2023-10-13

エリカ・ムスターマンの死 01

 エリカ・ムスターマンは、生まれつき几帳面な性格だった。
 彼女の性格を端的に表現する言葉としてこれほどうってつけの言葉もない。
 彼女にとって四角は永遠に四角でなければいけなかったし、丸でも同じことだ。
 そして、几帳面以上に臆病でもあった。彼女が望んだものが望んだ状態でずっとそこにある。それが彼女の心を穏やかにさせた。
 エリカは、毎日同じ時間に起きてすぐに身支度を整える。たいていは白いブラウスにタイトスカートの組み合わせだ。冬はそれに毛糸のカーディガンを羽織る。カーディガンは母の物をほどいて編みなおしたものだ。同居人は新しい物を買ったらと呆れているけれど、暖かいしこれで十分だと思っている。
 身支度が終わったら飼っている猫に餌をやり、庭に出て植物の世話をする。それだけで一時間はすぐ経ってしまう。それからやっと朝食だ。
 朝食はほぼ毎日、週末に多めに購入して冷凍していたシュリッペ(小型のパン)をキッチンで食べる。リビングを兼ねたダイニングルームもあるにはあるし、そこにはきちんとしたテーブルもあるが、もうずいぶんと食事には使っていない。細々としたソーイングセットや布地などを使う作業台にしてしまっているからだ。
 もっとも、そうでなかったとしても随分前からリビングには大きな冷凍庫があり、あまりくつろぐような場所では無くなっていたので問題はなかった。同居人も絶対にリビングには入らないので、好きに使わせてもらっている。
 父が生きていて、母が家の采配を握っていた頃には考えられないことだった。
 母は全てにおいて「相応しい」ことが一番大事なことだったから。
 相応しい。
 母がいつも言っていた言葉だ。
 相応しい家。
 相応しい家族。
 相応しい夫。
 相応しい――。
 母は自分の理想とする家族や家を「相応しい」と表現した。
 残念ながら、エリカは母の「相応しい」に加わったことがない。子供の頃はそんな自分に萎縮することが多かったが、最近はやっとそんな気持ちをはお別れできた。
 ダイニングテーブルの脇のキャスター付きのワゴンには色とりどりの生地や糸が収まっている。そのワゴンから刺しかけの刺繍を取り出してしばらく眺めていると、ひと知れず顔がほころんだ。
 先日、庭を見に来てくれた「彼」がこの刺繍を褒めてくれたからだ。
 それだけで、天にも昇るような心地になった。
 もともと細々とした裁縫や刺繍が好きだった。手慰み程度だと思っていたが、意外に才能があったらしい。あるとき、同居人にあげた刺繍入りのハンカチが思ったよりも高値で売れたと言われた。
 同居人は「欲しい人がいたから」となんでも無いように言ったが、まさか売られるとは思わなくて少し気分を害した。けれど、売れた金額を聞いてそんな気持ちは吹き飛んだ。
 思ったよりもずっと高値で売れたからだ。
 それからは刺繍が仕事になった。
 同居人がどこからか注文を受けてきた物を作る。自分の思い通りの図面はなかなか刺せないけれど、中世の画家だって自分の好きな構図を描いたわけでは無いだろう。
 おかげでリビングは作業部屋へと変わってしまい、とてもではないが何かを食べるスペースではなくなってしまった。けれど、彼に褒めてもらった刺繍を仕事にできたのだからそんなことは些末なことだ。
 だからもうこのダイニングルームで食事をすることは無いだろう。それに、キッチンで食べると片付けも楽なのだ。
 母が留守にしている気ままな暮らしでは、どうしたって楽な方に流れるのは仕方が無いことだ。
 でも、戻ってきた母があの部屋を見たらなんていうかしら。
 それを考えると少し気分が落ち込む。
 きっと、「食卓をあなたの趣味の場所にするなんて」と憤慨してネチネチと嫌味を言われるだろうと容易に想像がつく。
