オスタニアの首都バーリントは、国の中心からやや西側に位置している。
東国の総人口は千七百万人と、他の諸外国と比較しても決して多くはないが、そのうちの約七パーセントにあたる、実に百二十万人もの人口がこの首都に集中していた。
市内は東西南北ごとに二区ずつ、合計八つの行政区に分けられている。議会や裁判所、各国大使館などが集中するセントラル地区は、首都の南側に位置している。この地区は大雑把にだが、川を挟んで商業区と住宅区に分かれていて、比較的治安の良い地区だ。
北方面には巨大な貿易港を備えた港湾地区がある。首都は沿岸部からかなり内陸に位置しているが、十九世紀後半から起こった産業革命に誘発されるように河口の幅を整備し、河川港として規模を拡大させた。そのため緯度の高い国の中では貴重な不凍港を有しており、ここから内陸国への輸出も盛んに行われている。同じく北側には首都以外の都市へと続くハイウェイや、貨物列車の線路が果てしなく伸びていて、国内の産業経路の要となっている。
東側は富裕層の多くが邸宅を構えるイーデン地区がある。国一番と評価の高い有名な学園が建つのもこの区域だ。
唯一、西側だけはあまり手が入っていないが、自然公園などが広がり、市内の人間の手軽な保養地の意味合いが強い。
文字通り、首都は政治にとっても経済においても国内の中心都市だ。必然的に首都の行政を一手に担う市役所はそれなりの規模と職員の数を有していた。
その市役所本庁舎が、ヨル・フォージャーの勤務先だ。
本庁舎の東棟三階にある給湯室。毎朝、そこで課長のためにコーヒーを入れるのがヨルの朝の日課だった。
特に名指しで指示されたわけではない。本来は当番制だったが、いつの間にか彼女一人の仕事になり、彼女の後輩たちがその周りで噂話に花を咲かせる。そんなルーティンがずいぶん前からまかり通っていた。
一度、同僚のドミニクが今の名ばかりの当番制を見直したほうが良いのではないかと、それとなくヨル以外の女性職員に提案したが、「文句があるならお前がやれ」と総スカンを食らったため、それからは何も言わなくなって結局変わることはなかった。
もっとも、ヨル自身は特にそれに関して不満を覚えたこともない。彼女は元々「損得」という感情が希薄だった。誰かがやらなければならないならやれる人がやればいい。それかたまたま自分だとしても、それはそれで構わない。
そんな超然とした態度が、ある一部の人間には好ましく映り、ある一部には敬遠される原因となっている。けれど、それすらも彼女が感知することではなかった。
今日も、彼女の周りでは噂話に花を咲かせてる後輩たちがたむろしていた。話題は主に他人のゴシップやファッションのことだ。するとそこに、一番後輩のミリーがやってきた。
「おっはよー」
「おはよう」
「おはようございます、ミリーさん」
「ミリー、相変わらずぎりぎりよ」
「いーの、いーの。間に合ってるならいいっしょ」
軽口を叩かれながら注意されても、彼女はどこ吹く風だ。ミリーもあまり他人からの評価を気にしない。そこは少しヨルと通じる。だが彼女の場合、たいてい自分の勤務態度より今聞いた噂を広めることに全集中を傾けているからだ。
「ねえ、ねえ聞いた? この間のイーデン支所の火事。あれ、どうやら放火らしいよ」
「はあ?」
「漏電じゃないの。新聞ではそう書いてあったわよ」
「それが違うかもなんだってー……聞きたい?」
噂話の主導権を握った形になったミリーは、少し自慢げに二人を見回した。ヨルもケトルに入れたミネラルウォーターの沸騰を待ちながら静かに耳を傾ける。
三日ほど前に起きた、イーデン地区にある役場の火災騒ぎのことだった。ちょうどヨルも、つい先日夫であるロイドから聞いたばかりだ。
「市役所で、火災があったようですよ」
三日前の朝、いつものように起きると、ロイドが新聞を読みながら声をかけてきた。
「火事? え? 市役所でですか?」
昨夜「接客」で少し遅かったのでまだ眠かったが、ロイドの言葉ですっかり目が覚めてしまった。
「いや、本庁じゃなくてイーデン地区の支所みたいです」
「ああ……そうなんですね」
「ヨルさん、お知り合いが?」
「いいえ。でも昔イーデン支所にいたことがあって」
「え? それは初耳です」
「そうでした? あ、でも、ほんの少ししかいなかったですけど。すぐに本庁の今の部署へ異動したので」
「へえ」
