2025-01-25

エリカ・ムスターマンの死 13

 男は礼儀にのっとり制帽を取ると、そのまま躊躇なく棺の場所まで進んだ。
 進むにつれて、男の姿を認めた人々がぎょっとした顔をする。無理もない。だが、なぜかヨルさんも男の姿を認めると慌てて下を向いた。あの男と面識があるのだろうかと記憶をなぞると、すぐに思い至った。
「あの、私、以前あの方に職務質問されたことがありまして……」
 ヨルさんが小さな声で不安そうに打ち明けた。
 知っている。だが、それはオレだ。
 以前、ヨルさんの動向を調査したとき、あの男の姿を借りたのだ。
 彼はユーリ・ブライアの直属の上司だ。正体を隠しているユーリは絶対にヨルさんとは接触させないだろうと踏んで彼に変装した。まさか当の本人が目の前に現れるとは。
 どうやら彼ひとりのようだ。ユーリは内部には入ってきていない。彼もヨルさんがいることを認識していた。入ってこれなかったのだろう。もしかしたら帰ったのかもしれない。
 一緒に帰れば良いものを。
 舌打ちしたい気持ちを抑えながら、ヨルさんになだめるように視線を送った。
「大丈夫でしょう。あまり近づかなければ」
 小声で返す。彼がここに来た意図が分からない限り、とりあえずそれしか言えない。
 男は既にふたつの棺の前にいていささかゆっくりと両方の棺に花を手向けていた。その姿を遠目でゆっくりと追う。
 外見はいかにも軍人、といった風情だ。
 秘密警察は軍の所属ではないが、実際は転籍した者がかなりいるし、制服も似ている。そのため、この制服を纏う者が市民に与えるプレッシャーはかなりのものだ。
 そんな姿の彼はといえば、意外にもあの組織特有の不遜さは感じられなかった。棺の前に佇む姿は、素直に死者を悼んでいるように見えた。もしかしたら、単に個人的な知り合いなだけかもしれない。そんな考えも浮かんだ。
 何にしても、あの男に近かなければいいだけだ。ユーリとヨルさんの関係を知っていれば、彼のほうからは近づいて来ないだろう。楽観視は出来ないが、とりあえず彼一人だけならば対処のしようもある。なにしろこちらは知人の葬儀に参列しているだけの「善良な市民」なのだから。
 ヨルさんには、もう一度安心させるようにしっかりと顔を見て微笑む。彼女も、いくぶんホッとしたように笑顔で返した。
 大人たちの様子を見ていたアーニャが、キョロキョロとせわしなく両方の顔を見比べる。
「いちゃいちゃのはなし?」
「違う! いいから前を……」
 アーニャを見下ろした途端、頭上に影がさした。
「退屈かい?」
 驚いて見上げると、いつの間にか先ほどの男が意外なほど人なつっこい顔をしてこちらを見下ろしていた。だが、その瞳の奥はこちらを値踏みしているように冴え冴えとしている。
「……っ!」
 アーニャがぎゅっと袖をつかんだ。男の制服姿に慄いたのか、またはその戦歴然とした容貌に驚いたのか。
「アーニャ」
 男は特に気を悪くした顔もせず、口の端だけで小さく微笑むとそのまま前の席に座った。
 なぜ目の前に座る⁉
 ヨルさんも分かりやすく身体を硬くした。気持ちは分かるが、それでは逆効果だ。
 だが、周りの人間も同じようなもので、先ほどまでちらほら聞こえていた噂話などはぴたりと止んでいた。
 唯一、平然と……というか、様子が変わらないのは向かい側に座っている「部長さん」だけだ。
 彼は先ほどと同じように、秘密警察の男を歯牙にもかけないといった様子で前を向いて座っていた。
 まったく、見習いたいものだ。
「ちち……?」
 不安そうに、身体ごとこちらに向けてこっそりと伺うアーニャに、唇の形だけで「大丈夫だ」と伝えた。
 その言葉にやっと安心したようだ。
 アーニャは、今度は反対側のヨルさんの手を握って、同じように「はは、だいじょーぶだって!」とこそりと伝えた。
「ありがとうございます、アーニャさん」
 にんまりと満足そうにふんぞり返る娘に呆れながら、大人ふたりで目を合わせて苦笑した。
 ――その様子を、通路を挟んだ向かい側の老人が薄い目でじっと見ていた。

 二十分ほどした頃だろうか、スタッフが埋葬の準備が整ったことを会場全体に伝えた。埋葬に参列する人は身廊脇にある裏口へ集まるよう促す。参加しない人間は、ここで解散となるようだ。
 すぐに何人かが席を立ち帰っていく。そのなかには、先ほど噂話をしていた女性たちの姿もあった。
