01
東京の冬なんて、北海道出身者にはなんてことない。
上京するまでの野明は、そう高を括っていた。だが、実際に生活してみるとそんなことはなく、寒いものはやっぱり寒い。布団が恋しい。離れたくない。
ピピピッと鳴る電子音を腕を伸ばして止める。その時計のボタンがすでに冷たくてうんざりした。
「うむ……」「うん?」「うう〜」と、意味のないうめき声を出しながら、睡魔と、寒気と、サボりたい衝動と闘う。
「いや! だめだだめだ、仕事っ!」
しばらく闘ったあと、やっと正義が勝った。自分を叱咤して布団から跳ね起きる。デジタル時計を見ると六時を三分過ぎたところだ。
三分遅れで起きれたなら早い方じゃない?
意味もなく自画自賛し、その勢いのまま床に降りてから流れるようにクローゼットへ。途中にある小型の電気ヒーターをつけるのも忘れない。すべてが一連の動作で出来た。
すごい、やりました! 泉選手、立派です!
小さくガッツポーズを決めて、気分よくクローゼットの扉を開ける。
野明はひとりっ子だ。実家は客商売で、家ではひとりで過ごすことが多かった。そのため、自然とひとり遊びが増えた。これもそのひとつで、彼女は自分で「自画自賛遊び」と呼んでいる。誰にも言ったことはない。
たぶん馬鹿にされるから話したことはないが、遊馬もこういう遊びをしたらいいのにと思う。お金もかからないし、精神的にもいいのに。寒い。
ただ、今の自分が少しはしゃいでいる自覚もあった。チェストの上にある卓上の室温計を見ると、部屋の室温は七度を指している。寒い。そして、その横の日付は「1217」となっていた。
今日は、野明の誕生日だ。
昨日と同じ地続きの一日にすぎないが、やはり特別感はある。今日一日が野明のためにあるような。そんな高揚感を与えてくれる日だ。やはり嬉しい。
あいにく今日は仕事だが、明日は非番だ。帰りにコンビニでケーキとお酒でも買ってお祝いしようと思っている。寒い。
「……!?」
一向に暖かくならない部屋にやっと気がついて、電気ヒーターを見る。すると、赤々と灯るはずの電熱線がまだ暗いままだった。つけてなかったかな? 首をかしげながら再度スイッチを押す。だが、いつものようなカチッという踏み込んだ感触はなく、カスカスといった頼りない音しか鳴らなかった。
「え、うそでしょ?」
だが、叩いてもゆすっても、コンセントを抜いてまた差し込んでみても、ヒーターはうんともすんとも言わなかった。
「そんなぁ……」
壊れてしまった。昨夜まであんなに野明を温めてくれたヒーターは、物言わぬ筐体になっていた。
野明の部屋のエアコンにも暖房機能はあるが、それは極力使わずこの電気ヒーターひとつで乗り切ってきた。東京に出てきた初めての冬に、あまりの寒さに慌てて買ったのだ。東京の寒さなんてどうとでもなると思っていたのだが、甘かったことを悟った。北海道とまったく違い、建物自体に断熱効果がほとんどない。……は、言い過ぎかもしれないが、とにかく何をしても寒いのだ。それをこの小さなヒーターが守ってくれていたのに。
だが、壊れてしまったものは仕方ない。明日、安くてもいいから新しいものを買わなくては。とてもじゃないが、この寒さのまま給料日までもたない。だが、独身の野明にとって急な出費はいたい。
野明はしおしおと沈んだ気持ちのまま、顔を洗うために部屋を出た。
「うー、さむ」
身支度を整えたのち、ポケットに手を突っ込んだまま寮の裏手の駐車場まで向かう。
晴天だったが、澄み渡った空気が余計に寒く感じる。いや、実際寒いのか。放射冷却という言葉を遊馬から聞いた記憶がある。原理は知らない。ただ晴れた冬の朝は寒いとだけ覚えている。
「うわあっ!」
とりあえず路面凍結とバイクの運転には注意しないとな、とぼんやり考えていた瞬間、ツルッと滑ってお尻を強かに打ってしまう。
「いった……」
マンホールの蓋に霜が降りていたらしい。バイクを乗る前にも気をつけるべきだった。
誰もいなくてよかった。恥ずかしすぎる。
「った!」
そばにあった手すりにつかまりながら立ち上がると、今度は手すりを掴んだ手の平に痛みが走った。見ると土がついている手の平にうっすらとすり傷が出来ていた。血も滲んでいる。
思わず顔をしかめた。大怪我とまではいかないが、それなり痛い。もしかしたら少し捻ったかもしれない。
だが、今から洗いに行く時間もない。二課に着いたら手当てをすればいい。
長袖で擦り傷がついた辺りをかばいながら、バイクに鍵をさそうとする。そのときになって鍵を持ってないことに気がついた。
「え、うそ」
慌ててポケットやリュックを探るが、どこにも無かった。
確か、ポケットに入れた手で握っていたはずだ。転んだ拍子に落としたのか。
「ふんとに……」
自分自身に文句を言いながら歩いてきた道をまた戻る。幸い、鍵は転んだ辺りの花壇の隅に落ちていた。はあ、とまた大きくため息をついて拾い、すぐ駐車場に戻る。急がないと。ぐずぐずしてたらまたギリギリになってしまう。
今日はケーキ。今日はケーキ。
念仏のようにぶつぶつ上向く言葉を唱えて、理不尽を押し込める。ここで癇癪を起こしても始まらない。バイクの風に当たりながら、むしゃくしゃする気持ちを吹き飛ばそう。切り替えていこう。そう唱えながらキーを回してスタータースイッチを押す。だが、愛車からの返事は無かった。
「え……ちょっと……」
慌ててキックスターターで試してみても、こちらもうんともすんとも言わない。
「やめてよぉ」
バイクは乗る専門だ。整備の方法なんてわからない。ガソリンはちゃんと入っていた。昨日入れて帰った。
ならなに? どうして? よりにもよってなんで今日!?
