だろう。にも関わらず、秘密警察が出張っている理由はなんなのだろう。
 依然として彼の目的が分からないのがもどかしかった。
「父親が死んでからは?」
『すぐに職業訓練校に通いながら市役所で働き出したらしい』
「職業訓練校? 高等学校には進まなかったのか」
 この国では、十五歳まで義務教育を受けたのち、大学や高等学校を目指すコースと、職業訓練校に通いながら就職をするコースに分かれる。
 イーデン校のような、初等部から高等部までの一貫教育校はかなり珍しいのだ。
 エリカの年齢が三十だとすると、父親が亡くなったのは十五年前。だとすると、十五か十六だったはずだ。就職する年齢としてはおかしくないが、最近は労働者階級でも高等学校に進む者が増えてきている。秘密警察の副長官まで務めた男の娘の進路にしては少し違和感があった。
「母親は働きに出なかったのか?」
 十五、六になったばかりの娘がひとりで一家を支えるものだろうか。なくはないだろうが、彼女の経歴から考えると少し妙だ。理由があるならまだしも。
「近所の住民の話だと、母親は夫を亡くしてからすっかり引きこもるようになっちまったらしい。それまでは社交も頻繁にしてたのが、ぱったり顔を見せなくなったんだと」
 そういえば、葬儀の際にそんな噂話を聞いた気がする。
 社会的地位のある夫の死亡で生活が一変することも、精神的なバランスを失うことも珍しい話ではない。
 だが、本当にそれだけだろうか。
 失火、というのも気にかかる。
 昨日の葬儀で会った市役所の男の言葉を思い出す。
『いま、あの地区は無法地帯といっていい――』
 男はそう言っていた。
 イーデン支所の火災で、地区住民の記録が失われた。
 そしてその直後、住民票を管理していた女が、同じく火事で命を落とした。
 偶然にしては、あまりに出来すぎている。
 何かはまだ掴めない。だが何かがある――そう感じざるを得なかった。
 エリカ・ムスターマンの死について、もう少し深く掘り下げる必要がある。
 秘密警察の男との面会は午後二時。やることは山積みだ。
 スケジュールをざっと頭の中で組み立てていると、受話器の向こうで、フランキーが思い出したように声を上げた。 
『ああ、それとその母親なんだが――』
 だがその時、コンコンとボックスを叩かれた。いつの間にか外には電話の順番を待っている人が数人並んでいた。一番先頭の老婦人がこちらを睨んでいる。
「すまん、また連絡する」
『あ、おい!』
 フランキーの呼び止める声を残して受話器を置いて外に出た。老婦人に決まり悪そうに会釈すると、じろりと睨まれたがそれ以上は言われなかった。離れ際に再度視線をそちらに送るが、老婦人はボックスでなにやら大声で話し始めていてこちらを見向きもしない。その後ろに並んでいる人たちも下を向いてじっと自分の番を待っている。
 少なくとも、今この瞬間に敵の目が潜んでいるようには見えなかった。
 背中に朝の日差しを感じながら、ひとつ深く息をつく。今は出勤途中だ。いたずらに警戒するのも不自然だろう。
 ロイドは帽子を目深にかぶり直すと、大人しく「職場」へと歩き出した。

 

 

「おはようございます。フォージャー先生」
「おはよう、フィオナ君」
 病院に出勤すると、すぐに夜帷が声をかけてきた。彼女は「フィオナ・フロスト」という名で、同じ病院の事務員として潜伏している。
「本日の診察は午前まで。午後からは往診が入ってます。往診後は直帰と伺ってますが――」
 フィオナは横に並んで歩きながら、持っていた手帳を開いた。彼女は「ロイド・フォージャー医師」の秘書のような業務も担っている。もちろん偽装ではある。それに、「往診」=「イーデン校での監視や裏工作」という意味でもある。
「ああ、そのことだけれど。午後の予定をキャンセルにできるかな。来客の予定が入ってね」 
「来客?」
