『古今東西、父親とか夫とかいう人種は頼んだものを買ってこない』
同僚のシャロンさんがそう言って怒っていた。
「あー、なんかわかるー。あいつらって、ほんといっつもちょっとハズしたもの買ってくるよねー」
ミリーさんがすかさず同意する。そして先日デートした殿方が待ち合わせ場所に花束を持ってきて困った話をされた。
「自慢じゃない」
「ちがうってぇー、グチだってばー」
「どうだか」
シャロンさんは口から煙を吐き出しながらため息をつく。シャロンさんのほうは、家政婦さんがお休みの日にご主人に日用品の買い出しを頼んだところ、いつも使っている物とは別のものを買ってきたそうだ。しかもそちらのほうがだいぶお高かったらしい。
「高いならそっちのほうがいいじゃん」
「そういう問題じゃない。うちはずっと同じ物を使ってるの。旦那だって知ってるのよ」
「でもいいじゃん、高いなら」
「話聞いてる?」
そんなおふたりのお話を課長にお出しするコーヒーを入れながら黙って聞いていた。
特に何か意見を求められない限りは黙っている。聞かれても彼女たちの満足する返答ができたためしがないし、そもそも、彼女たちの怒りや憤慨している理由がわからないというのもある。
私もお気に入りの洗剤などはある。ロイドさんはあまりこだわりはないと言ってくださったので、私がフォージャー家に加えてもらってからは、私が昔から使っている商品を買わせてもらっている。といっても、私も絶対に「これじゃくては」というこだわりはない。無ければ違う物を買うこともある。
シャロンさんの旦那様も運悪くいつも買っている商品がなかっただけかもしれない。
そんな風に思っていると、それまで黙っていたカミラさんが「いつものが無かったんじゃないの?」と言った。偶然にも同じ意見だ。
「三つとも全部? ありえないでしょ」
「具体的に何の商品が違ったのよ?」
「卵と石鹸と歯磨き粉」
「えー、そんなの超毎日使うやつじゃーん。あたしそれがいつもと違うのやだなー。シャロンの旦那ってバカなの?」
「一応大学の講師よ」
「頭いいのになんでー?」
「旦那はなんて言ってた?」
「『ごめん、高いほうがいいのかと思って』って」
「いや、あたしと同じじゃん!」
「あんたとじゃ意味が違うのよ」
「は? なにそれ」
「で、シャロンはなんて返したの?」
ミリーさんの抗議を無視して、カミラさんが視線だけシャロンさんに送る。
「――何も」
「……でしょうね」
カミラさんはそう言って、シャロンさんと顔を見合わせて苦笑いをした
「なんで、なんで? 困るってはっきり言ってやればいいじゃーん」
「言えないからここで言ってるの」
「エチケットよ」
「はぁ⁉ なにそれ意味わかんない。ヨル先輩、わかります?」
「えぇ⁉ えぇっと……」
突然ミリーさんに振られてどぎまぎしてしまう。もちろんわからないので曖昧に笑ってごまかす。
わからない。
シャロンさんやミリーさんが怒る理由がわからない。
カミラさんが苦笑する理由がわからない。
シャロンさんがさっぱりした顔で煙草を消した理由がわからない。
言い様のない感情が、胸の辺りで啼いた。
私は本当に「普通」がわからない。「妻」になっても「母」になっても。いつまでもわからないままだ。
――そんなふうに少しだけ落ち込んだことを思い出した。
先日の給湯室と同じような光景が目の前に広がっていたからだ。
夕食を終えて少したってからのこと。早くケーキが食べたいとアーニャさんが冷蔵庫を指さしながら急かした。
冷蔵庫の中には、いつもよりひと回り以上大きなケーキ箱が入っている。ロイドさんが私の誕生日にと買ってきてくれたものだ。
「はーはー、ケーキ〜!」
「『ケーキが食べたいです』だろ」
「ケーキたべるます〜」
「おまえそれワザとだろ」
ロイドさんが冷蔵庫からケーキ箱を出しているそばで、アーニャさんがぴょんぴょん跳ねている。大きな箱に興味津々といった様子だ。その脇ではボンドが同じようにくるくると円を描くように戯れている。
「アーニャがもつ〜!」