焦るばかりで解決方法など何ひとつ思い浮かばない。しばらくバイクの前でウロウロするが、それで事態が好転するわけもない。
野明は仕方なくバイクでの通勤を諦めた。
今はとにかく出勤しなくては。とりあえず、これはあとで考えるとして、二課に行く方法は――。
「バス!」
野明は腕時計を確認すると、最寄り駅めがけて駆け出した。
02
特車二課の男子更衣室は、それなりに大きい。「最果ての埋め立て地」の異名はあるが、それでも署員は六十人は下らない。そのうち整備班員を除いた約三十人弱でこの更衣室を使っている。必然的にスペースは必要になるし、暖房効果は薄くなる。
篠原遊馬は着替え終わると、同僚の進士と他愛ない話をしながら更衣室の扉を開けた。
「本当、この寒さは――わっ!」
開けた途端、何かに思い切りぶつかる。小動物かと一瞬勘違いしたそれは野明だった。
野明は、ぜーはーぜーはーと肩で息をしている。どうやら全速力で走ってきたようだ。
「あっぶねえな。何やってんだおまえ」
「…………た」
野明は、なおも荒い呼吸を繰り返しながら、もごもごと口から音を出す。
「ああ? ああ……まあ、間に合っちゃいるけどさ」
「……ば……」
「バス? なんでバス? バイクは?」
「――」
「いや、何言ってるかわからん。とにかく着替えろよ。本当に遅刻になるぞ」
「…………」
野明は、最後にまたもごもごと何か口から音を出すと、そのままふらふらと女子更衣室に入っていった。それを見送ってから、遊馬は「落ち着きねえなあ」とため息をつく。
「泉さん、なんですって?」
遊馬の隣で成り行きを眺めていた進士が尋ねる。
「なんかケガしてるっぽい」
「え、大丈夫なんですか?」
「大丈夫でしょ。転んだだけだって言ってたじゃない」
――そうなのか。
遊馬のすぐ隣にいたが、進士には野明が肩で息を切らしていただけにしか見えなかった。
「粗忽者だよねあいつ。後半なに言ってるのかさっぱり――あ、ひろみちゃん、救急箱持ってない?」
遊馬はうひゃひゃと笑いながら、通りかかった山崎ひろみに声をかけた。
いや、後半どころか……なぜ、遊馬はあれだけで野明と意思疎通ができるのか。進士には不思議でならなかったが、それ以上は言わず、「そうですね」とだけ返した。妙に嬉しそうな遊馬のことも、深く追求しないほうがいいだろう。
それは余計なことだ。たぶん、馬に蹴られる系の――。
進士は、多美子と結婚して、いの一番に覚えた術をここで遺憾なく発揮した。
「それでバスで来たんですか」
「そー。もう朝から散々だよ」
「迂闊なやつ」
「うかつとか関係ないから!」
野明は、隣のデスクでコーヒーを飲みながら余計な茶々を入れる遊馬をキッと睨みつける。
「さ、これでいいですよ。はやく良くなるといいですね」
「ありがとう、ひろみちゃん。やっぱりひろみちゃんだなあ」
「痛みはないですか?」
「うん、平気」
いささか大げさに巻かれたガーゼと包帯に若干引きながら、野明はひろみに礼を言った。正直に言えば、大きめの絆創膏を貼ってもらえるだけで良かったのだが、にこにこと救急箱を整理しているひろみにそれは言えない。あとでこっそり包帯をゆるめようと決めた。
「大げさな」
野明の手を見た遊馬が、馬鹿にしたようにまた茶化してくる。
「いいでしょ! せっかくひろみちゃんが手当てしてくれたのに!」
「そんなぐるぐる巻きにして、イングラムのレバー握れるのかよ」
「できるよ! ――たぶん」
「泉さん、きついですか? もう少しゆるめますか?」
「いい、いい! 大丈夫、ありがとう。今日は待機だけだしね。なにもなければこのまま――」
「泉ちゃんいる?」
話していると、外のハンガーからドカドカという音とともにシゲが顔を覗かせた。
「あ、いた。あのさぁ、これダメよ。ゆったじゃない、〈様式5〉じゃなくて〈6〉」
シゲは野明が提出した書類をひらひらと頭の上で掲げた。イングラムの備品申請の書類だ。ストックが少なくなった備品を補充しようと思い、先日申請した。その申請書は先日〈様式5〉から〈様式6〉にフォーマットが変更になった。第一小隊の新機種の備品と項目を揃えたためだ。
「え、そんなこと言ってた?」
「言ったよ。てか、なんでまだ〈5〉がそっちにあんのよ」
「何だなんだ、泉。おまえ、書類もまともに書けんのかぁ?」
太田が馬鹿にしたように声を上げる。
「太田ちゃんもだよ」
「ぐっ……!」
シゲが、野明と太田の両方に書類を戻した。なかなかの量だ。
「あら、でもまだ移行期間でしょ?」
そばで聞いていた熊耳が助け船を出した。書類のフォーマットなどが変更される時には、たいてい「どちらを使ってもいい期間」というのが設けられる。熊耳はそれを指摘した。彼女もそう判断し、上長として判を押している。だがシゲはやれやれといった様子で肩をすくめた。
「今月の十五日までだったらね。でも今日は十七日だからもうダメ。まあ、後藤さんとこで三日くらい止まってたみたいだけど」
シゲの言葉に、遊馬がピクリと反応する。
「えーっ! じゃあ、あたしのせいじゃないじゃない」
「でもダメなものはダメなのよ。悪いけど、新しいので書き直してちょうだいな。十四時の署内便で本庁に送りたいからさ」
「――仕方ないわね。会議室使っていいから、ふたりとも書き直してちょうだい」
「はい……」
野明はげんなりしながら返事をした。熊耳のいうとおり仕方がない。申請して新しいものを手に入れないことには、イングラムはいつまでたっても直らないのだから。とはいえ、ケガをした手でこの量を全部書き直すのか……。
「泉さん、ぼくが代わりに書きましょうか?」
しょぼくれた野明を見かねたのか、ひろみがそう申し出てくれた。
「え?」
「怪我した手じゃ大変でしょう」
「いいよ、いいよ! 自分でやるよ」
