2024-01-06

エリカ・ムスターマンの死 06

 エリカと名乗った女性は、頭から下ろした帽子を丁寧に脇へ置いてから髪を整える。どこか所在なさげな様子だった。相変わらず少し下を向いていて視線もまっすぐ捉えられない。だいぶ緊張しているようだ。ヨルさんからは快活な女性と聞いていたが、目の前にいる女性からは真逆の印象を受けた。
 とはいえ、不眠が続いているようなら無理もない。あまり先入観にとらわれるのも良くないだろう。
 すぐに先ほどの彼女を案内した店員が飲み物を持ってきてエリカの前に置いた。彼はカップをサーブさせながらこちらにもおかわりはいるかと聞いてきたが、礼を言って断る。その際、彼の手に相場よりいくらか上乗せしたトリンクゲルト(チップ)を握らせる。人払いをして欲しいという合図だ。即座に意図を読み取った店員はごゆっくりと言って去って行った。
 これでこの近くの席にはあまり来ないだろう。
 エリカが飲み物を前にして、こちらにチラリと視線を向けたので、頬笑んで「どうぞ」と促す。彼女はかすかに礼を言ってカップに口をつけた。
 その僅かな間、まず外見と容姿から情報を読み取ることに専念する。
 女性。年齢は二十代後半から三十代前半。髪はブルネット。瞳はヘーゼル。虹彩に少しグリーンが混ざっている。化粧は薄いか、もしくはしていないくらい。アクセサリー類もなし。指輪もなし。爪もきれいに切りそろえられている。少し陽に焼けている。だが、スポーツなどをやっている形跡はなし。
 失礼だが、一見するとそこまで目を引くような容姿ではない。だが、カップを持つ所作は無駄がなくて美しかった。おそらくある程度上流の家庭で育っているのではと推測した。
 視界から得る客観的な印象を頭の中のライブラリに書き込んでいく。
 人間の内面は驚くほど外見に現れる。ファッションや化粧である程度カモフラージュはできるが、意外なところで性格が出るのが所作だ。椅子を引く様子、座る足さばき、手をどこの位置に置くのかなど。ひとつひとつの行動が心理状態を表していることがよくある。西国には「外見は中身の一番外側」という慣用句があるが、あながち間違いではない。面白いことに東国にも似たような言い回しがある。昔は同じ国だった名残だろう。
 ざっと見た限りでは一連の振る舞いは洗練されていた。緊張はしているが、そこまで深刻そうには映らなかった。
 大人しそうな印象だが、目の奥に力がある。
 ライブラリにひとつ書き加える。
 エリカは、こちらを気にしながらもカップの中の飲み物を美味しそうに飲んだ。どうやら紅茶が好きなようだ。自分が頼んだコーヒーはもうすっかり冷めてしまっていて、紅茶の芳醇な香りがこちらまで漂ってきていた。
「紅茶、お好きですか?」
「ええ、そうですね。よく飲みます」
「ボクはもっぱらコーヒーで。北部へ行った際には買ったりはしますが。あそこは紅茶が有名で」
「北部の紅茶は別格ですから」
「そういえば先日、北部地方の紅茶消費量が世界一になったらしいですね」
「そのようですね。私も新聞で読みました」
「旅行がてら今度買いに行こうかと妻と話していまして……いや失礼、自分の話ばかりしてしまって」
 とりあえず世間話で相手の出方を見る。北部の紅茶の消費量が世界一になったのは最近のことだ。新聞にも掲載されていたが、それほど大きくは報道されたわけでは無い。きちんと新聞に目を通している証拠だ。心理的になにかの葛藤や心配ごとを抱えていると世間の動きには疎くなりがちだが、そんな様子もない。
「いえそんな。コーヒーよりは紅茶が好きなだけで。それに北部はハーブも有名ですから」
 エリカはやっとホッとしたように相好を崩した。少し緊張がとけたようだ。
「ハーブもお詳しいんですか?」
「庭に少しあるので」
「それは素敵ですね。ガーデニングのご趣味が?」
「趣味、といえるのか……たまに触っているくらいで」
 そう言いながらも満更でも無い顔だ。
「庭があるだけでも羨ましい。どんなハーブを?」
「有名なものを少しです。ミントとかディルとか……教えてくださる方がいて」
 彼女の頬が朱に染まり、口元が綻ぶ。
「ガーデニングの先生?」
「ええ。とても詳しい方で」
 エリカは恥じらいながらも嬉しそうに頬笑んだ。ガーデニングが趣味なのは本当らしい。きちんと切りそろえられた爪の間に僅かに土のようなものが見えた。ここへ来る直前にも触っていたのだろうか。ずいぶん熱心のようだ。
 ふと、一瞬違和感が覗いた。だが、それが何なのかは分からなかった。『爪・違和感』とだけ記録する。
 エリカは、だいぶくつろいだ様子でまたカップに口をつけた。表情もだいぶ穏やかになっていて、頬には薄く朱が指していた。好きな男のことでも思い出しているのだろうか。 
