誠実さは言葉をもたない
それは言葉にならないものだ
それは、その人の『瞳』と『態度』に現れる
ムスタファ・ケマル・アタテュルク(MustafaKemalAtatürk)
最初は何とも思っていなかった。
本当にひとつも。
彼女を選んだのは、はっきり言えば、選択肢が他に無かったからだ。
消去法にもならなかった。
年齢、職業、環境、見映え。
それらの条件は及第点。
加えてイーデン校の面接に間に合わせるために残された時間は48時間。
そんな時に偶然出会った。
「恋人のふりしてパーティーに出てほしい」
「弟を安心させたい」
恥ずかしげにいう彼女の言葉も、全部信じたわけじゃない。
ただ恋人がいない女性の虚栄心だと思った。
それは全然かまわなかった。
その方がこちらも都合がいい。
利己的な女のほうが都合がいい。
それで良かった。
――それだったら、良かった。
「誘拐されかかった!?」
「すみません! すみません!!」
作戦会議ブリーフィングを終え帰宅したら、妻と娘が武道の鍛錬をしていた。
母娘で制服の引き取りを頼んだだけなのに、何が一体どうしてなのか。
意味が分からず理由を聞くと、アーニャが誘拐されそうになったというので更に仰天した。
ヨルさんは必死に頭を下げてこちらに謝っている。だが、警察には通報したのかと確認したら、していないという。
……あり得ない。
――体この女ひとは、何をしているんだ。
それに、誘拐という物騒な単語と目の前の訓練のようなものが結び付かない。
いや、ついてはいるが、つけたくない。
まさかとは思うが、こんな年端もいかない子どもにいきなり格闘技を教えているのか。警察に通報もしないで?
「ちち! アーニャ、ははにごしんじゅつならってる! とっくん!」
アーニャはそう言って得意気だが、ぱっと見たそれはどう考えても護身術ではない。
そもそもヨルさんが自分で護身術と言っているが、彼女のそれはどう見ても攻撃特化型だ。受け流す、身を守ることを主体とした護身術とは根本から違う。
しょせん契約関係の相手だ。そこまで踏み込む時間も必要もないと思っていたが、こちらの想像を軽く超えてくるその言動に、混乱と危機感が募る。
「娘」ですら手をこまねいているのに、もうひとつの駒にも勝手に動かれるのは本当に困る。
ヨルさんは汗を拭いたタオルを持ったまま、恥ずかしそうにうつむく。それをアーニャが見上げている。
……とりあえずここで全員で固まっていても埒が明かない。
詳しい説明を聞くために、一度着替えてから、リビングに集まるようにふたりに伝えた。
「はい……アーニャさん、着替えましょう」
アーニャの手を取り、肩を落とすヨルさんと、不安そうな目をして、交互にこちらを見るアーニャが部屋へ下がる。
その目に若干の居心地悪さを覚えて、自分も部屋に戻った。
ベッドには、清潔な着替えが畳んだまま置いてあった。
朝、ヨルさんが洗いあがったものを渡してくれたものだ。時間が無くてベッドに置きっぱなしにしていた。手近にあるそれを取って着替える。
清潔な、それでいて嗅ぎ慣れない洗剤の匂いの違和感と、アーニャの目に感じた居心地悪さが同時にどこか奥からせり上がってくる。
そして、そのことに自体に何故かイラついた。
リビングに再度集まり、全員でソファーに座る。
「で、何があったんですか?」
努めて穏やかに聞くつもりが、少しだけ語尾に険を含んでしまう。先ほどの会議で聞いた内容がプレッシャーとなって澱のように身体をゆっくりと蝕んでいる。だが、感情を表に出すなど、らしくない。しっかりしろと、心の中で叱咤する。
「実は……」
ヨルさんは緊張してたどたどしくなりながらも、制服を引き取ってからのことを話し始めた。
制服を受け取ったあと、それを着たままアーニャが寄り道がしたいと言い、それを許してしまったこと。
立ち寄った公園で、アーニャが制服をみんなに見せ、おそらくそこでガラの悪い連中に目をつけられてしまったこと。
その後行った食料品店で、目を離したすきにアーニャがそいつらに拉致されそうになったとのことだった。
「……なるほど」
話を聞いて、身体に貯まっていた負の感情を吐息と一緒に吐き出す。
制服に初めて袖を通したその日にそんなことになるとは。思ったよりここら辺も治安が悪い。
現行体制への不満が偶発的に起きているのか、それとも誰かが扇動しているのか。ただのごろつきなら秘密裏に一掃することもわけは無いが、背後関係を調べもせずにうかつなことも出来ない。
