いきなりぱちりと目が覚めた。
なんの余韻もなく突然に。
何度か瞬きをして意識を無理やり覚醒させる。
視線の先の天井がやけに低い。そして胸元が少し重かった。
ふと見ると、隣でアーニャさんが高鼾で口を開けて眠っている。
どうやら彼女の腕が私の胸に当たって目が覚めたらしい。けれども、どうしてアーニャさんと一緒に寝ていたのだろう。
状況がつかめずそろそろと起き上がる。
……どこでしょう?
どこかホテルの部屋のようだ。狭さの中にも規律性があって、全てがコンパクトにまとめられている船室だった。
そう、船室だ。思い出した。ガーデンから指示された接待の仕事で乗り込んだ客船だった。
昨夜までいろいろな刺客の方と死闘を繰り広げていたが、なんとかオルカさんたちを第三国へ亡命させることができた。
今日はそのご褒美に部長にロイドさんたちと一緒にいてもいいとお許しが出て、アーニャさんたちと合流して一日リゾート島を散策したのだ。
けれど、あらかた観光をして、そろそろ船へ戻るというところで記憶が途切れていた。
まさか、あのまま外で寝てしまったのか。
服も着ていたままだったのでそうなのだろう。きっと外で寝てしまって、ロイドさんが運んでくれたのだろう。
「なんてことを……!」
いくら疲れていたとはいえ、ロイドさんに対してとても失礼なことをしてしまった。
謝らないと。
急いでベッドから降りて、靴を履く。
ぐるっと見回したが、あまり広くない船室に彼の気配はない。
外に出ているのか。この船室に三人は狭いし、私が寝てしまっているので、礼儀正しい彼は船室から出てくれたのだろう。
探しに行こうか迷って、アーニャさんの様子を見る。
アーニャさんは普段とても眠りが深い。一度寝てしまうと朝まで起きることはまずなかった。
今もぐっすりという表現がとても似合うくらいに深い眠りについている。
少しだけ探して、30分たっても見つからなかったら帰ってこよう。
そう思い、念のためアーニャさんの枕元に置手紙だけ置いて船室を後にした。
船室を出てきょろきょろと同じフロアを見渡したが、一直線に並ぶ狭い通路には隠れるところもなく、娯楽も休むところもない。
ロイドさんはどこにいるだろうと推測すると、何となく彼の居場所が分かったような気がして階段を昇った。
――気に階段を昇って、甲板に上がると、風が出ていた。
髪をまとめてくるのを忘れてしまった。
吹き抜ける風に髪を取られながら、はてどちらだろうと考える。
船首側か、それとも船尾側か。
少しだけ考えてから、多分こっち、と船尾の方へ向かった。
きっとロイドさんは甲板にいる。
それも揚々と前を向いて前進する事しか考えていないような船首の方ではない。
なんとなく、彼は船尾にいるような気がした。
彼はきっと船尾にいて、過行く場所を、置いてきた時間を見つめている。
――彼は自分で気がついていないかもしれないが、ふとしたときにいつもどこか遠くを見ている。
どこか遠く……もう決して行くことが出来ない世界を見ている。
それは、お亡くなりになった奥様のことかもしれないし、または別のことかもしれない。
契約で成り立っている私には問いかける資格もない。
けれど、彼が何かを見て、何かにひどく心を痛めていることは、私だけが知っていた。
船尾の一番端まで来ると、目指した人影が見えた。
彼は先ほどと同じ服装で、帽子も被ったまま、船尾の柵に肘をついて、思い描いた通りに何かを見ていた。
その姿に、声をかけていいものか少しだけ迷う。
けれど、彼は私が声をかける前に、こちらにゆっくりと振り返った。
「――よく眠れました?」
彼はそう言って穏やかな笑顔を向けてくれた。
その笑顔に何故かほっとする。
「ええ。すみません、すっかり寝てしまって」
「疲れたんでしょう。すみません、ヨルさんの船室がわからなくて、取り敢えずボク達の船室にそのまま寝かせてしまって。洋服、しわになりませんでした?」
ええ、大丈夫です。そう言って、なんとなく彼の隣の少し離れた場所に立った。彼が何を見ているのか知りたかったが、すぐ隣に行くのは躊躇われた。
何故かそうするのが、とても無粋な気がした。
船尾の柵の向こう側からはすぐ海が見え、人の腕ほどもあるワイヤーが何本も伸びて桟橋に括りつけられていた。
やはりこれだけ大きい船だとすべてが規格外だ。こんな大型客船に乗るのも、泊まるのも初めてでついつい見入ってしまう。
船自体は出航に向けて船首を湾の先に向けている。そのためこちらの船尾は湾の奥側に向いている。船の左側に桟橋があって、いくつかの荷車がたむろしていて、その中から沢山の人たちが荷を積み込んでいるのが小さく見える。その先には、何かコンクリートとレンガできた小さい灯台、そして更にその先に切り立った入り口のようなものが見える。川の出口というのか、河口の入口というのか、なんとなくそういったものなのかと思った。
