「――弔いたい」
自分で言ってから、思ってもみなかった言葉にはっと口を押さえる。
心の中にも、思考にも今の今までまるでなかった。そんな単語が己の口から出たことにも驚いた。
「あ、いや……」
何を言っているんだ。
必死に取り繕うが、続きの言葉が出てこない。気まずい空気が部屋に漂った。
彼女の瞳がじっとこちらを見ているのを感じて、避けるように顔をそらす。
視線の端で、彼女が少しだけ目を大きくした。
けれどそれだけだった。
彼女は何も聞かなかった。
なぜ? とも。
誰を? とも。
静かに、とても穏やかにこちらを見ている。
「……すみません、少し疲れているのかも」
口元から手を離して、彼女に向かって無理矢理微笑もうとした。
だが、うまく出来ない。
あれほど訓練して、無意識にできるようになるまで練度を高めたのに。
ただ、ぎこちなく口元を歪めるのが精一杯だ。黄昏ともあろうものが。
そう取り繕えば繕うほど綻びが露呈していく。
視線の先には、アーニャが作った色とりどりの「家族」の卵が見える。
それが、胸に奥にずしんと落ちて、水面に幾重もの波紋を浮かび上がらせていく。
「――」
「お休みになられます?」
「いえ……そうじゃ……」
「はい」
「すみません、本当に。こんなはずじゃ……」
打ち消すように、彼女のほうに手を挙げて少し考えるふりをする。
少しだけ、時間が欲しい。
少しだけ。
そうすれば……。
拒絶した指先に、微かな温もりが触れた。
「――どうか、そのままで」
彼女はそう言って、自分の人差し指を、こちらの指先にそっと絡めて微笑んだ。
「そのままで」
彼女はまた同じ言葉を繰り返す。自分にも言い聞かせるように。
そのたったひと言の肯定で、さざ波のように揺れていた水面が凪いでいく。
「……」
――もう、無理だった。
取り繕えない。
このひとの前では。
弔いたい。
悼みたい。
ただただ、あの人たちを、あの人たちの死を。
あの町の崩壊や、あの世界や、あの日々を。
弔って、悼んで、嘆いて。
そしてもう、静かに眠らせてあげたい――。
そんな、慟哭にも似た願望が抉られた水底からあとからあとから湧き出してくる。今までずっと、気がつかないふりをして蔑ろにしてきた感情が泥のように吹き出して水の中を染めていく。
だから、考えたくなかった。
だから蓋をした。
考えたら、振り返ったら、もうそこから一歩も動けなくなってしまう。
立ち尽くしてしまう。
苦しすぎて、辛すぎて思い出すたび潰れそうだった。
ひとり生き残った罪悪感とか、悔しさとか。誰も側にいてくれない絶望とか虚しさとか。
そんな惨めで弱い感情を全部。
ぜんぶ。
それは今でも変わらない。
知らないふりをして、見ないふりをして、誰かが用意した見せかけの平和に浸かることがどうしてもできない。
あの悔しさを、あの絶望を糧として生きてきた日々を嘘にしたくない。
けれど。
けれど……。
道を歩いていて、自然と小さい子が目に留まるようになっている。今まで視界に入ったこともなかったのに。
通りすがりの子供を見て、あの子はアーニャよりは小さいなとか、うちの子があのくらいの頃はと、あるはずのない記憶を探していたりとか。
いつも間にか、子供向けのレシピが増えていることとか、どうしたらあいつは宿題をきちんとやるんだとか。
そんな、他愛のない日々に満足している自分がいる。
どこをどう探しても、自分の中をどんなにほじくり返しても、もう、彼女たちと離れることなんてまるで思っていない。
そんな、夢みたいな日々を――。
ヨルさんが、じっとこちらを見ている。
彼女は答えを求めなかった。
ただ黙っている。
「――感情がね」
そう、絞り出すようにしてやっと声を出す。
「はい」
彼女はそれに瞬時に反応した。
その食いつくような反応に口角が少しだけ上がる。少しだけ、息が軽くなった。
「感情……というか、気持ちが……。心がふたつあるんです。何とかしなければと、ずっと思っているんですが……」
そんな弱音が口をつく。初めてだった。彼女にこんなことを言うのは。
どちらも手放せない。
黄昏としての任務も、東西平和の維持も。
そして、彼女たちのとの日々も――。
「……それは、どちらかに決めなくてはいけないものですか?」
彼女はこちらの言葉をひとつ、ひとつ丁寧に拾う。
とても丁寧に。
「それは……、だって、変でしょう?」
「そう……、ですか?」
あまり順序立てて思考することが得意でない彼女は、それでも一生懸命何かを考えている。
そしてこちらに伝えようと、伝えようと懸命になっていた。