 キッチンで食事を済ますなんてと小言も言われるに違いない。そもそも、母がいたらシュリッペを買い置きして冷凍するなんてことも許してもらえなかったはずだ。
 母はあまり冷蔵庫や冷凍庫の性能を信じていない。すぐ腐ってしまうと文句を言っていたので、母がお嫁に来た頃はそうだったんだろう。でも今は時代が違うのだ。先の戦争だって東国の大勝利で終わったし、日々技術も進化いるってのいうのに。母ときたら、毎朝早起きして雨の日も風の日も、茹だるような暑さの日だって行きつけのパン屋で焼き立てを買うのが正義だと信じて疑わない人なのだ。子どもの頃から買いに行かされたのはいつも私だ。この家は坂を登り切った場所にある。子どもの足では、それがどれだけつらいことだったかなんて、母は一度も考えてくれたことはなかった。これからも考えることはないだろう。
 焼き立てのシュリッペなんて「クソ喰らえ」だわ。
 いつまでも昔ながらの方法では時代に取り残されてしまう。
 冷凍していようがしてなかろうが、チーズを乗せてオーブンで焼いて、あたたかいスープと一緒に食べるシュリッペはいつだって最高なんだから。
 母が戻ったらきちんと言ってやらなくちゃ。もう今までの私じゃない。それを証明しなければ。
 エリカは、「それが自分にとっての正解」なことをいち早くしめすかのように、チーズがとろけたシュリッペをテーブルに並べた。時計を見ると、昨日とほぼ同じ時間だった。
 変わりのない毎日。十分だ。
 座って、ティーサーバーから紅茶を注ぐ。コーヒーはあまり好きではないから飲まない。紅茶と、気が向いたらハーブティを飲む。
 毎日がこのルーティンだ。
 こうやって自分のスケジュール通りに動けると気持ちが良い。
 エリカは、満足そうな表情でシュリッペを千切って口に運んだ。
 視線が自然にキッチンの出窓からの風景を映す。
 冬の間は立ち枯れたようだった枝から薄い新緑が覗いていて、それにも笑顔になった。
 出窓の小さな額縁には大きな楡の木。
 その根本に木を囲むように花壇が設えてあって、小さい花が咲き始めていた。
 昨年の終わりから耕していた花壇にやっと花がついた。嬉しい。まだ咲くところまでには至っていないが、「彼」は、ここまできたらあとは咲くだけだと言ってくれたので楽しみにしている。
 この庭のことは、エリカの毎日としては異色な部類にはいる。
 昨年、花を植えようと急に思い立った。
 急、というのは語弊があるかもしれない。
「彼」の期待に応えたいと思ったのが一番の理由だからだ。
 ずっと放置していて興味もなかった庭だが、「手入れをすれば必ず美しくなる」と言ってくれた人がいた。
 母がいた頃は鈴蘭やチューリップや矢車草などが花壇を美しく彩っていた。けれどそうじゃなくなってからは、容器やガラクタを放置するばかりで花壇がどこにあったかもわからなかった。それを片付けて、花壇の縁をもう一度蘇らせた。彼が来たときに色々教えてくれたので、見よう見まねで土を耕すところから始めたのだが、やってみると結構面白くていつの間にか夢中になった。
 それがこうして形になったのだ。あともう少し暖かくなったら庭中の花が一斉に咲くはずだ。
 花が咲いたら彼にお礼を言おう。
 彼とはいつも約束はしていない。忙しい人らしくて、いつもふらっとやって来てアドバイスをくれるだけだ。今度彼が来たら連絡先を聞いてみよう。それか、この家にお招きして庭を見ながらお茶をするのも良いかもしれない。そう考えるとわくわくした。
 こんな気持ちになれたのも「彼」のおかげだ。
「彼」がいると新しい自分になれる気がする。
 そう、ずっと臆病で時だけが過ぎてしまった。
