その店は、市役所がある大通りから数本裏手の通りにあった。
通りの両側は背の高い建物がそびえるように建っていて、昼間でも少し暗い。あまり広くない道路には片側に路上駐車の車が列を成して停まっている。一方通行の標識はなかったから、両方向に通行が可能なのだろう。
だがこれでは車が行き交うのも難儀する。それに、意外にひと通りも多い。逃走経路にするのは悪手な場所だと考えてから、すぐにその考えを頭から追い出した。
今は逃走経路の下見をしているわけではない。ヨルさんの友人との待ち合わせ場所に向かっているのだ。あまり眼光鋭くさせるのは不自然だろう。
歩きながらほんの一瞬目を閉じる。再度目を開いた時には柔和な精神科医の表情になっていた。
そのまま少し歩いて目的の店を見つけると店内に入った。
対応してくれた店員が好きな場所に座っていいと言ってくれたので、店の奥に進む。店内は想像したよりもずっと広かった。入り口から少し進むとL字型になっていて、その先にも空間が続いている。外観から窺えなかったが、おそらく壁をくりぬいて隣の建物と続きになっているのだろう。目的を考えるとあまり奥に行ってしまっても具合が悪い。思い直して、少しだけ戻ってちょうど鋭角になっている席に腰を下ろした。こちらからは入り口がよく見えるが、逆側からは死角になる位置だ。
注文をとりに来た店員にコーヒーを頼んでから待ち合わせをしていることを告げると、来たら案内してくれると請け負ってくれた。店員が去ってから、少し肩の力を抜いて改めて店内に視線を巡らせる。
店内はほどよく客がいた。客はコーヒーを飲んだり、軽い食事をしたりしてゆったりと時と空間を楽しんでいる。ヨルさんは、よくランチに利用している店だと言っていた。シェニッツェル(カツレツ)をパンに挟んで食べるメニューが美味しいらしい。言われてみれば、サンドをほお張っている人が多い。
「白身フライとかをサンドウィッチにしてあげたら、アーニャさんも食べるのではないでしょうか」
彼女はそんな風に提案してくれた。アーニャの好き嫌いを無くすべく色々な方法をふたりで模索している。
嘘と打算尽くめの偽装夫婦に過ぎないが、彼女はアーニャの成長を我が事として考えてくれている。それは彼女と自分だけの共通事案だ。WISEとも、他の誰とも共有できない。
そして今、また彼女と自分だけの共通事案を増やそうとしている。
らしくない。
わかっている。だが――。
そんな暇はないはずだと、どこからか聴こえる声を追い払うかのように、もう一度店内に目を向けた。
レトロな雰囲気の店だ。
木目調の床はところどころ剥げていて年期を感じさせるが、きちんとワックスもかけてあって天井の照明を鈍く反射させている。
老舗のようにも思えるが、かかっている音楽や、テーブルの端に置いてあるメニューは比較的最近の流行りのものだ。時代に合わせてカスタムしているのか。もしくは居抜きで、店自体はそう古くはないのかもしれない。
最近西国では「ニュー・ワールド(アメリカ大陸を指す言葉)」から色々な店が出店してきているが、東国はまだその流れは無い。人も物資の流入も制限が厳しいため当然といえば当然だが、そんな中でも世の代謝はきちんと行われているようだ。
そんなことを考えながらふとすぐ脇の柱に目がいった。うすい罅がところどころに走っている柱だ。その道筋をなんとなく辿ると、亀裂に沿って世界各国の言葉で「美味しい」という文字が並んでいる。どうやら罅を逆手に取ってインテリアとしているようだ。その跡を辿っていくと、目線の少し上の辺りに一輪挿しがぶら下がっている。中には、小さく繊細な花が飾られていた。
花瓶を飾るためにドリルか何かで穴を開けたのだろうか。その罅なのか。だがよく見ると、その一輪挿しの裏側には、小さく抉れたような痕があった。
その特徴のある痕には馴染がある。
おそらく銃痕か、それに付随するなにかだろう。
首都であるバーリントでも、終戦間際には市街戦があったと聞く。穏やかな店内に、そんな過去が染みのように落ちきれずに残っている。だがその痕や罅は、可愛らしい雑貨で綺麗にコーディネートされ、内装と一体となっていた。
修理するでもなく、隠すでもなく。
忌まわしい過去すら糧とするたくましさは嫌いじゃない。ふわりと漂う花の薫りが、暗澹に傾きそうな気分を和らげた。
あまり詳しく無いが、この花は知っている。
エリカだ。
ヨルさんが好きな花だ。
直接聞いたわけでは無いが、たまに行くドッグパークにも咲いていて、彼女はその花を見るたびに口許を綻ばせていた。
その顔を思い出すたび、自身の口許も知らず綻んだ。
だが店員がコーヒーを運んできたので、慌てて時計を確認するふりをして取り繕う。店員は何も言わずに去っていった。
待ち人はまだ来ない。
腕時計を見ると十時五十分だった。この店での約束は十一時。そして正午すぎに別の約束も入っている。移動時間を除けば、この店に滞在できる時間は正味三十分程度しか無い。