 ロイドの言葉に、フィオナの豊かな睫毛がピクリと揺れた。無理もない。今日のことはフィオナには何も伝えていない。かろうじて管理官に暗号文で通信できただけだ。
「おっはよう! フィオナちゃん!」 
 フィオナが口を開きかけたちょうどその時、廊下の端から甲高い声が響き、ドタドタと粗野な足音を立てながら大男が近づいてきた。
 診療部部長のジェラルド・ゴーリーだ。
 彼は突進さながらの速度でロイドとフィオナの間に強引に入り込む。同時に、ロイドの脇腹を肘で小突いた。
「朝からフィオナちゃんに会えるなんてラッキーだなぁ! 今日もラクダみたいなフサフサの睫毛がチャーミングだね!」
「ありがとうございます。消えてください」
「フィオナくん――おはようございます、ゴーリー部長」
 ロイドはフィオナに目で釘を刺すと、にこやかにゴーリーに挨拶をした。
「おはよう、フォージャーくん」
 ゴーリーはどこか不機嫌そうにロイドを横目で睨んだ。どうもこの男には印象が悪い。
「ところでフォージャーくん、さっき耳に入ったんだけど、きみ、フィオナちゃんにスケジュール管理をさせてるのかい?」
「いえ、これは……」
「よくないなあ、よくないよ! スケジュール管理は医師個人の責任だよ。我々には守秘義務ってものがあるんだからね! 情報はミニマムにミニマムに! だいたい君は――」
 ゴーリーは、ロイドの言葉に耳を貸さずにくどくどと説教を始める。こうなったら長い。ゴーリーは、普段人の話は全く聞かないくせに、自分の言葉は誰もがありがたがって拝聴するものだと信じて疑わない。
 今も巨体を前に突き出すように歩きながら、滔々と「医師の心得」を吟じ始めた。どうやらロイドの診察室までついてくるようだ。学会が終わって暇らしい。
 階段を上がり長い廊下を進む間中、ゴーリーの演説は続く。しかも彼は息切れひとつせず、だんだん説教と自慢話が加速していく。
「そうですね」や「さすが部長です」とわかりやすく煽てながら距離を置こうとするも、そのたびにゴーリーは益々鼻息を荒くしてついてきた。彼のほうが先導しているかのようだ。
 その体が壁のように視界を塞ぐたび、ゴーリーの向こう側で「チッ」と小さく舌打ちが何度か聞こえた。
 いい加減面倒になったころ、ようやく診察室に着いた。
「ご指導ありがとうございます、部長。さっそく実践させていただきます。――ああ、フィオナくん、お客様は十四時からだから。誰も診察室に近づかないようにしてくれないかな」
「VIP患者かい?」
 ロイドは、ドアノブに手をかけながら自然に解散を促すが、ゴーリーは興味深そうになおも質問した。
「いえ――国家保安局の方とお会いすることになってまして」
「国家保安局?」
 ゴーリーとフィオナの声が同時に廊下に響いた。通りすがりの職員が驚いて振り返る。
「声が大きいですよ」
「な、なななななんで秘密警察と!? オレは潔白だよ! いまは清く正しく生きてるよ!」
 ゴーリーは大きく首を振りながら二歩ほど後ろに下がる。以前、ロイドを陥れようとして自分が逮捕されそうになったことがよほど堪えたらしい。
 こう言っておけば、臆病な彼ならしばらく近づかないだろうとふんでのことだ。
「何でもないですよ。面談をするだけです」
「面談? 密告じゃなくて?」
「まさか、違いますよ。少し意見を聞きたいとかで。すぐ終わります」
 方便ではなく。本当に早々に終わらせるつもりだ。
「なんで? なんかの事件かい?」
「いえ、そういうわけでは……」
「気になるなあ。フォージャー君と秘密警察なんて」
 先ほど自分で「情報はミニマムに」と言っておきながら。ロイドは内心うんざりしたが、顔には出さずに「妻の知人が亡くなりまして。その関係で」と言葉を濁した。
「ふーん」
 ゴーリーは途端に興味を失った顔をした。反対に、フィオナはその瞳に強い猜疑の色を浮かばせる。
「フォージャー先生、各方面のスケジュール調整は私がしておきます」
 ――ストリクスニ、モンダイガ?
