2023-12-01

Kuchen Laden(クーヘン ラーデン) - I love you, good-bye. 03 –

 地下鉄を降りて、すぐ地上に出る階段を上った。
 階段の先にぽっかりと額縁で切り取ったような空だけが見える。地上が近づくにつれ、帽子のつばから見え隠れする空が落ちてくるように近くなり、思い出したように喧騒が耳についた。
 階段を上りきると、どこからかふっと潮と藻の香りが漂ったが、一瞬で消えた。
 地下鉄の出入り口は、幹線道路のすぐ脇にあった。
ひとつの方向に四車線、両方向で八車線もある道路だ。一車線の幅は国の規定で三メートル五〇センチと決まっている。歩道などを合わせれば合計で三〇メートルほどにもなる。
 こんな場所があったのか。
 本格的に東国へ潜入する際にひと通り調べたはずだが、基本的に潜入場所のイーデン校と仮の職場がある病院、それに西国大使館近くの隠れ家など、任務上の行動範囲は首都の中心部が多い。自分で思っているよりこの街を知っているわけではないなと、認識を改めながら歩いた。
 道路を走る車両はコンテナを積んだトラックが多かった。
 それが通りの一定の方向からひっきりなしに走ってきている。地理的には港も近い。おそらく保税倉庫を含む港湾地区が近くにあって、通関の切れた荷物がどんどん中心部へと流れているのだろう。
 デズモンド率いる強硬派の国家統一党は現在野党に回っており、今はハト派の国民党が政権を握っている。この政党は、政権が変わった当初から自由貿易と自由経済を基本政策に掲げている。
 経済的には西国よりは立ち遅れている感は否めないが、東国で実際に暮らしてみた限りでは、物資の不足などもなく不便さも感じない。これだけ港を行き来するトラックが出入りしているのだ。東国の現政権の外交力もなかなか侮れない。確か、国民党になってから内陸国への輸出を強化したはずだ。かつて戦車や砲弾を運んでいた道路は、時を経て人々を潤す糧を運ぶ道に変貌を遂げた。おそらく、道路自体は国家統一党だった時代に軍用道路として整備されたものだろうが。
 時代の流れか。
 そんなことを考えながらトラックの行く道と逆走するようにして紙片を頼りに歩き、数ブロック歩いたところで横断歩道を渡った。
 八車線分、かなり長い横断歩道だ。東国で「アンペルマン」という愛称で知られる青信号のピントグラムの男が信号機の中で踊っている。まるで早歩きをしているような印象の図案だ。渡りきる前にチカチカと、さらに早歩きを催促するように男が点滅しだして知らず歩幅が大きくなった。
 渡った先は、さらに工場や倉庫が増えたようだった。
 道路のこちらとあちらで、道行く人の服装がずいぶん違う。渡った側はつなぎの作業服を着ている人と、そして男性が多いように感じた。
 横断歩道を渡り切ったところで後ろから聞こえる小さい子供の声を耳が拾う。なんとなく振り返ると、先ほどまでいたあちら側で小さい女の子が母親に連れられて風船を持って笑っていた。アーニャより少し小さいくらいだ。片方は母親の手を、もう片方は風船を握って楽しそうにスキップをしている。
 思わず頬を緩めながら記憶を辿ろうとして――馬鹿馬鹿しくなって止めた。
 頭をひとつ振って気を引き締め直す。
 今はケーキだ。これも大事な任務のため。
 自分に言い聞かせながら歩を進めた。
 そこからさらに四、五分歩いた場所にその店はあった。
 表通りは大きな道路だったが、一本奥に入ると途端に小さい工房のようなものが立ち並んでいた。この辺りは道幅も狭く、かなり古くからあるような街並みだ。特に珍しくもなく、西国も同じようなものだが、表通りとのアンバランスさがあまりに顕著で滑稽ですらある。見えるところだけを整えて悦に入る役人らしい仕事ぶりだ。その成果を讃える周りの何人かの笑顔は嘲笑だろうに。
 だが、通り自体は清潔で、歩いていて気持ちがいい。開発から取り残された見向きもされないような街だが、この場所はこのままで良い気がした。
 フランキーがよく通っていた元カフェだというので、勝手に大学街のカフェのような外観をイメージしていた。だが、紙片の住所に佇んでいたその建物は、想像とはずいぶん違っていた。
 信号もない、唐突に現れたY字路の鋭角地にその店はあった。