 穏やかな毎日は嫌いではないし、どちらかというと変化を怖れる自覚はある。けれど、彼のことを思うと、そんな自分を脱ぎ捨てたいと思うようになった。今はまだ蕾みでも、いつかは花開くときがくるかもしれない。
 そんな気持ちになれた。
 だってもうすぐ春だ。新しい自分になるにはうってつけの季節だろう。
 エリカは、心を浮き立たせながらシュリッペを千切った。だが、最後の一切れを口に入れようとした途端、上からガタンと音がして、ふわふわとした気分が急にしぼんだ。ガタガタと無遠慮に廊下を歩く音、勢いよく出る水の音、それからドスドスという無神経な騒音。
 階段は静かに降りてって何度も言っているのに。エリカは文句をシュリッペと一緒に飲み込んで立ち上がる。同居人は朝食を食べないので、ダイニングもキッチンもいつも素通りする。だから自分が行くしかない。
 エリカは意を決して、廊下へと続く扉を開けた。帽子をかぶって外出する寸前だった同居人が、驚いたように顔を向ける。
「おはよう」
 エリカはぎこちなく挨拶する。同居人といっても、あまり話すことがない。普段は何か用があったら玄関のサイドボードに貼り紙をする。
 それでこと足りる関係だった。
 でも、私だってたまには誰かと他愛ない話をしたい。たとえ、それが決してお互いに打ち解けあえていない同居人だったとしてもだ。
「なに?」
「……ええと、今日は何時に帰るのかなって」
 ほんの少しだけ期待を込めて聞いてみる。
 もし早いのなら一緒に夕飯でもどうかしら? 庭がとても素敵になったの。私もあなたも、今まであまりこういったことに興味がなかったわよね、でも……。
「わからない。あと、今日は給与日じゃない」
 その言葉にカッとなった。
「そんなの知ってる! 私は、ただ……」
 だが、最後まで言えずに声がしぼんだ。視線が宙をさ迷って床に固定された。飼っている猫が、小さく甘えながら足元にじゃれてくる。その鈴の音だけがチリチリと廊下に響いた。
「もういい?」
「……」
 そう言って、返事も待たずに出てしまった。閉まってまた暗くなった玄関に取り残された形になって、気分も暗く沈む。
 いつもこうだ。怒らせるのが怖くて言いたいことも言えない。
「明るく朗らかなエリカは、どこへ行ってしまったのかしらね。……おまえ、知ってる?」
 しゃがみ込んで猫を抱き上げると、にゃぁん、と返事をするように鳴く。苦笑いしながら、そのままダイニングルームを突っ切って庭に出た。
 朝の光を浴びた庭は、明るくて瑞々しかった。テラスから庭へと続く階段に腰を下ろすと、猫はするりと腕から出て部屋へ戻ってしまった。
 あの子はあまり外へ出たがらない。膝を抱えてぼんやり花壇を見ていると、どこからか彼の声が聞こえた。
「庭は自分を映す鏡ですからね。どうしたいか、どうなりたいかよく考えなさい。土を耕して、葉を摘んで、そうやって植物たちと会話しながら過ごしていると、いつの間にか自分自身もそうなっていきますよ」
 そう言っていた言葉を思い出す。
 大事なことは言葉にすることだとも。
 エリカは、真一文字に結んでいた唇を少し開いて、細く、深い呼吸をする。何度か繰り返していると、身体の中に溜まった毒と新鮮な空気が入れ替わっていく。
 口内から肺に入る空気が気持ちがいい。
 そう、そうね。願いは言葉にしたほうが叶いやすい。
 彼もきっと、そうやって自分と会話したから、あんな素敵な人になったのだわ。
 少し上を向いて、木々の隙間から指す木漏れ日に目を細める。心配ない、必ず陽は昇り切る。だから心配しなくても大丈夫。
 エリカはニッコリと笑顔を作って、これ以上ないくらいの穏やかな口調で空に向かって呟いた。
 
 
「――死ねばいいのに」

 

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