 雨はまだ止んでいないようだ。
 天井が高いためよくわからないが、開け放たれた入り口からは雨の音がまだ聞こえてきていた。
 ほとんどの人間が帰ったようだ。もともと少なかった人数がさらに減っていた。残ったのはほんの数人といって良かった。
 フォージャー家はもともと埋葬まで参列する予定だ。三人そろって裏口の辺りに行くと、集まったのはフォージャー家、エリカの同僚と思われる市役所に勤務するグループ、そしてヨルさんの上司であるマクマホン氏がいた。
 全員エリカの関係者のようだ。母親の葬儀も兼ねているが、そちらの関係者はいないようだった。先ほど盗み聞きした話では母親はあまり人付き合いをしていなかったらしい。……いや、違うか。夫が亡くなってから急に人付き合いが減ったんだったか。
 ただ、環境が人を変えることはままある。そうおかしなことでもない――そんなことを考えていると、すぐ隣に秘密警察の男が立った。
 帰ってなかったのか。まさかユーリ・ブライアも外にいるのだろうか。
 再度正面玄関へ視線を送るが、この場所からはもう外の様子はうかがえなかった。 
 心の中で再度舌打ちをしながら、秘密警察の男から庇うように自然にヨルさんとアーニャの前に立った。
「ええと、フォージャー君……だったかね。あ、こちらはご主人? どうも。いや、わざわざわご家族連れで参列してもらってすまないね。君、ムスターマン君と仲が良かったからショックだったでしょう。蒸すよね、ここ」
 市役所の同僚とふんだグループの中から、小太りの男がひとりこちらにやってきて汗をかきつつ挨拶をした。男はエリカ・ムスターマンの直属の上司だと、ヨルさんが小声で説明してくれた。
 彼に当たりさわりない挨拶をしてヨルさんの代わりに会話を引き継ぐ。あまりこの場で、ヨルさんとエリカ・ムスターマンが親しかった印象を植え付けたくない。特に秘密警察の前では。
「この度は……大変でしたね。その、火事が続いたでしょう?」
 エリカ・ムスターマンの話題一辺倒になることを避けつつ、いくぶん彼に対しての同情も交えた表情を作った。そうしたほうが情報をより多く引き出せるからだ。
 案の定、彼は自分に関係する話題だと悟ると急に身を乗り出した。
「いや、まったく! イーデン支所の時も大変だったんですよ。全部がぜんぶ燃えてしまった。出勤した時の絶望といったら!」
「お察しします。なんにせよ……悲劇ですね」
「ええ、まったくもって悲劇です。何しろイーデン地区の住民の全ての家族簿が燃えてしまったんですから!」
 男は大きく肩を落とした。
「家族簿?」
「ああ、すみません。私は住民台帳を管理している部署にいましてね。イーデン地区の。それが全て燃えてしまったものですから」
「すべて? それは本当の意味ですべてということですか?」
「ええ。いま、あの地区は無法地帯といっていい」
 男は、やや大袈裟に頭を振った。住民の状況が把握できないのであればそうだろう。
「でも、原本は別にあるでしょう?」
 知らないふりをして会話を進める。司法省には東国全国民のオリジナル台帳があるはずだ。
「もちろんあります。司法省の地下に厳重にね。ただ、あれこそが控えなんです。つまり……戦後のね」
 そこで、先日市役所近くの店でみた壁の銃跡を思い出した。
「もしや、既に原本は……」
 男は「ええ」と肩をいっそう落とす。
「ご存じの通り、先の市街戦で役所はかなり損傷を受けましてね。その際に今までの台帳は一度燃えてしまっているんです。正直、把握できていない人間も山ほど……」
 男はそこまでいうと、秘密警察の男の姿をチラリと盗み見ながらトーンを落として、「受刑者などは特に」と続けた。
 なるほど。
 要するに、今稼動している住民データはかなり曖昧なままということだ。
 国元に控えがあるとはいえ、この男の言い方では欠落部分か、データが欠損している期間があるのだろう。
 こちらはそういった欠落部分を積極的に利用する側だ。おそらくWISEも今頃は抜け目なくこちら側の人間のデータを紛れ込ませているだろう。
 少しだけ男に同情した。
 男と話し込んでいると、突然後方から「あ、アーニャさん」とヨルさんの声がした。
 振り返ると、アーニャがひとりで正面玄関の方へと駆けていく。
「おい、アーニャ!」
 室内に飽きたのか。アーニャは雨が当たらないぎりぎりまで身体を伸ばして外を見ていた。
 ユーリがいたらまずい。
