帰宅してみるとまだ誰も帰っていなかった。
留守番をしていたボンドが戸口までやってきて、尻尾を振りながら出迎えてくれる。軽く頭を撫でてやりながら、とりあえずケーキだけは冷蔵庫にしまおうと紙袋から取り出すと、先ほどもらったイースターエッグがコロンとテーブルの上に転がった。
直そうと手を出したが、ほんの一瞬躊躇してそのままにした。ケーキ箱を冷蔵庫にしまい、途中で買った食材をキッチンのワークトップに置いてから、すべての部屋の仕掛けを確認するためにリビングに戻る。
訓練されたボンドがいるのでそこまで神経質になる必要も無いが、癖のようなもので、最初に帰宅した時点で何か異常はないか、不審な物が増えてないかなどを確認せずにはいられない。
まずバスルームとランドリールーム、それからレストルームとシューズクローゼットと、普段人が常駐しない場所から見て回る。室内の様子だけでなく、洗面台の下や排水溝の中、通気口、小窓の脇、窓ノブのきしみ具合、扉の蝶番などにも実際に触り、盗聴器やカメラなどが仕掛けられていないかなどをチェックしていく。特に盗聴器は最近ますます小型化してきている。人差し指ほどの隙間があれば設置は可能だ。細いコードを這わせて壁紙で覆い隠せば一般人にはまずバレない。秘密警察なら家人の留守中の僅かな時間で工事を終わらせることなど造作もない。それだけで家中の音声がすべて筒抜けになってしまう。「まさか」を起こすのがスパイの仕事なのだ。逆もしかり。万が一にも漏れがあってはならない。天井のダクトまで調べてから、やっと寝室方面へ進んだ。
ヨルさんも自分も、留守にする際には自室に鍵をかける習慣がある。彼女は意外……といったら語弊があるが、セキュリティに関してはかなり几帳面だ。今までかけ忘れたことはまず無かった。案の定、今もしっかりと鍵が掛かっている。そのため、彼女の部屋だけは扉の蝶番にそれとわからぬよう罠をしかけてある。目視で異常が無いかを確認してから、最後に子ども部屋に入った。
ここでも四方を確認したが、罠は罠のままそこにあった。全てに異常はなさそうだ。ほう、と肩を落としてやっと身体の緊張を解いて、少し穏やかな気持ちで再度部屋の中を見渡す。
まだ幼い子どもの部屋にしてはきれいに片付いている。ベッドもきちんとメイキングがされていて、その上に大きなペンギンのぬいぐるみと、ピンク地の少しくたびれたぬいぐるみが並んで座らされている。アーニャはお世辞にも几帳面とは言い難い。きっとヨルさんが出掛ける前に整えてくれたのだろう。
ほんの少しの間そこに佇んでから、ポン、とペンギンの頭を軽く叩いて部屋を後にした。
キッチンに戻ってすぐに夕食の下ごしらえに取りかかる。四〇分程であら方下準備を終え、洗い物をすませてからようやくひと息ついた。
いつの間にか、部屋は少し陰が勝ってきていた。照明を点けようとリビングへ行くと、バルコニーへと続く窓から風が入ってくる。換気のために開けたものをそのままにしていた。誘われるように窓辺に寄ってその柔らかな風に身を任せる。
微かに夜を含んだ光と、整然と空に伸びる街路樹の息吹が、風と一緒に部屋に入ってレースのカーテンがゆっくりと翻った。
そのまま窓際の立て枠に身体を預けながら、陰影に包まれていく部屋の中に視線を戻す。
手前には少し大型の足つきテレビ、壁際にはインテリアも兼ねたカップボードと数冊の本が並ぶ。棚の中は医学書が多いが、アーニャとヨルさんが買ってきた綺麗な装丁の絵本などが数冊、表紙をこちら側に向けて並べられている。
表紙の絵が綺麗だからリビングに飾りたいとアーニャがせがんで並べたものだ。
その先には、合理性と機能性を兼ね備えた美しいソファとローテーブル。長ソファの反対側には、安っぽいが座りやすそうな小さな椅子がある。
インテリア全体のバランスを欠いているその小さな椅子は、唐突にそこにあって他の家具たちにはまったくそぐわない。しかし『小さな子どもがいる家』として見れば、きちんとその役割を果たしている。
その王者の椅子の先には、家族用のダイニングテーブル。そして導線の邪魔にならないように置かれた腰の高さのキャビネットと、その上の電話へと視線が続く。
電話の脇にはセンスよく配置された写真がいくつも並べられている。