 フィオナは、口の形と発声を分けてロイドに問いかけた。
「ああ。いや、大丈夫だよ。それはこちらでやっておくから」
 ――モンダイナイ。
「わかりました。では、変更が決まりましたら私にも共有してください」
 ――セツメイヲ。『オンシャ』ノケンモアリマス。
「ああ」
 ロイドはにこやかに返答しながら、「踏み込むな」と視線だけを送る。
 フィオナはまぶたを微かに震わせると、目を伏せた。悔しそうに見えるのは、情報を網羅できない苛立ちだろうか。
 フィオナの横では、ゴーリーがなにやらぶつぶつとつぶやきながら考え込んでいたが、パッと顔を上げた。
「よし! オレもその面会に参加するよ、フォージャー君!」
「……はい?」
 ロイドは思わず聞き返した。
「上司として責任があるし! 部下のことはちゃんと把握しておかないと!」
「先ほどおっしゃったこととは真逆ですね」
「やだなあ、部下の危機管理も上司の仕事のうちだよ! ね! フォージャー君!」
「はあ……」
 調子のいいことを言っているが、おおかた秘密警察との会話から「フォージャー」の秘密を入手しようとでもしているのだろう。にやにやしたいやらしい目つきが物語っていた。厄介なことになる前に断らねば。
 ロイドが口を開きかけた、その時だった。
「せんっせぇぇぇ!! オレもうマジで死ぬかもー!!」
 廊下の奥から悲鳴が響くと同時に、小柄な男が走り込んできた。
 目の前で派手に身体をくねらせ、くしゃくしゃの頭と腹を押さえながら、今にも崩れ落ちそうに悶えている。
 オーバーすぎるだろうが!
 ロイドは、つい先ほど電話で話した男のわざとらしい演技に苛ついた。
 フランキーだ。 
「困ります! 先に受付をしていただかないと!」
 後ろから看護師が追いかけてきてフランキーの腕を掴む。だが、フランキーはその腕を振り払ってロイドにしがみついた。
「先生! 今すぐ診てくれないと、オレいろいろもう限界なんですぅ!!」
「きみ、落ち着きたまえ。そんな元気でいったいどこが悪いんだ」
 横からゴーリーがぐいっと横入りしてくる。腐っても診療部長だ。ゴーリーは「怪しい患者」の前に立つと医者の顔になった。
「ちょっとお腹が!」
「それは内科だ」
「昨日火傷もして!」
「じゃあ外科だ」
「そのせいで眠れなくなってえー!」
 何なんだ、この茶番は……。
 ロイドは額に手を当てた。
 フランキーのことだ。何かの意図があってここへ来たのだろうが、目立ってどうする。
 だが、視界の端にいたフィオナは、わずかに顎を動かし、ロイドへと視線を送る。
 ――乗ってください。
「……分かった、診察室へ行こう。掴まらないでくれ、白衣が伸びる」
「フォージャーくん、大丈夫なのかい?」
「ええ、定期的に受診している方なんです。部長を足止めしてしまって申し訳ありません」
 ロイドはにこやかに、だが断固とした姿勢でゴーリーとの会話を打ち切る。ゴーリーも、「あ、ああ……」とゴニョゴニョ口ごもる。
「じゃあ、フォージャーくん、十四時にそちらに行くから! 奴らの応対は任せてくれ!」
「え、いやちょっと!」
「せんせえ〜――おわっ!」
 ゴーリーは、ロイドが止めるのも聞かずにさっさと来た道を戻っていった。隣ではフランキーがまだ演技を続けている。その首根っこを乱暴に押さえて、診察室へ放り込んだ。 
 診察室の扉が閉まると、外の喧騒がわずかに遠のく。
「乱暴だなせんせー」
「何やってんだ!」
 やれやれと首をすくめるフランキーに鋭く叱責する。が、フランキーは心外だと言わんばかりに眉をしかめながら懐から書類を取り出した。
「お前が最後まで聞かずに切るからだろーが。ひっとがちょっぱやで手に入れた情報だぜ? もう少し感謝と吟味をしてほしいね」
 痛いところを突かれて、わずかに言い淀む。「すまん」と、口の端で謝罪しながら渡された書類を速読し始める。
 書類は、先ほどフランキーから直接聞いた内容と変わらない。エリカの家族関係、交友関係。本人の経歴はやはりあまり多くない。父親の項目のほうが多いくらいだ。写真は一枚だけ。火事ですべて焼けてしまったと思っていたので、写真が残っていたのは運が良かった。写真館の控え焼きのようだ。
 一軒家の家の前でひとりの男と、三人の女が映っていた。よくある家族写真のようだ。
 だが、一軒家の全景を枠に収めようとしたのか、かなり遠景から撮られていて、あまり映りが良くない。