 慌ててアーニャを捕まえながら外を伺う。
 駐車場にはそれらしいユーリの姿も、乗っていた車も無かった。帰ったらしい。とりあえずホッと胸をなでおろす。
「アーニャ、勝手な行動をするな」
「ちち、アーニャここにいる」
「は?」
「どうしました?」
 近寄ってきたヨルさんに説明する。後ろにはマクマホン氏もいた。彼は相変わらず物言わず薄い目でこちらを見ている。
「アーニャさん、一緒にお外へ行きませんか?」
 ヨルさんが、アーニャの目線までしゃがんで尋ねた。アーニャは「うん」と頷く。
「いやそれは」
 困る。こんなところにアーニャひとりを置いてはおけない。だが、予想に反してヨルさんが「そうですね」と思案顔でこちらを向いた。
「アーニャさん、この雨の中でずっと外にいるのは風邪引いてしまうかもしれません。埋葬には私ひとりで行きますから、ロイドさんはアーニャさんについていてあげてください」 
「いや、しかし……」
「どうかしましたか?」
 答えに窮していると、今度は秘密警察の男が声をかけてきた。その威圧感のある外見とは裏腹に、意外なくらい気安い口調だった。それでも邪魔には変わりない。
「いえ、なんでも……。娘が我がままで」
「ワガママちがう」
「アーニャ!」
「いやいや……。そうだよね、この雨じゃねえ。濡れたくないよねぇ」
 何も説明していないのに、男は笑いながらアーニャに同意した。しっかりこちらの話を聞いていた証拠だ。不快に眉を寄せたくなるのをこらえた。
「ああ、きみ、ちょっと」
 男は近くで作業をしていた葬儀スタッフの女性に声をかけた。そして、埋葬が終わるまでアーニャを見ているように頼んだ。
「いや、それは」
「まあまあ、いいじゃないですか。この雨のなか、小さいお子さんを付き合わせるのは可哀想だ」
 スタッフの女性も、最初は秘密警察の男におどおどとしていたが、内容を聞くと快く請け負ってくれた。
 ヨルさんと顔を見合わせるが、他に方法がない。男の提案に従うことにした。
「アーニャ、なるべく早く戻るから大人しくしてろよ」
「だいじょーぶ」
 若干心配は残るものの、時間も無い。では、とヨルさんとふたりで外に出ようとしたとき、また男が声をかけてきた。
「すみません。申し訳ないですが、いれて貰えませんか?」
「え?」
「傘。忘れてしまって」
 嘘だ。彼が先ほど傘をさしながら煙草を吸っていたのを見ている。わざと置いてきたのだろう。
 顔にこそ出さないが、男への不信感が一層増した。秘密警察の動向は気になる。何故、ここへ現れたのか。だが、この男にはユーリ・ブライアのような隙はない。ここは距離を置くほうが賢明だろう。
 瞬時に判断して、申し訳なさそうな顔を作った。
「すみません、あいにく私もたちも傘は一本しか持って来ていなくて」
「――ヨル君は私が傘に入れてあげましょう。来なさい」
 体よく断ろうとしたところ、それまで黙っていたマクマホンが後ろから声をかけた。彼はヨルさんを促すと、自分はさっさと裏口へ歩いて行く。
「え? あ、は、はい! あの、では……」
 ヨルさんは、こちらを気にしながらもマクマホン氏を追いかけていった。
「……では、どうぞ」
 仕方なく、こちらも男を促して裏口へと向かうことにした。
「すみませんね。ありがとう」
「いえ……」
 大の男がふたり、そう大きくもない傘に入って、歩き出した。
 埋葬地まではわずかな距離だった。
 少し前にレインコートに身を包んだ男達が、二つの棺を担いで歩いて行く。
 それに追従すると、すぐにズボンの裾に雨が跳ね上がった。
 傘の布に落ちる雨の音が耳障りだ。隣の男と世間話をする気にもなれず、重苦しい気分だ。
 葬列は、裏口から続く石畳の細い小路を進んでいく。その小路は、木々の中へと続いていて、そこを抜けると墓地になっていた。この木々が生者と死者の世界を隔てているのだろう。
「どちらのお知り合いなんです?」
 唐突に男が口を開いた。
「娘さんのほうですね。――妻の同僚で」 
「そうですか。若いのに気の毒でしたね。ああ、別に年取ったらいいというわけではないですが」
 男は取り繕うよいに付け加えた。妙に演技がかった台詞だ。どうやら主演タイプではないらしい。
「そうですね。どんな人間であれ不意の死は――堪えますね」
 そんなことを思う資格も無いくせに。
 自嘲気味に口角が上がりそうになるのを抑えた。