 道路の形に合わせて建物の直角部分も隅切りになっていて、そこが入り口になっている。カフェによくあるショーウィンドーもテラスも、カフェシェードすらない、少し無機質とも思える佇まいだ。上部がガラス張りになっている木製の扉で、そのガラスに人の名前らしきものと、「Kuchen Laden(クーヘンラーデン)」の文字が意匠となって刻まれている。その文字だけが、ここがケーキ屋であると示している。いってみれば、その部分だけでしかここがなんであるかが判断できなかった。一瞬躊躇するが、他に適当な店もない。いささか半信半疑な面持ちでノブに手をかけた。
 だが、店内は表の表情とは全く違っていた。
 店に入ると客は女性ひとりだけで、カウンター向こうの女性と話をしていた。
 扉を開けた途端、ふたりともがこちらを振り返る。そして店員らしき女性だけがこちらに微笑んだ。なんとなく気恥ずかしさを感じて店内をきょろきょろと見渡す。
 ひとりで切り盛りしているというのでもっとこじんまりした店をイメージしていたが、意外に種類が多い。
 そして店内はかなりカラフルだった。色の洪水といってもいい。
 店員がいる会計カウンターの下の部分にショーケースがひとつと、店内の真ん中にもガラス張りの円筒型のショーケースがあり、それが天井近くまで伸びている。中にはステンレスのシンプルなケーキスタンドが数段重ねられていて、赤や黄色などの色とりどりのケーキが並んでいる。
 ベリートルテ、バナナトルテ、チェリートルテなどと手書きの簡単な商品名も一緒に並んでいる。
 壁際にはいくつかの焼き菓子らしき商品と、季節の飾りと思われるイースターラビットや籐製のかごに色とりどりのイースターエッグが並んで入っていた。
 あまり縁がないその店内に、ほんの少しだけ気後れする。
 そういえば、任務として女性の同伴で色々な店に行った経験はあるが、どれも格式や重厚さを意識した落ち着いた店が多かった。正直、こういった庶民的ともいえる店は今まで縁がなかったことに気がつく。
 なんとなく落ち着かない気持ちで、けれども目的の物だけはと探した。
 だが、探しているチョコレート系のケーキはない。果物が「売り」の店だといっていたが。
 はて困ったと再度店内を見渡していると、「いらっしゃい。初めて見る顔ね」と、先ほど会釈を交わした女性の店員が声をかけてきた。
 どうやら彼女がこの店の店主らしい。
 フランキーが言っていた通り多少ふくよかだったが、おそらく加齢によるごく自然なもので印象としてはむしろスッキリとした上品な女性だった。
 いつの間にか女性客は帰っていて、店には自分と店員のふたりだけだった。
「ええ、知人に勧められて」
「あら嬉しい。それでわざわざ?」
 店主は本当にうれしそうににこにこと話しかけてくる。人好きで気立ての良さそうな女性だ。
「ええ。あの、チョコレート系でホール状のケーキはありますか?」
 目の前の円筒型のショーケースには十分な種類のケーキがあったが、どれもカットされている。そして探しているチョコレート系は無いようだ。
 できればホールケーキを買って家で切り分けたい。
 自分は甘い物をそこまで好まないので、あまり大きくなくてもよいが。
 そこまで考えていると、店主は何かに気が付いたのか、「もしかして、あなたフランクのお友達の方かしら?」と聞いた。フランクはフランキーの数ある名前のうちのひとつだ。そうだと答えると、店主は嬉しそうに破顔した。
 聞けば午前中に彼から突然連絡が来たとのことだった。
 彼が戦前と戦中にもよく前身の食堂を訪れていたこと、亡くなった夫と仲が良く来店するごとに夫と馬鹿な話で盛り上がっていたこと、直接話をしたのは十数年ぶりだということ、最初はわからなかったが、特徴を言ってもらえて思い出したこと。
 そして、彼から友人の妻が南部地方に馴染みがあるので、彼がここへ来たら南部のケーキを持たせてやって欲しいと頼んできたことなどを知った。
「南部のっていってもねえ、うちに置いているのは洒落っ気なんて何にも無い普通の田舎ケーキなんだけどね。果物だけは豊富な地域だから自然とフルーツトルテなんかの種類は豊富にあってね。だけど逆に南部にはケーキ屋なんて全然無いのよ。全部家庭で作っちゃうから」
 首都に来てこれが商売になるのかと逆に驚いたと女主人は笑って言った。
「ああ、そうそう、チョコレート系ね。一応あるわ。こっちよ」
 そう言ってカウンターの下を指さす。
