……今の状況を冷静に考えてみよう。
もう一度冷静に。
そう、努めて気持ちを落ち着かせながらチラリと左脇下方に視線を向ける。
そこには、こちらの膝を枕にして仰向けで寝ている仮初めの妻の顔がある。
いつかの状況と逆だ。
うん、間違いない。
寝てる。
それも本気で。
口を開けて、くかー、とそれはそれは気持ち良さそうに。
……口から少し出ているのは涎だろうか。
なんの気負いも緊張も取り繕いもなく、実に満足気な寝顔だ。
酒に強くなりたい、と言われた。
そう言われた時に咄嗟に出た言葉は「何故?」だった。かろうじて声に出すのは抑えたが。
彼女はあまりアルコールに強くない。アルコール自体嫌いではないらしいが、すぐ酔ってしまう。
そして、酔ったままあれやこれやと支離滅裂な言動もしてしまう。
かなり危ないので、自分がいない時や、外で飲むのは控えてもらっている。
「仮初め」とはいえアーニャの母だ。酒で失敗してストリクスに影響を与えられるのは御免だった。
なので当然の権利よろしく理由を聞くと、歯切れが悪かったが仕事の接客で必要だと言われた。市役所の業務に何故接客があるのか不思議だったが、更に聞くとひどく狼狽えて「パーティーで待機が」と言われ、その後に「誘致! 誘致です!」と言われた。
彼女のいる部署は産業振興部という、首都開発を担う部署と聞いた。外国企業からの投資や誘致の促進業務を担当してるらしい。そうやって積極的に海外のノウハウを蓄積し、国内産業の発展を担っている部署なのだろう。そういえば以前も接待で客船に乗り込んでいた。
仕事で必要ならば仕方ない。
そう思い、しぶしぶ了承した。
何故彼女だけがそこまでしなくてはいけないのか? という疑問は呑み込んだ。それは自分の感想であり、感情であり、彼女には関係がない。
そして、そんな感情を持つこと自体もどうかしていると思った。
ただし最初は家飲みから始めること、自分以外とはしないこと。弟もしかり。週末にすること、アーニャが寝てからにすることなどを約束してもらった。ここまでが自分の譲歩と許容値だ。梟への影響を懸念してだ。もちろん。
そして週末。
夕食の片付けも終わってから、ふたりで並んで座りワインを開けた。
今日は最初なので彼女に合わせて甘口の白ワイン。東国も西国も、酒といえばまず麦酒になるが、実はワインの生産も盛んで良質なものも多い。
彼女は簡単に作ったカナッペの色彩に驚いたり、喜んだりしていた。サーモンとクリームチーズを乗せたカナッペを食べながら、これ明日アーニャさんに食べさせてあげましょう、これならお魚が嫌いなアーニャさんでも食べられると思います! と実に嬉しそうにこちらに提案する。
その表情と、それを引き出せた自分に何故か満足しつつ、乾杯した。
話題はもっぱらアーニャのことだ。こちらが別任務で忙しくしているため、ここ二週間ほどきちんと勉強を見てあげられていない。ヨルさんからは宿題もきちんとやっていると言われているがいまいち信じられない。
「そんなことありません! アーニャさんお勉強とっても頑張ってらっしゃいます」
そうだ! と彼女は壁際のキャビネットに置いてあったプリントを持ってきた。
「こちらアーニャさんが書いた宿題なんです。親御さんが丸付けをして学校に提出するらしくて。ロイドさんこちらの丸付けをしていただけますか? わからない箇所は親御さんから教えてもらっても良いそうです。きっと私よりロイドさんがされたほうがアーニャさん喜ぶと思います!」
「関係ないと思いますが……」
そう言いながらもどれどれ、とプリントを受け取る。
どうやら国語のプリントらしかった。担当は確か面接でもいたウォルター・エバンス先生だ。だが、設問者の名前はヘンリー・ヘンダーソンになっていた。ヘンダーソン先生は歴史科のはずだが? そう思っていると、ヨルさんが「国語の先生がお休みされたので、急遽担任の先生が作成されたそうです」と教えてくれた。よくあることだとアーニャが言っていたとも教えてくれた。どうやらあの髭の御仁もオレと同じく別任務に忙殺されているらしい。なんとなく親近感を覚えながらプリントに目を通す。
1、下はゆうめいな『ことわざ』をあらわした文です。どんな『ことわざ』になるか書いてみましょう。
① An outsider has the best perspective.
