2024-12-30

コンティンジェンシー・プラン 01-02

01
 コンティンジェンシー・プラン(Contingency Plan)/緊急時対応計画とも。予期せぬ緊急事態や危機が発生した際に、その影響を最小限に抑え、速やかに事態を収束させるために事前に策定しておく行動計画のこと。
 

 気の緩みは、季節と密接な因果関係がある気がする。
 具体的にいえば、季節の変わり目だ。凍てつく空気が緩む春。茹だる暑さが陽炎のように消える秋。そんな時に限って事故は増える。
 いく分感傷めいた気分におちいりながら、泉野明いずみのあはゆっくりと息を吸い込んだ。海の近くのため、潮の香りが肺に入ってくる。空気も湿り気を帯びているが、真夏のあの巻き込むような熱はなく、空気が美味しかった。
 イングラムの中から出ると、まず深呼吸をするのが癖のようになっている。
 コクピットの中は狭い。イングラムは好きだし、野明にとっては愛機といっても過言ではないが、それでもやはりコクピットから外界に出た時の爽快さは別格だった。
「気ぃ抜くなよ。まだ終わってないぞ」
 すかさず背後から声がかかる。野明が首だけを後ろに向けると、すぐそばに相棒の篠原遊馬しのはらあすまが立っていた。遊馬はこちらを見もせず、手元の書類に視線を落としたまま小言をくり出している。その器用さとぞんざいさに、野明は少しムッとなった。
 だが、遊馬の視線の先に、動かなくなったレイバーとうなだれる操縦者、そしてその操縦者から聴き取りをしている警察官の姿を認め、野明はすぐに襟を正す。
「終わりそう?」
 野明は体ごと遊馬の方に向いて、その手元を覗き込む。
「これ書いたらな。単独事故っぽいし、所轄の交通課にこの所見書渡したらおしまいだ」
「そっか」
 思ったよりも早く終わりそうでほっとなる。野明が遊馬の腕時計をチラ見すると、二十時少し前だった。これなら、今から帰庁しても二十一時には退勤できるだろう。
 明日はようやく非番だ。しかも久しぶりの連休だった。
 一九九二年から日本は週休二日制を導入しており、野明たちも入庁当時から週二回の休みは保証されている。が、そこは万年人手不足の第二小隊。待機、準待機や当直勤務もあり、実際は週二日ではなく、週二休みと、週一休みを隔週ごとに繰り返す月六日間の変則勤務が常態可していた。そのことに不満はないが、それでも連休は嬉しい。しかも今日は退勤後に飲みに行く約束をしている。自他ともに認める酒豪だが、普段は飲酒を控えている野明にとって、前から楽しみにしていた予定だった。
 だが、定時間際になって、いきなり出動がかかった。バビロン・プロジェクトの第二十四工区で、レイバー同士が接触事故を起こしたというのだ。本来ならば、これから待機任務に入る第一小隊に引き継いでも良かったのだが、あいにく第一小隊は研修所からの帰還途中で渋滞にハマり、全機まだ帰庁していなかった。単純な接触事故との前情報があったため、遊馬たちのチームが残業して事故現場に赴いた。来てみたら、本当に単純にレイバーが二台正面衝突をしていただけだった。これならば、管内の交通課だけで対処も出来るが、一応対象がレイバーということもあり、簡単な整備チェックを行うことになった。こういったチェックを行い、書類に落とし込んで所轄の警官に引き継ぐのも重要な仕事だ。もっとも、その仕事はほとんど指揮担当の遊馬の仕事になる。
「――おし、こんなもんかな」
 遊馬がペンを胸ポケットにしまった。
「野明、これ所轄の人に渡してきてくれ。――ひろみ、事故ったレイバーの牽引はどうするって?」
 遊馬は、書き上げた書類をバインダーに挟んで野明に渡しながら、キャリア担当の山崎ひろみに聞いた。
「いや、牽引は必要ないみたいです。まだ自走もできるので。明日、ここにメンテナンス会社を直接呼ぶって言ってました」
「ふん。じゃあ、帰る準備しておいて。おれは野次馬散らしてくるわ」
 野明がその方向に目を向けると、同じ工区の作業員らしき人集りが出来ている。彼らの間から『警察の現場検証が終わり次第、工事を再開する』という声が聞こえてきた。
 数年前の冬にも、別の工区で同じような光景を見た。あの時は暴動まがいのことも起きたが、今は大人しく見守っている。だが、やはり工事が再開されると知り、皆にわかに沸き立っていた。
 お仕事するって大変だよねえ。
 野明は若干複雑な気持ちになりながら、警官たちのもとに走った。
「あの……、これレイバーの所見書です。正式な報告は後日になってしまうんですが」
「ああ、ありがとうございます」
 野明の一番近くにいた警官が受け取る。
「終わりそうですか?」
「そうですね。まあ人的被害はないですし。いずれ終わると思います。工区のなかで起こった事故ですしね」  
「飲酒とかではなかったんですよね」
「ええ。アルコールも出ませんでしたね。運転前点呼もきちんとしてましたし――疲れかな。ここのところ急に夜は涼しくなったから」