「でも……」
ひろみの申し出はありがたいが、これは自分の仕事だ。あまり過剰な気遣いをされると困ってしまう。野明はこういった場面で、誰かにちゃっかりと押しつけてしまうことができないし、することを良しとも思っていない。
すると、横で聞いていた遊馬が眉をひそめる。
「なに言ってんだよ、自分の機体だろ。そのくらい自分でやれよ」
「だから、やるってば」
野明はいつもより強い口調で言い返した。この男はいちいち癇に障る言い方しか出来ないのか。
普段は流す程度の言葉が、今日はなぜかすごく苛立った。
「なんだ、山崎やってくれるのか?」
「太田さんは駄目ですよ」
「なんでだっ!?」
「いや。てか、これ自署じゃないとダメだから」
シゲが呆れたように太田を諭す。イングラムの備品の申請書は、操縦者登録をしている本人が申請しないと通らない。四角四面の役所らしいなんとも意味不明なルールだ。
「じゃあ、泉さん、せめて包帯ゆるめましょうか」
「そだね。お願い」
野明は苦笑いしながら頼んだ。そして、誰にも気づかれないように細くため息をついた。
「……よし!」
ため息をすべて出しきったあと、なんとか気合を入れ直す。野明は握りつぶす勢いで書類を掴むと、会議室に向かった。
その様子を、そっと遊馬が横目で見ていたことには気がつかなかった。
「――おれも電算室行ってきます」
遊馬はそう言って立ち上がると、隊員室の扉を開けてハンガーへ出た。
目の前には、野明の愛機であるイングラムが佇んでいる。遊馬はそれを見上げながら困ったように頭をかいた。
「今日、十七日か……」
ぼそりとつぶやいたその言葉を、イングラムだけが聞いていた。
03
「あれ、あたしのお昼は?」
書類をすべて書き直すのにはそれなりに時間がかかった。やっと書き終えてお昼すぎに隊室に帰ってきてみると、皆は出前の料理を食べ終えている。だが、野明の席にはなにもなかった。
「知らねーよ。つか、頼んだのかよ」
遊馬が空になった皿を前にして、呆れたような顔をする。
「今日の出前当番、堀込さんでしたよ。会いました?」
堀込は整備班員だ。出前を取る係りは当番制で、整備班と第一小隊、第二小隊で順番に回している。
「……会ってない。頼んでない」
「じゃあ、忘れられたんじゃね?」
「そんなぁ」
お腹を空かせながら頑張って書い終えたのに。きゅるきゅるとお腹が鳴った。
「太田のはちゃんと来てるじゃないか」
「おれは朝イチで堀込に言っておいたからな!」
太田は、はっはっはと勝ち誇ったように笑った。
出前の注文は、時間になると当番が各部署をまわって聞きにきてくれる。だが、忙しかったり、その場に居合わせられない場合は、十時半までに当番の人間に直接伝えに行くことになっている。太田は会議室に行く前にちゃっかり頼んでいたらしい。野明は完全に忘れていた。
「遊馬、ついでに頼んでくれたっていいじゃないか」
「なんでおれが」
「ひどい、パートナーなのに」
「関係あるかよ。おれだって午前中はずっと電算室いたの」
「会議室は普段使ってないから、堀込さんも気がつかなかったんじゃないかしら。ごめんなさい、私も気が回らなかったわ」
熊耳が申し訳なさそうに声をかけるが、熊耳のせいではもちろんない。それは野明にも分かっている……が、野明の気分はさらにがた落ちた。だが遊馬はお構い無しに「自分で言いに行かない奴が悪い」と、けんもほろろだ。
「そんな畳み掛けるように言わなくたって……」
「うるせーな。とりあえずこれでも食っとけ」
ほらよ、と遊馬は自分の机の中から栄養補助食品を出して放り投げた。チーズ味だ。
「――フルーツかチョコが良かった」
「贅沢ぬかすな!」
遊馬が持っていた書類で野明の頭をはたく。スパン! といういい音がした。
「いった……」
ちぇー。今日くらい優しい言葉かけてくれたっていいのにさ。誕生日なんだし。
野明は、口をへの字に曲げながら、もらったバーをもそもそと齧った。遊馬には誕生日の話をした覚えはないから知らなくて当たり前だ。にも関わらず、そっけない遊馬の態度に不満が増した。
――それにしても、今日は朝から本当にツイてない。ちっとも特別じゃない。というか、いつもより悪い。
なんだか裏切られた気分だ。誰にかはわからないが、そう感じた。
くさくさした心を抱えながら、最後のひと欠片を口の中に放り込むと、チーズの香りが口内に広がった。濃厚な風味のバーは、味気ないかもしれないが、確かに腹にはたまる。少しだけ気持ちが上向いた。
「野明、それシュレッダーにかけるやつか?」
「あ、うん」
遊馬が指さしたのは午前中に書いた書類の写しだ。その他、書き損じも出たので、あとでシュレッダーにかけようと持ってきていた。
「おれもあるから、ついでにやっといてやるよ」
「いいよ。一緒に行く。シュレッダーのゴミ捨てなきゃだし」
今日は各部署のゴミ回収当番の日だ。署内には週数回訪れる清掃員もいる。たが、書類ゴミは機密情報などが漏れる懸念を考慮して、必ず署員が行わなければならないと決まっている。また、その書類はシュレッダーでの細断廃棄が徹底されていた。
だが、シュレッダーというのは意外と時間がかかる。だから普段は隊員室に段ボールを置き、とりあえず皆そこに入れる。ある程度たまったら、そのときの当番がまとめて処分する。
遊馬は電算室から二箱持ってきた。野明が持っているものと合わせると三箱だ。
「結構あるね」
「まだある」
「まだあるの!?」
「あそこ紙たまるんだよな。とりあえずこれだけ一回置くから、先始めててくれ」
「うん」
シュレッダーは二台あり、どちらも一階の備品庫に置いてある。隊員室も電算室も二階にあるから、すべて階段で降ろさなければならない。この建物にエレベーターなどない。