 隣の男は「まったくです」と、意外なほど深く同意した。こちらの視線に気がつくと、これまた意外なほど人なつこい顔をして微笑む。
「こんな仕事をしてますとね、正直思うんですよ。善良な人間ほど早く死ぬなってね。それに――いや、まあいいか」
 男は、途中で言葉を切った。彼の言葉には皮肉や諦念の影が見え隠れしていたが、その声色は穏やかで、どこか悲しみを押し殺しているようだった。
「――」
 どうかしてる。この男に同調するなんて。それでも、「そうですね」と。そう言葉が口をついた。
 ――意外なほど凪いだ空間だった。
 灰色の雲が低く垂れ込めた空から、大粒の雨が降り続けていた。土の匂いと湿気が重なり合い、辺りは一層沈黙に包まれている。
 なんとなく、隣の男から意識を反らしたくて前方に視線を移す。
 林を抜け、死者の都に着いてしばらく歩くと、六フィートの穴がふたつ眼前に大きく口を開いていた。
 雨に濡れた黒い棺が掘られた土横に置かれた。光を吸い込むような漆黒の表面に、雨粒が次々と弾け音を立てる。
 人々が傘をさしながら、棺のまわりを囲む。無言のなか、棺のひとつに視線を落とす者がいれば、もうひとつに目を注ぐ者もいる。
 墓守の合図とともに、棺がゆっくりと降ろされ始める。司祭の祈りもない、静かな葬送だった。
 濡れた縄が軋む音と共に、棺が土の中へと吸い込まれていく。雨脚は弱まることなく、地面を打ち続け、やがてすべてを覆い隠す泥となるかのようだった。
 目の前の棺に土がどんどん被せられていく。雨と土。天と地が合わさって、泥のような混沌としたものが、棺の存在を塗り込めていった。
 善良――善良か。
 その様子を黙って見つめながら、静かに吐き出された言葉にならなかった音が、雨のしずくとなって落ちていった。
 男が発した言葉に対する答えを持っていなかった。だから黙るしかない。
 雨で泥濘んだ泥がひどく重かった。
「ときに、エリカさんとはどの程度親しかったんですか?」
 男が唐突に聞いた。
 そこには、先ほどまでの穏やかな表情の男はもういなかった。
「どの程度とは?」
「ご家族ぐるみのお付き合いを?」
「いいえ」
「でも、ご家族で参列された。――なぜです?」
 矢継ぎ早の質問にいらだちが募る。だが、おくびにも出さずに慎重に答えた。
「実は、ちょうどあの中継を一緒に見ていたんです。火事の。それで、妻がショックを受けていたので心配で。私は、精神科医をしているものですから」
 男は「へえ」とさも驚いたような顔をした。
 大根役者だ。
 ユーリ・ブライアがヨルさんの弟だと知っている以上、こちらの家族構成などは頭に入っているはずだ。
 もしかしたら、こちらを苛立たせるためにわざと大袈裟な演技をしているのかもしれない。
 男は棺の近くに立っている妻の姿をちらりと追った。
 その不躾な視線に、腹の底から苛立ちが沸き上がった。
「奥さまとお話しても?」
 その言葉に眉間に皺が寄り、不快感が顕になった。自然と声も低くなる。
「――理由は?」
「必要ですか?」
「当たり前でしょう。彼女は――善良な市民です」
 だが、秘密警察の男は慌てるそぶりもなく、むしろ淡々とした口調で問いを続ける。
「では、その善良な奥さまは、火事の起こる前夜から当日の朝まで、どこで何をされてました?」
 低く静かな問いかけだった。男の目は微妙な光を孕んでいる。その視線の前を大粒の雨が通り過ぎていく。雨音がやけに耳についた。まるで、ふたりだけの世界になったかのようだった。
「……ヨルを疑っているのですか?」
「確認したいだけです」
「いま言ったでしょう。自宅で火事の中継を一緒に見ていたんです。それに、火事は事故だと聞いてますが」
「ただの確認ですよ」
 男は、もう一度同じ言葉を言いながら、肩をすくめる仕草を見せた後、少しだけ身を乗り出して低く言った。
「ときに、ご主人……失礼?」
「フォージャーです。ロイド・フォージャー」
「フォージャーさんは、エリカさんのことはご存知ですか?」
「妻の同僚としてだけです」
 本当だった。フランキーに依頼した調査書は、色々あってまだ受け取れていない。ただ、新聞は読んでいた。そこに書かれていた内容を読んで驚いたのは事実だ。
 エリカは、先の国家保安局副長官――つまり、秘密警察のナンバー2だった男の娘だと。
 確かに、彼女の所作は美しかった。きちんとした生まれだろうというのは想像していたが……。
