大通りまでの道を歩いていると、近くの鐘楼の時計が正午を知らせた。次の約束の時間だ。完全に遅刻だった。
次の約束は「隠れ家D」で行われるWISEの作戦会議だ。現状のメインの任務である《梟》は、その内容の特殊性からそこまで密な報告をしているわけではない。報告はたいだい週に一度、同じ病院内に潜伏している夜帷を通して行うことが多い。別任務にしても協力者からの暗号という形で指示されることがほとんどだ。にもかかわらずこうして隠れ家まで呼び出されたと言うことは、何か緊急性を要する事案でも発生したのかと少しばかり警戒が増した。
「隠れ家」というだけあって堂々と事務所を構えているわけではない。隠れ家自体はこの国にいくつもあるが、「D」に呼び出されたということは直属の上司であるシルヴィア・シャーウッドが呼んでいるということだ。
「D」は東国におけるWISEの中心拠点だ。西国大使館の地下にある。彼女の表の身分が大使館書記官だからだ。「D」。なんのことはない「Diplomacy(外交)」の頭文字というだけだ。安直だがわかりやすい。
その大使館はバーリント市役所から橋を渡った対岸にある。だがまさか大使館へ直接出向くわけにもいかない。通常、諜報員、工作員は街中に配置された秘密通路を通って出入りをする。そのうちのひとつである証明写真ボックスはここからものの数分の場所にある。そこから行くのならば大した遅れにはならないが、あえて大通りへ出て地下鉄に乗った。
目的地から次の目的地に行くまでには一度公共機関を利用することにしている。特に「ロイド」から「黄昏」へと変わる際には徹底している。どこに誰の目があるかわからないからだ。
地下鉄を二駅先で降り、階段を上がってすぐの馴染みのスタンド型のショップまで来ると、いつもは暇そうな赤眼鏡がもうシャッターを閉めようとしていた。
「まだ昼過ぎだろ」
「げっ、でた」
情報屋は人の顔を見るなり嫌そうな顔をしながら悪態をついた。
「なんか頼まれもんあったっけ? あ、まさかまた子守じゃねえだろうな? 今日は絶対にムリだからな!」
「約束はしてない。子守でもない。『G・H』」
煙草を頼むふりをして要件を伝える。G・H。帽子と眼鏡のことだ。ネーミングの安直さは自分にもしっかり継承されている。
情報屋は「なんだそっちかよ」と言いながら背を伸ばしてカウンターの下から厚めの封書を取り出した。この店には咄嗟に変装できるように様々なものを預けてある。狭くなるだの場所代払えだの文句は多いが、たまに本人も勝手に使っているようなので無視している。
「用ってこれだけ?」
「ああ」
「良かったー。今日はこれから郵便局のエリカちゃんとディナーする約束してんだ。つーわけで、もう閉めるから! 無理だから! 絶対ムリだからな!」
「何がだ。だいたいまだ昼だぞ。そんな前から閉めてなにするんだ」
「アホかあるだろ男には色々準備が! 風呂はいったり、歯ぁ磨いたり!」
「磨いてないのか」
「例えだっての!」
キーキーと姦しい声を聞きながら、ふと先ほどのエリカの顔が浮かんだ。
――どうも引っかかる。
「もういいだろ。オレは忙しいの! エリカちゃんが待ってるの!」
「エリカという女性のことを調べてくれ」
「はぁ⁉ なに言ってんだオレのエリカちゃんは渡さねーからな! だいたいおまえ既婚者のくせに! ヨルさんに言いつけるぞ!」
「『郵便局のエリカ』じゃない。『市役所のエリカ』だ」
「は? 市役所?」
フランキーは怪訝そうな顔をしつつも新しい依頼に身を乗り出した。
「エリカ・ムスターマンという女性だ。以前イーデン支所にいて、今は本庁舎にいる」
「エリカ・ムスターマン? なんだそれ偽名? にしてももうちょい捻ってほしいね」
「いや、本名だ――たぶん」
「それはそれでまたパンチのきいた……で、その女がなに」
「わからない。だから調べたい」
「なんだそりゃ」
彼女に対して違和感を覚えるのだが、それが何なのかがわからない。そもそも彼女に会ったのは二度目だ。いや、あれは手だけで確認したから会ったともいえないが――。
「明日取りに来る」
「いやだからこれからデートなんだっての!」
「頼んだ」
「おい!」
後ろからギャーギャー声がするが無視して歩き出した。
すぐまた地下鉄をとって返し、大使館最寄りの駅まで戻る。ホームに降り立つと地上へ出る階段を通り過ぎて駅構内の有料のレストルームに立ち寄った。西国にも有料トイレはあるが、だんだんと無人化が進んでいる。だが東国ではまだ「門番」は健在だ。世の中の憤懣を全てすり潰して口に含んだままのような顔をした老婆が簡易カウンターに陣取って睨みをきかせている。