 しばらく眺めて、自分の出番は無いのではと結論づけた。
 彼女は健康を害しているとは思えなかった。少しばかり神経が鋭敏な性質かもしれないが、毎日勤めに出ているというし、そこまで深刻そうには思えない。
 チラリと腕時計で時刻を確認すると、十一時十五分を回ったところだ。少し早いが、彼女を安心させる言葉でも並べたら早めに切り上げても良いのではないだろうか。
 エリカがカップを置いたのを見計らって本題に入った。
「妻から、エリカさんにはいつもお世話になっていると聞いているんです。優しい方だと」
 彼女がピクリと目の端だけを動かした。
「とても親切にしていただいているとか。なので妻もエリカさんの力になりたいと言っていまして。もちろん」
「――奥さまは、私のことをどんな風におっしゃってました?」
 さえぎるような口調だ。先ほどとは違い、こちらにしっかりと視線を向けている。
「そうですね。ランチを一緒にしたり、気さくに話しかけていただいていると。ずいぶん助けていただいているようで。エリカさんと知り合えてから毎日楽しそうです。このお店もふたりでいらっしゃったことがあるとか」
 実際、この店を指定したのは彼女本人だ。自分はヨルさんに教えてもらって初めて入った。ヨルさんからは、ふたりでランチをテイクアウトして食べた話を聞いていた。
「ええ。フライのサンドが美味しくて」
「妻からも聞きました。ボクもテイクアウトして娘に……ああ、いや――なので、お困りのことがあればなんでもおっしゃってください。ボクも出来る限りお力になりたいと思っています」
「なんでも?」
「ええ。といっても、今日は最初ですので軽く現状をお聞かせ願いますか? 妻から少し聞きましたが、夜眠れない日があるとか……」
「ベゲタミンを処方していただきたいんです」
 エリカはまた遮るように話しはじめた。同時に周りの空気が硬くなる。
 思わず、指先がピクリと反応した。
「ベゲタミン?」
「はい。睡眠薬の」
「睡眠薬?」
「はい……そうだと……違うんですか?」
「ええ」
 ベゲタミンは中枢神経に作用する抗不安薬だ。確かに睡眠薬としての側面もあり睡眠障害を訴える患者に処方されることもあるが、かなり強力で依存性も高いため、初診の患者に出すことはまず無い。通常、不眠を訴える患者にはまず生活改善から促すのが常套手段だ。同時に患者の悩みや支障をきたしている事柄を傾聴し、問題点をあぶり出す。その際に弱い睡眠導入剤を処方することはあるが、あの薬を最初から処方する医者はまずいないだろう。
「失礼ですが、ベゲタミンを服用をされたことが?」
「え……? ああ、ええ。前から」
「前から? いつ頃からですか?」
「あ、いえ。使っていたのは私ではなく、母です」
「お母さま?」
「ええ」
 意外な名前が出てきた。
「エリカさんご自身は、その薬の服用のご経験はない?」
「え……と、家にあるものを、たまに……」
 急に声が萎んで口ごもる。動揺しているようだが、構わず続ける。
「共有してらっしゃった?」
「ええ……常備薬の箱に置いてあったので」
「なるほど」
 しばし沈黙する。
 どうやらムスターマン家では、件の薬をアスピリンか何かと混同しているらしい。
 ベゲタミンは処方薬だ。西国同様、この国でも市販はされていないし、医師の診断が必要な薬のため、家族間といえど共有することなどあってはならない。とはいえ、戦中などは物資の不足からそういったことが横行していたし、年老いた人などはいまだにその認識が薄いのも事実だ。
 だからといって、容認するかは別問題だが。
 さて困った。
 まさか具体的な薬品名をだされるとは思っていなかったし、ましてやそれを催促されるとも思っていなかった。希望の薬を処方するのは簡単だが、『医師』としての立場もある。しかも相手は『妻の友人』だ。黄昏としては何の義理もメリットも無いが、疎かな対応はできない。後々問題にならないとも限らないからだ。現在のほとんどの時間を割いている『ロイド』としてはどういった対応をするのが得策か――。
 少し考えてから、ひとつひとつゆっくり質問する。
「失礼かもしれませんが、大事なことですのできちんと確認させてください。今現在夜眠れなくて困ってらっしゃるのはエリカさんですか? お母さまですか?」
「私です」
 うそ。
「今まで眠れない時は、お母さまの薬をずっと服用なさってたんですね?」
「はい」
 本当。
「お母さまは? 今現在はご健勝ですか?」
「はい」
 うそ。
「お母さまには、現在不眠症の症状はないと?」
「はい」
 うそ。
「どのくらいの期間その薬を?」
「え?」
「お母さまです。これまでは別の医師から処方されていたんですよね?」