この自宅がある公園通りから仕立て屋までは、セントラルパークを挟んで数ブロックだ。歩いていける距離だと、少し油断したかもしれない。アーニャ自身にも、制服での行動はよくよく気をつけさせねば。
数日後には入学式、その後の通学はスクールバスでの通学を申請してある。先日の入学説明会ではバスは各家庭の家の前まで来るそうだ。だが、保護者は必ず子どもがバスに乗るまで見届けるように厳命されていた。少し過保護のような印象を受けたが、理由がちゃんとあるわけか。
入学後のクラス編成に気を取られていて、まだスクールバスの情報までは入手できていなかった。イーデン校は寮生がほとんどで通学生の割合は少ないとはいえ、十三学年分だとそれなりの数にはなる。バスは数十台はあるはずだ。すべての車両情報と巡回ルート、ドライバー全員の身辺調査、どこかのバス会社に委託している場合はその会社自体を調べる必要もある。
調査項目を頭の中でざっと羅列し、自分で行う項目とWISEやフランキーに振れる項目を分けていく。
「本当にすみません。お任せ下さいと言っておきながら……」
考え事をしていると、ヨルさんが絞り出すように言った。視線を足元に落として猛省していた。
もう彼女達への憤りは収まっていたが、梟の進行のことを考えていて沈黙が続いたため誤解させたようだ。少し、邪険に映ってしまったか。
「ちち! おこっちゃだめ! はは、わるものやっつけてかっこよかった!」
アーニャが、ヨルさんと自分の前に立ちはだかって、大きく手を伸ばしてかばう。
少し、驚いた。
いつの間にかずいぶん仲良くなっている。
「アーニャさん、大丈夫ですよ。私が悪かったのですし。警察にはちゃんと連絡するべきでした。すみません」
「あ、いえ、今後の通学のことを考えていて。大丈夫です、今後は気をつけてくだされば。こんなことがもう無いようにするほうが先決ですが」
「はい! それはもちろん」
「ちち、おこってない?」
アーニャが自分が座っている椅子の肘掛けまでおずおずと近寄る。
「別に怒ってないよ」
「……アーニャとはは、おいださない?」
そして、ヨルさんに聞こえないくらいの声でそっと囁いた。
その言葉に呼吸が止まる。
「そんなこと……」
するわけがない、と言おうとして、アーニャがここに来る前に四回も孤児院に戻っていることを思い出す。
そうか。
この子は庇護者に見放されることを極端に恐れているのか……。
そして、自分も。
そんな約束はできない。
できるはずがない。
……けれど、今はストリクスの進行の上でもこの子の不安を取り除くほうが先だ。
自分の中の何かに蓋をして、アーニャに微笑む。
「そんなことしないよ」
そう言って、アーニャの頭を軽くなでる。
アーニャが頭に乗せた手にそっと触れて、その体温を感じて、やっと安心した顔をした。
「……というか、そもそもおまえがヨルさんから離れなかったらこんなことにはなってないだろうが!」
はたと気が付いて、頭に置いた手を思い切り左右に動かした。
「ぎゃー! こうげきがこっちきたー!」
アーニャは、ははー! と、ヨルさんのところまで逃げて行って、ぐちゃぐちゃになった髪を直してもらっていた。
「アーニャさん、寝ました」
しばらくして、アーニャの寝室から出てきたヨルさんにそう声をかけられる。
時刻はもう二十二時過ぎだ。
リビングのテーブルに、入学説明会の資料を出して、もう一度確認をしていた。
「ああ、ありがとうございます。ヨルさんももう休んでください」
自分はまだもう少し資料に目を通しておきたかった。
どこにテロや誘拐などの脅威があるかわからない。自宅からイーデン校までのルートはいうに及ばず、自身が仮に所属している病院、ヨルさんの市役所との位置と、イーデン校までの所要時間などの把握など、入学前にもやることは山積みだ。そのまま書類に視線を落とす。
だが、目の端のしなやかな足は動かないままだ。
顔を上げると、ヨルさんが何かを言いたそうに所在無く佇んでいた。
「なにか?」
「はい、あの……もう一度ちゃんと謝罪を、と思いまして」
彼女が真っ直ぐこちらをみて、姿勢を正す。
もう終わったはずだが、何か彼女の中で消化できないことがあるのだろう。しぐさで座るように促すと、ゆっくりと横のソファーに座った。