「あれ、模様替えした?」
慎重に階段を降りて備品室の扉を開けると、レイアウトがガラリと変わっていた。
「そう。シゲさんが作業場を拡張したいってさ」
「ふーん。好きだね」
野明は室内に入ると、興味深く周りを見渡した。
備品室は整備班室に近いこともあり、整備班員――主にシゲの作業場になっている。部屋自体は特車二課の中でも広いほうだが、それがかえってまずかったのか、棚やエレクター、それに何に使うかわからない部品や歯車などが無造作に押し込められ、雑然とした様子だった。
清掃員はおろか、綺麗好きなひろみもここにはあまり立ち入らない。うかつに触るとシゲの機嫌が悪くなるからだ。
野明はこの場所をこっそり「腐海の森」と呼んでいる。小さい頃に見た、遠い未来のお姫様が活躍するお話に出てくる森のことだ。その森のなかは、猛毒を撒き散らす植物が蔓延っていた。こちらの森は毒こそ出さないが、金属の鋭い匂いと、オイルの重い匂いが部屋全体を覆っている。
ふと、その匂いに実家のガレージを思い出し、つられて父親の姿も浮かんだ。
普段は思い出すことも少ないのに。なぜか、今は無性に父と母の声が聞きたい。
帰ったら実家に連絡をしようとぼんやりと考えた。
それにしても物が多い。床に無造作に置かれた障害物としか言いようがない物たちに注意しながら、キョロキョロと目的地を探す。
「シュレッダーどこに移動したの?」
「そっち。一番奥」
遊馬が慣れた様子で顎で方向を示した。詳しいのは、遊馬もたまにここで何やらいじくり回しているからだろう。彼らにとってはまさに「秘密基地」といったところか。野明にはこうした機微はさっぱりわからないが、たまに、「男の子」は羨ましいなと思う。
けれど、そのせいでシュレッダーは奥に追いやられたようだ。目的の機械は、部屋の角に所在なさげに置かれていた。かろうじて二台並んでいるあたりに、シゲのなけなしの気遣いを感じた。
野明はよいしょと、段ボールを下ろした。そのすぐ横に遊馬が自分が持っていた箱を積み上げる。
「よし。んじゃ、残り持ってくるわ」
「あと何箱あるの?」
積み上げられると余計に量を感じる。まだあるとしたら、終わるのにどれだけかかるか。
「二……か、さん」
「そんなに!? 前の当番誰なのさ」
絶対サボってる。
「さあな」
「遊馬なんじゃないの?」
「どうかな。じゃ、よろしく。――あ、操作前にネクタイ外すか胸ポケに入れておけよ」
遊馬はそう言うと、しれっと片手を上げて出ていった。自分だと白状しているようなものだ。
「やっぱり遊馬なんじゃないか!」
野明は思いきり顔をしかめた。
手伝ってくれるなんて殊勝なことを言うからおかしいと思った。言ってみれば野明が手伝っているようなものだ。ひとに書類について小言言ってきたくせに。遊馬め。
「んもうっ!」
帰ってきたら絶対文句言ってやるんだからねっ! 野明は、いささか乱暴に紙の束をシュレッダーに差し込んだ。
二課に設置してあるシュレッダーは、業務用のかなり大きなサイズだ。CD-ROMも細断できるらしい。初めて特車二課に来たとき、案内してくれた署員に「刃がかなり鋭利だから気をつけるように」と念を押されたことを思い出す。
正面の壁には「指注意!」と描かれた警告ポスターが貼られている。ただ、安全装置もついているし、そこまで危険なものだという認識は無かった。
文句は言ったが、野明はわりとこの細断作業自体は好きだ。昔、友だちの農家の家でジャガイモの選別を手伝ったときのことを思い出す。
きちんと紙をそろえて、どんどんシュレッダーにかけていく。ガリガリと音を立てながら消えていく様子は見ていて気持ちが良かった。
機械自体は大きいが、さすがにこの紙の量を全部細断できる容量はないだろう。途中どこかでいっぱいになるはずと目算をつけて、野明は目の端でゴミ袋の場所を確認した。それは、この機械の脇に大量に積まれていた。そして、すぐ近くにハサミがあるのが目に入った。
洋裁で使うような、しっかりとした裁ちバサミだ。ハサミが何のために備えてあるのかは野明にはわからなかった。
しばらく細断の音と自分の呼吸の音だけが、広い部屋の中に響く。
何も考えずに、ただ手だけを動かしていると、自分が機械のように思えてくる。イングラムも、野明が搭乗していないときはこんな気持ちなんだろうか。あの広いハンガーのなかで。
なんだか寂しい。自分の大事なものがひとりぼっちなのはいやだった。
これが終わったらイングラムを磨いてやろう。うんと甘やかしてあげよう。そんなことを考えながら、何度目かの紙を揃えた。
そのとき、一枚の紙がひらりと野明の手をすり抜けて機械と壁の間に落ちる。拾おうと背を伸ばしていると、背後で扉が開く音がした。続いて、「うーい、おかわりだぞー」という遊馬ののんきな声も届く。なにがおかわりだ。野明はムッとしながら反射的に振り向こうとした。
その瞬間、がくんと首周りに衝撃が走った。
意味が追いつかないまま、野明は顔の側面をシュレッダーに強く打ち付けた。
「――っ!」
本当に危ない時は声も出ない。それを初めて知った。
打ちつけて、機械に密着した片方の耳から、重く低い音が鼓膜を震わせる。
それが、紙でない異物を巻き込んだのだと――自分のネクタイがシュレッダーに巻き込まれている音だと理解するより前に、ギリギリと首が圧迫された。
首の根元から引きちぎられるような強い締め付けが呼吸を塞いでいく。咄嗟に襟元を引っ張ろうともがくが、布が硬く締まり、自分の力ではどうにもならなかった。
すがるように自由になった手で何かをつかもうとする。その先に、段ボール箱を抱えたまま、凍りついた遊馬の姿が目に入った。
その顔が、みるみるうちにひどく歪み、白く濁っていく――。
「の――!」