「ええ……いえ、どうだったかしら。家にずっとあったので詳しくは」
「ずっと?」
「ええ」
 本当。
「ご両親は、お医者さまか医療関係の方ですか?」
「いいえ」
 本当。
「ではホームドクターは?」
「小さい頃はかかりつけ医が。でもその方が亡くなってからは、特に」
「最近お亡くなりに?」
「いえ……ええと、十年くらい、かしら」
 本当。
「薬はその医師から?」
「さあ……。ごめんなさい、あまり詳しくは無いんです。ただ、昔から家にずっとあって、眠れないときは家の者みんなで使っていましたので……」
 うそ。
 エリカはしきりに頬に手を当てて困ったような表情を浮かべながら答えた。常備薬という認識でいたならそうだろう。だが、この薬は処方薬だ。加えて処方薬には処方日数制限というものがある。ベゲタミンの投薬日数は最大三十日だ。大抵の国ではそうだろう。
 すなわち、彼女の言い分か正しければ、彼女、ないし彼女の母親はひと月に一回は医者にかかっている。
 ずっと家にあって服用を続けているという主張が本当であれば、エリカか母親のどちらかは必ず他の医療機関にかかっているはずだ。
「家の者、とおっしゃいましたが具体的にはどなたが?」
「私と、……母です」
 本当。だが、『母』という言葉を僅かにつまらせながら答えた。
「お父様は?」
「戦争で……」
 本当。
「ああ、失礼」
「いえ……。あの、処方は難しいのでしょうか?」
 彼女はおずおずと不安そうにこちらに問いかけた。
「そうですね。エリカさんが仰っている薬で間違いなければ。その薬は処方薬なので、医師の診断による処方箋が必要です」
「でも、先生はお医者さまなんですよね?」
「ええ。ですがここでは出来ません。処方するには一度病院へ来院して頂く必要があります」
「それは……」
「エリカさん、実はボクは今日はこちらでお話を伺ってから、改めて病院の受診を促すつもりでいたんです。どうでしょう、一度当院へご来院いただけませんか? できればお母さまも一緒に。ここでお話を伺うにしても限度がありますし、薬を処方するにしてもカルテが必要です」
「先生のお力で処方していただくわけにはいきませんか?」
「申し訳ありませんが……。法律に抵触しますので」
「そうなんですか?」
「ええ。処方薬は、その人のために量や組み合わせを細かく指定しているんです。親子であっても譲渡はできません。おふたり別々でもかまいません、一度ご来院下さい。もちろん、それぞれのプライバシーは口外しないとお約束いたします」
「そう、ですか……」
 エリカは困ったように言い淀んだ。どうしても病院を受診したくない理由があるようだ。心理的なものだろうか、それとも……。
「ごめんなさい。少し……考えてみます」
「そうですか。こちらはいつでも構いません。お決まりになったら教えてください」
 懐から名刺を出して彼女へ渡す。もちろんロイド・フォージャーとしての名刺だ。エリカはそれを受け取ると、何かを考えるようにじっと眺めた。
「ああ、もちろん妻に伝言してくださっても構いませんから」
「ええ、ありがとうございます」
 エリカは丁寧にお礼を言って席を立った。代金を出そうとしていたが、笑顔で制す。彼女は最後にもう一度礼を言って帰って行った。その姿が店内から見えなくなると、ほうっとため息をついて席に深く身体を沈める。
 思ったより疲れを感じていた。腕時計をもう一度見る。十一時四十分を過ぎていた。そこまで話していた気はしなかったが、意外に時間がかかった。
 少し考えてから、懐から手帳を出して空いているページを開く。ロイド・フォージャーとしてカモフラージュのために携帯している物だ。黄昏としては紙には残すことが出来ない事案が多いが、現在の『表の顔』では、ある程度その時々であったことを書き記すことにしている。もちろんアリバイとしての意味もある。そこに、先ほどまでの会話を整理しながら書いていった。
 彼女は嘘をついている。間違いなく。
 けれどなぜ? 何のために?
 先ほど浮かんだ疑問がまた首をもたげる。
 こちらを黄昏だと知って近づいてきたのだろうか。いや、それにしてはヨルさんを介して近づいてきた理由がわからない。だとすると、単純に薬が欲しかっただけか。だが、睡眠薬なら他にもある。ベゲタミンに拘る理由は何だろう。
 こちらがした質問に対する疑問と心象をリスト化していく。
× 不眠症なのはエリカ本人。
○ ベゲタミンを服用しているのはエリカ。
○ 薬自体は母親の物。
× 母親は健康。
× 母親は不眠症では無い。
× 薬はずっと家にあった。
○ 使用するのは母親とエリカ。
○ 父親は死亡。
○ 診察を受けたくない理由がある。