「一時間」
「――はいよ」
老婆に規定の料金を渡しながら、持っていた鞄とカウンター下に置いてある作業用鞄を取り替えた。彼女もいわゆる協力者だ。こういった協力者がいたるところに配置されている。
レストルームに入ると、外側からガタガタと何かを動かす音がした。老婆が「点検中」の看板を立ててくれた音だ。これで一時間は誰も入ってこない。
素早く上着を脱いで交換した鞄の中に入っていた薄いグレーのジャケットを羽織る。ついでフランキーから受け取った封筒から帽子と眼鏡を取り出す。「ロイド」ではあまり使わないハンチング帽と少し色の付いた眼鏡だ。これだけでも印象がだいぶ変わる。一見するとどこかの土木作業員が計測か測量をしているふうに見えるだろう。
着替え終わると一番奥の個室に入る。この個室だけ少し大きめに作られていて、清掃用具入れのスリムなロッカーが一緒に置かれている。中は使い古したモップが一本乱雑に入っているだけだ。そのロッカーの底を取ると、地下へと続くはしごが現れた。人ひとり通るのがやっとな鉄製のはしごを降りると、横に長い地下通路が伸びている。下水こそ流れてはいないが、それと似たような構造だ。一部の諜報員から「地下墓所」と呼ばれているが、無理もない。ドーム型の壁は土をくりぬいただけの簡素なもので、ところどころに小さな裸電球が灯っている。首都にはこうした隠し通路や、秘密の小部屋などが無数にある。首都というか、この大陸の主要な都市には必ずあるといっていい。
地図には決して載ることはない地下空間。その時代時代の支配者たちに虐げられた人々が掘った遺跡だ。大抵は埋め立てられているが、それでもわかる者が探れば過去の通路が出てくる。それを秘密裏につなげたり塞いだり。表だって活動できない者の重要なバイパスだ。
少し歩くが、この地下通路からなら直接「D」に行ける。手間だが、「隠れ家」に行くということはそれだけリスクが伴う。念には念を入れる。だが、それにしても遅れすぎか。知らずに歩幅が大きくなった。
指定された部屋に入ると、自分以外の面子は揃っていた。直属の上司の管理官と、その脇にはベテラン諜報員達が控えている。そして上官の前には夜帷の姿もあった。
彼女も呼び出されていたのか。
「ずいぶんごゆっくりでしたね、『フォージャー先生』」
非難にも嫌みにも聞こえるような後輩の台詞を軽くいなして彼女の横に立つ。
「急に呼び出してすまないな、黄昏」
「いえ。遅れてすみません」
「いや、かまわない。フォージャー家での用件も立派な任務だ」
「はあ……」
管理官にはこの前にフォージャー家での用事を済ませる旨は伝えあった。上司のねぎらいの言葉を戸惑いながらもありがたく受け取る。そう思うなら少しは別任務のスケジューリングを考えてほしいものだ。だがいつものように顔には出さなかった。隣の後輩がかすかに眉根を寄せたのにも気がつかないふりをした。
「今回呼び寄せた用件はこれだ。電話や伝言では憚られる内容なんでな」
デスクの上に滑るように差し出された分厚いファイルを黙って受け取りパラパラと速読する。東国の政府近辺に侵入している調査員からの報告書のようだ。ページを捲りながら要点だけを追っていく。数枚に渡る報告書には、東国の中核議員の動向や接触者など。まだ内密らしい政権方針がまとめられている。その中に記載された一文に、めくっていた指が止まった。
「――恩赦?」
思わず書類から顔を上げると、上司も同じような顔をしていた。
「それも『大赦』らしい」
「いつです?」
「まだわからん。だが、本国からの情報と合わせると、年内、それも夏前には施行されるとふんでいるようだ」
「夏前……」
すぐじゃないか。いささか面食らうように再度書類に視線を落とした。その報告書には、感情をそぎ落とした文体で恩赦を施行すると書かれていた。
恩赦――行政権によって刑罰権を消滅させ、裁判内容の変更、またその効力を消滅させる行為のことだ。
ひとことで恩赦といっても、種類はいつくかある。大きく分けると「政令恩赦」と「個別恩赦」があり、それぞれがさらに細かく分けられる。大雑把に分類すれば、「大赦」「特赦」「減刑」「免除」「復権」の五種類に分かれる。
「減刑」「免除」は、一度判決を受けた刑罰に対して罰金が免除されたり、服役期間が短くなったりする。また「復権」は有罪を受けたことにより剥奪された社会的地位や、公的権利を復活させる行為のことだ。
「特赦」とは、通常特定の個人や特定の犯罪者に対して罪を免除することをさし、「大赦」はより広範囲の犯罪、例えば内戦時の反政府運動者などの罪状が免除されることを指す。この場合、個人の特定は行われない。