遊馬は短く叫ふと、段ボールを放り投げて、野明に駆け寄った。バサバサと大きな音がし、次いで床に紙類が散乱する。
だが、野明はその音にも、遊馬の声にも反応しなかった。
遊馬は一瞬で状況を理解すると、弾かれたようにシュレッダーの横に回り込む。ネクタイがシュレッダーに飲み込まれる速度が思ったよりも速い。焦りが胸を締め付ける中、壁際に延びる電源コードを視界に捉え、夢中で手を伸ばした。
が、機械自体が部屋の角に無理やり押し込まれた位置になっているせいで、電源プラグまで腕が入らない。
指の先がなんとかプラグに触れるが、滑ってうまくつかめない。目の前のシュレッダーが異常な音を立てて耳元で震えている。
まだネクタイを巻き込み続けている音だ。
野明自身が、この音に切り刻まれていく姿が浮かんだ。
途端、心臓が深く跳ね、そこから血が噴き出したような痛みを覚える。
「――っ」
指先に力を込めてもう一度プラグを握り、思い切り引き抜いた。
瞬間、唸るように吠えていたシュレッダーが静止し、張り詰めていた緊張が一気に解けた。
「野明っ!? ――って!!」
遊馬はすぐに野明のそばに駆け寄ろうとするが、自分がぶち撒けた紙類に足を取られてすべった。
「んだよっ!」と舌打ちをしながら、野明を見るが、この音にもまだ野明は反応しなかった。
「おい、野明っ!?」
遊馬の目の前にだらりと投げ出された腕も、ぴくりとも動かない。長袖から伸びる包帯に覆われた手首が、唐突に「あの日」に見た白い顔と重なった。
その白い腕に隠れるように、鎖で繋がれた裁ちばさみがぶら下がっていることに気がつく。
遊馬は意味を悟ると、すぐさまそれを手に取り、野明の巻き込まれたネクタイの根元に刃を入れる。が、手が震えてうまく切れない。
刃がすべるたび、「何もできない」、「また何もできない」と、もうひとりの自分が冷たく嗤った。
その嘲笑を前に、焦燥と同時に怒りに似た感情が湧き上がってくる。
力任せに何度も刃を入れる。入れるたびに、ギリギリと布が裂ける音が響く。
だが、何度刃を入れても、決定的に断ち切ることが出来ない。刃線に飛び出したネクタイの糸が絡みついて邪魔をする。
まるで、どうやっても逃れられない運命のように。
遊馬は、ギリッと奥歯を噛んだ。
――たくさんだ。
もう、たくさんだ。
何も言わずにいなくなる人も。
早々と切り替える周りの奴らも。
いつまでも立ち尽くしたままの弱い人間も。
運命だと嘯いて諦める自分も――!
――させるかっ!!
遊馬は、耳元で嘲笑う自分ごとハサミを投げ捨て、絡みついた糸もろとも絶望を引きちぎった。
「――――はっ、ぁ!」
野明は、急に呼吸が楽になったことで意識を戻した。
気がつくと、無我夢中で酸素を取り込んでいる。だが、自分が何をしていたのか、咄嗟には思い出せない。
咳き込みながら新鮮な空気が大量に肺に流れ込んでいくことで、ようやく頭が冴えてくる。
真っ暗なトンネルが急になくなり、目の前が明るく拓けた。イングラムが起動し、すべての機能が同時に点滅したときのような感覚だった。気がつくと、シュレッダーの機械に身体が半分乗っかっている。
そうだ、シュレッダーをかけていて、それで……。
ハッと全てを思い出し、弾けるように立ち上がろうとする。
「ぅえっ!?」
その瞬間、今度はシュレッダーとは反対の方向にすごい勢いで引き寄せられてそのまま床に崩れ落ちた。
「…………」
――たぶん、それらは一瞬の出来事だった。
なにが起きているのか、この期に及んでもはっきりとは分かっていなかった。
酸素が足りなくて、半ば放心していたのかもしれない。
けれど――ひっきりなしに耳に伝わる心音が心地良い。どくどくと、力強く響きわたっている。
なにが起きているのかわからないまま、それでもこの場所に理由わけもなく安心している。
まるで、懐かしい場所に戻ってきたような……そんな不思議な感覚だった。
それが、自分の心音ではなく、遊馬のものだと理解するのにもう数秒かかった。
気がつくと、床に座ったまま、遊馬の力強い腕に抱きしめられていた。
野明の身体は、遊馬の腕の中に包まれるように収まり、なんの力も込めずにただ身体を預けている。
彼の胸の鼓動が野明の身体に直接伝わり、呼吸が落ち着くにつれて気持ちも静かに凪いでいく。
けれど、その心地良さとは裏腹に、遊馬の身体は震えていた。
震えていた。
カタカタと鳴りそうな指先が、強く野明の身体に食い込んでいく。
まるで砂を集めるように――どこかで取りこぼしてしまったものを、もう一度握りしめるように必死に。懸命に。
その脆さが切なくて、哀しくて。止めてあげたくて、無意識に手を伸ばす――。
たが、その手が触れる前に、「ゴッ」と鈍い音がして、思い切り頭に拳骨を振り下ろされた。
「――な、に……やってんだ、この馬鹿っ!」
「い……たぁぁぁいっ!」
思わず頭を押さえて床にうずくまった。本気で痛い。だが、頭上からさらに怒声が落ちてくる。
「死にたいのかよっ!」
床と視線を合わせながら、その言葉にむかぁと反発心が湧き上がった。
「んなわけないじゃない! いったいなっ!」
「そんなわけないならもっと注意しろよ! いま、本っ気で危なかったぞ!」
「わかってるよ!」
同じくらいの怒声で返す。
先ほどの凪いだ気持ちはどこかへ吹き飛んで、思い通りにならない苛立ちが炎のように野明の身体から燃え盛った。
今日は朝からツイていない。何もかもうまくいかない。
限界だった。
電気ヒーターは壊れるし、転んで怪我するし、バイクは動かなくなるし、遅刻しそうになるし、書類は書き直さなきゃならなくなるし、ご飯は食べ損ねるし、シュレッダーには巻き込まれるし!
おまけに一番分かってほしい人は、ちっとも分かってくれない!
支えてくれない!
寄り添ってくれない!!