 今は心象の羅列を残しておくくらいしか出来ることはない。今後何か進展があるかもしれないし、ないかもしれない。だが、それはその時考えれば良いことだ。
 とりあえずヨルさんの顔は立てた。今はその事実のほうが大事なことだ。
 そう自分を納得させてから、読み返して確認する。そして、ふむ……と少し考えてから、もう一度ペンを取りひとこと書き添えた。

『エリカ・ムスターマン 詐病』

 書いてから腕時計をもう一度見ると、十一時四十五分。次の約束は正午からだ。明らかに遅刻だ。
 最後にカップに僅かに残ったコーヒーを一気に煽る。冷たくなったコーヒーは、いつもより渋味が強く感じる。僅かに眉をしかめながら、テーブルに代金を置いて足早に店を出た。
 店の外へ出ると、少し暑いくらいだった。先程より気温がいくぶん高くなったようだ。まだ夏というには早いが、うかうかしているとあっという間に夏になりそうだ。そうなればイーデン校は長いサマーバケーションに入ってしまう。
 先日アーニャとヨルさんが夏休みに旅行に行く計画を立てていた。
 アーニャはまた海に行きたいとはしゃいでいた。今度こそボンドも連れていきたいとも。ヨルさんも楽しそうに賛成していた。
 まったく、呑気なものだ。
 フォージャー家の円滑な遂行のためにはそういったことも必要かもしれないが、休み明けは進級も控えているあさ。すなわち、アーニャが「ダミアン・デズモンドの級友」という接点が無くなる可能性が高いのだ。そうなれば、本来のターゲットへの接点も離れてしまう。
 それ以前に、アーニャ自体が問題なく進級できるかも気になる。
 それはそれで気が重い……。
 新たなため息をつきながら、それでも終わらない任務をひとつひとつ片付けるべく、しっかりとした足取りで歩き出した。

 

 

 

※作中にあるベゲタミンは、日本でのみ流通していた薬品になります。2016年で販売中止になりました。
※北ドイツ、オストフリースラント地方は紅茶の消費量世界一だそうです。

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