「ああ、そうですね。体調狂っちゃいますよね」
 野明は、自身の見解とさほど遠くない意見に納得して頷いた。
 話をしている警官の先に、操縦者たちが見える。操縦者はふたりいた。両方ともに、ひとりひとり警官がつき調書を受けている。こちらを背にしているが、ふたりとも、かわいそうになるくらいうなだれていた。こういった現場では、お互いに相手を罵り合ったりする場面もある。それがないだけでも、野明はほっとなった。
 レイバー自体に罪はない。悪いのはいつも操縦する人間だ。だが、その操縦者だって悪気があって事故を起こすことなど、実はほとんどないのだ。
 野明は、すぐそばの事故を起こしたレイバーの機体を撫でた。機体の端に「トヨハタオート」と刻印されたプレート、その脇には「星崎」と印字された、点検済みを表すシールもきちんと貼られている。
 みんなやるべきことをやっている。にも関わらず事故は起こる。仕方ないこととはいえ、少しやるせない。
 頑張っておくれよ。
 野明は、心の中で誰かに向かってエールをおくった。
「――では、特車二課第二小隊、帰庁します」
「はい、お疲れさまです」
 警官に敬礼をして挨拶をすると、相手も答礼してくれた。そのままきびすを返す際、まだ聴き取りをされていたレイバーの操縦者が「でもよぉ……おれは乗る前にもきちんと車両点検したんだよ……」とこぼしているのが聞こえた。

 遊馬たちが帰庁すると、熊耳くまがみがまだ残っていた。
「あれ? 熊耳さんまだ残ってたんですか?」
「ええ。一応はね。どうだったの?」
 遊馬たちを待っていたようだ。さすがは『学級委員』だ。遊馬は簡単に今回の様子を説明した。
「単純な事故かと思いますが」
「そう……」
「何か気になることでも?」
「いえ。私たちも、朝、同じような接触事故があったでしょう。それでちょっとね」
「ああ……」
 今朝、太田たちのチームも似たような接触事故を処理したと聞いた。遊馬たちは出動する必要もない、ごく軽い事故だったのも同じだ。
「偶然じゃないですか? 例の怪物騒ぎからこっち、ずっと工期が遅れてるみたいですし。今日も二十時回ってるってのに、早く事故処理終わらないと再開できないって、野次馬が騒いでましたよ」
『怪獣』とは、数年前の夏に起きた東京湾の怪獣騒ぎのことだ。
 あの被害――実被害より、風評被害のほうが深刻だった――により、工期は遅れに遅れている。にも関わらず、工区だけは増え続けているため、はたから見てもレイバーの稼働率は心配になるほどだ。
 もっとも、バビロン・プロジェクトの工期が遅れているのはなにも怪獣騒ぎのせいだけではい。そもそも公共工事が年単位で遅れるなどザラだし、例の黒いレイバーの件ももちろんある。だが、それを復帰して間もない熊耳の前で言わないのは遊馬なりの気遣いだ。
「――まあ、そうはいっても、例のプランは練り直したほうがいいかもしれませんけど」
 遊馬は、ふと思い出したように付け加えた。熊耳も「そうね」と頷く。
「プランって?」
 隣でふたりの会話を聞いていた野明が首をかしげながら尋ねた。
「熊耳さんと進めてる班のフローとかの話。でも練り直しが必要かなってさ」
「コンティンジェンシー・プランのことよ」
 野明は少し考え込み、「フロー」「ジェンシー」とひとりごちていたが、不安そうに眉をひそめた。
「なんか、陰謀論とかに出てくる単語みたいですね」
 一瞬の沈黙のあと、熊耳が吹き出し、遊馬は呆れたように眉を下げた。
「じゃないと良いわね」
「おまえ、いいかげん語感だけで意味捕捉しようとするのやめろ」
「な、なんだよ」
「ひとつも合ってねーよ」
「ええっ」
 野明と遊馬の掛け合いに、熊耳がさらに肩を震わせる。野明はさすがにバツが悪くてむくれた。
「――そうだ。篠原くんに電話があったみたいよ」
 熊耳が笑いを抑えながら、思い出したように言った。 
「電話? おれに?」
「ええ。太田くんが出たんだけど。机の上にメモないかしら」
「ああ、これ――ってなんだよ、誰からか、書いてねえじゃねえか」
 太田のダイナミックな文字は、ただの数字しか書いてなかった。東京の市外局番から始まる番号だ。見た覚えの無い番号だった。
「野明、おれちょっとかけてくるわ」
「わかった。先着替えてるね」
 そう声をかけると、遊馬は軽く手を挙げながら部屋を出ていった。今日の飲み会は遊馬とだ。
「飲みにいくの?」
「あ、はい。熊耳さんも一緒に行きませんか?」
「いいえ、帰るわ。遠いし」
 一時期、熊耳は野明と一緒の寮にいたが、復帰後はまたひとり暮らしをしている。自宅は川崎にあって、ここからだと一時間弱かかると言っていた。
 そのままふたりで更衣室まで移動する。廊下を歩きながら、野明は一歩前を歩く熊耳をちらりと見た。
