2024-03-28

エリカ・ムスターマンの死 08

 夕方になる少し前に最寄りの停留所に着いた。トラムを降りたのはエリカひとりだけだ。この時間ならまだ勤め人も帰ってこない。
 トラムはエリカを置き去りにしてさっさと去っていく。そのバックライトを眺めながら、大きく息を吐いた。
 家を出てから半日も経っていないが、慣れないことをしてすっかり疲れてしまった。早く家に帰りたい。けれど、ここから家まではだらだらとしたつま先上がりの坂が続く。エリカはうんざりしながら坂道へと進んだ。
 ――坂は嫌いだ。
 歩いているうちに早くも息が上がってきて、いつものように嫌悪が染み出すように湧き上がってくる。まだ半分も歩いていないのに。それほど急坂ということはないが、かえってそれが終わりの無い苦痛となる。
 何度歩いても時間の無駄だとしか思えない。登り切ったとしても外出すればまた必ず下らなくてはならない。そこに達成感は無い。
 せめて平坦な道だったら良かったのに。息を上げながら進行方向に目をやると、坂の一番上に大きな木々が顔を出した。その木の下が我が家だ。まだまだかかる。
 再度大きく息を吐いて、呼吸を整えてから足を踏み出す。
 ちょうどそのとき、後ろから風が吹いてエリカを追い越した。その風に誘われるように後ろを振り返ると、麓の町並みが視界に広がる。
 坂の下にはトラムの停留所があり、そこから少し歩いた目抜き通りには地下鉄も走っている。その辺りまで行けば洒落た商業施設や、気の利いた食料品店のもあって日々の生活には困らない。
 毎日お使いに行かされたパン屋もその辺りだ。
「……」
 あまり気分の良くないことを思い出してしまい、目を細めた。まるで、見えなくなればいやなことが無くなるとでもいうように。
 でも駄目だった。
 どうしたってあの人の姿は消えてくれない。どうやってぬぐっても取れない染みのようだ。心の大部分をその染みが占めている。
 「母」、という染みだ。
 母はセントラル地区に行かなくても「質の高い品」が購入できるとご満悦だった。「私たち家族に相応しい場所よ」としきりに言っていたから。
 坂という難所はあるにせよ、いや、母にとってはその坂すらステータスの一部だったかもしれない。
 家の正面には麓の商業施設が見渡せて、裏庭からはイーデン校の広大な敷地が見下ろせたから。
「この国一番の学校を見下ろせる場所なんて気分が良いわ」と言っていた。
「いつかあなたが通う学校よ」とも。
 馬鹿みたいだ。本当のお金持ちなら自分で買い物になんか行かない。使用人が買いに行くか、お店のほうから来てくれるものだろう。
 イーデン校にしたって、ムスターマン家の誰も行くことはなかった。過去も未来も、誰一人としてだ。
 父さえこんな場所に家を建てなければ。自分ではろくに使いもしなかったくせに。
 今度は父に対して言いようのない怒りがもたげだ。
 この場所に家を建てたのは父主導だったと聞く。
 母は、自分の夫がいかにしてこの素晴らしい家を妻と娘に与えてくれたかをさんざん吹聴していた。
 父の葬儀で。
 彼がどれだけ家族を愛していたかも加えて。
 実際は、父はほとんどこの家に帰ってくることは無かった。
 たまに帰ってきても、裏庭で何かをしていた後ろ姿しか記憶に無い。何をしていたのかは知らない。エリカにとってはいてもいなくても変わらない人だったのであまり関心が無かった。
 正面に向き直って徒労を再開させる。
 今度は下を向きながら歩いた。延々と続く坂の先を見たくなかった。後ろも。けれど、下を向きながら歩いていると、先ほどより強い後ろ向きな感情がもたげてくる。
 その感情の先に、先ほど会った男の姿が重なった。
 ――いやな男だった。
 精神科のお医者様らしく話しやすく会話もリードしてくれたが、想像していたより遙かに顔立ちの整った男だったので別の意味で緊張した。
 それ以上に、会話を支配するような物言いが気に障った。柔和な顔をしていたが、根掘り葉掘り聞かれて鬱陶しかったのも事実だ。
 同じ話しやすさでも「彼」とはまったく違う。
