2024-05-31

申し分なく

 穏やかな夜だった。
 聞こえてくるのは、カシャカシャという水を含んだ食器の音と、それに合わせてリズムを刻む鼾の輪唱、そしてカルシファーが薪を食べるパチパチという音だけ。
 彼がお腹を満たすたび、嬉しそうに高く上がった火柱が、暖炉前に無造作に投げ出した長い足を心地良く暖める。
 ハウルは持っていた古い書物をめくりながら、満足気に微笑んだ。
「なに、にやついてんのさ」
 腹を満たしたカルシファーが不気味そうに見上げる。
「別に?」
 ハウルは微かに笑うだけだ。
 だがカルシファーはそれで全てを了解したように「へん!」と一回大きく火柱を上げるとプイ、と煙突目がけて舞い上がった。
「どこに行くんだい?」
 ハウルは暖炉の正面を見上げて穏やかに聞いた。悪魔はしらじらしいとでも言うように呆れた顔で以前の契約者を見下ろす。
「散歩だよ! 感謝して欲しいね、まったく」
 そう言うと、気の利く悪魔はさっさと出ていった。
「さすがは我が友」
 ハウルはくすくす笑いながら本を閉じて、掌にふぅっと息を吹きかけて小さな火を起こす。
「あら、カルシファーは?」
 食器を洗い終えた新妻がエプロンで手を拭きながら不思議そうに聞いた。
「散歩だって」
 暖炉に新たな火をくべながら、ハウルは妻に優しく微笑む。
「まあ、最近多いのね」
 夜露が障らないといいけれど、と、妻は心配そうに少しだけ顔を曇らせた。
 彼女にとっては、数万年を生きる星の子だろうと火の悪魔だろうと関係ないのだろう。
「気を利かせてくれたんだ」
「なあに、それ?……あらあら」
 妻は夫の言葉に不思議そうな顔をしたが、その整った顔の先に視線を移すと困ったように声を上げた。
「おばあちゃん、マルクル、ヒンも。こんなところで寝ちゃ風邪引いちゃうわ」
 暖炉の脇に置いてある大きなソファには、美味しい食事を済ませた元魔女と魔法使いの弟子と不思議な犬が、幸せそうに高鼾をかいていた。
「ああ、大丈夫だよ」
 ハウルはふありと利き手を宙に浮かべると、すう、と目の前で一度弧を描く。すると、老婆と少年と一匹の犬がふわりと浮かび上がり、そのまま静かにそれぞれの部屋に引き上げていった。
「まあ、ありがとう魔法使い。それではお礼にお茶でもいかが?」
 妻は優雅に膝を折り、ポットを片手におどけて笑った。
「それはご親切に。ですが失礼ながらお礼なら……」
 魔法使いは丁寧にお辞儀を返しながら妻の手をとりその身を優しく引き寄せる。
 火の悪魔が残した暖炉に、二つの影がしばらくの間重なった。

 ――実に、申し分のない夜。

 

 

 end

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