一般的により規模が大きいのは大赦だ。確か東国では西国との開戦以降施行されたことは一度も無いはずだ。
「なんだってまた急に。しかも大赦なんて」
書類に目を落としながらそんな言葉が自然と出た。
「さあな」
彼の上司は、そっけない返事で返す。安易に答えを求めるなということだろう。
「一番の理由はガス抜きだろうな」
管理官の隣に立っていた口ひげの男があとを引き継ぐ形で答えた。
「政府のパフォーマンスだと?」
「たぶんな。以前から水面下でそういった話はあったようだ。デモもテロも年々活発化し続けているだろう。今の政府、外交には強いが国内の舵取りはは弱いイメージがついちまってるからな。ここいらで内政でも成果が欲しいところなんじゃないか」
確かに、そう言われればわからなくもない。
戦後、国家統一党から政権を奪うかたちで誕生した新政府だが、もともと東国自体が長年ヘゲモニー政党制(ひとつの政党が政府を支配する政治体制のこと。一党優位政党制とは異なる)を敷いていた国だ。東国が建国されてから国家統一党が主要政党として君臨しており、国民党は対立政党ではなく同政党の衛星政党として存在していた。だが、先の戦争の指導政党としての責任を統一党が取ることになり、現在の政党がトップに躍り出たという経緯がある。
現在の政党になってから西国との宥和政策や近隣諸国との国交も率先して樹立しており、国際社会的には一定の立場を保有することに成功している。だが国際社会からの視点と国民感情はまた別の話だ。国民党になってからも失業率は上がり続けており、連動するように反政府テロも活発化していて治安は悪化している。秘密警察がいくら睨みを利かせようが後手に回っているのが実情だ。政府としても国民の鬱憤を少しでも晴らして国民の機嫌を取っておきたいというところか。
「ああ、それで恩赦なんですね」
こちらの意図を汲んだのか、女は即座に「そうだ」と答えた。
要するに、今回の恩赦は内政の融和を国民にアピールするのと同時に「過去の遺物の精算」という意味もあるのだろう。おそらく恩赦の対象者は国家統一党時代に逮捕された政治犯といったところか。
「正直意外ですね。国民党はデズモンドの傀儡政権という印象でしたが」
「我々もそう踏んでいる」
政権が変わったとはいえ、デズモンドの影響力はまだ衰えてはいない。国民党がもともと国家統一党の衛星政党であったし、現在の国民党の首相はデズモンドと同じ大学を出ていて、後輩に当たる。戦前はふたりして同じ政治家の秘書として活動してもいた。つまり、現在の国民党は国家統一党の――デズモンドの傀儡政権だといわれている。だからこそ、野党であるデズモンドの動向を探るために「梟」があるのだ。
それが国家統一党が告訴した人間を恩赦の対象とするという。これは国家統一党と決別するというアピールだろか。
「それもあるだろうが、現実の話、今だって刑務所は満員御礼状態なんだ。これ以上税金で『国民を食わせてやる』のも限界なんだろう」
「――では、規模も大きくなりそうですね」
「ざっと六千人だそうだ」
「ろく?」
「もちろん、収監されている奴らだけじゃなく執行猶予がついている者も入っている数だが」
「大赦だと復権もセットですか。とすると指名手配犯が指名手配じゃなくなる場合もあるんですね。それは――逆に治安が悪化しそうですが」
「ま、といっても対象範囲はせいぜい戦中か、戦後すぐくらいまでだろう。まさか奴らも現在進行形で指名手配されている人間などは含めないだろうしな」
「――それで、私と黄昏先輩が呼び出された理由はなんでしょうか」
今まで黙っていた夜帷が口を開いた。
「この内容が直接デズモンドに関係するとは思えません」
「まあそう急かすな。一足飛びに点と点だけで結論に結びつけようとするのは悪い癖だぞ夜帷」
夜帷は上官の言葉に微かに目を細めたが、それを無視してこちらに視線を送る。おまえはわかっているなと言わんばかりだ。
「……うちの院長が喜びそうですね」
ため息をつきながらも同意した。
「せいぜい喜ばせてやれ。総合病院とてこの国じゃたいした給料でもないだろう」
「院長の懐事情なんて知りませんが」
夜帷が怪訝な様子でこちらを見るが、わざわざ説明してやる気も起きない。
「いま話してただろうが。恩赦の対象者は『前政権時の政治犯』だって。シャバに出てくるのはデスモンド政権に牙をむいた奴らだよ」
管理官の横にいる口ひげの男が助け船を出してやる。
「長年刑務所で過酷な生活をしていた政治犯なんてうちにとっちゃ格好の情報源だ」
「ですが、長く収監されていた奴らの情報なんて使えないのでは?」
