「3D1B? なんだそれは」
娘の口から飛び出したその言葉に、ロイド・フォージャーは新聞のページをめくる手を止めた。任務関連の暗号か、それとも機密の漏洩かと一瞬身構えたが、アーニャの顔を見るかぎり、どうやら世界情勢とは一切関係なさそうだった。
「ふーふには、ひつようふかけつらしい」
ソファの背もたれに腕をかけたアーニャは、いかにも訳知り顔でうんうんと頷いている。
また「なぞなぞ」の時間がやってきたらしい。最近、アーニャのクラスではなぞなぞが流行しており、彼女はここ数日、学校で仕入れた新しい問題を得意げに披露していた。もっとも、その大半は駄洒落まがいの他愛もないものだった。
「ベッキーがいってた。あいしあうふーふには、みっつのディーと、ひとつのビーがひつようらしい」
「ベッキー嬢が……なるほど」
合点がいった。おそらく流行りのドラマの受け売りだろう。とたんに興味が薄れる。とはいえ、アーニャは目を輝かせながら答えを求めてきていた。
「新しいなぞなぞですか?」
ヨルがキッチンから湯気を立てたマグカップを手に参加してくる。微笑のようなものを浮かべていたが、その目だけが少し泳いでいる。やはり彼女も「3D1B」の意味を測りかねているらしい。
「はは、わかるか?」
「え、と。三つのDと……?」
「いっこのビー」
「んー、なんでしょう」
「ひんとはね、ビーはめのまえにある」
「目の前……?」
ヨルはなおも訝しげに首をかしげる。そこまで言えば、もはや答えも同然だった。
案の定、アーニャの隣にいたボンドが嬉しそうに尻尾を振っていた。しかし、真剣に考えているヨルの前で即座に答えを言うのも無粋だ。ロイドは母娘のやりとりには加わらず、ヨルの淹れたコーヒーを口に運んだ。
「あ……」
しばらくして、ヨルが小さく声を漏らす。
「ボンドさんのB、でしょうか。Bond……絆、ですね」
「ぴんぽーん! せいかいっ!」
アーニャがぱっと顔を上げ、瞳を輝かせた。
「やりました」
ヨルは素直に笑った。子どもの他愛もない遊びにも、彼女は本当に嬉しそうな表情を見せる。
ロイドは、ふわりと緩んだ口元を隠すようにカップを再び傾けた。
とはいえ、Bは分かったとしても、三つのDは範囲が曖昧すぎる。同じ法則に従うなら頭文字のはずだが、特定には至らない。
ふと、「3D1B」という構造に合致する詩篇が脳裏に浮かんだ。だが、おそらく違うだろう。
考えを打ち消したとき、壁に掛かった時計が九回を告げた。
「ほらアーニャ、寝る時間だぞ」
「まだなぞなぞおわってない!」
「何かの頭文字だろ」
「ぐたいてきにいえ!」
「Dive into bed(ベッドに飛び込め)、Dim the lights(電気を消せ)、Dream(寝ろ)!」
ロイドはアーニャをひょいと肩に担ぎ、問答無用で部屋に向かう。肩越しにアーニャが「ちっがーう!」と足をバタつかせた。
「こたえは、でぼーしょん! でぃぺんだぴりちー! でらいと!」
ベッドに放り込まれたアーニャが、大声で正解を叫ぶ。
「Devotion,Dependability,Delight……なるほど」
「でぼーしょんは、だいじにすること。でぃぺんだぴりちーは、えっと」
「信頼とか、信じられるとかか」
「それ! でね、でらいとは……えっと、いっしょにわらうこと!」
ヨルに着替えを手伝ってもらいながら、アーニャは笑顔で解説する。
「素敵な言葉ですね。そんな言葉をご存じだなんて、ベッキーさんすごいです」
「アーニャもおぼえた」
「アーニャさん、すごいです」
「へへへ」
「じゃあ、明日はその単語の書き取りだな」
「おやすみっ!」
ガバッと布団をかぶる娘を見て、二人の大人は目を見合わせ、苦笑した。
「……3D1B、ですか」
寝室のドアを静かに閉めたあと、ヨルがぽつりと呟く。
「考えもしませんでした。イーデンの生徒さんって本当に頭が良いのですね」
「ベッキー嬢のことだから、ドラマの台詞を聞き取って覚えたのかもしれませんけどね」
ふたりで静かに笑った。
「でも……」
ヨルは顔を伏せたまま続ける。
「そうだとしたら、私たちは……どうでしょう。3Dと1B、持っているでしょうか」
「……」
ロイドはすぐには答えなかった。答えられなかった。
窓辺に視線をやる。ガラスを隔てた世界から、まだ乾ききらない夜の気配が差し込んでいた。
Devotion(献身)
Dependability(信頼)
Delight(喜び)
そしてBond(絆)
正直、どれもそぐわない言葉だ。
持っているのか。持っていたのか。持とうとしてきたのか。
どれも違う気がする。
そんな言葉には縁はない。
これまでも――これからも。
目の端に捉えた夜の静寂が、針のように身体を指した。針は正確に四つ身体に穴を開ける。そこから、先ほど思い浮かんだ詩句が顔をのぞかせる。
「――ヨルさんは?」
「え?」
