
時間に余裕がある朝は、何品か作り置きを作ることにしている。
「梟」のキーであるアーニャの健康管理も任務のうちだ。健康を害して休学や退学などあってはならない。食事こそ疎かにしてはならないのだ。とはいえ、毎日だと手間がかかるのも事実だ。そんな時に作り置きがあると本当に便利だ。
ザワークラウトやサーディンのオイル漬けなど、手軽なものがほとんどだが、冷蔵庫に副菜があるだけで心の軽さがだいぶ違う。
そもそも料理は嫌いじゃない。材料をそろえてレシピ通りに作ればきちんと出来上がる。その整然さがいい。普段が予測不可能な臨機応変さを求められる生活のため、料理が息抜きになっている面もある。
今日は鶏のテリーヌにした。一週間程度は日もちするので使い勝手がいいためよく作る。手順もあまりなく、アーニャも好んだのでフォージャー家の定番になった。朝から作って冷蔵庫で寝かせておけばディナーにもちょうどいいだろう。
型をオーブンに入れて時計を見ると、七時を少しまわった頃だった。リビングの先の寝室が並ぶエリアはまだ静かなままだ。アーニャが起きないのはいつものこととして、ヨルさんもまだ起きていないとは珍しい。彼女は自分と同じで、何時に就寝しても翌日には同じ時間にきちんと起きるタイプだと思っていたが――それだけ残業がきつかったのかもしれない。
昨夜、ヨルさんの帰りは深夜に近かった。
帰りぎわに連絡があったため、車で市役所まで迎えに行こうかと提案したが、タクシーで帰るからと断られてしまった。とても慌てた様子だったのが少し気になった。
彼女の部署は首都の誘致や都市開発の部署と聞いている。機密保持が必要な案件が多いらしく、仕事内容についてはあまり詳しく話せないと以前言っていた。今回もそんな案件絡みだったのかもしれない。だから根掘り葉掘り聞くつもりもない。だいいち、彼女とはそんな関係ではない。
釈然としない気持ちをしずめて洗い物を片付けに流し台へ向かう。オーブンを使っているので、キッチンの中が少し熱い。袖口をまくっていると、背後からカチャリと音がしてアーニャが目をこすりながら部屋から出てきた。まだ眠そうにふらふらしている。自力で起きただけマシか。
「おはよう。顔洗ってこい」
「いいにおい」
アーニャはくんくんとキッチンへ体を傾けながら笑顔になった。見ると、ボンドも興味深そうにオーブンの周りでウロウロとしている。
「いつもの鶏のテリーヌだ」
「たべる!」
アーニャがパッと嬉しそうに目を大きく開けた。
「まだ途中だ。これは夕飯用」
「いまたべたいっ」
「冷やさないと崩れるだろう」
「りえっとにしてたべーる」
アーニャがはいはい! と手をあげて提案した。
「リエット?」
リエットはパンなどにつけて食べるトッピングのことだ。テリーヌと具材が被る場合もあるが、別の料理だし工程も違う。リエットだともっと味つけが濃いし、滑らかなペーストにする必要がある。
「べっきーんちでたべた。なららかでんまかった」
「滑らか」
「いった」
「どこがだ」
「りえっと~」
アーニャが地団駄を踏んで主張する。こんなアーニャは珍しい。偏食気味でお菓子以外はあまり興味を示さないのに。そんなに美味かったのか。
「ブラックベル家と比べられてもな」
「ちちのもわりとんまい」
「わりと」
失礼な、三つ星ホテルでスーシェフに打診されたこともあるんだぞ。その技術をもってしてならテリーヌをリエットに変えることなど造作もない。
「パン〜」
「わかったわかった。変えてやるからはやく顔を洗え」
「うぇーい!」
「期待するなよ、そんな滑らかにはならないからな」
「うーい!」
アーニャはぴょんぴょんと奇妙なダンスをしながらバスルームへ向った。まったく現金な。その後姿を見ながらげんなりしていると、オーブンが軽快な音を立てて止まった。
出来上がったばかりのテリーヌをボウルにあけて、手早く塩胡椒とオリーブオイルを足す。リエットにするには一度ほぐして撹拌したほうがいい。マッシャーが必要か。
ボウルを持ったまま腰の高さにある引き出しを開けるが、いつもある場所にマッシャーは無かった。もう少し大きく引き出そうとするが、何かつかえている。体をかがめて中をのぞきこんでいると、寝室の辺りからまたカチャリという音が耳に入った。
「ヨルさん、マッシャー使ました?」
引き出しの奥に目を向けたまま妻に尋ねるが、返事が無かった。こちらに歩いてくる気配はしたが。
訝しく振り向くのと、柔らかなものが服越しに触れたのが同時だった。
「は……?」
黒い艶やかな髪がふわりと視界の端をかすめる。次いで、柔らかく甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「ヨ、ヨルさん⁉」
「んー……ふふ」
思わず息をのみながら名を呼ぶと、ヨルさんはなぜかのどの奥から忍んだような笑い声を出しながら、より密着してくる。
「ちょ、ちょっと!」
ずりずりと押されて、引き出したままのケースに体が当あたった。これ以上後ろには下がれない。というか、なんでこんなに力が強いんだ⁉
引き離そうにも、ボウルを持ったままではそれもできない。とりあえず中身をこぼさないように両手を高く上げるだけで精いっぱいだ。妻の顔は見えないが、服越しにもその柔らかな肢体の感触が伝わる。背中に回された細い腕や、胸に当たる……。
いや、マズい! このままではまずい、いろいろと!