三人と一匹。少し緊張気味に正面を向いた家族写真。
明るい公園で、妻と娘と大型犬がカメラに向かってポーズをとる姿。確かフランキーと一緒にドッグパークに行ったときに撮った写真だ。明るい光の中で、妻と子が屈託なくファインダーに笑顔を向けている。
そして写真の奥では、その光景を当たり前のように享受する自分と同じ顔の『他人』が笑っている――。
居心地のいい部屋だと思った。
同時に、とても場違いだとも。
組織から与えられたのは、この国に潜入する為の名前と肩書きだけだった。
デズモンドと接触するために必要不可欠な「イーデン校の生徒の父兄」という立場。それがどんな登場人物とどんな物語を紡ぐのかは自由に任された。丸投げされたといってもいい。だから、イーデン校に潜入するために相応しい登場人物像は自分で考えざるを得なかった。
ロイド・フォージャー、三一歳。職業、精神科医。
東国の片田舎に住む両親の間にひとり息子として生まれる。両親は戦時中に疎開先で相次いで他界。勉強がそこそこ出来たので、奨学金で医学の道に進み苦労して医師になってからしばらくのち最初の妻と出会い結婚。娘をひとり授かるが、ほどなくして妻も事故で他界する。シングルファーザーとして一人で娘を育ててきたが、娘の就学を見据えて越してきた新天地で気立ての良い女性と偶然知り合い、娘も懐いたため再婚を決める。
そんな、出来過ぎた肩書と経歴をつらつらと。
あまりに時間が無かったため、形成に際して強引さと無理があったことは否めない。だが、ロイド・フォージャーという人物が周囲からどう見られるかも考えたうえで作った家族像だった。
だから「ロイド」は全部持っている。
すべて持たせた。
妻も子も、仕事も地位も……。
当たり前だ、そういう人物を作ったんだから。
ごくごく一般的で普遍的な家族像。
理想の父親、理想の親子、理想の夫婦、理想の家族――。
まさかそれを『男の夢』と揶揄されるとは思ってなかった。
だが、その通りだと思った。
本当にこんな男が、こんな家族がこの世に存在するのかと自分自身でも甚だ疑問だ。あまりに画一的で陳腐な登場人物に自分でも笑ってしまう。
ここは『ロイド・フォージャー』の家だ。《黄昏》の家でも、まして「オレ」の家でもない。
あまりにも違う。
こんな場所は知らない。
こんな、箱庭のような完成された部屋は。
本当のオレは何も持ってない。
あの日、すべて奪われた――。
自分で選んだそれらのインテリアに言いようのない違和感を覚えて目をそらすと、テーブルに転がっている卵が目の端を捉えた。
瞬間、記憶の底に沈めたはずの白い兎が目の前に飛び出してきた。そして、一直線にこちらへ向かってきて身体全体を覆い尽くす。
声を出す暇もなく、あっという間に記憶のコントロール取って代わられた。
いつもは完全に制御できている「それ」が、堰ように目の前に押し寄せていた。
――瓦礫の街を走っている自分がいる。
ただ走っている。
母さん、
母さん、
母さん、
母さん、
そう、叫びながら。
周りには爆撃で崩れた建物、煤だらけの車、飛び交う銃声と爆撃音、空爆機の耳をつく機械音、そして悲鳴、怒号、泣き声――。
そんな中を必死で走っている。
それを、もう一人の自分が上からじっと見ている。
コンクリートの下敷きになってピクリとも動かない女性、血まみれになりながら必死に瓦礫をどかす青年、崩れたベッドの脇に投げ出された、誰の物かもわからない千切れた手足。
そんなものを横目で見ながら、ただ、ただ走っている。
走りながら、みんなの叫びを聞く。
みんな叫んでる。
誰もかれもが叫んでいる。
怒っている。
嘆いている。
悲鳴をあげている。
そんな世界を、ずっと、ずっと走り続ける――。
おい担架!この下におばあちゃんが!そんなことしてる場合じゃ!早くしろ早くしろ!そんなもの置いていけ!バカ!戻ってこいまだ!うるせーよ泣き止ませろよその赤ん坊!やめてよ押さないで!どけよ!坊や大丈夫!早く来いそんなのほっとけ!ねえうちの子見なかった!金は持ったのかよ!早くしろ!ここは崩れる!どうして薬がないのよ!どこに行きゃいいのよ!痛いよ!痛いよ死んじゃうよ!どうして助けれないの!やめとけもう無駄だ!どうせもう死ぬ!逃げろよ!押さないで!そんなのにかまっている場合じゃないだろ!早く逃げろ!待ってこいつ金持ってる!バスが来る!女子供から先だろうが!知るか!やめてよどうして!やめてよ助けて!やめてひどいことしないで!やめて殴らないで!やめて壊さないで!やめて奪わないで!やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて――。