「ヨルさんが思い浮かべる3D1Bはありますか?」
「そう……ですね。あります」
目で促されて、ヨルは恥ずかしそうに口を開いた。
「……Dearness、Dutifulness、Defend、Belonging、でしょうか」
「ああ……」
ヨルさんらしい。
ロイドはその言葉を反芻するように、心の中でひとつひとつ転がしてみた。
Dearness(親愛)
Dutifulness(忠実)
Defend(防御)
Belonging(居場所)
どれも、彼女という人間の奥底にある祈りのような言葉だった。
「ヨルさんらしいですね」
そう微笑みを向けると、彼女は恥ずかしそうに笑った。
「私はいつも、自信がなくて……何かうまくできたことがなくて……だから、そういう言葉に、すがっていたいのかもしれません」
その言葉に、飾り気はなかった。
「いえ、むしろ――」
そんなあなただから……。その言葉を、ロイドは最後まで口にできなかった。
「ロイドさんは?」
わかっていたのに、問われてうろたえる。
そんな自分を恥じた。
自分にとって「家庭」とは、「夫婦」とは、設計にすぎない。子どもの教育、周囲の視線、任務の遂行。そのすべてのために完璧な家庭像を構築すること。
虚構。仮面。
だがその仮面を被ったロイドの前で、彼女は懸命に息をしている。
脆く、傷つきやすく、けれど温かく。
まっすぐに家庭を守ろうとしている。
そんな彼女に、自分は一度でも本当の言葉を返せただろうか。
「――Doubt」
ふいに、言葉が溢れた。
「え?」
ぽつりと落としたその単語に、何故かヨルが驚いたように目を上げた。
そして、その瞳が不安そうに揺れる。
「なんてね。駄目ですね。咄嗟に出てくる言葉がこれとは」
冗談めかして笑うロイドに、ヨルはほっとしたように、しかしどこか泣きそうな顔で微笑んだ。
「……ヨルさん?」
「いいえ、違うんです、なんでも!」
首を大袈裟に振ってから、「もう寝なくちゃ! 明日は私、朝ごはんのお当番ですし!」と明るい声で取り繕う。
取り繕っているとわかるほど、痛々しい笑顔だった。
「――卵、焦がさないでくださいね」
ロイドは軽口で応じる。
何故か――理由を問うことは出来なかった。問うたが最後、自分にまで跳ね返ってきそうな不安定さがある。
「が、がんばります……」
ヨルは不安そうに笑いながら寝室へ向かう。彼女の背を見送り、ロイドは小さく息を吐いた。
こんなときでさえ自己保身だ。
つくづく嫌気がさした。
Doubt。
声に出さず、再び心の中で繰り返す。
Doubt.
Doubt.
Doubt――そして、But.
独りよがりな男が恋人に伝えた、たった一度の真実。
ロイドは自分の寝室へ行くと、書きかけの感情を、ペンで紙に記した。
たった四行の言葉。
ただの引用だ。自分の言葉ですらない。だが、借りものの詩句にすがることで、ようやく彼はほんの少し、自分の感情の輪郭を掴めたような気がしていた。
そのメモを二つ折りにし、そっと立ち上がってリビングへ戻ると、本棚のすみにそれを忍ばせた。ヨルがよく掃除をする場所だ。
読まれるかはわからない。返事を期待しているわけでもない。ただ、疑いを越えて届くものがあると、信じてみたいと思った。
それがたとえ、たった一片の詩でも。
ロイドはひとつ、深く息を吐いた。胸の奥に澱んでいたものが、すこしずつ外へ出ていくような呼吸だった。
部屋の明かりを落とし、寝室へと戻る。ヨルの部屋の前で一瞬立ち止まるが、中からは何の物音も聞こえなかった。
彼女は知らない。棚のメモのことも、その中の言葉も。
――いや、知らなくていい。
伝わらなくても、意味はある。
ロイドはベッドに入り、天井を見つめながらぽつりと呟いた。
「……3D1B、か」
Devotion、Dependability、Delight、そしてBond。
あるいは、Dearness、Diligence、Defend、Belonging。
そして、Doubt――きっとそれもまた、なんらかの形なんだろう。
少なくとも、今の自分には。
閉じかけたまぶたの裏に、娘と妻の笑顔がふと浮かぶ。
静かな夜だった。
明日は今日よりもう少しだけ、素直な言葉を選べる気がした。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move,
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
星が燃えているのを疑ってもいい。
太陽が動いているのを疑ってもいい。
真実が嘘だと思ってもいい。
でもどうか――僕の愛だけは疑わないで――。
引用:ハムレット
Last Updated on 2025-07-12 by ashika







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