ヨルは小さいころからガーデンで「接客」をしていた。未成年だったころは専属でそれしていなかったが、成人してすぐに同じ組織のマクマホンが表で所属している組織に行くよう言われた。隠れ蓑に最適な場所だからというのがその理由だった。
「隠れ蓑……ですか?」
ヨルの質問に、この国にしては浅黒い肌をした男は、黙ってただ微笑んだ。
だからイーデン支所にいたのはほんの半年くらいだ。それも入ったばかりということもあり、お茶くみをしたり、頼まれた書類を清書したり――それは今でもあまり変わりはないが――そんな頼まれごとばかりしていて、親しくした人などもいない。それに、確かその年の年度の終わりには本庁に移った気がする。
「……じゃあ、イーデン支所にお知り合いとかは?」
「ええと、食堂で働いていた方くらいでしょうか……あそこから火が出たのかしら?」
「漏電らしいですよ」
「漏電……そうですか」
そんなに古い建物ではなかったはずだが、ネズミかしら。そんなことをふと、思った。
バーリントは戦後人口が爆発的に増えたため、住民に関する処理が追い付かず、それぞれの区に簡易的な役場を設置した。公的証明書の申請、交付処理などは各役場で行っている。あくまで本庁の補助施設という役割だが、イーデン地区の住人の登録書類、身分確認書類などは支所にあるはずだ。そこが焼けたということは、イーデン地区のすべての住民の確認が必要になる……もしかしたら、本庁からも手伝いに駆り出されるかもしれない。
そんなことを思いながら出勤してみると、案の定職場でもその話でもちきりだった。
建物全体が燃え落ちることはなかったが、内装、特に保管してある書類関連に被害が多く出たらしく、やはり書類は新しく作り直すことになるだろうとのことだった。
ヨルたちの部署には直接関連はなかったが、義理の娘のアーニャの学校がイーデン地区だ。先日知り合った愛国婦人会の方も何人かイーデン地区在住だと言っていたので、自然と気になっていた。
「なんかさ、燃え方が不自然なんだって。なんだっけ、ほら……あ、そうだ、家族簿。家族簿を保管している場所だけが全部焼けちゃったんだって」
ミリーが、きゃっきゃとしながら仕入れたばかりの話を披露する。
「その保管場所のブレーカーが漏電したってだけじゃないの」
「それがさ、保管場所ってそういう火災が起きた時に広がらないような装置があるんだけど、作動しなかったんだって」
「そんな装置あった?」
「どんな装置よ?」
「えー、そこまでは知らないけどぉ」
「なんだ」
カミラとシャロンはあからさまに興味を失った顔をした。
「えー、でもでも、怪しくない? なんか警察がスパイの仕業じゃないかって言ってるらしいよ」
「ドラマの見過ぎ」
ピシャリと言うシャロンにカミラが同意するように笑った。
「ええー、ひどーい! 笑うことないじゃん! ヨル先輩まで笑うなんてヒドい!」
「ええ? 私、笑ってません」
こちらを向きながら憤慨するミリーに、誤解を解こうと慌てて首をふる。
笑い声は聞こえましたが、私じゃないです。そう言おうと思ったが、彼女はもうこちらを見ていなかった。ヨルではなく、ヨルの後ろを見ている。奥にいる二人も同じ方を見ていた。
「私よ、笑ったの。ごめんなさいね」
ヨルの後ろから声がして振り返ると、女性がポットを手から下げながら立っていた。ヨルたちと同じ制服を着ているから職員だろう。だが見たことのない顔だ。
落ち着いた印象の女性だった。化粧も厚すぎず、薄すぎず、ブルネットの髪は艷ややかできちんと手入れがされている。顔の造作も整ってはいるが、どことなく地味な印象を受けた。年はヨルよりは上だろうか。けれど、若いと言われればそうかもとも思う。ヨルにはよくわからなかった。
彼女は部屋にいるすべてに挨拶するように、にっこうりと笑ってもう一度ごめんなさいね、と言った。
「盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「えーっと……?」
ヨル以外の三人は一斉に顔を見合わせる。ゴシップやうわさ話に余念がない彼女たちも、知らない顔なのだろう。お互いに目だけで情報交換をしているが、誰も彼女を知らないようだ。
「ああ、ごめんなさい。エリカ・ムスターマンよ。あなたたちが今話していたイーデン支所から、しばらくこちらに勤務になったの」
女はにこやかな顔を崩さず名乗った。だが、その途端三人のうちの誰かがふっと笑いとも吐息ともつかない音を出す。三人全員だったのかもしれない。
「そうなんだー、あたしミリー」