 復帰後も、彼女はいつも通り冷静で無駄がない。その姿は、以前とまったく変わっていない。少なくともそう見えた。野明は、そんな熊耳を見てほっとした。同時に、少しだけ胸が痛んだ。
 そんなずがないと、もう知っているからだ。
 野明も同じだ。おそらく遊馬も、他のみんなだってそうだろう。
 誰も皆、同じようでいて、毎日違う。いつまでも同じではない。
 それでも、皆同じように接してくれる。
 野明は、そんなしなやかな強さをもった人たちが好きだった。
「――そういえば、そのプランって、どんなものなんですか?」
 歩きながら、不意に質問が口から出た。
「プラン?」と熊耳も歩調を崩さずに問い返した。
「さっき言ってた」
「ああ。不測の事態への予測計画のことよ。篠原くんとまとめているの」 
「不測の事態……。でも、二課の仕事なんて不測だらけじゃ」
「そうね。でも、想定しておくのとしないのとでは、やっぱり違うものよ」
「確かに」
「ただ、今の想定は従来の出動傾向からしか分析できてなくて。今までは一号機と二号機が一緒に出動することがほとんどだったけど、これからはバラバラの出動が増えるんじゃないかしら。実際そうなってるしね」
「負担増えるなあ」
「そのための予測」
「なるほど」
「もちろん泉巡査にも、フィードバッグするわよ。それに沿った訓練もね」
「はい……。あ、えっと、なんて名前なんでしたっけ、その計画書」
「コンティンジェンシー・プラン」
「コンティンジェンシー……」
 やっぱりなんとなく嫌な響きだ。耳の奥でその単語と、サイレンの音が自然に紐づいた。あまり好きになれそうもない単語だ。だが、そう言うとまた相棒に馬鹿にされるから黙っておく。
 ところで、その遊馬はどこに行ったのか。
 更衣室に着いたところで、隣を見るが、男子更衣室に明かりはついていなかった。
「閉めるわよ」
「あ、はい」
 野明は、遊馬の気配を辿るのを諦めて扉を閉めた。
 
 熊耳が先に帰り、第二小隊の隊員室でひとり遊馬を待つ。遊馬がなかなか来ない。時計を見ると、もうそろそろ二十一時になる。お店は深夜まで営業しているし、寮には遅くなる届け出はしてあるので問題はないが、お店まで行くバスが無くなる。二課の近くから出ているバス停の最終時刻は二十一時過ぎだ。今日は飲む予定だったので、バイクでは来ていない。
 探しに行こうかと想い始めた矢先に、遊馬が隊室の扉を開けて帰ってきた。既に私服に着替えている。
「悪い」
「終わった? 行こ。バスなくなっちゃうよ」
「いや、それがさ、今日の飲み……」
 遊馬が、申し訳なさそうな曖昧な表情になる。急に不安になった。
「え? 行けなくなった?」
「いや、じゃなくて。――もうひとり増やしていいか? というか、増やした」
 出てきたのは意外な言葉だ。
「もうひとり? だれ? 熊耳さん?」
 もう帰ったが。もしくはシゲさん、ひろみちゃん。まだ二課にいるかもしれない人物を思い浮かべた。だが、遊馬は「いや……」とだけで言葉を濁す。その歯切れの悪い顔に、疑問符が数個浮かんだ。

02
 臨海副都心線東雲駅の改札付近で、実山剛はひとりで遊馬を待っていた。
 この駅に来たのは初めてだ。駅どころか、普段八王子にいる実山には、路線自体も馴染みがない。
 臨海副都心線は、比較的新しい路線だ。この駅も開業してからまだ数年らしい。小綺麗な駅舎だが、二十一時過ぎの平日だというのに人の流れはまばらだった。タクシーを降りる際、駅前のロータリーも目に入ったが、飲食店もあまりなく閑散としていた。
 同じ湾岸地区でも、篠原重工の本社があるあたりとはずいぶん違う。
 遊馬に言われてそのまま来たものの、なぜこの場所を指定されたのかは分からなかった。遊馬の住む独身寮は潮見にある。ここから歩いて行けないこともないが、路線自体も違うし、歩くには少し距離がある。
 本当にここで良かったんだろうか。
 そんな不安が頭をもたげたとき、改札ではなく、ロータリーがある方角から遊馬が歩いてきたのでほっとなった。
「遊馬さん」
「悪い。待たせた」
 近づいてくる遊馬のすぐ後ろに、見知った少女もいたので驚いた。
 少女、と表現して良いのかはわからない。だが、実山から見れば大差ないように思える。確か、遊馬よりひとつかふたつ下だったと記憶しているが、彼女自身がそれよりは幼く見えるといこともあった。
「泉さん」
「実山さん! 一緒に飲むって実山さんだったの?」
 野明も驚いて、実山と遊馬のふたりを交互に見る。
「すみません、デートでしたか」
 これはまいった。生来正直なたちの実山は、野明の存在に取り繕うことも出来ずに狼狽えた。
「ええ!? いえいえ! まかさまさか!」
「メシ食うだけだ」
 野明がオーバー気味に否定し、遊馬も素っ気なく答える。
「遊馬さん、言ってくだされば無理にとは……」