(第三者がいちばんよく見通しがきく)
A.おかめはちもく
② There is no accounting for taste.
(人の好みは説明できない)
A.たでくうむしもすきずき
③ Curses, like chickens, come home to roost.
(呪いはニワトリのようにねぐらに帰ってくる)
A.
……設問おかしくないか? 一年生だぞ? なんでこんな世知辛い諺ばかり集めたのかヘンリー・ヘンダーソン。そう思いながらも問三の答えがないことに気が付く。
「ここは?」
「ああ、すみません。アーニャさんわからなかったみたいで。お恥ずかしながら私もわからなくて……」
彼女はそういって、ロイドさんを待っていたんです、と言った。ああ……これは、諺というか慣用句に近い。そしてあまり使わない言い回しだ。同じ意味でほかの言い回しもあるのに、なぜわざわざこちらを使ったのか。設問おかしくないか? ヘンリー・ヘンダーソン。
「あとで鉛筆で答えを書いてあげていただけますか? 清書はアーニャさんご自分でやらなければいけないらしくて」
「ええ、いいですよ」
そう言って、ダイニングテーブルにプリントを仮置きする。
ヨルさんは「良かった。私が宿題きちんと見てあげられなくて」と、ほっとしたようだ。
「……ヨルさんはちゃんとアーニャの母親として頑張ってますよ」
そう言ってフォローする。本心だ。彼女は本当によく頑張ってくれている。けれどヨルさんは少しだけ笑いながら首を横に振った。
「……やはりイーデン校みたいな名門の学校ですと私みたいな学のない者は駄目ですね。もうすでに 教えて差し上げられなくなってしまって」
そして、お仕事でも同じなんです、と言った。
「他の皆さんは与えられたお仕事をひとりできっちりされるのですが、私は言われたことをそのままやるだけで……後始末とかも部長さんにお任せてしてばかりで……」
「部長自ら現場に立たれるんですか?」
ヨルさんの部署が何人なのか聞いていないが、なぜ部長が現場に立つのだろうか。市役所も相当人員不足なのだろうか。
「ええ!? あ、あの、えと、あ! たまにですたまに!」
彼女は何故か焦った様子で取り繕った。もしかして外部に人員不足が漏れるとまずいのかもしれない。そう思い、それ以上は追及しなかった。彼女は何かを誤魔化すように白ワインをコクコクと飲みながら、でも……と、ふっと視線を落とす。
「……やっぱり、私お仕事の効率が悪いんじゃないかって思うんです」
そういってまた白ワインを飲む。
「例えば?」
ヨルさんのグラスに二杯目のワインを注ぎながら促す。連続して自分のグラスにも注いだ。
「例えば……、そう、接客を指示された時は通常業務より優先して良いと部長さんに言われているのですが、そうかといって書類の提出は遅らせられませんし、カミラさんやシャロンさんたちも手一杯なので私の分を彼女たちにお渡しして自分だけ別のお仕事に行くことがどうしてもできなくて……それで、一度かなり時間より遅れてしまって。接客はできたのですが、会場が変わってしまって部長さんに多大なご迷惑を……」
また、部長さんか。
ピクリ、とグラスを持つ指の先端だけ力がこもる。
彼女はあまり自分のことや仕事のことを話さないが、稀に話す場合、よくこの「部長さん」が出てくる。
「……以前からのお知り合いなんでしたっけ? その『部長さん』」
「え? ええ、そうです。私が市役所に勤務できたのも、部長さんに推薦していただいたからなんです。普通のデスクワークも覚えて、色々学びなさいっておっしゃてくださって。私がこうやって安定して日々の糧をいただいて暮らせるのは全部部長さんのおかげなんです」
彼女はそう言って、嬉しそうに、それでいて恥ずかしそうにしながら頬を染めて「彼」を語る。
……ほーほー。なるほどなるほど。
またグラスがみしりと音を立てた。
「……で、お酒に強くなりたいってのは、やはり『部長さん』の指示ですか?」