自分でも言いがかりだと、どこかで分かっていた。ひろみの申し出は断っておきながら、なぜ遊馬にはそれを求めるのかは自分でも分からない。
けれど、どうしても今は「それ」が欲しかった。
どうしても。
この理不尽な怒りや、悔しさや、つらい感情を。それでも目の前の人に受け止めて欲しい。
どうしても、どうしても――。
「ちょっとくらい優しくしてくれたっていいじゃない!」
幼子が癇癪を起こしたような、それでいて純粋な渇望だった。
その叫びに遊馬は一瞬ためらった表情を見せた。
野明が今日、ずっと不運続きだったことも分かっている。彼女の願い通り甘やかしてやりたい気持ちもあった。
けれど――それは「依存」だ。
近くにいて、使い勝手がいい遊馬で手っ取り早く傷を癒したいだけだ。
そう思った途端、遊馬の中で何かが切れた。
「優しく!? 『かわいい、かわいい』って猫っかわいがりされて外側に追いやられるのが一番嫌なくせに、弱ったときだけ都合よく求めるな!」
「……!」
その言葉に、押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
遊馬がギョッとした顔になる。
「あ……いや……ちょ……」
途端におろおろと狼狽える遊馬を前に、ただ涙が溢れた。
ボロボロと、いろんな感情が涙と一緒に溢れ出してくる。
「願望」とか、「欲求」とか。
「甘え」とか、「期待」とか。
「ああして欲しい」、「こうして欲しい」、「なんで優しくしてくれないの」、「どうして特別にしてくれないの」と。
伝わらない心を持て余して、あとからあとから。
あとからあとから――。
押し込めようとすればするほど、どんどん溢れてくる。
そんなの我儘だと知りながら。もうどうしようもなかった。
止まらなかった。
――ひとつひとつは小さなことだ。
朝ちゃんと起きれたとか。毎日仕事に行けているとか。
そんなこと当たり前で、誰もなにも見向きもしない。
だから――自分で自分を褒めて満たすしかなかった。
小さく、小さく。
そうやって……。
誰にも打ち明けたことのない、野明自身も気づかないほどの小さな願い。
だからこそ気づいて欲しかった。
ただ……、言って欲しい。一言でいいから。
「頑張ったね」って。
認めてほしかった。
冷めてて、皮肉屋で、ぶっきらぼうで、優しくなくて。
それでいて、何をおいても真っ先に野明を助けてくれる人に。
ただ――。
「……」
頬を温かな雫が伝う。
感情に温度があるなんて知らなかった。
願望に種類があることも知らなかった。
そしてそのあとの、自分の中の――自己中心的な欲求の奥底から出てきたのは、驚くほど単純な「願い」だった。
ああ……、そうか……。
その言葉が野明の前に現れた途端、今までの荒れた感情がストンと静かに落ち着いた。
「……すまん、言い過ぎた」
遊馬が下を向きながら、ぼそりと呟いた。
「泣くなよ」
「泣いてない」
雫がだらだらと頬を伝いながらも、野明は言い返した。本当に、もう新しい涙は出ていなかった。
不思議なことに、なぜ涙が出たのかを理解すると、自然とそれは止まった。
悲しかったわけでも、悔しかったわけでもない。
ただ――「そばにいて」
そばにいて。
近くにいて。
寄り添って。
離れていかないで。
そんな単純な願いを気づかずに。自分では動かずに、ただ遊馬に強請った。
貰うのが当然だと。
なんて――浅ましい。
情けなくて、くだらなくて、みっともなくて――また涙が出た。
「……泣いてんじゃねえか」
遊馬は困ったような笑みを浮かべて、ハンカチをくれた。
しばらく沈黙が落ちた。お互いに言葉が見つからず、ただ息を潜める。
「本当に……気をつけてくれ」
しばらくしてから聞こえた遊馬の声は、どこか掠れていた。
「……生まれた日が、命日になるとか……頼むから……」
ひとりごとのように。
それでいて、絞り出すような声だった。
野明はハンカチで涙を拭いながら、遊馬の顔を見上げた。
彼は目を伏せながら、どこか――遠くを見ていた。かすかな影が遊馬の表情に浮かんでいる。
いつもはふざけたように余裕のある彼が、今は重い何かを噛み締めるような顔をしていた。
その姿には、普段のからかいや軽口の影は微塵もない。
遊馬?
呼びかけようとしたが、ふと、ふたりで行った寺が思い浮かんだ。まるで、遊馬の記憶がこちらに流れて来ているようだった。
――冬だったと聞いた。
遊馬の兄が亡くなったのも。
思い出の中での彼の姿に重なるように、その記憶に触れた瞬間、胸が締め付けられるような痛みが走った。
「遊馬、ごめ……」
謝ろうと口を開いたちょうどそのとき、天井に吊るされたスピーカーから、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
野明と遊馬は、パッと顔色を変えて放送に耳を澄ます。
『第一管区から通報。港区新橋付近でレイバー強奪が発生。作業員の静止を振り切り、田町方面へ逃走中。第二小隊全機出動せよ』
スピーカーから、緊急事態を知らせる報が流れる。
「……!」
ふたりとも物言わず、ほとんど条件反射で廊下へ飛び出した。
一階の備品室からハンガーへは、整備班室の横を通って迷路のような細い廊下を通り抜けたほうが早い。野明は冷静に最短ルートを選択してハンガーへ向かった。
すぐ後ろから遊馬の足音と息づかいも聞こえる。
しっかりしろ!
野明は勢いよく走りながら自分に檄を飛ばす。
遊馬の言う通りだ。
自分の気持ちを立て直すためだけに、他人の傷を……大事な相棒の記憶をえぐるなんて。
何のために年を重ねたんだ!
