――まったく、何で俺様がこんなことしなくちゃらならないんだ……。
千秋真一は、安いパイプ椅子に座りながらイライラと小刻みに貧乏ゆすりを繰り返した。
普段なら決してそんなみっともないことはしない。小さい頃から躾に厳しい乳母にさんざん言われてきていたし、また、自分でもそういった余裕の無いことを表に出すことを好まなかったからだ。だが、今はそれを止めることが出来ない。それほど千秋はイラついていた。
とにかく、寒い。
常に思っていたが、学校という場所の暖房観念の無さにはほとほと呆れ果てる。目の前に申し訳程度にあるヒーターでは、この吹きっさらしにも近い廊下の寒さを抑えることはできない。何故そんなことにも気がつかないのだろう。
カチカチと鳴る歯の根を必死で抑えながら、手を揉み合わせた。まったく、こっちは音大生なのだ、指がかじかむのがどれだけ演奏のロスかはわかるだろうに。ましてや、今から弾くやつらは皆、人生をかけて挑んでいるのだから。たとえ自分が演奏しなくても、千秋はそういった学校側の不備に怒りを覚えた。
目の前には三つのパイプ椅子と小さな電気ヒーター。足元用のそのヒーターでは、当然ここにいる全ての人間が温まるはずも無い。千秋は立場上遠慮しているので、そのヒーターからもっとも離れた場所に座っていた。
パイプ椅子には、今まさに演奏を控えたふたりの女子が座っている。ふたりとも座った膝に手を乗せている。楽譜を暗譜して精神を統一しているのだろう。何しろ今日は桃ヶ丘音楽大学の入試なのだ。
千秋は、何故かその試験官のアルバイトに駆り出されていた。
筆記会場から実技会場まで、受験生を誘導して試験官に引き渡すだけの仕事。こういった仕事は初めてだった。そもそもアルバイト自体が初めてなのだ。必要も、興味も無かったのに、何故か今自分はここでこうやって寒さに震えながら、時給708円の東京都最低賃金の仕事に甘んじている。
それもこれも全部木下のせいだ。
千秋はかじかんだ手のひらをこすり合わせながら、ある男の姿を呪いと共に思い出していた。
それは二週間前のこと。
一学年上のバイオリン科の男が、千秋に入試バイトを代わってくれと泣きついてきたのだ。師事していたバイオリンの教師が同じ、いわゆる同門の男で、よく発表会などで一緒になっていた。だが、知り合いといってもその程度、大学に入学してからはその先生に習うこともやめてしまったので全く関係無いといっても良かった。
何故そんな奴から頼まれごとをしなきゃならないんだか、と断ろうとしたが、その男がやけに切羽詰っていて涙ながらに訴えたのだ。
『なあ頼む!俺この日大切な試験なんだ!お前なら試験くらいさっさとパスしてんだろ!? 安全パイなのってお前くらいしかいないんだよ、一生のお願い、この通り!!』
頼まれたのは、後期試験から大分離れた二月のとある日。追試験なのだろうと千秋は勝手に理解した。おそらく確実なのだろう、男は千秋に向かって一生懸命頭を下げて言った。千秋ならば試験を落とすということは無いから平気だろうと言われたのかと思った。もちろん、今まで試験と名の付くもので負けたことはないし、今回だって優以外の評価は無いだろう。その自信が、結果を出す前から引き受けた理由だ。まあ、土下座せんばかりに年下の人間に頼み込む男が憐れに思えたのも事実だ。
馬鹿って試験のたびに、こんな苦労してんのな。
甚だ失礼極まりない感想をその男に持ちつつ、千秋はしぶしぶと引き受けた。
だが、それが甘かった。
甘かったのだ!
どん、と拳を握り締めて膝に打ち付ける。
ああ、思い出しても腹が立つ!
今まで追試など受けたことが無かったから、日付までいちいち頭にいれて無かった。何故気がつかなかったのだろう、良く考えればわかった事なのに。
入試の日に在校生の試験はない。
あるわけが無いのだ。
先ほどバイトの集合場所に集まってから初めて気がついた。同じくバイトで来た顔見知りの女が驚いた顔で千秋を見て言ったのだ。
「へぇ、千秋君がこんなバイトするなんて意外だわ」
「ああ、ちょっと頼まれて」
あまり親しくない女性と話すのは得意じゃない。そっけなくそれだけ答える。だが、女は得心したとばかりに「ああ、そっかそっか」と笑って言った。
「木下でしょ、あいつ急に決まったもんね。今頃はスイスで頑張ってるんじゃない?」
――は?