「でも……、ロイドさん以前そのままでいいっておっしゃったじゃないですか」
「え?」
「世の中のご家庭でも、『妻はこうあるべき』とか、『親はこうあるべき』とかそういうものにとらわれてその役を演じているって。だけど『そのままでいい』って。そう、おっしゃってくださったでしょう?」
……覚えている。
たしか、彼女の素性を疑い秘密警察に変装して調査した時だ。いたらない妻だと落ち込む彼女に、そう伝えた記憶があった。
「それと、これとは……」
「同じじゃないですか?」
「……」
同じ、だと思います。
彼女はゆっくりとその言葉を繰り返した。まるで、自分にも噛み締めるかのように。
「心がふたつあるなら、それが今のロイドさんなんだと思います」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。こちらを安心させるように。
「……あなたたちに秘密を持っていても?」
けれど、また試すような言葉が出てしまう。
試している。
どこまで言えるのか。
どこまで言えないのか。
彼女に決定権をゆだねて、そうして自分はまたどこかへ隠れる。そういうずるくて卑怯な感情で、また自分と彼女たちを線引きしようとする。
……どうしようもない。
案の定、その言葉に彼女は驚いたように眼を見開く。
それから、彼女も少しだけ視線をずらしてこちらを避けるように下を向いた。
意外だった。
彼女がそんな態度をとるのが。
けれど、もっと意外な言葉を彼女が紡ぐ。
「――私にもあります。ロイドさんに言えないこと……」
どうしても言えないんです、と。
「……」
でも、と顔を上げてこちらを真っ直ぐ見る。
「でも、それでも家族ですから。家族だから全てを曝け出さないといけないなんて、そんなことないです。言えないこととか、言いたくないことは言わなくていいんじゃないかって思います」
ユーリもね、ラブレターが来ていたことを私にずっと内緒にしてたんですよ。あの子、そういうこと私に一度も言ったことないんです、と彼女は付け加えて笑った。
だから……、ロイドさんはそのままでいいです、と。
そんな都合のいいこと、と言いそうになって、口を噤む。
それでいいのだろうか。
本当に?
言えないことや、言いたくないことは言わなくてもよくて。
それでも彼女はオレを「家族」として見てくれるのか。
じゃあ「家族」というのは、いったい何なのだろうか。
「それで、いいですかね……。それでも家族ですか?」
「はい、それでも家族です」
彼女は強く頷く。
「オレは……本当はね、いつもアーニャやヨルさんに偉そうにあれこれ言っていますが、本当は家族がどういうものなのかがわからない。何もわかってないんです」
小さいころに何もかも失ってひとりで生きてきた。
父母が生きていた頃も、あまり仲の良い家庭とはいえなかった。
だから、家庭というものが、家族というものがわからない。
だからこそ理想を形作って、彼女たちに押し付けているのではないか、そんな気がする。
「私もわからないです」
でも……と、彼女はまたゆっくり考えるように言葉を紡ぐ。
「ランチに行って美味しいものを食べたりすると、これロイドさん好きそうとだなとか、これなら偏食のアーニャさんは食べられるかしらとか、そういうことを思うんです。私はあまり物を知らなくて。ロイドさんのお仕事のお話や、アーニャさんの勉強のこととか知らないことばかりなんです。でも、ひとりで帰る道ででも、ロイドさんが似合うと言ってくださったお店のお洋服とか、アーニャさんに教えてもらった雲の形を見つけると幸せです。すごく、すごく幸せです。そういうふとしたときに、ああ、幸せだなって思うんです」
きれいなものを、美しいものを見ると見せてあげたくなる。
悲しいニュースを見ると、おふたりがこんなことに巻きこまれませんようにって思う。
「そういう風に思うことが、家族なんじゃないでしょうか。ひとりの時はそんなこと思ったこともなかったです。だから、今はそれがとても嬉しいんです」
「…………」
子供が座りやすい椅子を買ったり。
好き嫌いの多い娘に合わせたメニューにしたり。
アーニャが風呂から出たら、自然と水とドライヤーを用意していたり……。
「私も『普通』がわからないです。いつまでたってもわからない。……でも、今はそれでもいいかなって思います。だってせっかく家族になったんですから」
「……親二人がわからないままじゃ困りますけどね」
困ったように笑うと、ヨルさんもそうですね、と笑った。