「ちょっとヨルさん⁉」
「ユーリ……おおきくなりましたね」
だが、ヨルさんはこちらのことなどお構いなしといった様子で、夢見心地につぶやいてなおも頬ずりしてくる。
ユーリ?
ユーリ⁉
「ヨルさん、寝ぼけてますね⁉」
叫んだ拍子に体勢が崩れて、背後にあった引き出しのケースが丸ごと床に落ちて派手な音を立てた。
途端、がばっと体を離したヨルさんが一瞬で固まる。こちらと同じように。
その赤い視線と交わうのにたっぷり五秒はかかった。
「ろ、ロイ……」
みるみるうちに全身が朱に染まっていき、警戒した猫のようにそろそろと後ずさっていく。重苦しい沈黙で、たいして広くもないキッチンが余計に狭く感じた。
「あの、……まちが……弟……すみませ」
「――マッシャー」
「え?」
「マッシャー、知りませんか?」
「まっしゃ? あ、マッシャー⁉ ……えと、えと……あ、はいっ!」
あたふたと視線をさ迷わせた妻は、床に転がっていたマッシャーを見つけると、がばっとしゃがんで両手で失せ物を差し出した。
引き出しの奥でひっかかっていたらしい。
差し出されたマッシャーに手を伸ばすと、ほんの微かに指先が触れた。
「…………っ!」
ばっと同時に手をひっこめる。またマッシャーが床に落ちてカランカランと音を立てた。
「ごっ、ご……、ごめんなさぁあああああいっ!」
ヨルさんはガバっと大げさに体を折り曲げると、逃げるようにキッチンから出ていった。
「………………」
ゆっくりとした動作で床に転がっていたマッシャーを拾う。それから念入りに洗った。少し過剰なくらいに。
ボウルの中には粗い具材が手つかずで残っていて、まだ型の姿を保っている。
そう――、まずはリエットだ。
これを崩してペーストにしなければ。できないかもしれないがしなければ。
料理は嫌いじゃない。
料理は合理性の塊だ。
レシピにさえ従えば、きちんと結果が得られて無駄もない。
整然として、合理的で、筋道が通っている。
余計なことを考えることもない。
不必要な妄想の余地などない!
「んぎゃー! ははー‼ ゆかがびちょびちょー‼」
バスルームから勢いよく飛び出す水の音と、娘の悲痛な叫び声が響く。
ボンドがバスルームとキッチンの両方をうろうろしながら一回鳴いたが、猛然とマッシャーを振る音に消されて聞こえなかった。
「ちちー、これべっきーんちよりすごい。すごいなららか」
「……どうも」
その日、だいぶ遅れた朝食に出したリエットは、かつて無いほどの素晴らしい滑らかさだった。
[あとがき]
以前書いた140字の解像度を上げてみました。プロットとういか、アウトラインとういか。
楽しかったのでまたやりたいです。
※incoherent/支離滅裂・ぐちゃぐちゃ
[お題]貴方はロイヨルで『寝惚けてた、寝惚けてたんです!』をお題にして140文字SSを書いてください。
[出典]https://shindanmaker.com/587150
Last Updated on 2025-07-12 by ashika







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