春が近いといっても、海のそば、しかも吹きっさらしの建物は寒い。
風と一緒に吹き込む湿気と潮。本来ならこれほど精密機械には不適切な場所も無い。けどまあ土地がないんだからしょうがない。精密部はなるべく水滴に強い素材で覆うしかない。
どうしようもないならこっちから折り合いをつけて上手く付き合うしか道はないのだ。
そのための「知恵」なのだから。
「知恵」ねえ――。
くるくるとペンを回しながら、ぼんやりと取りとめの無いことを考える。
ペンを回すのは学生時代からの癖だ。考え事をする時にもしてしまうが、してないときにでもついやってしまう。
要するに注意散漫で心ここにあらずの時にしてしまうのだ。
それはそのまま仕事が手についていない証拠だった。
目の前には書きかけの書類。中身は「98-AVイングラムの効率の良い稼働環境と悪い環境、それぞれに起動させた場合のパーツの損傷数値をピックアップして、できるだけ『どんな困難な状況でも』安定した数値にするためにはどうしたら良いか分析、検討する――」とまあそんな内容だ。
数値は電算室で弾き出してるし、状況も分析できてる。加えてそれぞれの状況下を説明する案件だって過去の事件から抜粋してるから資料自体は全て揃ってるっていっても過言じゃない。
もともと得意分野の書類ではあるのだが……。
まだ半分も埋めてないのに既に訂正印の嵐だ。
わりとどうでもいいところで几帳面なため、そんな書類に心の中で眉をしかめる。自分がやったのだからなおさらだ。
「すいません熊耳さん、新しいヤツもらってもいいっすか?」
「三回目よ篠原君」
斜め向かいに座る落ち着いた感じの女性がこちらに視線を送りながら言った。
にこやかではないが、かといって怒っているわけではない。
だからといってこちらがのほほんと笑ってたらうやむやに許してもらえるって雰囲気でもない。
正直よっぽどおっかない。
「はあ、すんません。普段キーボードで打ってっから漢字忘れちゃって。読めるんすけどね」
書きかけの書類を手で破りながら、取り繕うように微妙な笑顔で場をごまかす。一応恐縮するそぶりは見せて首も竦めた。
好きで間違えてるわけじゃし。
自己嫌悪なら既に味わってる。
――いろんな意味で。
「そうね。はい、それ、今日中に上がるの?」
とっくに提出日を過ぎている書類のフォーマットを渡しながら上司が聞く。
「はあ……まあ俺はすぐにでも……」
ごにょごにょと言葉を濁してちらりと、熊耳とは反対側にある机を見る。
隣の机はからっぽだった。
居心地が悪い。
書類は搭乗者と指揮者各々の観点から分析した書類でワンセットだ。野明の分が無いと話しにならない。
それはわかっている、の、だ、が……。
「その書類、篠原君だけじゃ意味がないから」
そっけなくそれだけ言うと、彼女はまた自分の書類に目を落した。あとはもうこちらには無関心だ。
取り合えず、そう見える。
「はあ……どうも」
もうこちらを向いていない顔にひょっこりと首だけ動かして会釈する。
なにが「どうも」なんだろう 我ながら冴えない言葉に首をかしげながら真新しい書類に目を向ける。
あ。
さっきの書類破いちまった。
そのまま写したら早かったのに。
屑かごにいれたばかりのびりびりに破かれた書類に目を落として思わず肩を落とす。
「集中できないようね」
「はい?」
屑入れからとっさに顔を向けると、先ほどの上司が静かに見つめていた。