「じゃあ、探していきませんか。わからないって言い合って、困り合って、迷い合って、笑い合って、それでも探していきましょう」
――そうやって、わからない、わからないって言いながら一緒に生きていきましょう。
ヨルさんはそう言って祈るように手を組んで、そしてこちらに微笑んだ。
「…………」
――どこか遠く、後方から子どもたちの笑い声がして自分を追い抜いて行く。
自分と、目の前のヨルさんも追い越して、子どもが走っていく。
少し太った少年、眼鏡の少年、黒髪の少年。
彼らは走りながらこちらを振り向いて、大きく手を挙げた。
いつもの、あの笑顔で。
そんなことでいいのか……。
そんなことでよかったのか……。
彼らはいつも笑っていた。
思い出の彼らはいつも。
優しい目でこちらを見ていた。
責められてなんかいなかった。
責めていたのは……。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、ヨルさんがいて、視線が合うと黙って微笑んでくれた。
オレは、求めてもいいのか。
自分が――。
「ヨルさん、いつか――」
「はい」
本当に、いつになるかわかりませんが、と念押ししてから、
「いつか、ボク……いや、オレの生まれた場所にみんなで行きませんか。本当はね、オレの生まれた場所はもっと……ずっと西にあるんです。すみません、今は事情があってこれしか言えないんですが……」
そう彼女に伝える。
まだ、何も言えない。
どうしても。
すべてを打ち明けることはできない。
けれど、彼女ならきっと理解してくれる。
わかってくれる。
それだけは。
なんとなく――。
「――いいですね」
いつかみんなできっと行きましょう、そう言ってヨルさんはまた微笑んだ。
子ども部屋からガタガタと大きな音がして、勢いよく扉が開く。
「アーニャきがえたー! けーぇっきぃぃい!!」
着替えを済ませたアーニャが、ボンドと一緒に駆けてきて足元にまとわりつく。
部屋が一気に賑やかになった。
「その前に夕飯な」
「ケーキさきがいい!」
「駄目だ」
ぶーたれるアーニャに、そう言って頭をくしゃくしゃ撫でると「んぎゃー! やめてー!」と言いながらもケタケタと無邪気に笑っている。
何がそんなに楽しいんだかと呆れながらも、自然と口元が緩んだ。
「さ、本当に夕飯にするぞ。遅くなる」
「そうですね。アーニャさん、手を洗ってテーブルを拭いていただけますか?」
「うーい!」
ヨルさんとアーニャが連れ立って、キッチンへ向かう。
一緒に向かおうとして、テーブルに置きっぱなしにしてあったいくつかの卵が目に入った。
「アーニャ、この工作したやつどうするんだ? 割れるぞ。飾っていいのか?」
「かざるー!」
「はいはい。絵本のところに一緒に飾っておくぞ」
「うーい!」
とりあえず、と壁際のキャビネットの絵本が並んでいる辺りにそれらを並べた。
黄色と青。
黒と赤茶。
ピンクと緑。
白と黒。
そして、何も書かれていない無地の卵もきちんと並べる。
なんの気もなしに、白い卵に指先でそっと触れた。少しざらついたその表面に、窓から差し込む夕映えの光が鈍く映る。
――幸せになってほしかった。
一緒に幸せになりたかった。
一緒に生きていきたかった。
当たり前すぎて、普遍すぎて、そんなこと、意識したこともなかったけれど。
ありがとう。
愛してくれて。
ありがとう。
一緒にいてくれて。
――いつか。
いつか、きっと答えを出す。
どういう形になるかはわからないが、必ず、納得する形で。
誰も泣かない世界で。
誰も欠けない世界で、いつかきっと。
そうしたらきっと行く。
必ず行くから……。
――だから、今は待っていて。
「ちちー! つかっていいおさらどれー? あ、これわれてる!」
「ロイドさーん! 付け合わせのサラダってこのトマトも添えるんですかー? 唐辛子もいれていいですかー?」
キッチンからのんきで賑やかで、そして不穏な声がした。
まったく……うちの妻と子は!
「はいはいはいはい! ちょっと待ってふたりとも! 今行くからなにも触るな!」
慌ててキッチンまで駆けていく。
指が離れた瞬間、卵はコロンと一度傾いて、またすぐ元に戻る。
開け放した窓からふわりと風が入ってきて、カーテンを翻らせながら卵や絵本を優しく包んだ。
待ってるよ、と。
卵の近くで、誰かがそう笑った気がした。
end.







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