2023-09-22

あたかも祭りの日の朝に

 さればこそ、天なる炎をいま、
 地の子らは危うさもなく飲むのだ――

 ガタン、ドサドサッ!
 大きな音が、ハウルから眠りを奪った。
 ぼんやり目を開けると、目の前にはくちゃくちゃになったシーツと、その上に何冊かの本が無造作に散らばっている。どうやら、寝返りをうった瞬間に延びた手が本に当たって床に散らばったらしい。
 その証拠に長く美しい手首が痛かった。
 ため息をついてのっそりと起き上がると、分厚く重いその本の一冊を手に取ってパラパラとめくる。と、ページとページの間から、栞代わりのペーパーナイフがキラリと顔を覗かせた。
 眠りに落ちる前に読んでいたページに咄嗟に挟んでいたらしい。
 ハウルはそのページに書かれてある文字に目を走らせると、先ほどよりももっと重いため息をひとつ吐く。
 バタンと本を閉じると、その勢いでペーパーナイフがシュッと空を切って肌を薄く切った。
 短く舌打ちをして傷口を押さえる。深手ではないが、ナイフは血管を傷つけるくらいには入りこんだ。ぱっくりと開いた肌から、ゆっくりと血が溢れ出す。だが、ハウルは黙って眉根を寄せながら、もう片方の手で傷口を押さえてその上からふっと息を吹きかけた。
 ゆっくりと手を離すと、既に傷口は跡形もなく、うっすらと残った血痕だけが傷の存在を肯定していた。
 指に残ったその血をぼんやりと見つめる。
 鮮やかな赤い色は、空気と結びついて既に赤茶けていた。
 ハウルはのそのそと何回か身体をほぐすと、いかにも億劫そうに立ち上がる。その反動で、先ほどのペーパーナイフがカランカランと床に落ちて、それが挟まっていた本までもが道連れになった。しばらくその分厚い本を見つめて何かを思案していたが、やがてそっとそれを手に取りのろのろと部屋を後にした。
 部屋を出ると陽がもう随分高くまで昇っていて、埃だらけの廊下を明るく照らしていた。ハウルは眩しそうに一瞬目を細める。窓の外には、青々とした丘陵地帯とその丘の麓にある川に面した町が広がっている。大都会というわけではないけれど、そこそこの大きさを持ったその町はいかにものどかに佇んでいた。町の中心にある教会と時計塔が他の建物より頭ひとつ分高くて、ハウルのいる荒野の城からもぼんやりと見える。
 いつもと変わらない風景。
 彼が捨てて来た世界でもよく見た風景だ。違うとすれば、今日はその町から威勢のいい火薬がポーンポーンと何度も打ち上げられていること。火薬を含んだその風が、丘陵地帯城までわずかに匂った。
 ハウルはしばらく窓の桟にもたれかかってぼんやりとその風景を眺めていたが、やがて今日三回目のため息をつくと、諦めたように首を振って窓から離れた。

++

「カルシファー、こっちにお湯を送って!」
 階段上からかかった声に、カルシファーは薪を食べる口を休めた。
「またかよ。一日くらい風呂に入らなくったって死にゃしないぜ! 実際おいらなんて入ったことも無いしね!」
 その口調は自慢に満ちていたが、火の悪魔だから説得力は無かった。
 無視したハウルが浴室の扉をバタンと閉めると、カルシファーは「ちぇ、ちぇ!」と舌打ちをして火花を散らす。どうしてあいつはこう風呂好きなんだか! 彼はブツブツ言いながらも栓を捻って大量のお湯を二階に送った。水道管を通っているとはいえ、自分のテリトリー内に水が這いずり回るというのは本当に鳥肌が――あったとして――立つ。浴室が二階にあるのがせめてもの救いだ。そうじゃなきゃ彼は今頃気が狂っていたことだろう。
 ザーザーとお湯が水道管を流れる間、カルシファーはうんと伸びをして煙突の傍まで近寄った。こうやって縦に伸びたら少しは水の気配から逃げられる気がするのだ。ふいと、真っ黒な穴の中を見上げる。この城は本当は港町にあるあばら屋だけれど、この煙突の先は荒野に繋がっているのだ。真っ黒な穴からしか窺い知ることが出来ないが、今日の荒野は素晴らしくいい天気らしい。
 どこからポーンポーンという音が空気を伝わってカルシファーに届いた。

