2024-05-09

エリカ・ムスターマンの死 10

「まずい……」
 ユーリ・ブライアは、先ほど上司から渡された書類を握りしめながら唸った。
 何度読み直しても書かれている文章が変わるわけがない。だがひょっとして、一文字、二文字は違うかもしれない。そんな甘い期待を抱きつつ、無駄な足掻きをかれこれ三、四回は繰り返している。
 だが、天井に透かしても折りたたんでみても、当たり前だが一文字も変化しなかった。
 ――まいった。
 机に肘をついて頭を抱える。机の上に置かれた無情な辞令が「おとなしく従え」と無言の圧力をかけていた。
「辞令、本日付をもって、第一課に首都及び、首都周辺の|警邏《けいら》業務を命ずる」
 そんな杓子定規な定型文を恨めしげに睨みつける。
 |警邏《けいら》――要するに市中パトロールだ。
 先日口頭で通達はあったが、それが正式な任務として書面で発行された。こうなっては命令だ。「否」を唱える権限はユーリにはない。
 ユーリは、外務省に入省してからたった一年で保安局に抜擢された生え抜きのエリートだ。ゆくゆくは幹部とも、長官候補かとも言われている。それだけに国家に対する忠誠心も厚いと自負している。命令に従わない、などとという選択肢は無い。が、指定されたエリアが問題だった。
 よりにもよってセントラル地区、しかも姉であるヨルが勤める市役所の近くだ。他のエリアもあるにはあるが、どれも市役所から近い場所に集中していた。
 あの辺りは大使館や各省庁も多い官公庁街だ。通常の警官のパトロールだって充実している。
 なにもわざわざこんなところから出向かなくても。ただでさえ、密告内容の精査や偵察で日々忙殺されているというのに。
 すぐ側の窓から外を眺めながら、今日何度目かのため息をついた。
 敷地のすぐ脇の通りは街路樹が整然と立ち並んでいて、青々とした若葉が芽を出し始めている。
 あいにく、先週から降り続いている雨のせいで通りを通るに人間はほとんどいなかった。もっとも、晴れていたとしてもやはりこの前を通る人間はそう多くは無いだろう。
 国家保安局――通称「秘密警察」。その本部である、この庁舎の前を通る人は、日頃から極端に少ない。
 この場所は、首都の西側の地区にある。
 この区は、セントラル地区やイーデン地区と比べるとあまり特色が無い。少なくとも、首都に住む住民からはそんな風に思われている。駅も少ないし、トラムも区の境界辺りをかする程度だ。
 もちろん、中心地とおぼしき目抜き通りはあるし、そのエリアはそれなりに賑わってはいる。だが、中心部から少し離れると、ほとんど人気がなくなってしまう。かといって、イーデン区のように住宅街や学校施設が広がっているというわけでも無い。
 この地区にあるのは、国が運営する公共墓地と、それに繋がるようにして広がる自然公園だ。
 そんな風光明媚な場所に、唐突ともいえるようにこの庁舎は建っている。
 この庁舎は、いわば東国の象徴ともいうべき施設だ。
 一階から三階までは煉瓦造りの建築で優美な雰囲気を漂わせているが、そこから上は威圧感のあるコンクリート造りへと、建築様式ががらりと変わる。
 煉瓦造りの部分は、半世紀ほど前までこの地を治めていた君主制国家の名残りだ。三階からその上は、時代が下り、君主制から共和制に国家が転換された後に新たに増築された部分だ。他国では、政治体制の転換期には、それまでの文化を徹底的に否定、破壊する「文化浄化」が行われることが常だが、この国ではそういったことは行われなかった。文字も文法もそのままだし、建築物も、使われる用途は違っても、以前のものをそのまま使用している。
 だから、ここが人に威圧感を与えているのは、この建物のアンバランスさが原因というわけではない。
 ここが文字通り、秘密警察の本部だからだ。
 ある者にとっては、ここは自身の国家への忠誠心を照らすスポットライトであり、また、ある者にとっては体制への暗い影を落とす|緞帳《どんちょう》でもある。
 どちらにせよ、関係者以外には倦厭される場所だった。
 特に何もしていなければ恐れることなど何も無いのに。
 人々はこの前を通るのを忌避する。まるでここへ入ったら最後、生きて出て来られないとでもいわんばかりだ。
 ユーリにしてみればそんなことを思うこと自体が国家に対する反逆だと思うが、直属の上司にしろ、もっと上の上司にしろ、「抑止力になって結構じゃないか」と涼しい顔をするだけだ。そのこともユーリには不満だった。