意味がわからずにきょとんとした顔をする。すると、女も同じくきょとんとした顔をした。
「千秋君、木下の代わりで来たんでしょ?あいつ今頃スイスのバーゼル音楽院で留学試験受けてるわよ。聞いてない?」
「な……」
なんじゃ、そら⁉
初耳だった。
留学? あの日干し昆布のような顔の男がスイスだと⁉
だが、女は当然といった面持ちで千秋に説明した。
曰く、木下はバイオリン留学をずっと望んでいたが、今まで桃ケ丘の留学生の推薦枠には入ることが出来なかったらしい(当然だ。)、だが、今年決まったバイオリン留学生が、家の事情だかなんだかで辞退せざるを得なくなり、急遽出た欠員埋めの為に木下が指名されたらしいのだ。
「なあんだ、木下のやつ千秋君と同門で、『あいつは先輩の言うことには従順なんだ』とか言ってたのに。騙されたんだ、千秋君」
同情するような、でも少し小馬鹿にしたような女の口調に千秋はそっと拳を振るわせた。
あの野郎、許さねぇ……。
騙されてバイトに駆り出されたことはいい、こっちもろくに奴の話を聞いてなかったのだからそれはこの際不問にふそう。だが、留学となると話は別だった。
木下のやつ、バイオリンで俺に勝ったことも無いくせに……!
同門時代、色々なコンクールなどではいつも千秋が優位だった。年上とはいえ、奴に負けたことは一度も無い、それなのにあいつは意気揚々と留学試験で俺はあいつの尻拭いか!
千秋は、女のいる前でも不機嫌を隠そうともしなかった。
だが、約束は約束だ。
もう来てしまったし、いくらなんでも今からドタキャンをするのはマズいだろう。屈辱以外のなにものでもない仕事だが、一度引き受けたからにはやらなくては。千秋はしぶしぶと誘導員の腕章をつけた。
仕事はいたって簡単だった。
午前中に行われた筆記試験会場から、午後の実技試験会場まで受験生を案内する。誘導員はふたり一組で、一度に三名の人間を会場まで連れて行く。そして、三名がひとりずつ会場に入るまでを見届ける。試験はすべて課題曲を暗譜して行うため、会場に入る際には持ち物を全て預かり、それを保管する。二人目の試験が始まったら携帯で筆記会場にいるもうひとりの誘導員に伝える。そして今度はそいつがまた三名を連れてくる。それを終わるまで繰り返すのだ。
楽といえば楽なバイトだが、それにしてもこの寒さは何とかなら無いだろうか。
千秋はまた手を揉み合わせて暖を取る。
部屋の中からは微かにピアノの調べが聞こえていた。
今年の課題曲はJ.S.バッハとショパンの中の任意の曲二曲らしい。自分は推薦入学だったので、筆記と面接だけだった。実際に受験で曲を聴くのは初めてだ。
そのとき、カチャリと音がして部屋の中から人が出てきた。ショートカットでボーイッシュな感じの子だ。試験が終わって、とりあえずホッとした顔で、閉じた扉の前でほーっとため息をついていた。その子に預かっていた荷物を渡す。
「ありがとう」
女の子はすっきりした顔で荷物を受け取ると、振り返ることなく去っていった。と、教室の別の扉が開いて、女性教師がひとり出てきて次の学生を呼んだ。座っていたうちのひとり、ゆるいウェーブをかけた女の子が、緊張した面持ちで返事を返すと千秋に荷物を預けて部屋に入っていく。
千秋は、ふーっとため息をつきながら会場と反対側の窓に寄って外を眺める。外はどんよりとした暗雲が立ち込めていて、雪でも降りそうな天気だ。廊下に灯った蛍光灯が、窓ガラスに廊下の様子をぼんやりと映し出して、さっきからずっと俯いてる女の姿を映した。
こういう場所に最後ってのも緊張するんだろうな、と少し気の毒に思った。
まあでも、発表会やコンクールなどではこんなこと日常茶飯事だ。そうも言ってられないか、と思い直す。これから延々と続く評価と容赦ない結果の日々。そしてここにこうやって緊張して座っている田舎くさい女でさえ、チャンスを掴んで颯爽と留学したりするんだろう。
――俺は、ずっと出遅れたままだ。
羨望と嫉妬の混ざった目でその女を窓越しにじろじろと見る。と、その視線が、女の膝の辺りでヒタリと止まった。