 男は秘密警察の制服を着ているから、おそらくこれが父親のオイデン・ムスターマンなのだろう。隣にいる派手な見た目の妙齢の女が母親か。父親と母親に挟まれるように、ローティーンの少女が佇んでいる。若い頃のエリカだろう。一度だけ会った女性の面影があった。
 そして、エリカの母親の隣にはもうひとり女が映っていた。
 写真を裏返すと、写真館の名前と「ムスターマン家、新居完成を祝って」とだけ書かれている。
 しかし、ムスターマン家は家族三人のはずだ。
「この女は?」
 ロイドは写真のなかの女を指して聞いた。
「ハナ・シンクレアだ。エリカ・ムスターマンの母親の妹。エリカにとっちゃ叔母だな」
「叔母? ずいぶん若いな」
「腹違いらしい」
 言われてみればエリカの母親にどことなく似ている。しかし、それにしては母親とはずいぶん年が離れているように感じた。着ているものも明らかに若者が好む服装だ。この写真の時分ではせいぜい二十歳前後に見える。どちらかといえば、エリカとのほうが近い。
 ロイドは、どこか挑戦的な目つきで写真に映る女の姿を焼きつけた。
「この女、今はどうしてるんだ?」
 葬儀にはいなかったはずだ。
「行方不明。というか、指名手配されて逃亡中」
「指名手配?」
「ああ。ほら、知らねーかな、ずいぶん前に旧貴族たちが集まるパーティー会場で爆発騒ぎがあったろ。死傷者が多数出た」
「ああ……」
 その事件なら知っている。確か十年以上前の事件だ。その時分はまだ駆け出しだったが、事件の資料を目にした記憶がある。
「確か、急進派の学生組織による凶行だったな。主犯格の連中はすぐ捕まったはずだが?」
「まだ全員ブタ箱のなかだ。んが、会場に手引きした奴だけ捕まってないって話だ。それが」
「この女だって?」
「たぶんな。この女、女ってか、母親のほうもなんだが、帝国時代は貴族だったらしい。なにが嬉しくて元貴族がテロリストなんかになるんだか」
 もったいねえ……と、フランキーはうそぶきながら肩をすくめた。
 ロイドは黙ってしばらく写真を見つめた。
 仮にその話が全て事実として――ロイドの胸に落ちるのは、納得ではなく、薄い金属片のような冷たさだった。
 写真の女は、相変わらずこちらを試すような目をしている。挑戦的というより、挑戦「させる」目だ。相手が踏み込んでくるのを待っている。言葉もなく、引き金だけを机の上に置かれたような感触がある。
 十年以上前の爆発事件。
 旧貴族のパーティー。
 急進派の学生組織。
 手引きをした内通者だけが捕まっていない――筋は通っている。新聞はそれらしい筋書きを好み、当局もそれを好む。だが、筋が通っていることと、現実が同じ形をしていることは別だ。
 問題は、ここに「枠」がないことだった。
 大きなパズルのピースがいくつも目の前に散らばっている。どれも確かに欠けや歪みのない、正しいピースに見える。けれど肝心の、全体の輪郭を決める外枠だけがどこにもない。
 自分がいったい「何と」対峙しているのかわからない。
 それが言いようのない違和感として影を落とす。 
 すると、今の今まで黙って様子を見ていたフィオナが口を開いた。
「先輩、この写真の女が《梟》になんらかの影響を? 秘密警察の来院はそれに関連するものでしょうか」
「いや……これは」 
 フィオナの言葉は、室内の空気を一段冷たくした。
 彼女の視線は写真の女ではなく、その背後にある「任務の匂い」を嗅ぎ取ろうとしている。ロイドは、呼吸の回数をひとつ減らした。ここで余計な線を引けば、線は勝手に太る。 
「《梟》とは関係ない」
 即答すると、フィオナの瞳がわずかに動いた。 
「先輩が『関係ない』と言うときは、大抵『関係を築きたくない』という意味ですね」
「……言葉遊びはやめてくれ。これは直接《梟》には関係ないが、フォージャー家の――家庭の維持に関係する案件だ」
「家庭の? なにそれ、その女お前の浮気相手かなんか?」
「そんなわけあるか!」
「ふざけるな!」
 ふたりからの叱責に、フランキーは肩を竦めた。
「任務に関係ないならなんなんだよ? そのエリカって女、この間死んだヨルさんの同僚って女だろ?」
「ヨル・ブライアの!?」 
 ロイドは机の上の写真を伏せ、書類もまとめて手のひらで押さえた。視界から消す動作は、相手の興味を煽るだけだと理解しつつ、それでもやらずにいられなかった。 