 不穏分子どもが首都に、いや、姉が住むこの地にのうのうと暮らしていること自体が気に入らない。今この瞬間も同じ空気を吸っているのかと思うと、それだけで虫唾が走る。
 やる奴は、結局やるのだ。
 だったら悠長に泳がせる期間など設けなくても、ある程度目星がついた時点で連行して自白させれば済むことだ。
 生憎そんな輩は山ほどいるし、ここで尋問の予定だって山積みだ。
「まったく、なんでわざわざパトロールなんか……」
「ぐちゃぐちゃうるさいですよ、少尉」
 いつの間にか後ろに来ていた部下が、呆れたような声を出した。
 部下のクロエだ。部下だが、もともとは大学の先輩だったため、何かと気安い口調でこちらを往なしてくる。
「おまえっ! マジで処すぞ!」
「はいはい、いいから行きますよ。我々の警邏時間は十三時から十六時までです」
 クロエは上司の恫喝にも動じず、スケジュールが書かれているバインダーを目の前に差し出した。
「だいだい、なんでおまえなんかと行動しなくちゃなんないんだ! ボクのバディは中尉だぞ!」
「しょうないでしょう、その中尉からの命令なんですから」
「中尉はどこだ⁉ 断然抗議する!」
「オレはこれから葬式だ」
 クロエを押しのけて部屋を出たところで、その上官が通りかかった。
「中尉!」
「でかい声だな。廊下まで聞こえてきてたぞ」
「早退ですか?」
「聞けよひとの話を。葬式だって」
「え……っと、親族にご不幸が?」
 そのわりに制服のままだ。
「いや、ボスの代理だ。このまま行く」
「ボスはどうしたんです?」
「今日は中央に呼ばれちまってて不在だ。世話になった上官の家族だから、どうしても顔を立てておきたいんだと。マメだよな」
 まあそうじゃなくては出世は出来ないけどな、と上司は薄く笑った。
「葬式って、場所は遠いんですか?」
「いや、すぐ隣の共同墓地でやるらしい」
 彼は顎をくいっとしゃくって、この庁舎の隣にある自然公園の方角を指した。
 隣の自然公園の一角には、国営の共同墓地がある。
 十九世の末頃に、国は教会から埋葬権を取り上げた。それまでは人が天に召された際には、地域の牧師、ないしは神父の承諾のもとで埋葬されるのが常だった。だが、基本的に教会は自身の教区の人間しか埋葬を許可しない。生まれてから死ぬまで同じ場所で暮らしていた中世の時代はそれでも問題は無かったが、さすがに現代では通用しない。
 ただそうはいっても、伝統的な信仰施設は残っているし、たいていの人間は所属している教区の墓所に埋葬される。そうでない人間、例えば天涯孤独であるとか、身元不明者などは共同墓地に埋葬される。そして、その墓地は秘密警察の本部の隣にある。だが、入り口はこの建物とは正反対にあるため、歩くには距離がある。
「随行者は?」
 ユーリは周りを見ながら聞いた。辺りには誰もおらず、上司一人だけだ。秘密警察は基本的に二人ひと組で行動する。制服を着ているのならば、なおさらそこは徹底されていた。
「ああ、誰か適当に……」
「ボクが行きます! 運転なら任せてください!」
「おまえはこれから警邏だろう」
「いえ! ボクのバディは中尉ですし! それにこの雨のなか、上官を濡らすわけにはいきませんから!」
「誰だって変わらんだろう」
「いえ! ボクなら絶対に中尉を濡らしません!」
「ええ……」
 ユーリの熱意に気圧された上司は、困惑気味に後ろのクロエを見る。が、彼女は諦めたように肩を竦めただけだった。
「――ま、いいか。クロエ、おまえはユーリの代わりに他の……そうだな、フリッツでも連れて警邏に向かってくれ。くれぐれも二人ひと組体制は崩すなよ」
「了解」
 クロエは上司に敬礼をすると、さっさときびすを返して任務に向かった。上司は、にこにこと上機嫌な部下を見つめがら、こっそりとため息をついた。
 結局、ユーリの周りにいる人間は彼に甘い。

「そういえば、誰が死んだんです? 最近うちで殉職者なんて出てないですよね?」
 いつもの公用車の運転席た乗ったユーリは、ハンドルを握りながら聞いた。
「おまえ、ほんとひとの話聞かないな。今日はうちの人間の葬式じゃ無くて、その家族のだって」
「へえ……家族の葬式までわざわざ行くんですか。代理まで立てて」
「それだけ重要な人だったんだろう。本当は自分が行きたかったようだったしな」
「ボスの上官ってことは、かなりの地位にいた人ですか?」
「オイデン・ムスターマンって知ってるか?」