「先の国家保安局の副長官の娘さんです。一緒に亡くなった母親がその妻――ご存知でしたか」
「新聞で読んだ程度です」
 男はまたも思わせぶりな笑顔を見せた。こちらを値踏みするような目だ。その目の奥の意図を探るが、そこには冷静さとあからさまな挑発が見て取れるだけだった。
「でも、直接お会いされてますよね? エリカさんか、エリカさんのお母さんと」
「……!」
 グッと喉の奥が鳴った。
 そこまでカードを出したからには、カフェで会ったことも調べがたついているのだろう。
 頭の中で瞬時に次の出がいくつも浮かぶ。だが、どの札を捲っても答えはひとつだけだった。
 正直に話すだけだ。
「――ええ。彼女が亡くなった日に」
 少し意外そうに男は目を開いた。すぐに肯定するとは思っていなかったのだろう。誘導尋問はこちらも慣れている。
 こう言えば、立場上秘密警察は、「ロイド・フォージャー」を先に調べなければならなくなる。それでヨルさんへの関与を牽制できたとはいえないだろうが、時間は稼げる。
 ヨルさんがエリカの死亡に関与しているなどあり得ないが、事実であろうがなかろうが、秘密警察に目をつけられるのはやっかいだ。また、そんな状況を許すつもりもなかった。
 案の定、男は「詳しくお伺いしても?」と言ってきた。
「ええ、もちろん。協力は惜しみません」
 言いながら、ロイドは心の中で冷静に状況を整理した。
 ヨルがエリカの死に関与したなどという世迷い言は論外としても、エリカの素性には興味がある。
 先の国家保安局副長官の娘と妻。政治的にも影響が大きい家の人間が殺されたとなれば、当然秘密警察が動くのは想定の範疇だ。
「では、早速ですがこれからお時間をいただけますか」
「今からですか?」
「ええ」
 男はにこにことなおも笑顔――のようなものを崩さす続けた。秘密警察がよくやる手だ。相手に工作をする時間を与えないという。望むところだ。
「構いません。ですが、妻と娘を置いては――」
「ちーちー!」
 そこまで言ったとき、後ろからバシャバシャと大きな音がして、アーニャが走ってくるのが見えた。
「アーニャ!」
「アーニャさん!」
 驚いて声を上げると、同時に背後からヨルさんの声も聞こえた。アーニャは髪の毛からしずくを垂らしながら、服も靴も泥だらけでずぶ濡れのままロイドにしがみついていた。小さな体が震え、唇が少し紫色になっている。
「待ってろって言っただろ!」
「おなかすいたー!」
「はあ!?」
 震える声で訴えるアーニャに、ロイドは言葉を失った。考える暇もなく、彼女の冷え切った体を抱き上げた。
「アーニャさん、唇が真っ青ですっ!」
「すみませんが、今日は……」
 秘密警察の男に振り返ると、男は肩をすくめた。
「明日にでもお時間をいただけますか?」
 男は意外なほど穏やかに言ったが、その目の奥には冷静な観察が宿っている。
「もちろん。病院で仕事がありますので、そちらでしたら」
 ロイドは冷静を装って言った。
 男は軽く頷くと、ヨルにも短く視線を向けた。ヨルは何か言いたげだったが、アーニャを彼女に託して、男の視線を遮る。
「明日午後二時では?」
「かまいません」
「伺います。では、これで」
 男が会釈をすると、スッと男に傘が差し出された。マクマホンだった。
「フォージャー君、君たちはもう帰ったほうが良いでしょう。あなたは私の傘に入ると良い」
 マクマホンは、相変わらず冷静な様子でそう言うと、チラリとこちらに視線を送りながらか「もう行け」と合図を送った。
 秘密警察の男も予想していなかったのか、少し面食らったようだ。だが、そのまま礼を言ってマクマホンの言う通りにした。
「ありがとうございます。では――」
 ふたりに会釈をすると、アーニャを抱いているヨルさんを促して駐車場へと足を向けた。
「アーニャ、大丈夫か?」
 ずぶ濡れのアーニャは、ヨルさんにぎゅっとしがみつきながら、じっと棺が埋められている場所を見つめていた。同じようにそちらに視線を送る。いつの間にか他の参列者も姿を消していた。
 墓守の男たちが数人、真新しい土の上に、新たな墓標を設えているところだった。
 ふと、名前のない墓標は墓標の意味を成すのかと、そんな疑問が浮かんだが、すぐに雨粒の音にかき消された。

 

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