「駄目だ。ヨルさん、先に出しておきますね」
「はい。私も飲み物を作ったらすぐに行きますね」
「そのくらい、ボクが……」
「いえ、大丈夫ですよ」
「ちち〜! はやく~!」
「わかった、わかった」
父娘のそんなやりとりを微笑ましく見つめる。と、視線に気がついたのか、アーニャさんがぱっとこちらに振り返る。
「ははー、アーニャろーそくつけたい」
「ロウソク?」
「おたんじょうびけーきはろーそくつけて『ふーっ』てするってベッキーがいってた」
「んー、でもまだちょっとアーニャさんには火を使う作業は早いかもしれません」
「じゃあけーき! けーききりたい!」
「危ないから駄目だ」
ロイドさんも戻ってきて、アーニャさんの頭に手を置いて制する。
「やだっ! アーニャもなんかおてつだいする!」
「じゃあ、このお皿とフォークを持って行っていただけますか? あと、ケーキを箱から出すのもお願いしますね」
人数分のお皿とフォークを水平に持たせてあげながら提案すると、「おーきーどーきー‼」と嬉しそうにリビングへ駆けていった。
「おい、無理矢理出すなよ。一緒にやってやるからちょっと待て」
ロイドさんがナイフとケーキサーバーを持って慌ててアーニャさんを追いかける。
あんなに大きな箱なのだ、アーニャさんがはしゃぐのも無理もない。フォージャー家に来てからケーキはよく食べるようになったが、さすがにカットしていないものは初めてだ。きっとアーニャさんも初めてか、初めてに近いのだろう。
賑やかなおふたりの姿に、ふふっと笑みがこぼれた。
同時にほっと安堵のため息を漏らす。
――良かった。いつものロイドさんだ。
夕方、アーニャさんと一緒に帰宅すると、彼は既に帰っていていつものように笑顔で出迎えてくれた。
けれど、少しだけ様子が違っていた。
他人の機微に疎い自覚があるので、きちんと言葉にはできない。けれど、少し……そう、少しだけ感傷的で苦しそうだった。
まるで、何かを決められずに、思いあぐねているような……。
少しお話したらまたすぐ元のロイドさんに戻ったけれど。
私とアーニャさんが帰ってくるまで珍しく居眠りをしていたと言っていたし、もしかしたらだいぶ疲れているのかもしれない。
それなのに、ケーキもいつもと違うお店へ行ってくださったらしい。
初めて見るお店のロゴだった。
「いいお店があると教えてもらって。散歩がてら寄っただけですから気にしないでください」
そういって笑ってくれたが、かえって疲れさせてしまった。
でも嬉しい。
――とても嬉しい。
その気持ちも。行動で示してくださるところも。
自分のためのケーキなんてどれくらいぶりだろう。
父や母が生きていた頃、もしかしたら、ユーリはまだ生まれていなかったかもしれない。それくらい久しぶりだ。誕生日の朝、キッチンで母が粉を振るったり、甘い生地が焼けるのをワクワクしながら眺めたことを思い出す。
もうだいぶ昔のことで、気配のような、かすかな記憶でしかないけれど。
あの頃、私も今のアーニャさんと同じように母の足下にまとわりついて一緒にオーブンを見ていた。そんな光景だけがぼんやりと浮かぶ。
けれど、どんなケーキだったかは覚えていない。
母がオーブンにいる姿は思い出せるのに、不思議なくらいケーキ自体を覚えていなかった。
そんなことを思い出しながらココア缶とお砂糖を準備しようとして、ふと手を止めた。
今日はチョコレートケーキを買うと昨日ロイドさんとアーニャさんが約束していた。
チョコレートケーキにココアだと甘すぎるかしら。
「アーニャさーん、今日はホットミルクにしますかー?」
ひょいとキッチンからリビングへ顔を出すのと、大声が響いたのが同時だった。
「これチョコケーキじゃなーい! ちぃーちぃぃぃー‼」
リビングからアーニャさんの大声が轟く。驚いてキッチンから身体を半分乗り出すと、アーニャさんが地団駄を踏んでロイドさんに怒っていた。
「チョコはやめた」
「なんで⁉」
「虫歯になる」
「ならなーい! ちゃんとまいにちみがいてる! ちち、やくそくしたー‼」
「気が変わった」