「知りませんね」
「だよな……。オレも直接は知らないが、前の前の副長官だった人だ。なんでも、ボスが若い頃にかなり世話になったらしい」
「へえ……」
 流して聞いていたが、ひとつ引っかかった。
「そんな偉い人の家族の葬式が、共同墓地?」
 共同墓地は、ほとんどが身寄りがないか、葬式を出せないほど困窮している人間のために設けられた場所だ。
「家族っていっても、その上司自身がずいぶん前に死んでるからな。最近じゃ話も聞かなかった」
「どうやって知ったんです?」
「ほら、先週イーデン地区で火事があっただろう。中継車が出てた」
「ああ、ありましたね」
 先週の夜遅い時間に起きた火災のことだ。ちょうど地方からテレビ局に戻るところだった中継車がたまたま近くにいて中継をつないだ。その映像がかなり臨場感があったらしく、次の日は秘密警察の本部でもその話でもちきりだった。ユーリ自身は見ていなかったが、やはり映像は訴求力が違うと、そちらの方面でも話題だったので覚えている。
 だが、ユーリが知っているのはその程度だ。その火事で誰がどうなったかのなどは興味がないので知らなかった。
「ってことは、その火事で死んだんですか?」
「そうらしい。母娘がふたりで住んでたんだが、両方遺体で見つかったそうだ」
「……にしては、葬式が今日ですか。ずいぶん遅くないですか? 一週間は経ってますよ」
 確か火災は先週の火曜日だった。今日は水曜日だから、一週間以上経っている。
「一応不審死だからな。解剖すりゃこのくらいにはなるだろう」
「ああ……」
 そんな会話を続けていると、ちょうど公共墓地の入り口が見えてきた。ナビゲードの看板が、いくつかの駐車場の存在を示している。
 共同墓地の敷地は、自然公園に併設されているだけあってかなり広い。墓所と公園は登記簿上は区別はされているが、柵があるわけでもなく、見た感じでの境界はかなり曖昧だった。
 駐車場も、どちらの用であっても停められるようになっていて、一カ所の駐車場で百台以上は優に停められそうだった。
 ユーリはそのうち、施設に一番近い駐車場に入った。
 墓所は広大だが、葬儀用の施設は一カ所しかないらしく、外観からして教会のようだった。だが、尖塔には信仰を掲げるシンボルがない。これもお得意の、以前の施設を流用しつつ、どの信仰でも使用可能だと謳っているのだろう。
 東国には国教の規定は無いが、その分、人民の信仰の自由は保障されている。もちろん、信仰しない自由もだ。
 だが、雨ということもあり、今は五、六台くらいしか停まっておらず閑散としていた。
 施設の扉も既に開いていたが、参列者の姿がまったく見えない。もう入ってしまっているのか、ほとんどいないか。この様子では、後者だろう。
 雨が強くなってきた。「その場の退路を制圧する」という秘密警察の癖で、つい出入り口付近に停めてしまったが、この距離では雨に濡れてしまう。中尉を施設の手前で降ろしてまた戻るかと、もう一度エンジンをかけようとしたところで、上司がさっさと降りてしまった。
「中尉、もっと近くに停めますから」
「いや、ここでいい。その前にちょっと一服させてくれ」
 そう言って、ポケットから煙草を取り出して、傘をさしながら一服しだしたす。
「濡れますよ。座席で吸ったほうがいいのでは」
「やだよ、そんな狭いとこ」
 じゃあ、吸わなければいいじゃないか。わざわざ雨だというのに。
 ユーリは煙草を吸わないため、その心理がさっぱり分からない。ため息をつきながらも待つことにした。
 フロントガラスを流れていく雨水をぼんやり眺めながら、どうしたものかと、先ほどと同じ問答を繰り返した。顎をハンドルに乗せて考えを巡らせる。
 今日はなんとか警邏業務からは逃げられたが、いつまでも逃げているわけにはいかない。警邏業務は決まってしまったのだから選択肢は二つだ。
 姉にすべてを打ち明けるか、姉のスケジュールをすべて把握して徹底的に避けるかだ。
 ユーリには秘密警察を辞めるという選択肢は無かった。
 どちらかといえば、後者の方が現実的か。
 直接聞けば素直に教えてくれそうだ。だが、スケジュールの中にロッティとのランチデートやら、家族でお出かけとかが入っていようものなら嫉妬で気が狂う。
 想像しただけで血が沸騰しそうだった。
 いかん、ちょっと外に出て新鮮な空気を吸わねば。今出れば副流煙に当たりそうだが、この狭い空間にいるのも我慢ならない。