 実は、伝言を残してまで連絡を取りたがったのは実山のほうだ。たまたま本社に来る用があったということもあるが、せっかくなのでと、少し気が急いていた。だから、遊馬に連絡がついたのを幸いと、今日の今日で会って欲しいと頼んだのだ。夜も深まっていたが、彼のほうも場所を指定して良いならと応じてくれたのでこの場所に来た。まさか、連れがいるとは思ってなかった。
「じっちゃん、なるべく早くって言っただろ」
「そうですが……」
「大事な話? あたし、いて良かった?」
「いいだろ別に。つか、野明との約束が先だ」
「そうだけどさ」
「とりあえず店行こうぜ。閉まっちまう」
 遊馬はふたりを置いてさっさと移動し始めた。残された実山と野明はふたりで曖昧に笑って、一緒に歩き出す。
「ほんと、すいません。勝手な奴で……って、あたしが実山さんに言うのはおかしいか」
 野明があははと屈託なく笑う。笑顔だが、どこか困惑しているのは感じる。どうやら彼女も何も聞かされていなかったらしい。せっかくのデートをこんな老人にフイにされて少し気の毒になった。
「本当にすみませんね。久しぶりに本社に出てきたのでお茶でもと思ったもんですから」
 本当は違う用件があったが、それは言わなかった。実山もその程度の腹芸は出来る。
「ぜんぜん大丈夫です! 本当にそんなんじゃないんで!」
「お付き合いされているのでは……」
「まっさか!」
「江戸時代じゃないんだぜ。同僚とメシぐらい行くっての」
 先を歩いていて遊馬が、振り向いて呆れたようにつぶやく。
「――私だって江戸時代には生まれてませんよ」
 実山の言葉に、野明が吹き出した。

 着いた店は、駅から五分ほど歩いたところだった。個人店らしい。小さい木製の引き戸に、今どき珍しいほど年季の入った縄のれんがかけられていた。
 店内に入ると、既に顔馴染みなのか、店主が遊馬の顔を見るなり「いらっしゃい。好きなとこ座って」と告げた。
「座敷空いてる?」
「空いてるよー。あれ、お父さん?」
 店主は実山の顔を見るなり、ひとの良さそうな笑顔を向ける。
「ああ。そうそう」
 遊馬は適当にあしらいながら、奥の座敷に座った。
「……遊馬さん、ずいぶん渋い店知ってますね」
 野明に促されて遊馬の正面に座った実山は、先ほどから驚きっぱなしだった。店内はこじんまりとしているが、かなり通好みの店だ。入り口からこの場所にいたるまでの棚には、ありとあらゆる酒が並んでいた。日本酒、焼酎はもちろん、ウイスキー、バーボン、紹興酒。都心の酒場でもちょっと見ないほどの充実ぶりだ。
 社会人になって数年経過しているとはいえ、遊馬はまだ二十代前半だろうに。息子の高志がこの時分は、もっぱらファーストフード店か、ファミリーレストランの名前しか聞かなかった。駅前には全国チェーンの店もあったのに。
「ここ、安くて美味いんだ」
「あたしもお気にいりなんです」
 遊馬が何でもないように答えた。野明も慣れた様子でメニューも見ずに適当に注文を始める。
 すぐにビールが三つと、枝豆や冷や奴、ザーサイなどが出てくる。
「実山さん、ここのたこわさ、鮮度抜群なんです」
 野明がにこにこと運ばれてきたつまみを実山の前に並べる。その様子は、実山が普段接している会社の女性たちとは全く違っていた。野明の飾らない性格に好印象を持ちながらも、遊馬の隣に野明のような女性がいることが意外だった。無意識に彼の母――若くして亡くなった可憐だった女性と野明を比較していると気づき、そんな自分を恥た。
「お詳しいんですね」
「好きなんです。酒屋の娘なんで」
「こいつすげえぞ。ザル」
「へええ」
「つまみにも一家言持ってますから! ここはあたしが太鼓判を押してる店なんです。ぜひぜひ食べてください」
 野明はなぜか自慢げに胸を張ると、嬉しそうに箸を持った。つられて実山も遊馬も箸を取る。
 野明の言う通り、どれも素朴だが絶品だった。しばらく他愛もない話が続く。野明が北海道生まれで、魚介類にうるさいことなどを知った。
 もっぱら喋っていたのは野明と実山だ。野明がイングラムに愛着を持っているのは実際に見聞きして知ってはいたが、その深度は実山の想像以上だった。蕩々とイングラムの良さを語る野明の隣で、遊馬がうんざりした顔で黙って聞いている。だが、その瞳にはどこか優しさと温かさが宿っていた。
 その顔を、実山は見た記憶がなかった。
 生まれたときから知っているというのに。
 知らないどころか、遊馬がこんな表情をする人物だいうことにすら、今の今まで思い至らなかった。 
 ――こんな、染み出すような感情をまとう青年だったのか。 
 野明がイングラムへの愛を語る度に、遊馬の湧き上がる感情が見えるようだった。それは目の前のビールの炭酸のように、あとからあとから絶え間なく立ち昇っていく。
 ジョッキに残ったビールを流し込みながら、実山は静かにそれを味わった。
 久しぶりに充実した気分だ。当初の予定とは違ってしまったが、このままでもいい気がした。
 だが、その気分を当の遊馬が打ち切った。