「私はカミラ」
「シャロンよ」
「ええっと、ヨル・フォージャーです」
部屋にいる全員が名乗ると、女はにっこり笑って部屋に入ってきた。
「ごめんなさいね、しばらくよろしく。少し狭くなると思うけど」
「このフロアなの?」
「ええ。とりあえず西棟に部屋をもらったわ。でも西棟って給湯室がなくて。申し訳無いけどケトルを使わせてもらっていいかしら」
エリカは持っていたポットをひょいと上にあげて、すまなそうに笑った。
「あ、今沸いたところです。よかったらどうぞ」
「でもこれあなたが使う分じゃない?」
「大丈夫です。まだ時間はありますし」
「ありがとう」
彼女はもう一度、今度はヨルだけに微笑むと沸いたばかりのお湯をポット移し始めた。
「イーデン地区の職員、全員本庁勤務になったの?」
お湯をポットに注いでいる間、さっそくミリーがエリカに近づいて情報収集に乗り出す。
「いいえ、結構バラバラみたい。さすがに支所全体を移せるほど本庁も場所がなかったらしくて。衛生関連とか土木関連の課は北地区の別の支所に行ったわ。あとは詳しくは知らないんだけど」
「へー。じゃあ……えっと、ムス……」
「ムスターマン」
「ムスターマンさんは、なんの課なの?」
「私は、さっき話にあがってた家族簿とかを管理する保管課よ……大切な住民のみなさまの書類を燃やした間抜けな課ね」
エリカはそういって笑った。その言葉にさすがにミリーはバツが悪そうに首をすくめる。エリカは、「冗談よ」とふふと言って笑う。
「やっぱり書類は全部作り直し?」
「だと思うわ。複写なんかは無かったみたいだし――」
そこでポットを全て移し終えたため、じゃあねと言ってエリカは立ち去った。最後に小さく「でも……」と言いかけてやめたが、それはヨルにしか聞こえなかったようだ。
三人は、エリカが去ると顔を見合わせて含み笑いをした。
「『エリカ・ムスターマン』だって……」
「悪いわよ。結婚して姓が変わったのかもしれないじゃない」
「いや、でもさ」
くすくす笑いながらお互いを小突きあう。
「どうして笑っているのですか?」
「え? だって……ねえ?」
三人が顔を見合わせてまた笑う。だがヨルにはその意味が今ひとつ分からない。もう一度口を開こうとした時、「そろそろ始業だよ」とドミニクが声をかけてきた。
「おしゃべりはこの辺にしてさ。また課長にどやされるよ」
「えー、ウザ」
「やることやれば怒られないんだから、ほらほらみんな、お仕事おしごと。あ、ヨルさんはコーヒー淹れ終わったらで良いよ」
ドミニクは三人を急き立てながら、ヨルに軽くウィンクをして出ていった。部屋が静かになると、ガスの音と、ケトルからコポコポと水が沸騰する音がやけに響いた。
何だったんだろう……先ほどの笑いが少し気になった。
あの三人はいつも自分とは違う感覚で生きているように思える。というより、数でいえば自分だけが分かっていないのだろう。
今まではそんなことも「自分に関係のない世界のこと」と諦観のような気持ちで流してきたが、最近は少し気持ちに変化が出てきた。分からなかったら聞こう。聞いて、それでもわからないなら仕方がないが、聞くこと自体は間違いなわけでは無いはずだ。彼女達の共通の機微を少しでも把握したいと思った。
それはつまり「世間一般の感覚」を少しでも理解したいという欲求に他ならない。
自分でもこんな風になるとは意外だった。それはひとえにフォージャー家に迷惑をかけたくないからだが、それに加えて今は気軽に聞ける人もそばにいる。
それがいちばん大きいかも。
コーヒードリッパーをセットしながら、自然と笑みがこぼれた。
コーヒーを淹れるのは少し自信があった。「夫」がいつも褒めてくれるからだ。淡い金色の髪をした姿が浮かんで知らずに口角があがる。
彼は、いつもカップを受け取るときに目を見て「ありがとう」と伝えてくれる。そして必ず「美味しい」と言ってくれる。他愛もないことだが、ヨルにとってはとても大切にしていることだ。
ずっと自分は「お掃除」しかできないと思っていた。コーヒーだって、毎日何も考えずただお湯を注いでいただけだが、そう言ってくれる人がいるだけでいつもの行為が特別になる。
だから少しだけ自信がある。
ヨルは沸騰したお湯で先にカップ全体を温めてから、ドリッパーの中に少しだけお湯を注ぐ。フィルターに直接当たらないようにして渦を巻くようにゆっくりと落としていくと、水分たっぷりと含んだコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