だが、故意だ。
ヨルさんには悪いが、さっさと切り上げようと思っていた。
コーヒーに口をつけながら、頭の中を整理するように先日の出来事を回想した。
通勤に使用しているトラムから降りてから、すぐに腕時計で時間を確かめる。いつもよりだいぶ早い時間だ。一日仮の職場で論文を書いていたが、比較的早く書き上がったため帰宅した。精神科医という職業はあくまでカモフラージュだが、籍がある以上あまりおろそかにもできない。もっとも、研究医は時間の拘束はないため、その点は重宝している。
この停留所から自宅まですぐだが、せっかく早く帰れたのだからケーキでも買って帰るかと反対方向へ視線を向けると、前方から見知った人が歩いてくるのが見えた。
「ヨルさん」
「あ、ロイドさん」
少し早歩きで近づいて声をかけると、ヨルさんもこちらに気がついてすぐ笑顔を返してくれた。
「お帰りなさい、今日は早いのですね」
「ええ。論文の目処がたったので帰ってきてしまいました」
「まあ、それはおめでとうございます。終わりそうなんですか?」
「一本はね。まだ他にもありますが。あ、それ持ちます」
彼女が持っていた買い物袋を代わりに持つ。フォージャー家は、食料品を週末にまとめて買うことにしているが、それでも不足なものは出てきてしまう。そういった細かいものはだいたいヨルさんに買ってきてもらうことが多い。
「共有財布から出しますから抜いておいてくださいね」
「大した金額ではないので大丈夫ですよ」
「それでもです。最初に決めたことですから」
「わかりました」
彼女とは一緒に暮らす際に生活面の費用を負担する金額などを決めた。基本的にフォージャー家でかかる費用は自分が負担するつもりだったが、彼女も負担するといって食い下がったので、共有で管理する口座を持つことにした。
ケーキスタンドへ行こうとしていたことを話すと、一緒に来てくれるというのでそのまま二人で反転して歩き出す。
アーニャが好きそうなケーキと、ヨルさんの好物の果実のケーキを購入してまた並んで帰る。
歩きながら、今日あったとことをお互いつらつらと話す。病院であった看護師たちの笑い話、市役所の雨漏りの話など。本当に些細なくだらない話だ。だが、なぜかそんな他愛ない会話が心地良い。
頭の中に残さない会話がこれほどくつろげるとは。正直、彼女と暮らしてから初めて知ったことだ。
――あまり彼女に深入りするなと、どこかで警鐘が鳴る。
その声には抗えない。抗ったら破滅を喚ぶだけだ。
なにより、一般人を巻き込むな、と。
今更だが、そこの線引きだけは間違えないようにしなければ。
「そういえば、この間お話ししたエリカさんて覚えてらっしゃいますか?」
こちらの考えなど想像もしないであろう無垢な瞳で妻が見上げる。
「ええ。以前食料品店でお会いになった女性でしょう。ボクは直接お姿を拝見していませんが」
「そうです。あの……それでお願いがあるのですが……」
「ボクに?」
珍しい。またパーティーに一緒に出席して欲しいのだろうか。
だが頼られて悪い気はしない。彼女と信頼関係が構築できている証拠でもある。できる限り受けるつもりで詳しく聞いたところ、少しためらってから診察してもらえないかと言われた。
「診察って? ボクが? ヨルさんを?」
自分に頼むのであれば精神科だ。それはすなわち、心に何か負担を抱えているということだ。
フォージャー家に何か不満でもあるのだろうか。
「病院の予約をしてほしいということですか? どこか体調でも悪いんですか? どこですか? いつからですか?」
急に不安になって、畳み掛けるように身を乗り出してしまう。ヨルは慌てて「いえ、私ではなくて! し、市役所の方です!」とどもりながらも訂正する。その言葉に、とりあえずホッとなった。
「同僚の方でしたか」
「す、すみません、紛らわしい言い方をしてしまって」
「ああ、いいえ。こちらこそすみません、早とちりを。それで、同僚の方……エリカさんでしたっけ。その方が診察にかかりたいということなんですか?」
「はい」
「では病院の予約を」
「あ、いえ。それが、病院には行きたくないそうで、出来ればどこかで会っていただきたいそうなんです」
「え、いや……それは……」
「難しいでしょうか」
「そう……ですね。少し」
基本的にどこの病院も、医師と患者のプライベートな接触は禁止されている。それが診察という名のもとだったとしてもだ。
そもそも、既婚男性が女性と二人きりで会うの状況を頼む妻とうのもどうなのだろうか。
「ええと、その、エリカさん精神科には抵抗があるらしくって……すみません、ロイドさんのお仕事なのに」
「ああ、大丈夫です。そういった意見の方はまだ少なくないので」
実際、自分で率先して精神科に来る患者は稀だ。たいていは他の不調で来院し、他の科の医師から精神科を紹介されてくる患者のほうが圧倒的に多い。
「それで、出来ればどこかカフェでお話を聞いていただきたいとのことなんです」