 彼は自分のジョッキを空けてもう一杯注文しながら、「――で? 用ってなんなの?」と切り出しだ。
「え? ああ、いえ。大したことじゃ。久しぶりに本社に来たので、遊馬さんどうしてるかなと思って」
 先ほど野明に伝えた用件と同じ言葉を告げた。もう本来の用件は伝えるつもりはなかった。せっかくリラックスしている遊馬を刺激したくはない。だが遊馬は、はなから信じてないとでもいうように口先を歪ませた。
「忙しい常務様がそんなわけないだろう」
「遊馬」
 野明が少し眉を寄せてとがめる。だが、遊馬はそれを無視してこちらをじっと見た。先ほどとは打って変わって冴え冴えとした瞳で、まるで実山自身を射抜くように突き刺さした。
「だろ?」
「……」
 実山は、無意識に膝の上で拳を強く握った。
 実際、その通りだった。
 遊馬はずっと気にはかけている存在だが、ここ数年は実山のほうから連絡を取ったことなどないことに今さら気がつく。最後に実山から遊馬個人を尋ねたのは、篠原家の儀礼……遊馬の兄の法事について話をしに行ったときだけだ。
 思い掛けないところで自分の薄情さを見透かされたようで、ぎりりと心臓が悲鳴をあげた。
「いいって。それは別におれもだし」
 遊馬は少し相好を崩しながら柔らかく促す。その遊馬の様子に、実山はしばらく考えあぐねていたが、居住まいを正して切り出しだ。
「――遊馬さんたちは、レイバーの事故処理などもされているんですよね」
「事故? 車みたいなって処理って意味?」
 意外な質問だったのか、遊馬が驚いた顔で聞き返す。
「ええ」
「そりゃ、基本は交通課の仕事だよ。呼ばれることも多いけどな」
「そうなんですか?」
「レイバーも車両だからな。大もとの管轄は交通課だ。そもそもレイバー隊っていったって、第一小隊と合わせたって六機しかないんだぜ? そのうち稼働しているのは四機だ。それで都内一万台を超えるレイバーの事故を網羅するなんて無理に決まってるだろ」
「そうですよね……」
「バビロン・プロジェクトの工区で発生した事故なんかは基本的に出動がかかりますけどね。あそこは道路交通法が及ばない場所なので」
 野明が補足した。
「てか、そんなんじっちゃんだって百も承知だろ?」
「いえ、そうなんですが……」
「それがなんなんだよ」
「あ、いえ」
 言いよどむ実山に、遊馬は肘をついて明らかに苛つきながら「あのさ」と続けた。
「そっちの手の内隠したまま、人から情報だけくすねていこうとするのやめてくれねーかな」
「ちょっと遊馬!」
 野明が慌てて叱責する。だが、遊馬は「なんだよ」と野明をぎろりと睨みつけた。
 言い方ってもんがあるでしょーよ! とこちらを心配しながら取り繕う野明をよそに、実山は仰天していた。ずっと以前に、まったく同じセリフを投げられたことがあるからだ。
 ――その態度から言い方から何から、彼の父親の若い頃にそっくりだった。
「――」
 そのまま固まってしまった実山の時間を、野明の怒声が動かした。
「ほんっとさあ! 誰でも彼でもケンカふっかけるのやめなよねっ!」
「別にふっかけてねーよ」
「ど、の、く、ち、が、言ってんのっ!?」
 野明が遊馬の胸倉を掴み、ギリギリとしめ上げようとする。その顔を、遊馬は「あー、うるさい」と言いながら手のひらで押しのけた。
「じっちゃん、おれは別にケンカをふっかけてるわけでも、怒ってるわけでもないよ。ただ、理由も言わずに、上から目線で利益だけを持っていこうとする奴が嫌いなだけだ」
「遊馬さん……」
 彼の言う「上から目線」が誰のことを指しているのか、実山が一番よく知っていた。だが、遊馬は言葉どおり特に怒っている様子もなく、淡々としている。以前の彼なら、ここで完全に心を閉ざしていただろう。その変化に、実山は驚かされた。頑なだった彼を変えたのは、遊馬の隣で顔を押さえつけられてキーキーと怒っている少女なのだろう。遊馬は、実山に厳しい言葉を告げたその口で、少女をからかいながらゲラゲラと笑っていた。
 実山は、遊馬を「こういった人間だ」と決めつけていたこと、そのうえで彼の言う通り、自分の思い通りに彼を動かそうとしていたことに恥じ入った。
「――すみません、遊馬さん。泉さん。私が卑怯でした。ちゃんと説明します」
 実山は、ふたりに深々と頭を下げた。野明と遊馬は、顔を見合わせると、そのまま黙って実山を向いて座りなおした。
「――実は、最近うちのレイバーの故障報告が急増しているんです」
「故障? 事故じゃなく?」
「はい。幸い……というか、事故になる前に連絡がくることがほとんどなんですが、とにかく次からつぎに連絡がくるありさまで」
 その報告を聞き、野明の顔に険しい影が差した。普段は陽気で、どこか抜けた雰囲気を持つ彼女だが、レイバーについての話になると一気に真剣な顔つきになる。
「機種は? 特定出来るの?」
「いえ」
「故障箇所の特定は?」
「それも……」
 実山は力なく首をふった。
「どういうことなの?」