 そこにはロールケーキやパウンドケーキ、そして西国でもよく見る『黒い森』と呼ばれるシュヴァルツヴェルダーキルシュトルテもある。それらはカットもされておらず、型を抜いたそのままの状態で並んでいた。
 目的のものがあってほっとする。大きさもそこまで大きくなく手頃だ。
 じゃあこれを、と言いかけて、隣のスポンジケーキが目に入る。そのカードを見るとブランデーケーキと書いてあった。その隣のケーキも分厚いアイシングがかかった商品で、同じような簡素なポップにレモンケーキと書いてある。
 こちらのカウンターに並んでいる商品は、中央にある円筒型ショーケースの商品とは明確に区別されているようだった。
「あの……、もしかしてこちらにあるケーキは強いリキュールを使っていらっしゃいますか?」
 念のため聞くと、店主は「ああ、ええ。そうなの」と笑った。
 だからか。
 その言葉を聞いて、一度出かかった言葉を飲み込む。
 これは……駄目だ、買えない。
 すると店主が「ホールで買いたいってことは、どなたかと一緒に食べるご予定? それともお土産?」と聞いてきた。
「ええ、妻に。誕生日なので」
「あら素敵。奥様はあまりお酒が強くない方?」
 リキュールは入っているけれど焼き上げた時にアルコールはとんでいると思うわ、と店主が言った。
 確かにヨルさんはアルコールには弱いが、それでもこの程度なら大丈夫だろうとは思う。
 だが……。
「……娘がいるんです。六歳の」
 そう告げると、店主は「ああ……」と納得したようだった。
 いくらアルコール成分がとんでいるとはいえ、アーニャにはこれらのケーキはまだ無理だろうと思う。店主も同じことを言った。
「あぁ、じゃあこの辺りのケーキはお酒が結構入っちゃってるから……。まだ小さいお嬢さんには向かないと思うわ。あちらの中央のショーケースに並んでいるものはリキュールを使ってないの。あちらだったら小さいお子さんにも人気あるわよ」
 あちらでよければ何種類かはホールで出せるわ、と店主は言った。
「今日は妻の誕生日なので、出来れば彼女に合わせたケーキを購入したかったのですが……」
 いつも「母」として頑張ってくれているので。
 誕生日くらいは、「彼女自身」を労わりたかった。
 ヨルさんは弱いが、アルコール自体は好きな方だ。ここはリキュール入っていてもいいからこのケーキを購入するべきだろうか。アーニャには、リキュールの無いピースのケーキを買えば……。いや、駄目だ。そもそもチョコレートケーキはアーニャの希望だ。ヨルさん自身はケーキの種類にそこまでこだわりは無い。
 どちらかというと――、こだわっているのは自分だ。
 そんな逡巡を勘違いしたのか、店主は「そんなの無理よ」と少し大きく笑った。
「子どもが小さいうちは、親の好物なんて食べられないわよ。逆に、こんなリキュールいっぱいのケーキ買っていったら奥さんにどやされるわよ」
「え……いや、そんなことは……」
 ないとは思うが、確かに彼女の困惑する顔は容易に浮かんだ。
 自分のその顔を見て、店主はまた出来の悪い生徒を前にしたように笑う。
 先ほど会った男と同じ表情だった。
「いやあね、そういうのは恋人の時期に済ませておくものよ。子どもが生まれたら、誰のお祝いだろうが子どもが好きな味付けになっちゃうのはしょうがないわよ。だって、おうちで普段食べている食事だって子どもの味覚に合わせちゃってるでしょう?」
「…………」
 その通りだった。
「ロイド・フォージャー」になってから、よく作る料理はハンバーグやシチュー、ロールキャベツなどが多い。特に意識もしていなかったが、言われてみれば子どもが好むレシピばかりだ。
 自分でも驚いて口に手をやる。
 するとそれを見た店主は「やあねえ、普段奥さんばかりに作らせてるの? 駄目よ、奥さんがそういう工夫しているのもちゃんと見てあげなきゃ」とまた笑った。
「でも、大丈夫よ。子どもなんてすぐ成長するもの。こちらのケーキは子どもが大きくなった時のお楽しみにしておきなさいな。大きくなったら『これがお父さんとお母さんの好きな大人のケーキ』っていって改めて子どもに教えてあげなさい。夫婦でその日を楽しみにするのもなかなか良いものよ」
 ケーキだけじゃなくてもね、と女主人はそう言って微笑む。
 おそらく自分がそうしていたのだろう、確信のある表情だった。
 その言葉に胸の辺りの何かが抉れるような感触を覚えた。