「…………!」
ガサッという音がして、気がつくとボンドが足元に来て体を擦り付けていた。
同時に荒い息が咳き込むように零れた。気付かぬうちに呼吸を止めていたようだ。
ボンドがゆっくりと尻尾を振りながらこちらを見ている。まるで、白昼夢に沈む自分を繋ぎ止めようとしているかのようだ。
いつの間にか、兎もいなくなっていた。
「……優しいな、おまえ」
頭と喉をなでてやると、気持ちよさそうに膝に頭を擦り付けてもっととせがんでくる。
ふ、と固く絞ったようだった吐息が漏れて、呼吸が楽になった。
開け放した窓から、柔らかい風が入ってきて身体にまとわりつく。外に目をやると、夕暮れがだいぶ迫ってきていた。
近くの長ソファに身体を預けて天井を見上げると、照明の影が這うようにどんどん伸びてきている。
そのまま、ずるずると溺れるようにソファに沈んだ。
――たった一発の爆撃ですべて奪われた。
生まれた町も、疎開した地も、人の命も、何もかも。
あの後に待っていたのは文字通り地獄だった。
地獄というものがあるのならば、あそこだ。
子どもから食べ物を奪う大人。防空壕の一番奥に女子供を押しのけて我先にと走る老人。
泣いている赤子をうるさいと殴りつける男、日中にも響く女性の悲鳴――。
尊厳も、権利も、人格も、すべてが否定された世界だ。
そんな世界で生きてきた。
あの地獄が自分の世界のすべてだった。
殴られても、蹴られても、すがりついて食べ物を分けてもらって生きてきた。
こうして生きているのだ。誰かがほどこしてくれたこともあったんだろう。
けれど、不思議とその記憶は残っていない。
不様とか、親がいないみじめさだとか、そんなことも考えず、ただ、生きた。
誰かの愛を、通りすがりの他人にすがりたがる自分を必死で抑えながら……。
――認めたくなかった。
誰にも助けてもらえない日々だとか、食べるものも着るものもないひもじさだとか、みじめさだとか。
何かを盗まないと生きていけない現実だとか、誰もが他人を思いやれなくなる世界だとか。
――そんな世界が許せない。
目を背けたかった。
だから怒りに変えた。
だから銃を取った。
そのほうが楽だった。
嘆くより、憎む方がずっとずっと楽だったからだ。
――まだ、終わってない。
西国と東国の火種はいまだ尽きること無く、憎しみと怨嗟がくすぶっている。
政権が変わっても。十数年経てもまだ。いまだに両国間で終戦宣言は成されていない。賠償請求も交渉も、平和条約の締結も戦犯裁判すら何も行われず、ただお互い見せかけの復興をして見せかけに友好を結んでいるだけだ。
またあの頃と同じことを繰り返しているだけだ。
東西維持を、東西友好を、戦争がない世界をなどと言っておきながら――!
拳を痛いくらいに握りしめる。
だから、まだ止まれない。
立ち止まれない。
立ち止まってしまっては、もう……。
『子どもなんてすぐ成長するもの。夫婦でその日を楽しみにするのも良いものよ』
ふいに、先ほどの女店主の言葉が蘇る。
その言葉に期待した自分を抑える。
そんな未来を思い描いた自分を沈める。
「――そんな日は、来ない」
確認するように声に出す。
ゆっくりと。
震えないように。
感情を入れないように慎重に。
「オレの任務はさっさとデズモンドに接触して、さっさと奴の真意を探って、東西維持を堅牢なものにすることだ」
「あのふたりとはそこでさよならだ」
「それがオレの望みだ」
「オレは止まっている場合じゃない」
「いつもそうしている」
「いつも通りだ」
声に出して言い含める。
呪文のように。
呪いのように……。
――――冗談じゃ、ない。
お前らは「また」奪うのか。
オレからまた奪うのか。
オレの手にしたもの、オレが大切にしているもの、オレが愛しいと思うもの、ぜんぶ。
どうしてお前らはそうやってオレから何もかもを奪っていくんだ――!