「ああ、自由になりたいなぁ」

 誰に言うわけでもなくぼそりと呟く。昔は空は見上げるものじゃなくて見下ろすものだった。しかもこんな四角四面の変わりばえのしない空じゃなくて本当の天空の海。
 仲間の星々が美しく瞬き、大気も雲も通り越して地上を明るく照らしていたのだ。
 だがその星の子も、今となってはしがない魔法使いのしがない使い魔。しかも年がら年中暖炉にしばりつけられて。これじゃ「火の悪魔」じゃなくて「暖炉の悪魔」だ。
 望んだこととはいえ、微妙に違うんだよなぁ……自分の求めていたものと。
 はあぁ、とカルシファーはため息をつく。
 クサクサしたのでまたお腹が減ってしまった。
 キョロキョロと見渡すが、近くにあった手ごろな薪は全部食べてしまった。薪は暖炉の脇から少し離れた薪置き場に積んであってとてもじゃないが届かない。一度思い切って火の腕を延ばしてボヤを出してからハウルにきつく言われているのだ。
「つまんない、つまんない、つまんないったらないね! おいらの楽しみは食べることだけだってのにさっ!」
 今度は二階に向かって聞こえよがしにそう怒鳴る。だが、聞こえてくるのはザーザーと水が大量に流れるいやらしい音だけ。カルシファーはポンッ! と大きく身を膨らませると、炉床に残っていた灰の欠片を暖炉下の床にペッと吐いた。
 ふん、ざまあみろ、これでご大層な着物も灰色になっちゃえばいい!
 その床には彼の嫌がらせによって作られた灰がこんもりと山になっていておおよそ五年間の悪魔の感情の起伏を如実に示している。にもかかわらず、一度たりとも掃除をされたことがないことも雄弁に物語っていたが、カルシファーがその事実を知ることはついぞなかった。