 今度は別の男の顔が脳裏に浮かび、息を大きく吐き出した口元が弧を描いた。
「彼」は最初から話しやすかった。ずっと初対面の人と……いや、人間そのものからも距離を置いてきたが、こんな気持ちになったのは「彼」が初めてだ。
 彼が後押ししてくれたからあの場所へ行ったけれど、本当のことをいえば、今日あの男に会ったのは失敗ではないかと思った。少なくとも自分にとっては。
 それに、薬も貰えそうにない。
 それが一番の気がかりだった。
 今日医師に会うことを「彼」に伝えたら、「ベゲタミン」という聞き慣れない薬が手に入らないか医師に聞いてみて欲しいと頼まれのだ。
 エリカ自身はその薬を飲んだこともないし、興味も無かった。家にあると言ったのも嘘だ。
 まさかあんなに根掘り葉掘り聞かれるとは。
 処方箋が必要なんてことも知らなかった。アスピリンと同じようなものだと思って、よく考えもせず答えてしまった。
 どうしよう、あの薬じゃなくても構わないだろうか。怒られないだろうか。その程度のことも出来ないなんてと失望されはしないだろうか。
 そんな不安が沸騰した泡のようにふつふつと湧き上がる。
 ゆっくりと踏みしめるようだった歩調がさらに遅くなり、家の前で完全に止まった。
 寒くもないのに、両方の手を重ねて揉み込む。
 ――とりあえず家に入ろう。
 このままここにいて近所の人に見られるのも困る。
 エリカは気を取り直すと、歩幅を大きくして正面の門を素通りした。玄関とは真裏の高い生け垣で作られた木戸へと回る。
 エリカが正面から入ることはない。いつも裏の勝手口から出入りする。
 正面玄関は同居人が出入りする場所だ。きちんと確認して決めたわけではないが、ずっと昔からそうなっていた。
 木戸へと続く道は舗装されていない小さい小道になっている。生け垣の反対側は崖になっていて、幅は少ししかない。手すりもない眼下には、うっそうとした森が広がっている。
 この崖から見える範囲はすべてイーデン校の敷地と聞いたことがあるが詳しくは知らない。森の隙間からガゼボの白い屋根が夕日に反射して鈍く光っていた。
 横歩きでないと進めない道幅しかないので、日が暮れてしまうとすぐ足を滑らせてしまいそうだ。
 やっと木戸まで来ると、戸はすぐ開いた。以前は鍵をかけていたが、彼がふらりとやってくるようになってからは開けたままにしている。
 そういえば、彼も正面玄関から訪れたことがない。そんなことを考えながらやっと庭に着いてほっと胸をなで下ろした。
 勝手口の前まで来て、バッグの中からキーケースを取り出そうとしたとき、カードが一枚ひらりと落ちた。そのまま小さい風に乗ってふわりふわりと、もと来た木戸のほうへ転がっていく。
 日が傾き始めていて、一瞬それがなんだかわからなかった。が、先ほど医師からもらった名刺だと気がつく。きちんと財布にいれたつもりだったが、キーケースに挟んでしまったらしい。いらないのでそのままでもと一瞬よぎったが、誰か近所の人に拾われても面倒だ。慌ててカードを追いかける。小さいので気をつけないと見失ってしまいそうだ。
 カードは小さな風と踊るように庭の中をするすると滑っていく。だが、ふと何かに気がついたように止まり。そのままふわりと上に持ち上がった。
「あ……」
 エリカの身体がぴたりと止まる。
 いつの間にか、男が木戸の脇に立っていた。
 昼と夜が切り替わる隙を狙ったかのように、いつも間にか音もなく「そこ」にいた。
 つい今しがた通った場所なのに、まったく気がつかなかった。
 男はカードを持ち上げながら、木戸を開けて中へ入ってくる。
 もう夕闇のほうが勝っていて、逆光になった男の姿ははっきりとわからない。ただ、その柔和な声は、寂しげな世界には不釣り合いなほど優しさに満ちていた。
「こんにちは。いや、もうこんばんはのほうが良いでしょうか? いや、まだそれも早いかな? 難しいですね、この時刻は」
 ああ、彼だ、彼だ……!
 エリカは喜びに胸をいっぱいにさせながら、その声に向かって走り出した。

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