「あの……改めて、今日は本当に申し訳ありませんでした。私が目を離したばっかりにあんなことになってしまって」
「ああ、それはもう大丈夫です。アーニャのやつも勝手にヨルさんから離れたわけですし」
「でも……、あの、すみません。そうじゃなくって……」
彼女はゆっくりと、何かを探すように視線を彷徨わせたあと、顔を上げる。
「私、アーニャさんに母親らしくしてあげようとしたんです」
ほかのご家庭の皆さんが当たり前にしているお母さんらしいことをしてあげたくって、と彼女は続けだ。
「でも、形だけなんです」
彼女は自嘲気味に口だけを歪ませた。泣きたいのに涙が出ない、そんな表情だった。
黙って彼女を見つめる。
ヨルさんはこちらに一度視線を向けてから、俯く。
「――形だけ。私がしようとしたことってそういうことだなって。形だけで『お母さん』を演じようとして。出来もしないのにごはんを作ってあげようとしたり。でも、お店で食材を選ぶのに気を取られてしまって、結局アーニャさんを全然見てなかったんです。それって母親じゃないですよね」
「それは……、ある程度しかたないことでは?」
自分だって勝手に動き回るアーニャに手を焼いている。どこの家庭もそうなのでは、と少ない経験からでもなんとなく思う。
「それは……はい。でも、あの時、やっぱり私がしなくちゃいけなかったのは、アーニャさんのそばについていてあげることだったなって。だから……警察に通報もしないで帰ってきてしまうとか、そういう、大人が当たり前にしなくちゃいけないことが全然できていなくって。面接でも……」
彼女は言いよどむ。
イーデン校でアーニャとヨルさんに投げられた無遠慮な侮蔑。
「あれは、あの言葉はあまりにも無礼で理不尽でした。ヨルさんが気にされることは全然」
「はい、わかってます。でも……でも、彼がどうとかじゃなくて、私があの言葉で自分を恥じたことが問題なんです」
「……」
「そんなことないって、思いたかったのかもしれません。そんな気持ちが無かったかと言われたら自信がありません。だから料理をしようとしたのかも。だから、自分のエゴを優先させたのかも。でも、アーニャさんが……」
「アーニャさんが、『強くてカッコいい母が好き』って言ってくださって。それで私は私に出来ることを精一杯やろうと思って。それで、アーニャさんにとりあえず型の特訓を、と」
言い訳にもならないですが。
ヨルさんは、そう言ってから、「明日警察に行ってきます」と言った。
「あの方達がまた同じようなことをしていたら許せませんし。母親としてより、ちゃんと、大人としてやることをやらなくては、アーニャさんに示しがつきませんもの」
「ボクも一緒に行きます」
「いえ、そんな、ロイドさんのお手を煩わせるわけには」
「煩わせているわけじゃなくて。ボクが行きたいので。近所で起こったことですし。そいつらの特徴とか、背後関係があるなら聞いておきたいですし」
今後の防衛のためです。そう言って笑うと、やっとほっとした顔をして、ヨルさんも笑顔になった。
「……ボクも同じです」
「え?」
「ボクもあの時動きませんでしたから」
あの面接で、実の母親のことをふられて、泣き出したアーニャよりも、面接の成功を優先した。
任務のためだと自分に言い訳をして。
子供が泣かない世界を作りたいなんてうそぶいておきながら、目の前の子供の涙を無視した。
誰よりも先にアーニャに駆け寄って、アーニャの心に寄り添ったのは彼女だ。
「……ヨルさん、改めて、面接ではアーニャのそばに駆け寄ってくれてありがとう。……ボクは動けなかったので」
「そんな、ロイドさんも立ち向かってくださったじゃないですか」
「いえ……ボクは蚊を仕留めただけです」
そう言って肩をすくめると、ふたりで少し笑った。
「……誰でもそういうものだと思うんですよ」
「ボクも、あの時ああすればよかった、こうすればもっと良かったと、そう、ずっと思ってます」
そんなことを毎日、毎回思いながら生きてる。
なんど誰かの涙を見れば気がつくのか。
どうして何度見ても気がつかないのか。
そんなことを毎日、毎日。
それでも――立ち止まれない。
立ち止まって、思考を停止して、誰かの涙を見ても何も感じずに死にながら生きることが許せない。
そんな楽な人生を送ることを、自分に許していない。
「いつかは、そんなことを思わずにいれればいいなと思ってますが」
ヨルさんは静かに聞いていた。
そして、「私もそうです」と言った。