「エリカ・ムスターマン。この写真の少女のほうだ。ヨルさんの同僚だった。先日火事で亡くなった。オレは一度この女を診察した。――死んだその日に」
「はあ?」
「なんですって!?」
 フランキーとフィオナは同時に声を出した。
「まさか、ヨル・ブライアが先輩を陥れようと――」
「それはない」
 即座に否定の言葉がついた。考えるより先だった。
「それは、ない。だが、エリカ・ムスターマンの周りに疑惑が多いのも事実だ。まず彼女は、イーデン支所の火災に関わっている可能性がある」
 ――そう、始まりはイーデン支所の火災だ。
 ロイドは観念して、ふたりにこれまでの経緯を説明した。
 イーデン支所が火災にあったこと。エリカがヨルさんの同僚になったこと。そこで精神の不調を訴え、ヨルさんに相談され、自分が診察したことを。
「それじゃなに? どっちかってーとヨルさんが疑われてんの?」
「彼女は関係ない。だが向こうの気分次第では、近しい人間を洗う。そういう組織だ」
「夫としては心中穏やかじゃねえってやつ?」
「茶化すな」
「だってよ、せんせー。『仮初の家族』だの『任務』だの言いながら、今めっちゃ怖い顔してんぜ?」
「うるさい」
「先輩。ヨル・ブライアが事件に関与している可能性があるならば、いっそ彼女ごと排除すべきです。万が一、《梟》に影響すれば――」
「だから関係ないと言っている。今回の件は、あくまでヨルさんの周辺の話だ」
「しかし――」
「ヨルさんにはアリバイあんの?」
「アリバイ?」
「だって疑われてんだろ? この女殺しの件だか、テロリストとの件で」
 フランキーが写真の真ん中を指で叩いた。爪の先が女たちの顔を弾いて、三人の女たちの輪郭がぼやけた。
「秘密警察がどんな思惑なのかはわからない。ムスターマン家の火事は失火での事故と発表されている」
「そんなの秘密警察が動いてる時点で事件ですって触れ回ってるようなもんじゃん。お前だって信じてねーんだろ。つか、この写真の女は何なんだよ。指名手配の元貴族テロリストだろ? そっちのがよっぽどでけえ話じゃねえか」
「……」
 状況的にはそうだ。だが――
「ヨルさんは何の関係もない。それを秘密警察に納得させればそれでいい」
 ロイドはそれだけを口にした。気にならないと言っては嘘になる。だが、今は優先すべきはひとりの女の過去ではない。
「なんだ、ただの愛妻家か」とつまらなさそうにつぶやくフランキーの声は無視した。 
「……とにかく、いま優先するのは十四時の面談だ」
 ロイドは、机の上の書類をひとつずつ揃えながら、言葉を切った。作戦の骨子を喋る口調は、医師のそれではない。フランキーが鼻で笑う。
「ちょっとは人間らしくなったかと思ったけどよ。先生、そういうとこだけはほんとブレねえな」
「黙れ」
 ロイドは視線だけで釘を刺し、診察室の時計を確認した。そろそろ午前の診察が始まる時間だ。
「夜帷、受付と廊下の導線はどうなっている」
「通常の来客は外来受付から案内されますが、相手が秘密警察なら、病院の正面玄関を使う可能性が高いはずです。警備員と守衛室も通ります」
 フィオナは即答しつつ、手帳を開く。そこには病院の予定が書かれているはずだが、彼女がいま参照しているのはそれだけではない。人の流れ、視線、耳、噂――そういうものだ。それらはすべて彼女の頭のなかに入っている。
「正面玄関。守衛室。外来受付。そこからこの棟に上がってくる導線は二つ。正面階段と、搬送用の裏階段です」
「出入り口は普段通りでいい。ただ、盗聴には注意したい。面談中、この部屋の廊下には人が通らないように」
「了解しました。その時間のみ清掃員を配置します。」
「問題はゴーリー部長だが」
「排除しますか」
「いや、逆だ。参加させる」
 フィオナの目がほんのわずかに見開かれた。驚きは一瞬で、すぐに計算に変わる。
「先輩。リスクが増えます。部長は――」
「口が軽い。目立つ。余計な質問をする」
「ならば」
「だから使える」
 ロイドは書類の束を机の端に揃え、淡々と言った。
「秘密警察は情報を引き出しに来る。こちらが構えるほど相手は警戒する。ならば雑音を混ぜて、相手のペースを崩す。ゴーリーが首を突っ込みたがっているなら都合が良い。逆に奴らからこちらの知りたいことだけを抜く」
「部長が相手の注意を逸らす、と」
「そうだ。奴の見栄っ張りな性格では、たとえ会話の内容がわからなくても自分の権威を振りかざすはずだ。中身のない主張で相手の精神を削らせる」