 トン、トン、トン、カルシファーが灰の小山を作ってからゆうに二時間は経った頃、階段が軽やかに軋んでハウルがゆっくりと降りてきた。
 淡い、冬の陽射しのような金の髪、両耳には緑黄石の魔石がキラキラと輝いている。カルシファーの主人は絹のだぼっとしたブラウスに袖を通して片手で最近気に入りの銀と青のジャケットを持っている。そしてもう片方の手には分厚い本が握られていた。
 あれだけ時間かけてこれかよ。
 カルシファーは心の中で契約主を馬鹿にした。もっとも、ハウルがだらしない格好で階下にくることは決して無いので二階でどんな格好をしているのかカルシファーは知らない。彼にとっては、ハウルがどんなにお洒落をしていても「いつもと変わんない」のだ。
「腹減った」
 カルシファーはハウルが最後の階段を降り切る前に不機嫌にそうねだる。ハウルは何も言わずに薪所から一本取って暖炉にぽいとくべてやった。やっとありつけた新しい食事を大口を開けてムシャムシャと頬張る。その間に、ハウルは持っていた上着を暖炉前のソファの背もたれにかけて、自身もその場所に寝そべって本を開いた。
 その姿をマジマジと見つめる。
 どうやら今日は一日本を読むつもりらしい。あの本の厚みからして詠み終わるのに二日はかかる。そうなれば、今日はここから動かないことも決まったようなものだ。
 こう見えて、実はハウルはものすごい読書家だ。女の子を追いかけてなくて、お洒落に熱中して無い限りは大抵読書をして過ごしている。実際、この部屋にだって読み終わった本が片付けられる様子もなく何冊も何年も積まれて埃を被っていた。マイケルの話じゃハウルの部屋はここと比べ物にならないくらいの本が溢れているとのことだ。
 ハウルの嗜好ジャンルは多岐にわたり、小難しい魔法書から恋愛小説、暮らしのレシピとごちゃまぜだ。一時は「今日からあなたもパパとママ! エルステンペス夫人の楽しい育児」なんていうふざけたタイトルの本まであった。要するに活字中毒なのだ。たまに風呂にも持ち込んでいるらしい。ハウルが大事な魔法書をびしょびしょにしてインクがすっかり流れてしまったといつかマイケルがこぼしていた。
 ハウルは機嫌が良いときには今のように暖炉の前に座ってカルシファーにその内容を話してくれる。まあ、大抵作りもしない料理のレシピとか、果てはどこから持ってきたのか知らない濃厚な官能小説とかでカルシファーとマイケルに思いっきり顰蹙を買ってしまうのだが。
 だが、本当のところ、カルシファーはハウルが本を読んでくれるのが好きだった。カルシファーにはエサにしかならない紙の束だが、自分が触れられないその紙の中には驚くほどたくさんの世界が溢れている。それは暖炉に縛り付けられた自分にハウルがしてくれるとびきりの魔法だった。
「なあ。それ面白いか?」
 今日も新しい世界を期待してカルシファーはそう訊ねた。だが、ハウルは聞こえないふりしてそれを無視した。
「なあって。おいら退屈なんだ、なんか話しておくれよ」
 なおも食い下がるカルシファーに、ハウルはチラリと視線だけ向けて「別に」と一言だけで済ます。そしてさっさと視線を本に戻してあとは無視を決め込んだ。
「なんだい、愛想のないヤツ!」
 無視されたカルシファーは面白いハズもなく「ちぇ、ちぇ!」とまた火花を散らした。だが、よく見るとハウルは視線を本に向けているけれど見てはいなかった。何か、もっと別の……そう、何か考え事をしているようだ。
 でもその顔は眉をわずかに寄せていて、恋した女の子を考えてるって顔でもない。
 何か嫌なことでも書いてあったのかな? カルシファーはそーっと背伸びをして本の文字をのぞき見ようとした。だが、どうしたって距離がありすぎる。
「あのさ、マイケルは荒野の麓の町へ出かけたんぜ」
 カルシファーは覗き見を諦めて、せめてこの場を和まそうと聞かれてもいないのにペラペラとしゃべりかけた。
「今日は町のお祭りなんだってさ。マイケルはおいらにもチョコレートパイを買ってきてくれるって約束してくれたんだ。チョコレートパイだぜ、すごいだろ?」
「そう」
 だが、ハウルは無感動にそれだけ言うと、ひざの上に本を裏返しにして目を閉じた。その姿に、悪魔は深々とため息をつく。
「まったく、宿無しの元孤児だって悪魔に哀れんでくれるってのにさ! 肝心のあんたはそこでそうやってただ無為に生きてるだけとくる」
 やんなっちゃうよな、と悪魔はブツブツと文句を言った。だが、ハウルは聞いていないのか目を閉じたままだ。
 と、そのときドンドン! と扉を強く叩く音がした。
「キングズベリーの扉!」
 カルシファーが大声で来訪を告げる。だが、ハウルはピクリとも動かなかった。
「おいってば!」
「……どんなヤツ?」
 カルシファーの怒鳴り声に、ハウルはうるさそうに片目を開けてそれだけ聞いた。
「えーっと、えっらそーな髭を生やした赤ら顔のおっさん。うわ、なんかすっげー怒ってるぞ」
「僕はいない」
 ハウルはそれだけ言ってまた目を閉じた。
「……またかよ」
 カルシファーは心底呆れて炎をメラメラと揺らつかせる。大方またどっかの女の子に粉かけて逃げたんだろう。恋人だと思っていた男に逃げられた女が身内の力を借りて報復に来るのはこれが初めてじゃない。カルシファーは、厄介ごとはごめんだとばかりに扉の脇のダイヤルをくるくると回してキングズベリーから離れた。
「言いたかないけどねハウル」
「なら黙ってろ」
 ハウルはカルシファーの小言をぴしゃりと拒絶した。だが、契約下の悪魔だってムッとくれば主人に反抗してみせる。
「やだね、おいら今日は言わせてもらう! 女の子をふるならもっとスマートにやってほしいもんだね! 毎回怒り狂った父親だの兄さんだのに扉を引っ叩かれるおいらの身にもなってみろってんだ!」
「別にあんたが叩かれたわけじゃないだろ」
 ハウルはさもうるさそうに呟く。
「そういう問題か!? あんたときたら女の子を追っかけるだけ追っかけて飽きたら薪みたいに暖炉にポイだ。港々に女を作る船乗りだってあんたよりは上手くやるね!」
 カルシファーは怒りに任せて一気にまくし立てた。怒りのあまりに火花が煙突近くまでぼうぼうと立ち上がったほどだ。もっとも、船乗りのくだりはマイケルの受け売りだ。本当はカルシファーだってポートヘイブンの男どもの女性遍歴なんか知りはしない。
 だが、ハウルは黙って唇をぎゅっと歪ませるだけだった。そして、ふーっと諦めたように首を振りながら立ち上がると、椅子にかけた銀と青の上着を着た。
「なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ」
「いい、喧嘩はしたくない」
 いくつもあるボタンをかけながらハウルはぼそりと言う。その態度がいっそう悪魔をイラつかせた。
「都合が悪いとすぐそれだ! ああそうだね、あんたは逃げるしか能が無いもんな! 逃げて逃げて逃げて逃げて! 生まれた場所からも逃げてきて、しまいにゃ何にも知らずに地上に落ちた星の子まで巻き込む始末だ!」
 その言葉に、ハウルの顔が珍しく吊りあがった。
「……何にも知らないくせに」
「知りたくもないね! あんたにゃ心臓がないけど、それ以前にモラルってもんもまるで無いのさ! そんなヤツの口車に乗って地上に残ったおいらがばかだったよ!」
 そして、カルシファーは言ってはいけないことをついに口にした。