「私も、そんなことを思いながら身体を鍛え始めた気がします。自分の世界を変えたいというか……ずっと昔ですが」
「……」
「身体を鍛えたら、教えてくださった方が褒めてくださって。それが嬉しくって、もっと、もっととなってしまったんです。私が出来ることなんてあまりなかったので」
そう言って自嘲気味に笑った。
「そういえば、この間の城でも思いましたが、お強いですもんね」
あれは少し驚いた。
普段の身のこなしや、言動から想像がつかない。
しかもあの時は彼女はかなり酔っていた。にもかかわらず、自分は防衛することで精いっぱいだった。格闘術はかなり使えるとほうだと自負していたが、彼女はおそらく自分より上なのでは、と思われた。
彼女はただの市役所職員のはずで、調査でもそれ以上は出てこなかったが。
するとヨルさんは「いいえ、私なんて!」と謙遜しながらも少しだけ何かを考えて、小さい声でただ……、と話しだす。
「……抵抗できないでいるよりは、出来たほうがいいと思ったんです。……なにも知らずに、悪意のある方たちに……好き勝手にされるよりは」
そう思っていろいろ習ったんです、と。
「そう、ですか」
「はい」
彼女は変わらず視線を下へ向けている。
しかし、その先にあるものは床ではない。
何か別の……見なくてもいいものを見ている。
同じ方向に視線を向けると、目の奥に、思い出したくもない光景が浮んで、鼻の奥に、二度と嗅ぎたくない、何かが焼ける臭いが一瞬だけ掠めた。
――彼女の目の前にも、きっと、同じ光景が広がっている。
なぜかそう感じた。
――どこかの神話の馬鹿な女が解放した箱の話だ。
抗争
荒廃
混乱
欲望
恐怖
憤怒
憎悪
怨嗟
酸鼻
そして、絶望――
一片の希望もない、そんな愚行で満ちた世界で、女性が、ましてや子どもが生きることがどれほど困難か。
彼女は何も言わないが、おそらく、自分が見てきた世界と、そう大差ない世界を垣間見たのかもしれない。
それでも……それでも、あなたはそこから這い上がって。
弟を連れて這い上がって。
彼を守りながら、懸命に、ひたむきに今まで生き抜いてきたんだろう。
それは、何よりも――。
……小さい何かが、どこからか現れて、こちらに視線を向ける。
だが、その何かは、つかみ取る前に指からすり抜けて、その先で煙のように消えた。
そして追いかけるのもやめた。
今はまだ、相応しくない気がする。
何が相応しくないのか――それも、考えないようにした。
「さ、もう遅いですし寝ましょう」
ヨルさんにそう声をかける。明日も早い。
「はい。あ、そうだ、ちょっと待ってください」
彼女はそう言って、ランドリー室から洗ったばかりできちんと畳まれたシーツを持ってきた。
「朝起きたらこちらのシーツに変えていただけますか? 洗い物はランドリーボックスに出しておいてください」
「ありがとう。いつもすみません」
「いいえ、このくらいしかできませんが」
彼女はどこまでも謙遜してそういう。
「充分です……本当にありがとう」
ありがとう……心配してくれて。
怒ってくれて
闘ってくれて
優しくしてくれて
大切にしてくれて
守ってくれて
そして、
誠実でいてくれて――
真っ直ぐに見つめて微笑むと、ヨルさんは、少しだけ目を開いて驚いた顔をしたが、すぐに「どういたしまして」と微笑み返してくれた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
同じ言葉でつかの間の別れを言って、彼女は扉の奥に帰っていく。
それを見てから手にしていたシーツをもう一度小さく畳んで小脇に抱えて、一度身体の中の息を全部出す。
明日も色々と任務がある。睡眠も大事な任務だ。
少しだけ肩を上げ下げして、凝りをほぐしながら自室の扉を開けた。
部屋に入る瞬間、シーツから洗剤の香りが立ち昇る。
――その香りにもう違和感はなかった。
end.
[あとがき]
ロイドさん、出会った当初は多少は……本当に多少はヨルさんに対してイラっと来ることもあったんじゃなかろうか、と。
でも彼女もバックグランドはロイドさんと同じのはずで、なのでお互いに言葉には出さないけれど、見ているものが一緒なのでは……なので通じ合うものがあるのかな?と。
思いましたですます。
冒頭の言葉は、トルコの初代大統領の言葉です。







※コメントは最大500文字、5回まで送信できます