「え? いいえ、まさか! 部長さんからは何も。でも接客の会場はパーティー会場の近くが多くて。なので少しでも前から待機して人の把握とかいろいろしたほうがいいかなって」
それにはやっぱりお酒は飲めないよりは、飲めたほうがいいでしょう? と彼女はにっこり笑った。
「……」
だから何故それをヨルさんひとりが担うんだ。どうして公務員の、しかも人妻がそんな業務まで受け持たなければならないんだ。そのために弱い酒まで克服しようとして。
少しイライラして彼女を見る。だが、彼女は全く不思議にも思っていない。何故かその表情すら面白くなくて視線を逸らす。
……契約上だけの仮初の妻だ。彼女の仕事や交友関係などに踏み込むのはルール違反だとは思っている。だが、梟の舞台は名門イーデン校だ。万全に万全を期したい。
「聞く限りだと、その接客とやらはヨルさんしかしていないみたいですが。ヨルさんの部署って他に女性職員いましたよね? その方たちは何をされているんです?」
そこが一番気にかかる。以前盗聴した限りだが、どうしても、どう考えても彼女は他の人間に良い様に使われている気がする。本人の人の好さに付け込まれている気がしてならない。そしてその想像に非常に憤りを覚えた。だが、彼女はどうしてだが、必死に言い訳を探している。いえ、そうじゃなくって……と、同僚をかばうように弁解を必死に考えていた。
「えーと……、その、カミラさんは同じ職場にお付き合いされている方がいて……気まずい? かも? あとミリーさんはデートがお忙しくて……。あ、それにそれに、シャロンさんはご結婚されてるんです! お子さんもいらっしゃるんです!!」
貴女もだ!
結婚して子どももいるのはヨルさんだって同じだ! と、叫びたいのをぐっとこらえる。
「……それは、理由にならないのでは? 何も知らずに勝手なことを言うようですが、あまりに業務が偏重しているような気がします。ヨルさん、いいように使われているだけでは?」
いやに声に険を含んでしまう。理由がわからなかった。まだ酔うような量じゃないはずだが。そして自分はまったくもって酔わないのだが。
だが、そう言った途端、彼女は「違います!」と声を荒げた。
その態度に目を開いた。
「違います! 私、わたし、良いように使われてなんかいません! そりゃ、最初は弟のために仕事に就きましたけど、でもこれがお国のためになるって言われたからですし、それに……!」
立ち上がって声を荒げていたが、ふっと力が抜けてソファにぽすん、と座り込む。そのままそばに置いてあったクッションを抱きしめた。
「……それに、ロイドさんもおっしゃってくださったじゃないですか……」
「……何を?」
「誰かのために、何かのために過酷な仕事に耐え続けることは、誇るべきことだって……そう、おっしゃってくださったでしょう?」
確かに出会った当初にそんなことを言った気がする。まだ覚えていたのか。
彼女は、だから、わたし……ぼそぼそと下を向きながらそう一生懸命しゃべっている。あまり自分のことを話さない彼女にしては、頑張っていた。
……それだけ伝えたいことなんだろう。
「…………」
ふぅ、とため息をひとつつく。
「すみません、言い過ぎました」
決して悪意があったわけではないが、彼女の気持ちを蔑ろにし過ぎた意見だった。そう素直に謝ると、ぱっと顔を上げて嬉しそうに笑った。全然大丈夫です、と言う目頭が少しだけ濡れている。だが、それを感じさせない笑顔だった。つられてこちらも口角が上がる。
彼女はソファに正座で座りながらにこにこ笑って、テーブルの上のカナッペに視線を向ける。
「食べます? 取りましょうか?」
「はい」
こちらのほうが近かったので座ったままテーブルに手を伸ばすと、ぼすっと音がして膝の辺りに重みを感じた。
「え、ちょ、ちょっと何してるんです!?」
ヨルさんはクッションを抱きしめながら、こちらの膝を枕にして寝転がる。そして、仰向けになってにこにことこちらを見上げていた。
……誘っている感じではない……なんというか……犬や猫が懐いているような感じだ。