「少し空気入れ替えてきたら。そんな調子じゃ効率悪いでしょう?」
――嫌味かそりゃ。
今書いている書類が「効率化を目指す」というものなのだからそんな風に聞こえてしまう。が、あまりにひねている考えを慌てて打ち消す。
いかん、いかん。
「あー……っと……」
そうですね、確かに散漫です。自覚もしてます、すいません。
ぽりぽりと鼻の上をごまかすように掻くが、相手の顔は見れないし、言葉にも出せない。
正直な気持ちなら、なおのこと。
「風にでも当たってらっしゃい、書類は明日までに机の上に置いておいてくれればいいから」
もちろんそれは野明の書類とセットにしてってことだろう。
穏やかだが有無を言わせない口調で熊耳がゆっくりと命令する。口調は優しいが、明らかに命令だ。
曰く、「泉さんとさっさと仲直りなさい」
「あー……っと……」
もう一度ごにょごにょとこぼして席を立った。
確かにこれ以上ここにいて書類とにらめっこしていても徹夜したって出来ないだろう。
「すんません、それじゃ……ちょっと」
それだけ言うと、そそくさとハンガーに通じる扉を開ける。
「おい、しのはらぁ! キサマ待機中だろうが、どこフラフラ行く気だ!」
出会い頭に、耳障りなでかい声が無遠慮に響いた。
機体の整備を終えた太田が、紳士と一緒にこちらに向かってくる。
あーうざ。
「ちょっと外の空気吸いに行くだけだよ」
「たるんどる! 昼メシ食ってからまだ一時間もたっとらんのだぞ!」
「うっさいなあんたは、いちいちでかい声出すなよ」
常に威圧的な態度で来られるのでついこちらも喧嘩腰になってしまう。
高圧的な男は「誰か」を思い出すので、嫌いだ。
それを差し引いてもこの単細胞の男はいちいち勘に触ることを言う。
「まったくお前がそんな軟弱な態度でおるから職場に亀裂が走るのだ! 今朝の泉との一件といい……もががっ!!」
「太田さん! そういえばぼく、今日多美子さんが作ったカップケーキ持ってきたんですよぉっ!」
太田の最後のほうの言葉は隣にいた紳士によって口をふさがれた。背は高いが、非力な紳士が一所懸命太田を羽交い絞めにして詰め所に引き込もうとする。
「放さんか紳士ぃっ! 俺は今日こそこいつに社会人たる姿勢を……っ!」
「はいはい。じゃあお茶でも飲みながらにしましょうよ」
「あほかっ! さっき昼メシ食ったばかりじゃっ!」
「いいじゃないですか、多美子さんのケーキ美味しいんですよ」
「だぁっ! そんな甘ったるいモンすぐに食えるかぁ! そうやってプライベートと職務をごっちゃにするから、職場でも憚らず痴話喧嘩する輩が……!」
「なんだよ、痴話喧嘩って」
その言葉にさすがにカチンと来る。
「痴話喧嘩じゃねぇか! 『優しいの優しくないの』とかなんとか臆面も無くがなりやがって聞くに堪えんわっ!」
「じゃあ聞かなきゃいいだろうがっ!」
「なんだとぉ!!」
頭ごなしに言われるとつい反抗して言いすぎてしまう。
今朝と同じことの繰り返しだが、いきなりは直らない。
なおもいきり立つ雰囲気に、「太田くん」と静かな声が響いた。
「あの書類どうなっていたかしら。私まだ見せてもらってないんだけど?」
自席で熊耳があくまでも静かにその場をさえぎる。
「は……いや……あの……」
いきなり見当違いな方向から攻撃を受けた太田は、動揺してごにょごにょと萎える。
「昨日までなの」
わかるわね?