 遊馬は、いっそう訝し気に険しい表情になる。
「故障箇所として報告があがってくるのは、ごくごく軽微なものが多いんです。モーターの音がおかしいだの、エアコンの効きが悪いだの。ひとつひとつはそこまで深刻じゃないんですが、とにかく数が多くて、すべての対応に追われる始末で」
「法令点検は?」
「きちんと受けているものばかりです。記録も確認しましたが、不備はありません」
「それなのに故障が増えている……」
 遊馬が考え込むと、実山は困ったように言葉を続けた。
「それで、篠原側も故障の頻度が上がっているのを重く見て、今後販売するレイバーすべてを、基本メーカー点検に変更するという話が出てまして。軽微な故障でも、放っておけば重大なトラブルに繋がる可能性があるので」
「すべて? 原資は? キャパは?」
「……」
「馬鹿じゃないのか?」
 実山はなにも言えなかった。二十歳そこそこの部外者の遊馬でさえわかることが、どういうわけか篠原の上層の一部にはわからない。わからないというより、高を括っているとしか思えない。
「キャパも原資もないくせに決行してみろ。現場が混乱するのは目に見えてるじゃないか」
 遊馬が呆れながら、手許にあったフライドポテトを口に放り込む。実山も釣られてビールを口に含んだ。いく分温くなってはいるが、炭酸を含んだアルコールが喉で跳ねて美味かった。
 アルコールの度数分だけ滑らかになった口から本音が漏れる。
「向こうさんのいい分もわかるんですがね。もともとレイバーは、超電導モーターやらで、かなり専門分野に偏った機体ですから。ですが……」
 自分たちが製造し、販売したものを最後まで見守るといえば聞こえはいいが、点検するのは結局は「人」だ。そこに、メーカーと民間の整備会社の違いがあるとは思えない。
 独立系の整備会社だって無能ではない。もし仮に製造過程でのなんらかの不備があってこの事態を引き起こしているのならば、なおさら彼らにも公開して共有して、教えを請う態勢を作って地道にやっていくほかはない。町の部品屋から裸一貫で身を起こした実山はそれを痛感している。
 だが、実山のその思いは、既に篠原の中では異質な分類になっていた。
「上ははそりゃ、そう言ってりゃ良いけどさ」
 レイバーは、車と同じで維持に金がかかる。それにレイバーを購入する多くは企業だ。いくら篠原が素晴らしいものを作ったとしても、維持に莫大な金がかかれば、必竟ひっきょう購入者は他に流れる。
「ねえねえ」
 野明が不思議そうな顔をして、遊馬の袖を引っ張った。
「そもそもメンテナンスって、メーカーがやるもんじゃないの?」と、話の流れがよくわかってないセリフを吐いた。野明が乗るイングラムは、榊やシゲを筆頭に専用の整備班が数十名はいるし、製造元の篠原重工が百パーセント整備保証をしているため、ピンとこないのだろう。
「メーカーだってやるさそりゃ。でもメーカーだけじゃ販売台数に対してペイできねーんだよ。高いしな。車だってそうだろ。おまえんちの配達で使ってる軽トラ、故障したらいちいちメーカーまで持っていくのか?」
「ううん。近所の板金屋」
「そういうこった」
「なるほど」
 野明にも分かりやすいように噛み砕いて説明する遊馬と、素直にうなずく野明がまるで兄妹のようで見ていて微笑ましい。一瞬、ほんの一瞬だけ、高志と一驥が、幼い遊馬の質問に丁寧に答えていた絵が浮かんで消えた。
「確かに数は少ないんですけどね。レイバーはまだ民間で点検できる企業がそれほど多くありませんし」
「あることはあるんですね」
「ええ。老舗の部品屋とかは、特殊車両を扱ってきたノウハウがありますからね。その流れで。最近は外資系の『シンチー』なんかも参入してますね」
「シンチー?」
「星の崎って書いてあるシール。最近よく見るだろ」
「あ、あれ『ほしざき』じゃないんだ」
 初めて知ったと驚く野明に、遊馬が呆れ、実山は苦笑いした。
「それは、篠原の機種だけなの?」
 遊馬のそもそもの問いに、実山が顔をあげる。
「そこがわからないんです。篠原の機種だけが増えているのか、他のメーカーもなのか。他のメーカーも同じように増えているなら」
「作業環境がレイバーに適してないってことか……でも、じっちゃんそれは」
「わかってます。レイバーは特殊環境化で扱う機体ですし、開発した際には、もちろんそこら辺も実験してます。ただ、どうにも理由がわからないと手の打ちようもなくて」
「――それで? おれに何をさせたいの?」
 遊馬はズバリと結論を急かした。必要な情報はだいたい聞いた。これ以上は報告ではなく愚痴に傾く。その核心だけを突き詰めようとする姿勢は、あまりにも彼の父親を彷彿とさせた。遊馬の父一馬も、同じように無駄なものを切り捨て鋭く事の本質に切り込んでいく。だから、実山も率直に頼むことにした。
「警察でここ最近のレイバーの事故――傾向でもわかれば、教えて欲しいんです」
「無理だ」