だが、彼女はれっきとした女性で自分は男だ。
男なのだ。
「……襲いますよ?」
「なんでですか?」
「なんでですかって……」
いや、こっちが聞きたい。なんでなんだ。
どうして男と二人で部屋にいて、「そういうこと」が思い浮かばないんだ。
「……少しは自覚と自衛もしないと。悪い男に搾取されて終わりますよ」
オレみたいな。
「さくしゅ……ですか?」
「されてるでしょう」
特にオレに。
「でも、私強いので」
と彼女はとろんとした目で笑った。
「強いったって……」
「強いんです。頑張って強くなったんです。……頑張ったんです、わたし」
だから荷物は持ってあげなくちゃ。わたし、お姉ちゃんなので。
すこし支離滅裂だったが、そう言いながら手を天井へ向かってかざすように上げる。
それは何かを掴もうとしているようで、また世界を持ち上げてもいるようだった。
何気なく、本当に無意識にその指を手に取って自分の指に絡めた。
「……そうですね、あなたはとても頑張り屋さんですから」
そう同意すると「そうでしょう?」と自慢気に彼女のもっと口元が上がった。
そのまま絡めた指をそっとほどいて輪郭やおでこにそって撫でてやると、気持ちよさそうに、それでいてくすぐったそうにくすくす笑いながら首をすくめる。
本当に猫のようだ。
「……で、結局、襲っていいんですか? ダメなんですか?」
「しません」
「なにが?」
「……ロイドさんは……しないです」
「なぜ?」
していいならしますが?
「だって……アーニャさんのお父さん……」
「は?」
そう聞き返す間もなく、膝のあたりから寝息が聞こえた。
「……え? ちょっと!?」
おいこら、と顔を覗き込むと、彼女はくーくーと口を少し開けて気持ちよさそうに寝ていた。
……寝てる。
それも本気で。
なんの気負いも緊張も取り繕いもなく、実に満足気な寝顔だ。
「……し……」
信じられない……正気か!? なぜこの状況で寝られるんだこっちが襲うって言ってるのに! 危機管理以前の問題だが!?
そして彼女は何と言った?
「アーニャの父」と言ったか?
夫ではなく、父と?
「…………」
ぼすん、と膝は動かさずに上半身を背もたれに投げ出して天井を見上げた。
――なるほど。オレは確かに『彼女の夫』だが、彼女にとってはオレは『アーニャの父』という位置づけなわけだ。『男』という概念を素っ飛ばして。
オレは『男』ではないんだな。彼女にとっては。
……そして、同じように男と思ってないそこら辺の野郎どもの前でもこうやってアルコールを摂取して、気持ちよくなって居眠りしたりするわけだ。
そのご執心の『部長さん』とやらと一緒のパーティーで。
「………………」
そのまま彼女を見つめていたら、何故かその屈託のない寝顔にひどく腹立たしさを覚えた。
理由はわからない。おそらくストリクスの根幹の何かに関わるからだろう。アーニャの母としての自覚とかそこら辺のことだ……たぶん。
そのまま彼女を起こさないように上半身だけテーブルに近づけて、置いてあったナプキンを取る。そして同じくテーブルにあるミネラルウォーターが入ったコップにナプキンをどぷんと浸す。
すぐさまそれを出して広げて、仰向けになって口を開けて寝ている彼女の顔の上にバサッとかけた。
濡れたナプキンが彼女の輪郭に沿って張りついて、顔全体がびしょびしょになる。ついでに自分のズボンも濡れたが些事だ。
――おそらくもって二十秒。
腕時計を見てカウント始める。
二十、十九、十八、十七、十六、十五、十四、十三、十二……カウントしていると、十二秒辺りでもぞもぞと動き出して無意識にナプキンを取ろうとしだしたので、そのまま彼女の両方の手を胸の下辺りで交差させてがっちりと押えた。片手だが、鍛えているので握力と腕力はある方だ。案の定、彼女は上半身が動かずふがふがともがいている。
顔をちょっと横にするだけでナプキンは下に落ちるはずなのに無意識下ではそれもできないのか。かわいそうに。