そして船の底の辺りからかなり大きな音が響く。
船は動いていないのに、何かスクリューのような大きな駆動音だ。
「何をご覧になってらっしゃったんですか?」
なんとなく気になってそう聞いてみる。
「いや、特に何ってわけでもないんですが。バラスト水の注入をなんとなく」
「バラスト水?」
聞いたことにない言葉だ。ロイドさんは私が知らない言葉をよく知っている。
「ええと、船の重心を一定にするために船の底に海水を入れて安定させるんですよ。港ごとに入れ替えするんですが、そういうのを見るのが、なんとなく好きで」
まあ実際は、ただ海面を見てるだけなんですけどね、と彼は笑った。
「港ごとに入れかえるのですか?」
私の質問に、彼は「ええ」と答えて、桟橋にいる荷下ろしをしている人に視線を送った。
「ああやって、港ごとに荷下ろしするでしょう。それによって船の重量も多少変わるので、注入する海水の量を調整するんです。このくらいの大型船だとちょっとボクもどのくらいの量を注入するのかはわからないんですが」
「へぇ」
興味が出て少しだけ柵から身を乗りだして船底を覗く。彼が危ないですよ、と、私のすぐ隣まで来て肩の辺りをそっと支えてくれた。
海面を見ると、言われた通り何か低い音がして、細かい泡が出ていた。船が海水を取り込んでいる音なのだろう。
ふと、その海面を見ていた顔を上げて、船首の方へ目を走らせる。
「どうかしました?」
「ああ、いいえ。同じ海でもずいぶん色が違うんですね」
船首辺りの海面は、「海」と言われてすぐイメージできるくらいの青さをたたえているが、この船尾の辺りの海水はかなり茶色かった。
同じ海で、しかもいくら大型とはいえ、船首と船尾の距離なのにこれだけ色が違うのが不思議だった。
「ああ、この船尾部分はまだ汽水域なんでしょう」
ロイドさんは何でもないという風に言った。
「きすいいき?」
また知らない言葉だ。私は本当に学がない。
「ええと、あそこに河口が見えるでしょう」
彼が船尾の先、先ほど見た灯台のその先の方を指さす。先ほど川だと思ったあたりだ。
「ええ」
「あそこから流れてくる川の水と、海の水が混ざっている部分のことを『汽水域』って言い方をするんです」
「河口ではなくて?」
「ああ、河口っていうのは場所の言い方で、汽水域っていうのは……なんだろう、水質と言った方がわかりやすいですかね」
「水質……?」
「ええと、川は淡水で、海は海水なので……」
そこまで言われて、はっと気がついた。そして同時にものすごく恥ずかしくなった。
それはそうだ、川は淡水で、海は海水だ。
水質に違いがあることも、川の水が海に流れ込んでいることも知っているのに、それが混ざることがあるなんて考えたことがなかった。
というか、混ざり合う場所があることも、それに名前があるなんてことも今初めて知った。普通に考えれば至極当たり前のことなのに。
ああ、私はどうしてこう、普通の人が普通に知っていることを知らないのか。
「本当に……そうですよね。なんだかすごく恥ずかしい……」
両手で口を押えてそう恥じる。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。
「ああ、大丈夫、女性はあまりこういったことに興味がないかもしれません……というか、ヨルさん楽しいですか?この話」
そう聞かれて、口に手を当てたままこくこくと頷く。
「恥ずかしいですけど、楽しいです。私の知らないことばかりなので」
本心だった。彼の話は私が知らないことだらけで、でも言われてみればどういうことなんだろうと思うことばかりで、とても面白い。
「……そうですか」
彼はそう言って、潮の満ち引きによって川のほうまで海水が入り込む場合と、逆に淡水が湾まで混ざりこむ場合があるので、そういう場所のことを海とか川とかはっきり区別せずに汽水域と呼ぶのだと教えてくれた。
「曖昧な場所なんですね」
なんとなくそんな言葉が口をついた。少し羨ましさが含まれてしまったかもしれない。
だが、彼は少しだけ笑って「……曖昧でもいいんですよ。そういう場所があっても」と言った。
その意味を図りかねて不思議そうな顔をすると、彼は優しい目でこちらを見た。
「全部が全部きれいに線引きができるわけじゃありませんからね。……こういう、曖昧な場所があると安心します」
彼が何故そういう風に言うのが不思議だったが、彼は彼でそう思うことで何かとバランスを取っているのかもしれない。
そして、それは自分にも当てはまった。
曖昧な場所があると安心する……それは私も同じだ。
フォージャー家の一員のヨル・フォージャー。
市役所勤務としてのヨル。