ふ、と気配がして振り返ると、先ほどの女性がちょうどまた部屋に入ってきたところだった。
「ごめんなさい、何度も」
「大丈夫です。どうかしましたか?」
「カップがなかったの。もし、空いているのがあれば貸していただきたいんだけど」
「ええ、ありますよ。どうぞ」棚から使っていないカップとソーサーを渡すと女性がホッとしたように笑った。
「ありがとう。取るものとりあえず段ボールに入れてこっちに来ちゃったからどこに何があるのかわからなくなっちゃって。これから段ボールをひっくり返さないといけないのに、うちの課長ったら日課は変えたくないんですって。本当に困っちゃう」
「大変なことがあったのですもの。いつもと変わらないことをして落ち着きたいのかもしれませんね」
これも夫の受け売りだ。非日常なことが起きて動揺してしまったら、日常でしていることをなるべく思い出して実践するといい。「普通」がわからなくてオロオロしてしまった時に、そんな風に言って落ち着かせてくれた。
その言葉をずっとお守りのようにしている。そんなことを思い出して笑顔を向けると、エリカは少し驚いた顔をして、そしてほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。ええと……」
「ヨルです。ヨル・フォージャーです」
「ありがとう、優しいのねフォージャーさん」
「いえいえ、そんな! ぜんぶオットの受け売りですし、私は何も……!」
ヨルは慌ててぶんぶんと首をふった。夫のロイドは確かに優しいが、自分は夫の言葉を借りただけだ。
「そう? じゃあ旦那さんが優しい方なのね」
「あ、はい! ロイドさん……あ、夫はとても優しいです。物知りなので色々なことを教えてくださいますし」
「学校の先生かなにかなの?」
「いえ、先生は先生なんですが……お医者さまなんです。総合病院に勤めてます」
「へえ……」
ロイドさんを褒めてもらうのは誇らしくて嬉しい。ヨルははにかみながらも花がほころぶように笑った。エリカもつられたように笑顔になって何かを言いかけた時、カミラが顔をのぞかせた。
「ちょっと先輩! もう始業してますよ、課長のコーヒー!」
「あ! すみません、すぐ行きます!」
慌ててカップをお盆に乗せる。カミラは待たずにさっさと行ってしまった。失敗した、課長は時間にうるさくてネチネチと嫌味を言うから女性スタッフから嫌われているのに。課長もカミラさんも怒らせてしまった。
「ごめんなさいね、イーデン支所から来たおしゃべりな女に捕まってたとでも言っておいて」
「いえ、そんな」
「いいから。そのほうが角がたたないわ」
「あ、はい……」
そうは言っても、あまり他人のせいにはしたくない。時計を見なかったのはヨル自身の落ち度なのだから。
ぎこちなく返事をすると、エリカはふっと笑う。
「……あなたも十分優しいわ」
「え?」
「いえ、なんでも」
エリカは借りたカップを持つと「じゃあね」と踵を返した。ヨルもコーヒーの乗ったお盆を手にしながらあとに続く。
給湯室から出て、西棟は左、ヨルの部署は右だ。それぞれの部署に向かって別れた。零さないように手許を見ながら歩いていると、少し行ったところで後ろから「ねえ」と声がした。
「良かったら今度食事にでも行きましょう。この辺りの美味しいお店教えて」
「え? あ、は、はい、もちろん」
「良かった。じゃあまたね」
彼女はほっとしたように笑って手を上げた。ヨルも笑顔を返して部署への道を進む。
職場のかたに食事に誘われたのは初めてです……少しは私も「普通」に近づいけているということでしょうか。
浮き立つ心を沈めながら、部長や店長は新しい知り合いを増やすことを良いといってくれるだろうかと、ふと思う。
……ロイドさんは……だぶん良かったですねと言って笑ってくれる。
不思議だ、ガーデンでずっと一緒だった部長や店長がどういう返事をするかは分からないのに、ロイドさんの反応だけははっきり分かる。
だって、彼は私のことを否定したとことがない。
いつも暖かく優しく見守ってくれる。
そして、帰った私を見て、「おかえり」と言ってまた笑ってくれるのだ。
ヨルはふふ、とひとりで笑いながら、コーヒーの香りを吸い込んだ。







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