駆けながら、ギュッと持っていた遊馬のハンカチを握りしめる。できる事なら今すぐにでも遊馬に謝りたい。
けれど――いまはそんなことをしている場合じゃない。
早鐘を打つ鼓動と、すぐ後ろから続く相棒の足音。その足音が力強く、後ろから野明を支えるように響く。ふたつの足音が合わさり、頭が冴えていく。
「フォワードとバックアップは一心同体!」
ふたりの合図が、頭のなかに反響する。
まだ――大丈夫。
きっと、大丈夫。
重なる足音に背中を押されながら、野明は胸のつかえがひとつずつ取れていくのを感じた。
バスケの試合で真っ直ぐにゴールを目指していたあの日のように、ただ純粋に自身の「やるべきこと」が見えてくる。
その顔に、もう迷いはなかった。
「あ、泉ちゃん、いつでも出れるよ!」
扉を開けてハンガーに飛び出すと、シゲが大きな声で誘導してくれた。他の隊員や整備班員たちも走って出動準備に入っている。
「ありがとシゲさん、これあげる!」
野明は走り抜けざま、首に巻きついたままだったものを手渡した。ボロボロになったネクタイの残骸を見たシゲは、ギョッとした顔になる。
「ちょ、どしたのこれ!?」
「さっきちょっと死にかけたの!」
「はぁ!? なにそれ、くわしく!! ちょっと、遊馬ちゃん!?」
「無理、いま忙しい!」
泡を食って呼び止めようとするシゲに、遊馬もピシャリと告げて指揮者に乗り込んだ。
「ちょっとぉ! おたくらなんなのよっ!?」
ハンガーに、シゲの素っ頓狂な大声が響いた。
その声を聞きながら、遊馬は指揮車にかけてあったバイザーを被った。
フロントガラスには、野明が乗るイングラムが横たわっているのが見える。
その姿は、威厳を纏って真っ直ぐ天を見上げている。
「――いけそうか、野明?」
遊馬は、一号機のダイレクトチャンネルを開いて問いかけた。緊急出動のため、野明は既にイングラムに搭乗している。
『もちろん』
通信機越しに鼓膜に響いたその声は、目の前のイングラムと同じく自信に満ちていた。
いつの間にか、自分で気持ちを切り替えている。
泣き言を言っても、立ち尽くしても、それでも最後には自分自身の足で立ち上がる。
いつも通りの、遊馬が信じている相棒の姿だった。
「上出来だ」
「第二小隊、出動!」
遊馬がにやりと笑いながら思い切りエンジンキーを回すのと同時に、後藤の号令が響き渡った。
04
「あー、つっかれた」
野明は、野太い声を上げながらソファに沈み込んだ。
やっと一日が終わった。早く帰りたかったが、遊馬が夕飯をおごってくれるというので、いつもの東雲駅のファミレスに落ち着いた。
「おっさんだな」
遊馬が、サラダバーから持ってきた二人分のサラダをテーブルに並べ、呆れた声を漏らした。小脇に抱えていたテイクアウト用の小さな紙袋をソファに置き、野明の向かいに腰を下ろす。
「いやもう、何とでも言って。――ありがと」
野明はサラダを受け取ると、早速もそもそと口に入れた。お昼はバー一本だったので空腹のはずだが、あまり食欲がわかない。それくらい疲労していた。
結局、盗難レイバーはただの酔っ払いの犯行だった。まだ日も高いうちから飲んだくれて作業区に入り込んでレイバーを盗んだ。しかも、止めようとした作業員を殴ったあげくに、「オレのほうがうまい」と言って強奪したそうだ。
案の定、それを聞いた太田が激怒して相手に突進し、「過剰な暴力」でもってこれを制圧した。野明は強奪レイバーと二号機両方を止めねばならず……余計に疲れた。
明日が非番なのがせめてもの救いだ。
「そういえば、シゲさんが、おまえが申請したパーツ、二号機に貸してくれって言ってたぞ」
「はぁ?」
「太田の申請分じゃ足りないんだと。文句は太田に言え」
「信じられない、太田さん」
野明は、皿に残ったヤングコーンをフォークで強く刺しながら眉を八の字にした。何のために自署で申請したのか。
「代わりに文句言っといてやろうか?」
スティックシュガーを指で弾いて塊をならしながら、遊馬がにやにやした顔でこちらを見る。野明はムッと口をへの字に曲げた。
「結構ですぅー。自分で言いますぅー」
遊馬は、「はい、おりこうさん」と言いながら、楽しそうにコーヒーをすすった。
「ま、明日はゆっくりするんだな」
「そうする――あ、無理。電気ヒーター買わなきゃ」
思い出したー。と野明は、今度こそテーブルに突っ伏した。
「ヒーター?」
「朝壊れた」
「バイクじゃなかったか?」
「バイクも壊れた」
「最悪」
「だからそう言ってるじゃないか。もう本当、今日散っ々だったんだからね」
そうだ。それもあった。野明は更に思い出して憂鬱が増した。
幸いバイクは近所に大きなカー用品店があるのですぐ修理に出せるが、ヒーターは……。どこに行けば良いのか。
野明の住むここ東雲は、「ベイエリア」と名前だけはおしゃれだが、家電量販店などが極端に少ない。
「買いに行くとしたらどこ? 秋葉原?」
地方出身で都内の場所に明るくない野明と違い、遊馬は詳しい。
「乗り換え考えたら、有楽町線で池袋」
「遠いー」
電車で一時間くらいかかる。野明は一時間も二時間も電車に揺られる生活をしたことがないので、考えただけでうんざりとなった。
「もうすぐ有楽町に出来るけどな。でかいの」
遊馬の話では、つい先日まで百貨店だった駅前の施設が閉店し、そこが丸々大型家電量販店になるとのことだった。
「そうなの? じゃあ、オープンセールするかな」
野明の顔がぱっと明るくなる。少しでも安く買えるなら嬉しい。しかも有楽町なら近い。
「知らん」
「え、でもいいな。そこ行きたい。オープンいつ?」
「半年後」
「夏じゃん」
野明のツッコミに遊馬はゲラゲラと笑った。
この男……。今なら殴っても許されると思う。野明は拳を作りながら、愉快そうな遊馬をジト目で睨んだ。
ひとしきり笑った遊馬は、「それ、買ってやるよ」と言った。
「なにを?」
「ヒーター。――誕生日だろ。今日」
「え、うそ。知ってた?」
思い掛けない遊馬の言葉に、野明は眼を見開いて驚いた。