そんな白々しいことを思いながらも、まだぐっと手を押さえつけながら反対の腕に付けている腕時計を見ながらカウントを再開した。
十一、十、九、八、七、六、五……
「……死にます!!」
そう叫んでがばっと彼女が起きあがった。
その瞬間にさっと手を放す。濡れたナプキンも反動で床に落ちた。それをすぐ拾ってソファの下に隠し、さも安堵したような顔を作って彼女に駆け寄った。
「ああ! ヨルさん大丈夫ですか!? 良かった意識が戻って!」
彼女はわけがわからないとばかりに、ソファに正座してキョロキョロと辺りを見渡した。髪もぼさぼさで、首から上がずぶ濡れでところどころ髪が顔に貼りついている。そしてぜーはーと荒い息を吐いていた。
「え、と……あの、えと……ど、どうして私、顔とかずぶ濡れなんでしょう?」
「ワインを飲んでたらいきなり意識を失って。すみません、水を飲ませようとしたのですが、上手くいかなくて零れてしまって」
大噓をつきながら、彼女ににじり寄って首筋の脈などを確かめ背中をさすりながら甲斐甲斐しく世話をする。
「えええええ!!?」
彼女は驚いて大変なことをしでかしたというように両手で口元を隠す。
「どこか苦しかったり、気持ち悪いところはありますか?」
「ええと……胸が苦しくて、頭もすごく痛いです」
それはそうだろう、窒息させてたんだから。
「今は大丈夫ですか?」
「はい……だんだんと呼吸も楽になってきました」
「良かった……もし、ヨルさんまで万が一のことがあったらどうしようかと……」
最初の伴侶の死別を乗り越えた寡夫の雰囲気と「どうか置いていかないで」というような弱弱しい態度を醸し出し、駄目押しに胸が張り裂けさそうなポーズを取る。演技だ、演技。
「すすすすす、すみません! 私ロイドさんに余計な心配を!!」
だが、彼女は案の定しっかり騙されている。
予想していたこととはいえ、こんなんでよく今まで生きてこれたな。
「いえ。でも心配しました。いきなり倒れられたので。もう少しで救急に行こうかと」
「そ、そんなですか!?」
「ええ。もしかしてヨルさん、アセトアルデヒドが少ないのかもしれません」
「アセ……?」
「『アセトアルデヒド』です。アルコールが人体に入るとまずアセトアルデヒドに変化するんですがそれが毒素でって……まあそういうのは良いです。とにかく、アルコールに弱い方は人体でアルコールを分解する物質が少ないんです。ある程度は慣れですが、遺伝子上どうしても無理な人はいるので」
だからもう飲まない方が良い、金輪際。一滴も。と努めて優し諭す。
「そ、そうなんですね……! 知りませんでした……」
「ええ、普段の生活ではわかりませんからね。エタノールパッチテストというアルコールに強いか弱いかが簡単にわかるテストもありますよ。うちの病院でも確かやっていたはずです。やってみますか?」
もちろんやるなら結果は詐称するが。
「ええと……いえ、大丈夫です。部長さんには事情をお話しして、アルコールに関わる接客は極力外していただきますね」
「全部です」
「はい?」
「極力じゃ駄目です。全部外してもらってください」
「ええと……それは……」
「死にたいです?」
「ええええぇぇ! 嘘です! 全部止めてもらいます! 飲みません! 飲みません!! はい!」
その言葉を聞いてやっと安堵した。これで外でもどこででも彼女はアルコールを摂取することは無いだろう。
でもまた部長さんのお役に立てません……とがっくりと肩を落とす彼女を尻目に、こちらはストリクスがまたひとつ円滑に遂行できることに大変満足した。
そして彼女に向けて努めて優しく労わる。
「体調は大丈夫そうですか? もう休んだ方が良いかもしれませんが……このままおひとりで寝ても大丈夫ですか?」
「ええと……駄目ですっていってもどうすれば……?」
「…………」
まったくだ。オレにどうしろっていうんだ。
「……とりあえず、気分が悪くなったら何時でもいいので壁を叩いてください」
そしたらすぐ行きますので。そう言って、彼女に約束した。