そして、ガーデンの接客を担ういばら姫
最初は、殺しの仕事の継続のためにフォージャー家に入れてもらった。
市役所勤務もガーデンの仕事の隠れ蓑で、全てはガーデンのいばら姫の為に行動していた。
けれど、フォージャー家に入れてもらって、アーニャさんの母や、ロイドさんの妻として過ごしていくうちに、そちらに比重が傾いていることを日々感じている。
そして、そんな自分の感情を図りかねてバランスを崩す。
――昨夜の死闘もそうだ。
自分の平穏はいらない、理不尽な犠牲をこれ以上出さないためにと、一生懸命戦った。
そんな自分に誇りはもっているけれど、やはりこうやって、ロイドさんやアーニャさんと一緒に観光したり、同じベッドで寝たり、そんな他愛もない生活を知ってしまっては迷わずにはいられない。
ふらふらふらふら。
まるで細い桟橋の上を足元も見ずに歩いてるようだ。
どこまでも暗くて、どこまでも不安定で。
けれど、どんなに暗くて足元が見えなくても。
曖昧で不確かで、不安定でも……。
そんな場所がもし、あるのならば。
全てが曖昧で境界線がなくて、けれど、この汽水域のようにすべてをはっきりと決めなくてもいい、そんな場所があるのならば。
それは今のままの自分が存在を許された、ということだ。
もし、そこからいろいろな「私」に行くことができるのならば。
まだ、もう少しだけ、この場所にとどまっていられるような……
それを許してもらえるような……そんな気がした。
「……いいですね。とても好きになりました。『汽水域』って」
「……ボクもです」
私がそう言うと、彼も同じように言って、ふたりで微笑んだ。
ボーッと、どこからか長い汽笛が一回鳴る。
「……そろそろ出航みたいですね。出航したらすぐ夕食が摂れるようになりますよ」
ロイドさんがそう言って腕時計を見た。
「アーニャを起こして夕飯にしましょうか」
「はい」
あいつ起きるかな……ロイドさんがそうぶつぶつ言いながら一緒に船室に向かおうとする。
ふと見ると、もうずいぶん陽が落ちてきて、段々と海と空も曖昧になってきた。
水平線と地平線、空と海、それらすべてが目の前で曖昧となって混然となる。
けれど、その混ざりつくした光景も、やはり全てを許されているようで、例えようもなく美しかった。
全てが曖昧で、不確かで、あやふやな時刻。
すべてをあるがまま包み込んでくれる、この美しい時刻の名前だけは知っていた。
「どうしました?」
足を止めて、海のほうを見る私に、彼が不思議そうに声をかける。
「……私、これも前から好きだったなって思い出したんです」
「これって?」
なおも不思議そうに聞く彼に、わかるように腕を柵の外に出して沈む行く太陽を指さす。
「あれです、黄昏 」
綺麗ですよね、あれ、と言いながらまた船室に向かって歩きだす。
すると、先を行っていたはずのロイドさんを追い抜いてしまった。
ん?と思って、振り返ると、彼はなぜか被っていた帽子を顔の前に掲げて何かに耐えているようだった。顔が全く見えないのでどういう表情なのかはわからないが、肩が小刻みに震えている。
「どうかされました?」
「…………」
「ロイドさん?」
「……不意打ちは、……ちょっと……」
「はい?」
急な体調不良かしら、と驚いて駆け寄ると、彼は帽子で顔を隠したまま、さっと手をこちらに出して、それ以上近寄らないでくれというポーズをする。
「ロイドさん?」
「すみません……ちょっと先に行ってください……トイレに行ってきます……」
彼はそう言うと、くるりとすごい勢いで反対を向いて、とてつもない早歩きで行ってしまった。
顔は最後まで見えなかったが、耳と首の辺りまで赤いのは見て取れた。
きっと急に腹痛を覚えたのだろう。彼はとても腸が弱い。
大丈夫かしらと少しおろおろと迷うが、きっといつものように落ち着いたら帰ってくるだろうと思いなおす。
それよりも、彼が戻らないのならばアーニャさんのそばにいてあげないと。私は彼女の母なのだから。
まだ夕食が摂れる時間は十分あるし、アーニャさんを起こして一緒に船室で彼を待っていよう。
夕食はビュッフェ形式だと聞いた。先にメニューが手に入るのなら、身体を温めるものを見繕っておこうと考える。
そこまで考えて、ああ今の私は彼の妻のヨル・フォージャーだなと思った。
そしてそんな自分がとても誇らしかった。
end.
[あとがき]
Twitterの企画に応募した作品です。
テーマは「海」でしたが、汽水域って海といば海だけど、海じゃないといえば海じゃない笑
微妙にテーマを逸脱していました笑
そういえば、汽水域という言葉を初めて知りましたという方がいらっしゃいましたが、私も大した知識があるわけではなく、「鉄○DASH」の受け売りです笑
ありがとう城○さん……。