「なんだそれー! アーニャおこった!」
「乗っかるな! 重い!」
ロイドさんが「あーもー、うるさい!」と、両手の人差し指で耳を押させて聞かないふりをし、怒ったアーニャさんがその膝に飛び乗ってその手を外そうと懸命になっていた。
「お、おふたりとも落ち着いてください。いったいどうなさったんですか⁉」
「ははー! ちちがうそついた!」
「えぇ⁉」
ロイドさんから引き離して抱っこしてあげると、アーニャさんは腕の中できーきーと怒っていた。
「ちちが、やくそくやぶった!」
涙こそ出ていないが、瞳が潤んでいてむくれている。
「いや、だからそれは!」
腕の中のアーニャさんがじっとりとした目でロイドさんを睨む。いつになく強い視線だった。
よほど楽しみにしていたのだろう。
「――何でもない。嫌なら食べなくていい」
気圧されたロイドさんは、少しだけバツが悪そうにしながらふいっとそっぽを向く。
「ロイドさん、そんな……」
思わず窘める言葉が出た。
アーニャさんの背中をさすってあげながら、チラリと彼を確認するが、足を組んでそっぽを向いたままだ。
珍しい光景に、ボンドも驚いたようで「くぅん」と鳴いて床に伏せた。
おふたりに気づかれないようにため息をつく。
こんな彼は珍しい。
買う物を間違えるなんてことも。
そもそも、彼は今朝出かける際も「すみません、アーニャのやつのわがままで」と謝っていた。
そう、だから間違えるはずなんてないのに。
だとするとこれが例の「頼んだものを買ってこない夫」という状況なのだろうか。
確かに、チョコレートケーキを買ってくると約束して違うものを買われたら、私もアーニャさんみたになるかもしれない。
うーんと考えていると、アーニャさんがぴょんと降りて、ロイドさんの座っている膝に飛び乗って叫ぶ。
「ははー! ちちをくすぐるます!」
「えぇ? 私がですか⁉」
「はやく〜〜!」
「ちょ、離れろ! ヨルさん、相手にしなくていいですからね!」
ドタバタとソファの上でまたふたりが戯れはじめる。傍で見ている分には微笑ましいと言えなくもないが、目の前のローテーブルがずれてガタガタと揺れた。
「おふたりとも落ち着いてください。ケーキが……」
なだめながらテーブルに視線を送ると、そのままふっと言葉が止まる。
テーブルの上の大きな白い箱。
その中から半分だけ覗いている、円形の大きなケーキ。
吸い込まれるようにそっと近づいて、箱から全部引き出した。
するすると横に滑るように出てきたそれは――トルテだった。
オプストトルテ。
その言葉を思い出したと同時に、目の前に鮮やかな光景が広がった。
――何かを焼く甘い香りがして目が覚めた。
ブランケットの中からそっと目だけ出すと、部屋はまだ薄暗い。太陽はやっと片目をあけたくらいだ。
もう少し……。この甘い香りと気持ち良いブランケットと一緒にくるまっていたい。
そんなことをぼんやり考えながら、その香りの正体に思い至った途端、ベッドから飛び起きた。そして裸足のまま階段を駆け下りる。
階段を降りてすぐ左側の扉のノブは、建て付けが悪くてひとりで開けるにはまだ少し力がいる。
でも大丈夫、開けられる。
だって今日からひとつお姉さんになったから。
わくわくしながら真鍮製のノブを回して扉を開けると、テーブルの上の沢山のボールに分けられたフルーツたちが目に飛び込んでくる。
こみ上げる笑みを必死に押さえながら、すぐそばのベビーベッドで寝ている生まれたばかりの弟に挨拶をする。
それから少しすまして、キッチン奥のオーブンの前にしゃがんでいる女性の名を呼ぶ。
彼女はゆっくりこちらに来て、私を優しく抱きしめながら言祝いだ――。
「……これ、オプストトルテですね」
絞り出すようにつぶやく。
トルテ生地の上にピンクがかったクリームがたっぷりと敷かれてあり、その上にチェリーがぐるっと円を描くように並んでいる。そして中心には半分にカットされたマスカットが、これもきれいな円を描いて乗っていた。
フルーツをふんだんに使った、オプストトルテと呼ばれる南部地方でよく見たケーキだ。