 そう思いながらドアのノブに手を伸ばそうとしたとき、一台の乗用車が駐車場に入ってくるのが、雨が流れるフロントガラス越しに目に入った。
 途端、バッと背を低くしてハンドルの影に隠れた。
 なんっ……、なんで⁉
 天井をぼつぼつと打ち付ける雨音と、バクバクと脈打つ心臓の音が急に強く聞こえる。
「なにやってんだ?」
 外にいた上司が、少し下げた窓からのぞき込む。
「姉さ……あ、姉が!」
「あ?」
「姉がいますっ!」
「は?」
 上司は訝しげに顔を歪めながら、今さっき入ってきた車が停まったであろう方角をしばし眺めていた。
「姉って、例の、おまえ姉さんだよな?」
 こちらに振り向かずに、ぼそぼそと声だけをこちらに送る。目に入っているかは分からないが、こくこくと小さく頷きながら運転席の中でいっそう身を小さくした。
 入ってきた車の助手席に座っていたのは間違いなく姉だった。チラッと見ただけだが、運転していたのは夫のロッティだ。
姉も夫も、普段見たことのない喪服に身を包んでいた。
 なぜ、秘密警察だった人間の家族の葬式に姉がいるのかがわからない。ロッティの関係者なのだろうか。
 二人とも、一瞬こちらに視線を送ったようだったが、すぐに隠れたし、車内にいた自分は見られてはいないはずだ。
 中尉はフォージャー家とは面識が無い。
「……建物の中に入ってったぞ」
 しばらくしてから、中尉の声でやっと体を起こした。背中から汗が噴き出していた。
 駐車場を見渡すと、施設の一番近くの枠に車が一台増えていた。この国ではよくみるトラバントだ。
「中尉……、その……」
 施設の中まで随行するつもりだったが、姉がいるのではとても無理だ。だが、警邏の予定を変えてまで付いてきたのだ。さすがにそれを言うのは憚られた。
「家族で来たみたいだな」
「え?」
「小さい女の子もいたぞ」
 だとしたらロッティの娘のチワワだろう。今日は平日なのに、わざわざ休ませて参列させたのか。ではやはり、ロッティのほうの関係者なのだろうか。姉の知り合いに秘密警察の関係者がいるとは思えない。ロッティほうの関係者だったとしても、それはそれで気になる。どこで自分の立場がフォージャー家に漏れるか分からない。
「おまえ戻って良いぞ。オレは適当に帰るから」
 うつむきながら逡巡していると、中尉は煙草をもみ消しながらそれだけ言った。
「い、いえ、それは……!」
「いいって。別にここでドンパチやるって訳でもなし」
「で、では、こちらでお待ちします!」
 警邏にも行かない、随行も出来ないではあまりにも情けない。せめて運転手くらいは全うせねば。
 姉がどの程度いるのかはわからないが、車が見えない場所に駐車して、中尉の献花が終わり次第さっさと帰れば……。
「時間かかるぞ」
 そんな甘い考えを見越したように、上司が無情に告げた。なぜか、助手席のドアを開けて車内に傘を戻す。
「え、献花したらすぐにお戻りになるのでは?」
「そんなこと言ったか?」
「え……では、埋葬までいるおつもりですか?」
「そんなこと言ったか?」
 中尉は同じ言葉を繰り返すと、にやりと笑いながらドアを閉めた。わずかに空いた窓からこちらをのぞき込む。
「おまえ、姉さんにばれるのはまずいんだろう?」
「そうですが……」
「じゃあ、本部に戻って書類でも書いてろ。じゃあな」
「いや、でも!」
 中尉は後ろ向きに手を振ると、そのまま振り返らずに施設へ向かって走って行った。
「…………」
 しばらく黙って上司の後ろ姿を見送りながら逡巡する。
 やがて意を決すると、上着だけを脱いで後部座席にあったブルゾンとハンチング帽を深く被った。ズボンだけは変えられないがしょうがない。
 車をフォージャー家の車両から死角になる位置、かつ、墓地のなるべく近くになる場所に停め直す。
 まだ心臓が強く鼓動を打っている。だがここでおめおめと帰るわけにもいかない。
 中尉が何をしようとしてるのかは知らないが、どうやらただの葬儀の参列というだけではないらしい。
 ――だとしたら、少しでも様子が窺える場所で待機しておかなければ。今のボクは、姉さんの弟のユーリじゃ無い。国家保安局少尉のユーリ・ブライアだ!
 ユーリは、自分の頬を一回ひっぱたいて気合いを入れてから外へ出る。そして、体勢を低くしながら、施設の外壁沿いに走り出した。
 

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