にっこりと例の口調で、「いい加減にしなさいよ」
「はっ! 只今すぐに提出させていただきますっ!!」
カチンコチンに緊張したバカ男は、そのままこちらも見ずに部屋に入っていった。
もうヤツのオツムには俺の存在なんざ無いだろう。
やれやれ。
「明日の朝まででいい」と言ってくれた上司は、こちらをちらりと見て軽く笑んだ。
――やれやれ。
「じゃあ、遊馬さんはついでに残りの人達も呼んで来ていただけませんか。お茶にしましょう」
「ああ、……うん」
ぺこりと頭を下げてお願いする紳士に、気の抜けた返事を返す。
のこりのひとたち。
――どいつもこいつも、なんやかんやと……。
なんだか自分がひどく手のかかる子供のようでため息が出る。頭ではわかっていても感情を持て余す。
だからま、まあ。
実際そうなんだろうけど――。
張りのある陽射しは、確実に季節が変わることを知らせている。
まだ春の盛りとは言えないが、凛とした空気は徐々に緩んできていた。
吸い込む息も、温度が上がっているおかげで沢山吸い込める。
ぶらぶらと心もち億劫そうに二課棟の裏、海のすぐ脇にある手製の園芸畑まで来ると、案の定いかにも即席といった温室の中にうずくまっている巨体を見つけた。
ビニールハウスの入り口を、ノックするように軽く叩くとポスポスっと気の抜けた音がした。
「ひろみちゃん、お茶だってさ」
「ああ、遊馬さん。ありがとうございます」
小さな温室になんとか収めました、という感じの男がにこやかにふり返る。
いつも機嫌の良さそうな穏やかな雰囲気は、誰が見てもほっとする。
そういう丸みを持った男を見て、ほんの少しだけ羨ましいと感じる。
「お茶菓子ありましたっけ?」
「なんか紳士さんの奥さんがケーキ作ってきてくれたらしいよ」
「ああ、ケーキですか。それはいい」
にこにこと後片付けをするひろみを手伝って箒やチリトリをまとめる。
「ありがとうございます。じゃあ一緒に戻りましょう」
「うん、……あ……や……、残りのヤツら集めてこいって紳士さんに言われてるから……」
ぼそぼそ。
「ああ……屋上じゃないですか?」
誰、とも言わないのに即座に答えが返ってくる。
「ああ……そう。……ふーん」
と、いわれても何となくぐずぐずとあたりを見回す。
ここにいてもしょうがないが、さりとて「はいそうですか」とすぐいけるほど厚顔でもない。
手持ち無沙汰で落ち着かない。
心も。
ひろみはいつものように、様々な園芸用品をきちんと元あった場所に置いている。その様子ひとつとっても、植物、そして器具にまで愛情もって接しているのがわかる。
仕草がとても優しいのだ。
自分には全くもって欠けている部分だろう。
手には、様々な形の葉を持っている。
「なんだ、それ? 雑草?」
「え? ああ、これですか? いやだなぁ、ハーブですよ。お茶にするととってもいいんですよ、どうです遊馬さんも?」
「……いや……ありがとう……いい」
何がどう「いい」んだ、葉っぱじゃねぇか。太田じゃないが、自分もいまいちそういう世界はわからない。
ひろみはそうですか、と言っただけで別に気にした様子も無い。
「――ひろみちゃんくらい人間が練れてると人生楽そうだよな」
ぼそっと、言葉がうっかり出てしまった。
「え?」
怪訝そうに見返した顔に、少しばかりの困惑を見つけて、慌てて取り繕う。
「あ! や、すまん、ごめん! 別に馬鹿にしてるとか見下してるとかいう意味では全然無くってっ! その、羨ましいって意味で言っただけだから……」
羨ましい? 誰が?
自分で言った言葉に少しだけ戸惑う。
「ああ……、ええ、わかってますよ」
すぐに元の笑顔に戻ったひろみは、いつもの通りにこにこした笑顔で態度を崩さない。
「どうされたんですか、今日は」
逆に心配そうに気遣いの言葉をかけてもらう。
ああ……やっぱり俺はどっか成長できてない。
「泉さんも今日はなんだか元気なかったですし。喧嘩でもなさったんですか?」
ひろみは今朝の一件を知らない。
「あー……や、いつものやつよ。別に俺は気にしてないんだけどね。うん、全然。なに、あいつなんかやらかしたの?」
「ええ、鳥達の卵集めるの手伝ってくださったんですが、なんか全滅させちゃって」
「うわ、馬鹿だね――」
自分だって、先ほどから書類を全滅させているのだが。
「頭切り替えるって言ってさっき屋上のほうに上がっていかれましたよ。だからてっきり遊馬さんと何かあったのかと思って……」
「なんで俺よ」
「いやあ、泉さんが動揺するのって遊馬さんが絡んでることが多いから」
