2023-09-30

エリカ・ムスターマンの死 00

 東の空から柔らかな光が差し込んでいた。
 夜の女王がゆっくりと裳裾を翻して退場し、世界が安堵の息をつく。
 庭の奥に目を向ければ、整然と並んだ低木の間を小道が続いている。その小道には、昨夜落ちたばかりの花びらが散り、朝露に濡れて淡く輝いていた。
 すべてが瑞々しく、美しい。
 遠くで響く鳥の声が、まるでこの美しさを讃えているようだ。
 男はその歌声に導かれるように小道を進んでいた。
 この国には珍しい、浅黒い肌をもった男だ。
 手には剪定ばさみとバケツ。円筒のバケツには霧吹きや熊手などの園芸用品が整然と収められている。男の格好も、動きやすい作業着に麦わら帽子をきちんと被り、日よけのタオルも肩にかかっている。視線の先に留めた花々を見る目つきは穏やかで、彼が草木を心から愛していることが滲み出ている。
 早朝から仕事を開始している移民の庭師。
 一見すると、そんな印象を受けた。
 しかし、深く帽子をかぶっていても隠しきれない無駄のない造形が、どこか異質な気配を漂わせていた。あまりに整いすぎた動作と、その涼しげな目元――それは訓練された者の証だった。
 やがて、陽が少しずつ昇るにつれて庭の色彩が濃くなっていく。
 薔薇の花弁が太陽の温もりに包まれ、蕾はゆっくりと開き始める。まるで目を覚ますように、一枚ずつ殻をほどいていく。
 風が吹くたび、かすかに葉擦れの音が響き、甘美な香りがふわりと広がる。朝の光を浴びた薔薇たちは、まるで夜の闇から救い上げられた宝石のように輝いていた。
「ここらの花はそろそろ一斉に咲きそうですね。楽しみです」
 誰にともなく囁く。まるで花と会話するような口調だった。
 その背後には、控えめな距離を保って佇む老人がいる。年老いたその男の瞳は鋭く、何かを見張るかのように揺らがない。その立ち姿には隙がなく、まるで主の影のように、男の動きに合わせて静かに歩みを進める。
 庭師の男は花々を慈しむように撫で、場所を移す。そしてふと足を止めた。
 視線の先には崖があった。
 その崖は、まるで唐突に庭師の前に現れた。
 庭師が丹精込めて創る箱庭。その中でも、彼がもっとも気に入っている区画から、ほんの少しの距離だ。
 ――よりよき世界。
 その世界にも境界はある。越えてはいけない一線。
 この崖がそれだった。
 先代の、いや、そのずっと前は、この崖の先も庭師たちのものだった。
 あの崖の向こうをも含めたすべてが、かつて存在した帝国から正式に賜り所有していた土地だ。
 しかし先の二回の大戦を経て、かつて隆盛を誇った帝国は砂塵に帰した。
「国」という枠組みが変わり、いつの間にか庭師たちが管理していた土地そのものが意味を成さない場所になり、そして搾取されていった。
 男は黙って崖が一面見渡せる境界まで寄り、せり出すように眼前に迫る崖を振り仰いだ。
 遥か向こうの崖の上に、柵のようなものが見える。さらに目を凝らせば、その向こうに屋根の一部が見えた。
 まるで、崖の上からこの庭を監視しているようだ。
 庭師の男は、眉をわずかにひそめた。
「――無粋な」
 かすかな声だったが、確かな嫌悪が滲んでいた。
 この美しい庭に相応しくないもの。
 美しい花には不要なものがある。それは、醜い枯れ枝、伸びすぎた茎。
 あるいは……咲くべきでないもの。
 剪定しなくては。
 手に持ったはさみが微かに鳴った。
「今夜」
 それだけを告げると、庭師の男は再び花々へと向き直る。まるで、何事もなかったかのように。
 後ろの老人は無言だった。何も言わないまま、ただ静かにその言葉を受け入れる。

 再び、はさみの音が響いた。
 穏やかで、優美で、そして冷たい音だった。

 

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