「あんた何してんだ?」
千秋は振り返ると、その女の手元を見て思わず声をかけた。本来なら誘導員は受験生と口をきいてはいけない規則になっている。だが、そんな決まりは吹っ飛んでいた。
てっきり暗譜をしていると思っていたその指には、手のひらよりも少し大きめの正方形の紙が覗いている。その紙が、左右に折れたり曲がったりしてくちゃくちゃに握られていた。
女は熱心に折り紙を折っていたのだ。
千秋の問掛けに、その女が顔を上げる。まだあどけない表情の少女だった。
茶色く明るい髪を顎くらいに切り揃えていて、目をぱちくりさせている。決して美女ではないが、可愛い系の少女だった。少女は、手元のものを指でつまんで千秋に見せた。
「これ? 鶴ば……いえ、鶴デスよ」
見るとそれは小さく折り込まれた折り紙だった。
千秋の頭上に「?」のマークがふたつほど浮かぶ。ひとつは、何故今ここで折り紙を折っているのかということ。そしてもうひとつは、どこをどうすればその奇妙な物体を鶴と呼べるのかということだった。
「……それは鶴じゃないだろう」
思わず率直な感想を告げる。
「そうデスか?鶴に見えませんか?」
少女はきょとんとして自分の持っているその物体を高く掲げてよく見せようとする。だが、見れば見るほど鶴には見えない。だからといって何に見えるのかというものでもないのだが……。
「鶴ってのは……こう、もっとシャープで……大体、シンメトリーだろうが」
「そうでしたっけ?最初がいけなかったのかなぁ」
少女は首をかしげながら、袋からもう一枚紙を取り出すと、こうでしょ、で、こうでしょ? とブツブツ言いながらまた折り始めた。千秋はそれを訝しげにずっと見つめる。だが、その額の眉間が段々イライラと激しく寄ってきた。
折り方がめちゃくちゃなのだ。
「……違うって。こう……だから、こう、折るんだろう?」
思わず身振り手振りで指導してしまう。だが、少女は「え? どう? どう?」と全然理解しなった。
「貸せっ‼」
飲み込みの悪い少女についにキレて、その折り紙を奪い取った。
「だからっ! 最初はこう三角形に全部折って更にもう一回折ってから一度開いて……」
器用に紙を鶴の形に整えていく。昔、日本人の乳母に教えてもらっただけだが、意外と覚えているものだ。何故こんなことがわからないんだろう。日本人の常識じゃないのだろうか?
だが、少女には常識ではなかったらしい。千秋の手元を「ほほー」とか「ふおー」とかいちいち奇声を発しながら目をぱちくりとさせていた。
「これ精神統一かなんか?」
千秋はサクサクと折り進めながら、少女に聞いた。本番前に集中力を高めるために何かに没頭するのはよくある話だ。それならば納得できる。だが、少女は「イイエ?」ときょとんとした顔をした。
「明日短大の保育科の試験なんデスよ」
その答えに千秋の指がピタリと止まった。
「ほいく?」
「保育デス」
少女は千秋の言葉をうんうん、と真面目に復唱して言った。
千秋の思考回路が三秒間止まった。
えーっと、まて待て……。
「……保育科ってのは折り紙の試験があるのか」
音大の入試に来て保育の心配かよっ!と思わずツッコミを入れそうになる自分を何とか抑えてなるべく穏やかに聞いてみる。受験は人それぞれだ。理工学部と人文学部の両方を受験する奴らだっているんだし、音大と保育科を受験する奴だってそりゃいるだろう。例え、他の受験生が死に物狂いで先生について、しのぎを削ってこの学校を受験していたとしても。
音大にしか興味が無かった千秋には理解できないが、それはそれでありなのかも、と思い直す。だが、千秋のその努力を打ち消すように少女はあっけらかんと言い放った。
「知らないデスよ? でもあったら困るし、明日に備えたいじゃないデスか」
「まず今日の試験に備えろーっっ!」
千秋の絶叫が、しんと静まり返った廊下にこだました。






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