 ――そんな日は、来ない。
 来ないんです。

 その言葉が出かかるのを、拳を握りしめて必死で止める。
 どうしてだが、目の奥がひどく痛んだ。
 ……気のせいだ。
 そんなもの、気が付かなければ大丈夫。
 そしてにっこりと笑顔を作って、「そうします」とだけ言った。
 店主も同じように微笑む。
「じゃあ、よかったらこちらのショーケースから選んでいただける? 今ホールで出せるのはこちらと……こちらと……」
 店主はそう言っていくつかのケーキを勧めた。
 その声が、やけに遠くに聞こえる。
 言われた通りに反対側のショーケースの前まで来るが、先ほどまで洪水のような色とりどりだと思っていたそれらが急に色あせても見えた。
 また、ひどい喉の渇きを覚えていた。
 どうしても、今すぐにこの場所から出たい衝動に駆られる。だが、努めて頭を切り替えて目の前のケーキたちに集中する。
 取り敢えず何か買って帰らなければ。
 そう思いながらわざと視線をゆっくり動かす。
 すると、ひとつだけ目に留まったものがあった。
 葡萄を使ったケーキだ。季節的にはまだだいぶ早そうだが、艶もよくきらきらと輝いている。
 店主がその視線を受けて、ショーケースを開けてそのケーキをよく見えるように手前に出してくれた。
 葡萄……というより、瑞々しいマスカットが中央に並んでいるケーキだ。ポップの説明書には、「Muskateller」と「Kirsche」のふたつの文字が、イラスト共に描かれている。
「こちらにする? 少し早出しの種類なんだけど、これも人気あるのよ。これならホールで出せるわ」
「……そうですね。ではこれを」
 そう頼むと、店主は少し待ってね、いま用意するわと店の奥に入っていった。
 急に取り残されたような感じになり店内を見渡す。すると、壁際に据えられたウサギとイースターエッグが目に留まった。
 なんの気なしにその卵を手に取る。木製かなにかのフェイク品かと思ったが、意外にも本物の卵だった。下部分から中身を抜いたのだろう、そこだけ可愛らしいシールが貼られている。たが卵自体はまだ白いままだ。薄い仮線だけが引かれている。おそらく家に持ち帰って、この仮線に沿って自分の好きな色を付けるのだろう。
 昔、同じようなものをやった記憶があった。
「…………」
 目の奥にあの日の光景が、擦り切れた写真のように浮かび上がる。
 ……あの日もイースターだった。
 あの日以来、この卵を手にしたのは初めてだ。

 白いうさぎがこちらを見ている。

 ――思い出すな。
 思い出すな。
 思い出すな。
 思い出すな。

 少し深めの呼吸をしながら、ゆっくりと強く目を閉じて意識してその記憶を沈める。
 あの日から何度も何度も。繰り返し、繰り返しやり続けがおかけで、記憶は全て顔を出す前に底へ沈んだ。
 ほぅっと安堵の息を吐いたところで、店主が梱包したケーキと一緒に戻ってきた。
「はい、こちらよ。少し歩くみたいだから、麻袋にドライアイスも入れてあるわ」
 くれぐれもお子さんが触らないように気をつけてね、と念を押された。
「ありがとうございます」
 そう言って代金を払うためにイースターエッグをもとに戻す。
 すると店主は、「ああ、それ持って行って。イースターだから、お嬢さんにお土産」そう言って、その卵もケーキを入れた紙袋へ入れる。
「あ、いえ。……ありがとう」
 少し躊躇したが、断るのも変かと思いそのまま受けとる。
 店主は笑顔で戸口まで送ってくれた。
「今日はありがとう。フランクの話が聞けて嬉しかったわ。彼にまた顔を出してほしいって伝えておいて。もちろん、あなたも奥さんとお子さんとまたいらしてね」
 そう言って最後まで人の好い笑顔を崩さず送り出してくれる。
「ありがとう。――また来ます」
 そう言って、振り返ることなく店を後にする。走り出したい衝動を必死に抑えながら、石畳の道路を踏みしめて歩く。
 どうしてだか、手に持ったそれほど大きくもない紙袋の重さがやけに気になった。

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