「ああもう! こんなことならあんたなんかと契約なんてしなけりゃ良かった!」

「――それ、本気?」
 ハウルはピクリと指を止めてカルシファーを見つめた。カルシファーもはっと口をつぐんでハウルを見上げる。ガラス玉のようなその瞳がみるみるうちに薄暗く曇って、今にもカルシファーが最も苦手な大粒の雨が降りそうだ。
「……」
 だが、カルシファーは何も言うことが出来なかった。
「そうだろうね。キミのとっては僕こそが憎むべき悪魔なんだろう」
 しばらくしてハウルは自嘲気味に薄く笑うと、最後のボタンをゆっくり留めた。
「ちがっ……!」
 そうじゃない、そんなんじゃないんだ。だた……。だが、上手い言葉が見つからない。ありえないことだが、喉の奥が焼けただれたように張り付いて言葉を出すことができなかった。
 そのとき、トントン、と軽やかに扉が鳴った。
「……お客だよ、カルシファー」
 ハウルが静かに来訪を告げる。この城はカルシファーの許しなくして扉が開くことは決して無い。それがハウルと初めて交わした契約だった。
「荒れ地の、おか……」
 カルシファーは弱々しくそれだけ言って役目を果たす。こんな大事なときでさえ、契約の呪縛が締め付ける。
 視界の端でダイヤルがガチャンチャガンと音を立てて緑色に合わさるのが見えた。だが、視線の中央はハウルを捉えていて、そこから目を話すことが出来なかった。
 ハウルも何も言わずに黙って見つめ返す。
 荒地の扉が勢い良く開いてマイケルが嬉しそうに駆け込んできた。
「ただいま! カルシファー、約束どおりチョコレートパイを買ってきたよ。これは<がやがや町>一番のお店で売っていてね……、あ、おはようございますハウルさん」
 マイケルが大きな紙袋を抱えて明るく笑った。
「……おはよう、マイケル」
 ハウルは静かに答えると、すっとマイケルの脇を横切って扉に向った。
「ハウルさん、お出かけですか? 今日は帰ってらっしゃいます?」
 マイケルは出て行こうとするハウルの後ろ姿に声をかける。だが、ハウルは振り返ることなく緑色の扉の向こうへさっさと出て行ってしまった。
「どうしたんです?」
 ハウルが行き先を告げないのはいつものことだが、その態度は「らしく」なかった。マイケルもそれを感じたんだろう、不安そうにカルシファーに視線を送った。
「マイケル、ちょっとそこの本読んでくれないか?」
 カルシファーはハウルが置いていった本に視線を送る。置いてきぼりをくらったその本が何故か気になった。ハウルはそれを見つめながらずっと機嫌が悪かったのだ。
「これ? えーっと、なになに……」
 マイケルは裏返しにしてあった本を持つと、その開かれたページを声に出して読んだ。

 さればこそ、天なる炎をいま
 地の子らは危うさもなく飲むのだ
 だが、我らにふさわしきは、神の嵐のもとに、むき出しの頭(こうべ)をもって立つこと、
 父なる光、それそのものをおのが手もてつかみ、
 歌のうちにくるみつつ、民に天上の賜物(たまもの)を差し出すことだ。
 なぜなら、子供に似て我らの心が清くさえあれば、我らの手が無垢でさえあれば、
 父なる神の光は心を灼きこがすことはなく、
 深き震撼のうちに、かのいや強きものの苦悩を共に悩みつつ、
 近づく神の高きより襲いくだる嵐の中に、
 心はしかし、確乎として立ち続けるのだから

 朗々と謳いあげるマイケルの声に、カルシファーは黙って聞き入った。
「なんですか、これ?」
 マイケルは意味が分からずきょとんとしている。
「単なる詩だよ」
 カルシファーはそう言うと、ありがとうも言わずにぷいっと炉床の奥に引っ込んだ。
 ……恥ずかしくて顔が上げられなかった。
 一体、いつから? いつからハウルはあの詩を知っていたんだろう?
 嫌味ったらしく「天の炎を飲むなかれ」なんて余計なお世話だ。実際飲んだことも無い人間にそんなこと言われるなんて侮辱もいいとこ! 後悔なんてとっくにしている。
 けれどハウルは黙っていてくれたんだ。
 あいつはあいつで、おいらを悪魔にしちゃったことにずっと傷ついてたんだろう。
 その空っぽの心で一生懸命おいらを思っていてくれていたんだ。
「カルシファー?」
 マイケルが声をかける。だが、カルシファーは返事が出来なかった。なんて無神経な自分! 人から心をぶん取っておいてそんなことにも気がつかなかった。ああ、いっそのことこのまま消えてしまいたい。大声で叫んで、全てを無しにしてしまいたい!
 カルシファーは生まれて初めて人間の「泣きたい」という気持ちがわかった。
 そのとき、またマイケルの不思議そうな声が聞こえた。