「……」
――いうね。
朗らかな言い方だが、結構はっきり言ってくれる。当たっているだけに耳が痛い。
その台詞、なんだか嫌いじゃないけど。
「いやあ、くっだらないことさ。ほーんと。あんなムキになることじゃないのにさぁ、あいつも。なんか知らんけどイヤにぷりぷりと怒っちゃってさ」
困ったヤツだ、と言わんばかりにため息をつく。
「遊馬さんは、怒ってないんですか?」
「俺?」
おれ――は……。
「いや、別に? そんな大人気ない」
カラカラと笑い飛ばして顔の前で「いやいや」という身振りをする。
ウソではなかった。
けれども、笑顔とは裏腹に何かがひっかかる。
どうしてだろう、もう怒っているわけではないのに確かに、何かがひっかかっている。
「泉さんもですよ」
何気ない調子でひろみが答える。
「あん?」
「いや、泉さんが動揺してたのって、なんかもっと別の次元みたいだったから」
「別って?」
「いやあ……喧嘩の内容がどうのよりも、遊馬さんと仲たがいしてしまったことにだいぶショックを受けてたみたいだったから」
「……え?」
馬鹿みたいだが、さっと紅潮してしまったのが自分でもわかる。
「え……いやぁ……あはははは」
つられてひろみも何故か赤面する。
「あはははは」
「あはははははははは――」
お互いに何となく、気まずい気恥ずかしい雰囲気を笑って誤魔化す。
「まあちょっとは、こっちも……。まあ、あいつがそんな気にしてんだったら……俺もあそこまで言うつもりじゃなかったし……」
ぽりぽりと鼻の頭を掻き気ながら、言い訳のように呟く。
「俺は間違ってないとは思うんだけどね」
「それは泉さんもでしょう」
「うん。多分ね」
「傷ついたんでしょう」
「あー……ちょっと、言い方はきつかったかも」
あそこまできつく言うつもりは無かった。
喧嘩の内容だって、はっきり言えば「ああそうですか」で済んだことなのだ。
誰だって違う人間なんだし、意見が違ったって当たり前だ。
そこまで狭量じゃないと思っていたのだが、どうも最近野明に対して気持ちが小さくなっている気がする。意見が違うと何故だかイライラしてしまうのだ。
「いえ、そうじゃなくて。遊馬さんが傷ついたんじゃないですか?」
「おれ?」
意味がわからず聞き返す。
「ええっと……泉さんも遊馬さんも、意見が食い違ったりお互い分かり合えないことにすごく傷ついているみたいです……。何となくですけど」
ひろみが何故か照れくさそうに小さな声で言う。
だが、その言葉が妙に心に纏わりついて離れなかった。
「……ああ、そっか」
ぽかんと、した表情でひとつだけ言葉が漏れる。
そうか。
傷ついたのか、あいつ。
傷ついてたのか。
おれ。
「もういい!」と言って背を向けた野明を見ながら、「なんなんだよっ!」と怒っていたのに。
それからずっと、イライラして仕事も手につかなくて。
野明の後姿だけが目の奥にちらついて。
あれは、そっか。
怒っているわけじゃなかったんだな。
じゃあお互い共倒れなわけだ。
傷ついてたんだ。
そっか……。
ふーっと深いため息が出て、思わずしゃがみこむ。
なんか。
なんっか……。
「どうしたんですか?」
ひろみが驚いてしゃがみこんだ遊馬を心配そうに見下ろす。
「――かしい……」
「は?」
「馬鹿馬鹿しいわ。なんかすげー自分にがっくりきた」
ほんと、がっくり、きた。
どうして人は。
本意でないことで、他人を傷つけて。
それ以上に、自分も傷つかなきゃならないのか。
「人には知恵がある」なんて誰が言ったんだろう。
自嘲めいた顔で、上目遣いにひろみをみる。
春の陽射しを背に受けたひろみは、何かを探すように少しだけ考えるとゆっくりと喋りだした。
「人の気持ちは、簡単には測れないと思うんですよ。自分自身も含めてね。時には伝えたいことを間違えてしまったり、何を伝えたいのかすら自分ではわからないことだってあるんじゃないでしょうか」
人の気持ちなんてわからない。
誰ひとり、傷つけることなんて望んではいないのに。
あいつの傷ついた顔なんて見たくないのに。
それでも。
傷ついたあいつの気持ちなんてわからない。
傷つけた自分の気持ちもわからない。
自分の気持ちなんて。
なおさら。
何度も何度も、繰り返し繰り返し。
同じところで止まって絡まって回りつづけて。
「――そういうの、いつになったら上手くなるんだろうね」
いつになったら他人の気持ちも、自分の気持ちにも正直に生きられるんだろう。
そんな日は来るのかね?