 遊馬も率直に返した。
「遊馬ってば」
 野明が横でたしなめる。だが、その野明も実山の依頼には微妙な顔をした。
「じっちゃん、おれたちには守秘義務がある。たとえ軽微な事故だとしても、情報提供は無理だ」
「そうですよね……」
 実山は小さく息を吐き肩を落とした。だが、どこかで納得もしていた。遊馬は、情に厚い男だとは思うが、情に流される男でもないことをここ数年で学んでいた。それなのにこんなことを頼んだのは、自分も彼の成長にひと役買っているという自負があったからだ。実山は、自身が情に流されやすい脆い人間であると知っていた。それが少しでも遊馬にあればと思った。
 けれど、やはり自分のしたことなど遊馬の人生のほんの一端に過ぎない。実山は、つくづく自分の矮小さに嫌気がさした。同時に、遊馬の芯の強さを誇らしく思った。
「じっちゃん……」
 黙り込んでしまった実山に、遊馬が気遣うように声をかけた。
「ああ、いいんですよ。それは当然です。遊馬さんには遊馬さんの立場があるんですから」
「遊馬、お願い聞いてあげれば?」
 取り繕おうとした実山の言葉を遮る形で、野明が言った。
「はあ?」
「いいじゃない。遊馬だって、いつも実山さんに無茶なお願いしてるでしょ」
「――なんで知ってんだよ」
「だって遊馬、親しい人には無礼じゃない」
「おまえな」
 遊馬が呆れたような顔をした。
「おれたちゃ腐っても警察官だぞ。民間人に事件の内容を」
「教えなければいいじゃない」
「はん?」
「結果を実山さんには教えなければいいんでしょ。何もなければそれで良いし、なにかあったら、実山さんじゃなくて然るべきところに届ければいいだけなんじゃないの?」
 あっけらかんと言ってのける野明に、遊馬も実山もいささか唖然とした。だが、その言葉は一理あった。
 遊馬は、「なるほどね」と独り言ちながら、実山に「それでいいか?」と尋ねた。
「ですが、それでは……」
 それは、実山が負っていた事態を遊馬に丸投げすることでもある。さすがにそれは申し訳ないという気持ちが立った。
「いや、そのほうがこっちも都合がいい。篠原とは切り離せるから」
 篠原重工の事情や、実山の思いを乗せてしまうから自体は重く深刻になるのであって、その実、やってほしいこと自体はシンプルだ。
「――わかった。どこまで調べられるかわからないけど、やってみるよ」
「遊馬さん、ありがとうございます!」
 実山は大仰に礼を言った。野明もにこにこしている。方針がいったん決まったところで、遊馬が思い出したように「用ってこれだけ?」と聞いた。
「そうですが」
「なんだ」
 遊馬が気の抜けたような顔になる。
「どうしました?」
「いや、てっきり――まあ、いいや」
 遊馬は途中で言葉を切り、そのまま肘をついて視線を外した。
 その先の言葉を実山はすぐに理解した。篠原の家――もっといえば一馬がらみで何か話があって、遊馬を呼び出したのだと思ったのだろう。それも無理はない。
 実山は、自分がこれまで遊馬に強いてきたプレッシャーの重さを改めて自覚し、悔いの念がこみ上げてきた。
 だが、それでも遊馬は実山の呼びかけに応じてくれたのだ。それは、自分が遊馬と築いてきたものを、遊馬が受け入れてくれているということだ。実山は、それを包むように自分の胸にしまった。
 すると、しばらく黙って遊馬と実山を見比べていた野明が、何かに気づいたように「あ、そうか」と手を打った。
「遊馬、お父さんのことでなんか言われると思ったのか」
「ええっ?」
 あまりの直球な言葉に、実山は驚くよりも先に吹き出してしまった。野明は、これまで遊馬や篠原の家の間で半ばタブーになっていることをなんの|て《・》|ら《・》|い《・》もなく口に出す。今も、無邪気に「ねえ?」と遊馬に向かって聞いた。その顔は、たぶん何も考えてない。
「おまえ――」
 遊馬はゆっくりと野明に向き直ると、素早く彼女の頭をホールドし、「ちったあ、『含み』ってもんを覚えろ!」と、拳でぐりぐりと押しつけた。
「いだだだだだっ!」
「ちょ、ちょっとちょっと、おふたりとも!」
 その後、実山は激しい兄妹喧嘩を止めることに始終する羽目になった。

 深夜の風は日中より濃く、少し重い気がする。昼間は気がつかなかった街の匂いや音。それらが風に乗って実山の身体に触れる。それがアルコールで上がった体温に心地よかった。
 三人は居酒屋を出てから誰ともなく晴海通りへと歩いた。時刻はもう深夜を少し過ぎている。実山はこれから自宅のある調布まで帰らねばならない。晴海通りでタクシーが捕まるといいが。
「泉さんもタクシーですか?」
 実山は、上機嫌で隣を歩く野明に聞いた。彼女がどこに住んでいるのかは知らなかった。ここから距離があるなら、彼女を先にタクシーに乗せなくてはならない。
「あ、いいえ。あたしの寮ここから近いんです。東雲寮。晴海通り渡ったらすぐです」
 野明は、にこにこしながら晴海通りの交差点を指差す。