「ボクは片づけをしてから部屋に戻りますから。ヨルさんはもう休んでください。……お大事に」
「はい、あの本当にすみませんでした。食器とかは置いといていただければ明日まとめて洗いますので」
彼女はそう言って、ふらふらしながらも部屋に引き上げていった。
やれやれ。彼女は本当に人を疑うことを知らない。なぜあの姉から秘密警察になる弟が育つんだか。ああ、そうだユーリにもヨルさんが酒に弱いことを印象付けねば。あの弟、こちらを出し抜こうと躍起になあるあまりに変なパーティーとかに姉を連れ出す危険性がある。ヨルさんを説得してパッチテストを受けさせて詐称した結果を弟に見せるのが一番確実か。明日早速夜帷にテストの予約を入れさせよう。いや、それよりもフランキーにテストごと偽物を作らせた方が情報漏洩は防げるか――。
そんなことを思いながら食器を片付け始める。
だいぶ余ってしまった。もったいない。
残ったカナッペをひとつ口に放り込んでもしゃもしゃと咀嚼しながら、ああ、でもヨルさんが明日アーニャに同じものを食べさせたいと言っていた。
明日また夕飯時に食前酒アペリティフ も兼ねて何か出すかな。今日は白ワインを出したので、明日はスパークリングワインか赤ワインにして、アーニャはジュースにして……と、そこまで考えたところで大事なことに気が付いて「……あ」と声を出してしまい、カナッペのカスが落ちた。
……しまった。ヨルさんに一滴も飲むなと言ってしまったばかりだ。
駄目じゃないか。医者としても、もう飲ませられないじゃないか。そしたらさっきみたいなアクシデントの入り込む余地がない……いや、なくても勿論いいんだが、だがしかし。
「……………………」
沈痛な面持ちで頭を抱えていると、ふとリビングのテーブルに先ほど置いておいたプリントが目に入る。
……そうだ、宿題……。これもやらなければ。
なんだったか、諺の答えを書くんだったか。
ともすれば落ち込みそうな自分を叱咤して、それでもはぁと深いため息をつきながらプリントに再度目を通す。
プリントには先ほどと同じヘンリー・ヘンダーソン先生の几帳面な字で設問が記載されていた。
③ Curses, like chickens, come home to roost.
(呪いはニワトリのようにねぐらに帰ってくる)
「…………」
くっ!
なんでこんなにタイムリーな設問なんだ! どこかで見ているのか、ヘンリー・ヘンダーソン!
そんなことあるわけがないのだが、そんな悪態をついて、そばに置いてあった鉛筆を乱暴に手にして答えをガリガリと書いた。勢いで書いたので少し文字が乱れてしまったが、夜遅いせい! と結論付けることにして、コロンと鉛筆をテーブルに放り投げる。そして答えを見直すと、何度目かの深い深いため息が出た。
なんか、疲れた……。
今日は寝よう……調子が狂っているときは寝るに限る。
そうぶつぶつひとりごちながら、部屋へ通じる廊下へと足を進めた。
その足取りがやけに重かったが、気が付かないふりをした。
ダイニングテーブルの上で鉛筆がコロコロと転がっている。それは、新たに書いた箇所を強調するかのように回答の脇でぴたりと止まった。
少しだけ意地悪な設問に、容赦のない回答。
だがそれは、残念ながら西国随一のスパイの今後の未来も端的に表してるような言葉だった。
Q、Curses, like chickens, come home to roost.(呪いはニワトリのようにねぐらに帰ってくる)
この表現を使う諺はなんでしょう?
答え:身から出た錆――。
end.
come home to roost.=「身から出た錆」「自業自得」「人を呪わば穴ふたつ」
[お題]ロイドさんには「今の状況を冷静に考えてみよう」で始まり、「置いていかないで」で終わる物語を書いて欲しいです。
[引用元]https://shindanmaker.com/801664






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