「いいかお嬢ちゃん、情報っては常に入手した時点で古いんだ。そんなもんを口開けて待ってる情報機関なんてねえよ」
「では……」
「欲しいのは『手段』と『伝手』だ。一度つながった人間関係ってのはそうそう切れない」
「そういうこと。たとえ切れていたとしても、相手が生きてりゃ何年過ぎてようと再開する可能性は十分ある」
「情報もな。なまくらのだと思っていた剣が、錆を取ったら伝説の剣だったということもある」
「……わかりました」
上司三人から説明を受けた夜帷は、観念したように黙った。
「――うちの病院は復員兵のメンタルケアにも力を入れてますし、人道的見地からのカウンセリングという体裁が取れそうですね」
「もちろん、こちらもそうなるように誘導はするつもりだ。WISEとしてもこの機会を逃したくない。こっちもここ数年のモグラ狩りで協力者が激減している。すぐに代わりのモグラを見つけるのは難しい。情報は多いにこしたことは無い。むろん、《梟》が最重案件であることには変わりは無いが、こちらも重要な任務と心得てくれ」
「了解」
その場の全員が一斉に諾の声を上げるのをシルヴィアは満足そうに微笑んだ。
会議を終え帰路につく。今日はこれ以上の予定は無い。病院は研修会に出席していることになっているので出勤する必要も無い。一瞬イーデン校に行こうかとも思ったが、この時間では一年生の授業は終わっている。大人しく帰るかと算段をつけたところで後ろから「先輩」と声をかけられる。
夜帷だった。
「今日は病院に戻るご予定はありませんでしたよね」
「ああ」
「先ほどの内容の件、もう少し綿密に詰める必要があると思うのです――二人だけで」
「必要ない。まだどんな奴が来院するかもわかってないんだ。オレは引き続き《梟》に注視する予定だ」
「では、その《梟》の現状を私にも共有いただければ。いざというとき」
「それも必要ないな。いくら同じ組織でも任務の詳細はお互い明かさないのがルールだ。理由は?」
「……拘束、拷問された際に不要な情報を漏らさないためです」
「そういうことだ」
軽く手をあげで会話を切り上げると同時に解散を暗に示す。彼女には訓練の際に何度も教えたものだが。優秀な工作員だが、スタンドプレーが目立つきらいがあるのも否めない。ましてや自分は妻帯者なのだ。この東国では、ほんの少しでも噂に立つようなことがあれば命取りになるのだ。
――精錬潔白のロイド・フォージャー、か。
自分と真逆の人物を演じるのも楽じゃ無い。
自嘲めいた笑み含みながら、来た通路を戻る。
レストルームに戻ると、ちょうど入ってから一時間だった。外がなにやら騒がしい。そのままの格好でそっと伺うと、数人の男がレストルームを使わせろと騒いでいた。点検中の看板はかかったままで、老婆が頑として入り口を塞いでいる。
「なあ早くしてくれって! 金払ってんだからさぁ! 客だぜオレは!」
「うるさいね点検中だって言ってるだろうが! したきゃそこら辺でしな!」
「んなこと出来る分けねーだろ! 秘密警察にしょっ引かれだらどうするんだ!」
「はん、立ちションごときに秘密警察が出張ってくるわけないだろ」
「んなことねーって! あいつら治安維持って名目で街中のパトロールもするようになってんだって! なぁぁああ頼むって!」
――そうなのか。
初耳だった。
通常、秘密警察は市民の密告や独自の情報網を駆使しての摘発業務が主で、警邏業務は無いはずだが。
もう少し内容を聞きたい気持ちもあるが、さすがにこれ以上引き伸ばせないだろう。喧々囂々のやりとりをしている間に入って「点検終わりましたよ」と言いながら話を止めた。即座に男は「助かった」という顔をしてレストルームに駆け込んだ。
その様子を眺めながら、「やはり配管の交換時期が」や「次の点検時期が」などと業者のふりをしながら老婆とひと言ふた言交わすふりをして預けていた荷物を受け取る。返しぎわ老婆が「そのままで。同じ制服の奴らが十分後に東口から出る」と教えてくれた。
「ありがとう――では報告書は駅に直接渡しますね」
帽子を少し浮かせて挨拶をしてその場を離れる。そして東口の辺りまで来ると、老婆が教えてくれた通りに今の自分と同じ制服を着た集団がぞろぞろと地上に向かって歩いている。事前に調べていたとおり、今日はこの業者がこの駅に一斉点検に入る日だ。その集団の一番後ろにそっとついて出る。
誰も、その集団がひとり多いことには気づかなかった。
Last Updated on 2025-09-24 by ashika







※コメントは最大500文字、5回まで送信できます