「しかし、部長は自身の保身で動きます。先輩の情報を――」
「だから餌を与える。彼が喜ぶ『上司の役目』を」
 フィオナは顎を引き、短く頷いた。
「部長の動線も設計します。十三時五十五分にこの診察室前へ。先輩が先に面談相手と接触しないように」 「いや、こちらが先に接触する。部長は途中から入らせろ」
「途中から?」
「最初からだと相手が身構える。ゴーリーは途中から乱入してきたノイズとして印象づけたい」
 おそらく実際に騒音を撒き散らすだろう。
「――いい性格」
 フランキーが嫌そうな顔をした。
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてねえ」
 ロイドは時計を見た。午前の診察の開始時刻が迫っている。段取りはここまでで十分だ。
 察したフィオナは手帳を閉じ、立ち上がって扉へ向かった。ノブに手をかける直前、彼女は振り返らずに言う。
「先輩。今回の件はあくまで《梟》の維持のためと仰いましたよね」
「――そうだ」
「……先輩が守るべきものを、取り違えませんように」
 フィオナはそれだけ言い残し、静かに出ていった。
 フランキーが、「ヒュー」と小さく唇を鳴らす。
「罪だねえ」
「なにがだ」
 ロイドはジロリとフランキーを睨みつけるが、彼は意に返さずヘラヘラと笑った。
「とりあえず渡しとくわ。突貫で調べたにしちゃよくできてると思うぜ」
「ああ」
 フランキーからエリカに関する資料を受け取ると、引き出しから札束を数枚出し渡す。少し色を付けて渡した。確かに急に頼んだにしてはよく調べてある。特に家族の写真を手に入れていたのは上出来だ。
 フランキーは、相場より多い札束を握ると満面の笑みを浮かべた。
「気前いいじゃん。いつもこれくらいしろっての」
「調子に乗るな。今回は特別だ」
「へーへー」
 んじゃな、とフランキーは片手をひらひらさせながら部屋を出ていく。が、彼も扉の手前で何かを思い出したように振り返った。
「そういや、その女たちの死体を解剖した医者がここにいるぜ」
「ああ、確かに。その道の権威らしいな」
 ロイドは目を通していた資料から顔を上げて頷く。資料の中の解剖医の所属はこの病院の名になっている。科が違うため面識はないが、一度話を聞いてみる必要はある。
「そいつ、なんか最初変なこと言ってたらしいぜ」
「変なこと? どんな?」
 フランキーの資料には解剖所見書の写しも添付されていた。いったいどんな手を使って手に入れたのか。聞いても答えないだろう。だが、その所見書には当たり障りのない言葉が並び、特別目を引くような文字はない。
「詳しくは知らね。けど、なんかごちゃごちゃあって、医者が所見書を書き直したんじゃねーかってだけ。気になるなら自分んで調べな。手当弾んでくれるならやるけど」
「まだ搾り取る気か」
「絞れるうちが華よ。カスしか出ねえスパイなんざ、『なんとかガール』に相手にされねーぜ」
「必要ない」
「愛妻家だもんな、センセ」
「出ていけ」
 フランキーはケケケと笑いながら素早く扉を閉める。ロイドの放った叱責だけが、扉から跳ね返って自分の身体を打った。
 ひとり残った診察室はやけに空虚だった。
 ロイドは机の上に、真新しいカルテを一枚だけ出すと患者名の欄に「エリカ・ムスターマン」とだけ記す。
 その他は空白だ。
 エリカ・ムスターマン。
 女の名だ。
 妻の友人で、市役所の同僚。実際に会ってもいる。
 大人しいが、意思の強そうな眼をした女だった。
 けれど、エリカ・ムスターマン――身元不詳――その通名の通り、どこか捕らえどころのない女だ。
 身元や輪郭はしっかりしているのに、中身がまったく見えてこない。
 まるで――まるで、経歴だけ立派な「ロイド・フォージャー」のような……。
 まさか……?
 微かな光のような閃きが頭をかすめた矢先、扉の外から、「フォージャー先生、ご予約の患者さんをお通ししても?」という看護師の声が聞こえた。
 午前の診察の開始だ。
「ええ。どうぞ」
 ロイドはすぐに医師の顔に戻り、ドアノブに手をかけてにこやかに扉を開けた。
 今はまだ、「ロイド・フォージャー」でいられる時間だった。
 

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