 そのように、彼らは恵まれた空のもとに立つ、
 かれら、いかなる巨匠をもひとりでは育みえぬ彼らを、
 不可思議に偏在し、軽やかにおしい抱きつつ
 養うものは、力ある自然、神々しき美しい自然だ。
 それゆえ、季節のおりふし、天上に、草木に、
 また、地の民の間に自然が眠っているかに思えるとき、
 詩人らの顔もまた悲しみに曇り、
 詩人らは孤独に見えはするが、つねに予感している。
 自然そのものもまた予感のうちに安らっているのだから。

「ねえ、一体これ何なんです? もしかして、新しい課題ですか?」
 マイケルは困ったとばかりに頭をぽりぽりと掻いた。どうやらこれがハウルの出した宿題だと思ったらしい。
 だがカルシファーは聞いてなかった。
 
 よかん、ヨカン、予感!
 
 その言葉を反芻してみると、見る見る炎が元気に輝きだす。
 そうだ、何を諦めてるんだ!?
 今からだって遅くは無いはず。遅いだなんて誰が決めた?
 消えそうな炎だって薪一本、いや、なんなら小さな吐息ひとつで大きくすることが出来るじゃないか!
 なんとかしなけりゃ。
 このままじゃ駄目だ。
 後悔なんてしたくは無いけれど、悪魔にそんなものは不要とわかってはいるけれど。
 けれどもこのままじゃ自分も、ハウルだって絶対駄目だ。
『キミが死ぬのは可哀相だな』
 ハウルはあの時そう言った。まだ心臓が彼の胸で鼓動を打っていたときだ。
 その言葉が嘘じゃないことは、今彼の心臓を持っているカルシファーにはよくわかっていた。
 頭が良いくせにバカで自惚れが強くて。星の子を悪魔にするような分別のない人間だけれども。
 けれど――。
「カルシファー、ねえ、大丈夫?」
 マイケルが大人しくなったカルシファーを心配して恐る恐る暖炉に近づいて声をかけた。
 次の瞬間、カルシファーは勢い良く炉床から飛び出すとふっきれたように大きく火柱を上げた。
「もちろん全然平気だね! それよりさっさとチョコレートパイをくれ!」
「はいはい」
 マイケルは少し驚きながらも、袋から買ってきたばかりの包みをほどく。
 カルシファーはマイケルが投げてよこしたチョコレートパイを炎の両手で元気良く抱きとめた。

 そうさ、見つけてみせるとも!
 口いっぱいに甘いパイを頬張ると、チョコの糖分があっという間に溶けてパチパチと火花を散らす。
 絶対に見つけてみせる。
 あいつもおいらも死なずにこの呪縛を解く方法。
 今はわからないけれど、きっといつか必ず見つけてやるんだ。
 ハウルはおいらを助けてくれた。
 だからおいらもあいつを助けてみせる。

 親切には親切で返さなきゃ、それこそ宇宙の法則に反するってもんさ!

 遥か先まで延びた煙突から、ポーンポーンという軽快な花火の音がこだました。
 その音に勇気付けられて、カルシファーは一回、勢い良く火柱を上げて煙突まで大きく伸びをする。
 煙突から入った春の風がふわりと炎にまとわりついた。
 それは、あの懐かしい湿原の匂いまでをも運んできたようで。

 
 ハウルと出逢ったあの夜と同じ、いや、それ以上の出逢いをも感じさせる素晴らしい風だった。

 

 
 end.

 


[あとがき]
 原作版です。原作の日本語訳ではマルクルはマイケルとなっていて、年齢も十五歳前後なのでそれに準じてます。

「あたかも祭りの日の朝に」
 ドイツの詩人、ヨハン・クリスティアン・フリードリッヒ・ヘルダーリン(1770~1843)の代表作です。
 お祭りの日の、喜びと神聖さを謳った詩なんだとか。
 原作のハウルは今風に言うと異世界転移者なので、どこか異邦人としての居心地の悪さを感じている人なのかな……とか思って書きました(が、だいぶ前に書いたので正直あまり覚えてない笑)
 

 

 
 
 

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