しゃがみながらぼんやりと海を見つめて呟いた。
「さぁ……」
ひろみがやはり遠くを見ながら少し困った声で曖昧に笑う。
「でも、人は優しい生き物ですよ。――そう、思います」
「…………」
温室の外で、海鳥が一度だけ鳴いた。
まるでそれが合図のように、陽射しはいっそう春色を帯びて海面が一面金色に輝く。
柔らかい春の風が海から吹いた。
呼吸する息も、もう白くは無い。
冬が終わった。
「さ! じゃあ僕は先に詰め所に戻ってますね」
ひろみがすっと視線を戻し、背筋を伸ばして笑顔で言った。
「うん……あ、じゃあその葉っぱのお茶作っといてよ。飲んでみたいわ、それ」
遊馬もぱんぱんとズボンについた土を払いながら、さっぱりとした笑顔で答えた。
「ええ、じゃあ泉さんの分も用意しておきますから早めに連れてきてくださいね」
「ほーい」
ひろみに軽く手を降り、暖かな陽射しを受けて、幾分軽くなった心を頼りに空を見上げる。
目指す場所は、あの空よりは近い。
大きく吸い込んだ春の息吹が、そのまま体の中で膨らんだ。
――きっかけは些細なことだった。
カンカン、と鉄筋の階段を二段抜かしで駆け上がる。
いつものような小さな言い争いで、いつものように少し気まずくなって結局どっちかが折れる。
「そう思うんなら、それでいいけどさ」
「勝手にすれば?」
これが違う人間とのことなら、そう言っていたはずだ。
これまで野明にも言っていたように。
『あんたがいいならそれでいいよ』
けれども、何かが変わってしまった。
野明に対してだけ。
どうしようもなくイラついてしまう。
野明が思い通りにならなくて、どうしようもなく。
わかれよ! という気持ちだけが膨らんでしまう。
どうしてこうなってしまったのかは、自分でもわからない。
わからなくて、またイラつく。
わかってほしくて――イラつく。
屋上に続く非常階段を一気に駆け上がると、さすがに息が切れる。
一呼吸おいて、辺りを見渡す。 屋上には、いつものように洗いたてのシーツや整備服が風を受けてはためいていた。
その真っ白な波の向こう、自分からは一番遠い場所に鮮やかなオレンジ色の人影を見つけた。
海を見ている。
ドクン、と勝手にどこかが鳴った。
いつも見慣れている後姿に不覚にも。
……まいったな……。
正直な感想は、それ。
ドクドクという音は、おさまるどころかどんどん早くなる。
何となく、ぼんやりした気持ちはあっても、いざはっきりと体の奥底からこんな風に主張されると本当にまいってしまう。無意識に手を口にあてて、何とか胸の昂ぶりを押さえようとするが、上手くいかない。
「あー……」
なんとか呼吸だけは整えて、ゆっくりと近つくと後姿に声をかけてみる。
その声に、ゆっくりと野明が振り返った。
すましてちょっとだけ睨みながら、それでもきっかけを待っている子供のように見えた。
その姿が……なんだかとても。
とても――。
「あー……、あのさ」
目を泳がせながらもじもじと、言いよどむ。
「……なんだよ?」
「いや、えーっと、さ」
軽く深呼吸して、伝えたいことを胸の奥で膨らます。
傷つけたいわけじゃない。
争いたいわけでもない。
ただ……そう、本当にただ。
知ってもらいたかっただけなのだ。
自分を。
わかってほしかった。
わかりたかった。
野明を。
だから本当の気持ちは、たったひとつ。
「あの、さ」
――となり いいですか?
end.






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