「知ってた。忘れてたけど」
「忘れてた?」
「さっき思い出した」
遊馬はそう言いながら、悪びれもせずまた笑った。
「……なんだそれ」
忘れてたなんて言わなくていいのに。正直なのか、雑なのか。それに買ってくれるのがヒーターだなんて。
けれど、なんだかそれがすごく「らしく」て。野明もつられて笑ってしまった。
「おまたせしました。鉄板お熱いので気をつけて――」
店員が二人分のプレートを持ってくる。テーブルの上に温かそうな料理が並ぶ。目の前にすると途端にお腹が鳴った。
「なんだよ、にやにやして」
店員が下がってから、遊馬が呆れたような怪訝そうな顔になる。野明の顔は、これ以上ないくらいに緩んでいた。
「いやあ? 買っていただけるなんて嬉しいなあって。――高いのにしよっと」
「はあ? おまえふざけんな」
「えー、だってせっかくだし。加湿器ついてるの欲しかったんだー。東京の乾燥ほんとやばいよね」
「加湿が欲しいならこれをやろう」
遊馬は自分が頼んだオニオングラタンスープを差し出す。スープの中のチーズが蕩けて熱そうだ。
「いやそれ湯気じゃん。ダメだよ。買ってもらうよ。ちゃんと聞いたからね」
「ほーら、潤うぞー」
「騙されないからね!」
テーブルの上で、オニオングラタンスープがあっちとこっちで押し付けあって何度も往復する。そのたびになぜか可笑しくて、ふたりでずっと笑い転げた。
それから、色々な話をした。
くだらなすぎて、ささやか過ぎて、次の日にはもう思い出せないような内容ばかりだ。
そんな会話を、ふたりでずっとした。ずっと笑っていた。
それは、東雲の野明の寮の前まで途切れることはなかった。
暖房のない部屋のなかはしんと静かで、どこか寂しい。
野明は部屋に戻ると、すぐ留守番電話を確認した。想像通り一件入っていた。再生しなくても誰からかは分かる。
コートを着たまま持っていた紙袋をテーブルに置くと、録音された音声を聞かずにリダイヤルボタンを押した。
軽快な呼び出し音が数回響き、すぐに慣れ親しんだ声が返ってきた。
「――あ、お母ちゃん?」
『野明? いま帰ったの? 遅かったね』
母親の声はいつものように穏やかだった。先週も電話で話したばかりだが、今日電話をくれた理由が分かるだけに、声を聞いた途端、直接会いたくなった。
「うん。友だちとご飯食べてた」
『そう。一応おめでとうって言っておこうかと思って』
「ありがと」
変わらぬ母の優しさに胸が温かくなる。
それから他愛ない話をした。朝にヒーターが壊れたことだけを面白おかしく伝えた。他のことは話す必要はない。
『あらじゃあ、いま寒いんじゃないの?』
「そー。でも明日友だちと買いに行く。買ってくれるって」
『あら良かった。ご飯食べたお友だち?』
「うん、そう。そいつ家電に詳しくて――」
話しながら、ふとテーブルに置いた紙袋が目に入る。遊馬がファミレスにいたときから持っていた袋だ。
ファミレスのロゴが入っているからテイクアウトしたのだろう。てっきり自分のために買ったと思っていたから、寮の前で別れるときに渡されて驚いた。
「今日一日の摂取カロリーの足しに」とわけの分からないことを言われた。確かに朝も昼もほとんど食べていないが、今の今まで夕飯食べてたのに? と不思議だったが、くれるというのでありがたく貰ったものだ。
肩で受話器を押さえながら、紙袋を開ける。
中から出てきたのは、小さなケーキだった。コロンとしたドーム型のプラスチックケースに入ったプチケーキだ。
取り出してみると、ケーキの天面には「MerryChristmas」と印刷されたケーキピックも刺さっている。少し早いクリスマスケーキなのだろう。だが、そのプラスチックケースの上に感熱紙が貼ってある。すぐにレシートだと理解したが、それが裏返してあって、手書きで「HB」という走り書きの文字が書かれていた。見慣れた遊馬の字だ。
HB?
『で、こっちにはいつ帰ってくるの? 年明け?』
「え、うん? あ、うん。たぶん――あっははははっ!」
母親との会話の途中で、馬鹿みたいな笑い声が出た。
『え? やだ、なあに?』
「あ、ごめんごめん、なんでもない。ちょっと……友だちからもらったものが面白くて」
野明はまだ笑って謝りながら感熱紙を手に取る。
レシートの裏側に書かれた、たった二文字。
――HB。
「HappyBirthday」の略だ。
雑だなあ……。
そうつぶやきながらも、じわりと胸の奥が温かくなる。
明日も会うのに。
口でひと言言えば済むのに。
メリークリスマスと書いてあるケーキを無理やり誕生日ケーキにする。しかもそれを値段も全部わかってしまうレシートの裏に書くなんて。
あまりに「らしい」、雑さと無理やりさと面倒くささに、呆れを通り越して笑ってしまった。
たった二文字の簡素な文字。
けれど、野明が生まれた今日という日に、親以外で唯一もらった「祝福」だった。
――あの男は、どれだけあたしを甘やかすのか。
笑いと一緒に、嬉しさと愛しさがこみ上げる。また目頭が熱くなった。
『変な子ねぇ。あんた、ちゃんと周りとうまくやってんでしょうね』
母親が、呆れた声で尋ねる。昔からレイバーが大好きで、洒落っ気もなくて、周りの同年代の子たちと少しだけ違っていた娘を母はよく見ていた。
「え、大丈夫だよ――楽しいよ。毎日」
毎日いろんなことが起こって、毎日生きるのに精一杯で。自分の気持ちも分からないで右往左往してばかりいる。
とてもじゃないけど順風満帆とは言い難い。
でも――。
それでも、一日の終わりにこんなに晴れ晴れとした気分になる。
明日もきっと楽しいと。
そう思える人と一緒にいる。
それはとても得難いことだと。
それはとても――。
『まあ、野明がそっちでも楽しそうで何よりよ――あんた、いつまで笑ってんの』
母親が、呆れながらもつられて笑い出すまで。
寒さを忘れた部屋で、野明はひとりでずっと笑っていた。







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