故郷のあの場所は果樹栽培が盛んで、市場には色々な果物が溢れていた。
そしてそれらを使ったケーキが特産品として有名だった。厳密な決まりはないが、トルテ生地にカスタード、もしくはアーモンドクリームを敷き詰めて季節のフルーツを乗せる。それ以外はすべて自由だ。それぞれの家にレシピがあって、地域のお祭りでは持ち寄った自家製のトルテを審査する品評会も催されていた。
他の地域からも観光客がたくさん来て賑やかだったことを思い出す。
あの戦争が始まってから、すべて無くなってしまったけれど。
そして、母が作ってくれた最後の――。
なぜ? ロイドさんには言ったことないはずなのに……。
顔を上げると、その視線と視線が交差した。
彼は何も言わずに、ただ、ゆっくりと目を伏せながら微笑むだけだった。
その姿は、はにかんだようにも、謝意のようにも映る。
途端、シャロンさんとカミラさんの顔が脳裏に浮かんだ。
……ああ、そうか。
わかった。
なぜ、カミラさんがどこか楽しげに笑ったのか。
なぜ、シャロンさんが文句を言いながらもさっぱりした顔だったのか。
なぜ、夫や恋人に文句を言いながらも、おふたりとも楽しげな顔だったのか――。
「それ、ははがすきなケーキ?」
ソファから降りたアーニャさんが、こちらに近づいて不思議そうに尋ねた。
「はい。私がアーニャさんくらいの頃によく食べていたケーキなんです」
こみ上げてくるものを抑えながら説明する。
「だいすきだった?」
「ええ、とっても」
アーニャさんはふうん、と甘えるように後ろから抱きつきながら「なんぶしちゅーみたい?」と小声で聞いた。
「ええ。あれと同じです」
アーニャさんの手を優しく握りながら頷く。
「じゃあアーニャこれでいい。ははがすきなケーキならアーニャもきっとすき」
「現金だな」
ロイドさんが呆れたような顔をする。
「いーの! まちがえたちちはだまって!」
娘に言い返されてぐっとつまるロイドさんに、思わずまたふふっ、と声が漏れた。
「でもアーニャさん、これアーニャさんのトルテですよ」
「アーニャの?」
アーニャさんはぽかんとした表情で、トルテとこちらを交互に見る。その頭を優しく撫でながら、チラリと目の端でロイドさんを見ると、ロイドさんも少し意外そうな顔をした。
ああ、やっぱり。きっと当たりです。
「だって、ほら。クリームもチェリーピンクですし、真ん中のマスカットも……」
「あ! ほんとだ! これアーニャだ!」
ロイドさんが買ってきたトルテは、クリームが少しピンクがかっていて、その上にチェリーとマスカットが円を作っている。
アーニャさんの髪と瞳の色そっくりだ。
どうしてチョコレートケーキでなかったのかは分からない。けれど、きっとロイドさんはロイドさんなりに考えて買ってきてくださったのだろう。
きっと、オプストトルテが私の故郷の味だと知って。
きっと、このトルテを見てアーニャさんを思い出して。
いつもより高い卵や石鹸や歯磨き粉。
いつもと違うと、正直困ってしまう。
けれど、それを選んだ気持ちが分かるから。
少しでも良いものを。
少しでも喜ぶものを。
そんな、家族の顔を思いながら手に取っている姿が浮かぶから。
彼らなりの愛情が伝わるから――やっぱり、それ以上に嬉しくなって許してしまうのだ。
「きっとロイドさん、このトルテを見てアーニャさんに買ってあげたくなっちゃったんですよ」
「ははのすきなとるてだし?」
「アーニャさんの色ですし?」
ね? ロイドさん?
ソファへ顔を向けると、急に注目を浴びたロイドさんがグッとまた言葉に詰まる。
「――さてね」
ロイドさんは口に手を当てながら、またもふいっとそっぽを向いてしまう。
けれど、その耳はほんのりと赤くなっている。
その姿が、あまりにもぶっきらぼうで、あまりにも子どものようで、あまりにも愛おしくて、あまりにも――。
娘と同じタイミングで顔を見合わせる。
そして、たっぷり三秒お互いに見つめあってから――。
ぷっ。
ふたりそろって、声を上げて大笑いした。
end.