「実山さんは?」
「私は調布です」
「じゃあタクシー、銀座方面ですね――あ! ちょっと先行って捕まえてきますね!」
「転ぶなよ」
 野明は、遊馬の声かけにピースをしながら、点滅している信号を先に渡った。
 信号が赤に変わる。実山は、遊馬と並んで待った。
「だから東雲だったわけですね」
「――たまたまだ」
 実山は、遊馬のそっけない返事が面映ゆくて微笑んだ。
「なんだよ」
「いいえ。遊馬さん、変わられましたね」
 遊馬は答えなかった。聞こえなかったのだろう。なんとなく、それ以上言葉を使う気にならず、黙って信号の目盛りが減るのを見つめた。
 しばらくして信号が青に変わる。歩き出そうと一歩踏み出すのと同時に「――変わってないよ」と遊馬の声がした。
「え?」
 遊馬はそのままスタスタと振り向かずに横断歩道を渡っていく。出遅れた実山は、彼を追いかけるように小走りに歩いた。
「変わってないよ、おれ」
 渡りきったところで、遊馬はくるりと振り向いて実山を見た。「変われないんだ」と、また小さく言った。
「――じっちゃんは、自分が昔の自分と変わったって思う?」
 実山は遊馬の問いに少し戸惑った。昔の自分から変わったか――そう問われると。
「どうでしょうね……変わった部分もあるし、変わってない部分もある……いや」
 変わったと、はっきり言える根拠は無かった。
 昔とは状況も立場も違う。それに合わせて確かに選択肢は増えたが、結局はいつも同じものを選んでいる気がする。だから、変わったかと言われると――。
 遊馬は少しだけ目を細めて、微かに笑った。
「そんな簡単に変われないんだよ」
 その言葉には、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。実山は、遊馬が口にしたその言葉の奥に、父親との関係が垣間見える気がした。どれだけ距離を置いても、あるいは反発しても、血の繋がりというものが完全に断ち切れることはない。遊馬にとって父親は、変わりたくても変わりきれない自分の一部を映し出す存在なのだろう。
 それでも――。
「あすまー、タクシー来たよー!」
「おーう!」
 扉を開けたタクシーの前で、野明がぴょんぴょん跳ねている。遊馬は実山の鞄を持つと、彼を促して少し歩調を早めた。背中に添えてくれた手が大きい。気がつかぬ間に、彼は実山を支えてくれるまでになっていた。
「それでもね――遊馬さん」
「ん?」
「それでも私は、泉さんと一緒にいるときのあなたが好きですよ」
 人はそう変われない。けれど、相対する人への接し方はそれぞれ違う。遊馬が少しでも呼吸のしやすい場所にいてくれたら。
 実山は、自分が与えることが出来なかったことを悔いながらも――それだけは切に願った。
「実山さん、今日はありがとうございました。奢ってもらっちゃってすみません」
「いえいえ。楽しかったですよ」
「あたしも楽しかったです。気をつけて帰ってくださいね」
 野明は最後までにこにこと挨拶すると、一歩後ろにさがった。実山がタクシーに乗り込むと、すぐ運転手から「調布ですよね」と確認される。それに頷いていると、「じっちゃん」と、扉の外から遊馬が鞄を膝に置いた。
「遊馬さん、今日は」
「――頼ってくれて嬉しかったよ。じゃあ、また」
「え……?」
 実山は驚いて顔を上げるが、扉が閉まってしまい、遊馬の顔は見えなかった。そのままタクシーは、彼らを置いていく。
 後ろをずっと振り返っていると、車窓から彼らがふたりでまた歩き出していくのが見えた。
 遊馬と野明は、ゆっくりとふたり並んで歩いていき、やがて見えなくなった。
「――」
「お客さん、木場から高速乗っていいですか?」
 運転手が実山に尋ねる。
「ああ、ええ。調布から三鷹のほうに上がってください」
 実山は、前に向き直って運転手に告げると、ほうっと大きく息を吐いた。遊馬から受け取った鞄の持ち手がやけに熱かった。
 その持ち手をなんとなく撫でながら、自分が彼に頼み事をしたのが初めてだと気がついた。
 いつの間にか――。
 人はそう変わらない。変わりたくてもがいて、それでも変われない心を抱いて泣き続けるしかない。生きていればそんな日もある。
 それでも、いつの間にか景色が変わり、空気が変わり、世界が変わる日がきっとくる。
 変わらない自分を、変わらないままで許せる日がきっとくる。
 そして、人はまた歩き出せる。
 実山は、そう強く信じた。
 車窓を見ると、いつの間にか高速に入っていた。これからしばらく同じような風景が続く。無機質でどこか味気ないグレーの世界だ。たがそれも一時間程度で終わるだろう。
 実山はつかの間目を閉じて、この余韻を味わうことにした。
 ――今日は、実にいい酒だった。
 

 
 

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