ソファの脇で座ってこちらを見ていたボンドがピクリと耳を動かし、起き上がってしっぽを振りながら戸口へ向かった。一拍遅れて、自分の耳も楽しそうな声で階段を上がってくる声を拾う。
アーニャとヨルさんの声だ。
先ほどまでの感傷的な思考を瞬時に止め、すぐに『ロイド・フォージャー』の仮面を被る。
同時に、入り口のドアが勢いよく開いた。
「ちちー、アーニャとはは、きかんした~!」
「ただいま帰りました」
「おかえり」
緩慢になりそうな気持ちを叱咤しながら、戸口まで出迎えた。
「ちちー! アーニャがっこうでこうさくしたー」
部屋に入るなり、アーニャは嬉しそうにダイニングテーブルまで駆けながら手持ちの袋から小さい卵を取り出した。「イースターっていうらしい、しらんけど」と言いながら、楽しそうに卵を並べてご満悦だった。
「これがははでー、あとアーニャとボンドで」と、ひとつひとつ指さしていく。
黒地に赤茶の模様、ピンク地に緑の模様、白地に黒い模様。
そして、黄色に青色の卵を取り出して、嬉しそうにこちらに掲げた。
「さいごがちち!」
それぞれの髪の色と瞳の色に合わせた卵が、ころんころんとテーブルの上に転がって停止する。
「…………」
「ちち?」
「あ、え?」
一拍、返事が遅れた。
アーニャが不思議そうな、なにかを言いたそうな表情でこちらを見上げていた。
「ああ……、工作したのか」
それだけしか、言葉が出なかった。
アーニャは何かを感じたのか、見上げていた瞳を不安そうに揺らしている。
「なんだ?」
「え、と……」
「……アーニャさん、先に手を洗って着替えましょうか」
ヨルさんがアーニャのそばに来て、肩にそっと手を置いて優しく促した。
「うん……」
アーニャはそう返事をすると、こちらを一度だけ見てから部屋に向かった。
ヨルさんがこちらを見て「お疲れですか?」と控えめに問う。
とても、優しい目だった。
……気を使わせてしまった。
いつもと逆だ。
まだ「ロイド」の仮面がうまく被れてないのか。もう一度目を閉じて、より強く「ロイド」を被る。
「すみません、ちょっとウトウトとしていて。あ、ケーキ買ってきていますからね。あとでみんなで食べましょう」
そう無理矢理微笑んだ。
今度は大丈夫だ、しっかり被れている。
だが、ヨルさんの気遣わしげな表情は晴れない。
「お疲れではないですか? 今日はもうおやすみになったほうが」
「いえいえ、ボクが言い出しことですし。あ、すみません、プレゼントは今日は用意できなかったんです。でも後日必ず」
「そんな。その……かえってすみません」
「いえいえ」
彼女は少し考えてから、「ロイドさんは何か欲しいものはありますか?」と聞いてきた。
「え?」
「なんだかロイドさんにしていただくばっかりなので。何か私が出来ることとかありましたら」
「いえ。特にないですよ」
「では、何かしたいこととかはありますか? やってみたいこととか、望んでいることとか……」
彼女にしいては珍しく食い下がる。
「望み?」
「ええ。昨日、物が欲しい人と何かをしたい人がいるっておっしゃっていましたでしょう?」
そんなこと言ったのか。言った気もする。
「そう、ですね……」
少し考えて、この場合の一番良いと思われる返答のパターンを頭の中から引き出す。
「…………」
そうですね、アーニャが学業を頑張って星を八つ取ることです。
亡き妻との約束でもありますし。
これからの世はやはり教育が大事ですから。
あとは家族みんなが健康でいてくれれば。
ボクの夢なんて、そんな他愛ないことなんです。
デズモンドに接触することです。
彼の真意を探ることです。
東西平和を維持する事です。
二度と戦争が無い世界です。
子どもが泣かない世界です。
そんな世界を見ることです。
そんな世界を作ることです。
それが、オレの生きる意味です。
「――弔いたい」
だが、口から出たのは思ってもいなかった言葉だった。







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