「それは……」思わず言いよどむ。安請け合いしてしまったことを後悔した。
「それは少し厳しいかもしれません。もともとボクは研究医なので、臨床自体をあまりやらないんです。いま担当医として診察している患者さんも、研究対象としてのほんの数人とか紹介された方へのカウンセリング程度ですし」
なのですみませんが、とすまなそうに断った。
実際、医師免許は取得しているものの、西国での話だ。東国では法律も違うし、認可されている薬も随分違う。なにより東国での医師免許は偽造だ。現在担当している患者というのもほとんどWISEの諜報員だ。連絡要員のためのダミーとして偽のカルテを作ってやりとりしているに過ぎない。
「そう、ですか……そうですよね。すみません、無理言いました。お断りしますね」
「でも、体調が悪いならどちらにせよ診察させていただいたほうがいいのですが。ちなみにどんな感じなんですか?」
「どんなって?」
「眠れないとか、食欲がないとか」
「ええっと……いいえ? そういった感じではなかったです。そのお話をした時も公園でランチをいただいていた時でしたし」
だとすれば偽装? 自分がWISEの黄昏であると知っている可能性はあるだろうか。診察のふりをしてこちらを監視する目的? とすると、ヨルさんもグルという可能性は……。
「あ、すみません! 私ったら」
「え? 何がですか?」
「いえ、私ったらまた勝手にエリカさんの診断のようなことを。私にはお元気そうに見えたってだけで、心の中はどうかなんてわかりませんのに」
「ああ……」
その言葉に、なぜかホッとする。彼女はこちらの領分を侵そうとすることを決してしない。その距離感が自分にとって絶妙に心地いい。
彼女が敵側かどうかは何度も何度も確認したし、気を付けて観察してもいる。
彼女は……善良な一般人だ。
「……そうですね、一回だけという約束であれば」
「え?」
「お会いします」
「本当ですか⁉」
「ええ」
「ありがとうございます!」
「でも、このことはヨルさんとエリカさんとの間だけの話にして下さい。本当はダメなんです」
「もちろんです!」
じゃあ明日エリカさんへ伝えますね、とウキウキとしながら歩く妻に苦笑した。
「嬉しい?」
「え?」
「いや、なんか嬉しそうだったから」
「え、そ、そうですか⁉」
ヨルさんは驚いた顔をしつつ、うーんと空を見上げる。
そしてひと言、「私、いま嬉しいんですね」と言った。
店内の時計が十一時ちょうどを告げた。自分の腕の時計を見ると、十時五十八分を示している。毎朝の習慣で自分の時計は電波局で正確な時刻を合わせている。店の時計が少し進んでいるようだ。
とはいえ、そろそろ来てもおかしくない時刻だが。
そう思い店の入り口へ視線を向けると、ちょうど客がひとり入ってくるところだった。女性だ。ブリムの広いキャペリーヌ型の帽子を被っていて容姿まではわからなかったが、店員と何かを話している。その店員が女性に向かってこちらの席のほうへ身振りで案内していた。
どうやら彼女で間違いないらしい。
こちらも立ち上がって出迎える。席の近くまで来た女性は、店員へ何かお礼のようなものを言ってひとりでこちらへ近づいてくる。
その顔は近づくにつれて、どこか躊躇しているような、不安そうな表情だ。それでいて歩き方には迷いがなく、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
「エリカ・ムスターマンさんですよね。初めまして、ロイド・フォージャーです。妻がいつもお世話になっています」
声が届く位置まで来た辺りで、こちらから彼女を出迎えて名乗る。
「はい……あの、今日は……」
小さい声だ。
「とりあえず、かけましょうか。どうぞ。飲み物は?」
柔和な声で安心させるように彼女へ座るよう促す。
「先ほどの店員さんに……」
女性は答えながら対面の席へ座る。まだ帽子は被ったままだ。そしてそっと視線だけで回りをうかがうような仕草をした。誰かにつけられているのか。それとも妄想だろうか。
「それは良かった――そちらの席は店内からは死角になります」
彼女と同じように自分も座りながら、挨拶と同じ口調でそっと告げた。
女性は驚いたようにはっとこちらを見る。その視線を真っ直ぐに捉えて、もう一度少し大袈裟なくらい柔和な表情を作る。
神経が過敏になっている相手には、分かりやすいくらいゆっくりとした穏やかな動作で対応してこちらのペースへ合わすように誘導する。そうやってどこであろうと、この場を制する。
この十数年で繰り返し繰り返しやってきたことだ。スパイの潜入も精神科医も根底はあまり変わらない。
女性は一度、驚いたようにこちらを見てからやっと帽子を取って顔を見せた。
そして、少し視線を落としながら、弱々しい声で「エリカ・ムスターマンです」と名乗った。






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