「静かになさいっ!」
千秋の絶叫が轟くやいなや、ガチャリと教室の扉が開いて、中の教師がものすごい形相で低く怒鳴った。千秋は思わず口に手を当てて身を低くする。少女もぎゃぼん!と首をすくめて小さくなった。
「……わりい」
教師がぶつぶつ言いながら教室に引っ込むと、千秋は少女に謝る。さすがに驚いたのだろう、少女はビクビクと小さく震えていた。
「ごめん、悪かった」
千秋はもう一度きちんと謝る。
「音楽のセンセイって怖いデスね」
少女は少し落ち着いたのか、千秋を見上げて苦笑した。
「まあ神経質なやつが多いからな。試験の最中だったし」
千秋は少女の隣に座ると、その膝に完成した鶴を置いた。
「ふおー」
少女はその折り鶴を見て感嘆の声を漏らした。
「器用デスね~、折り紙名人かなんかデスか?」
「そんなわけねえだろ」
単なる常識、と言いつつ、やっぱり隣に座るのが気まずくてそっと立ち上がる。少女はまだ折り鶴を上にしたり下にしたりして眺めていた。
また静まり返った廊下に、淀みない旋律が微かに流れてくる。
さっき入ったウェーブの少女が弾いているらしい。取り立てて突出したところはないが、優しい、安定した調べだ。だが、ところどころ固さが気になる。試験だし、仕方の無いことなのかもしれないが弾いてて楽しいのだろうかとふと思った。
ここは相変わらず冷える。窓際に近寄りながら外を見ると、微かに白いものが降っていた。
どうりで冷えると思ったら、雪だ。
千秋はまたくるりと振り返ると、パイプ椅子の端に置かれたストーブをずるずる引っ張って、少女の足元に置いた。それを見て、少女は「ありがとうゴザイますー」と嬉しそうに火に当たった。
「少しは指暖めないと、失敗する」
外雪だし、と照れ隠しに顎をしゃくって外を見せる。
「ふおー! 雪久しぶりデス」
少女はぱあっと顔を輝かせて窓辺に近寄って、積もらないかなあ~とはしゃいだ。千秋は並んで立ちながら呆れたように少女を見下ろす。
「そんなにいいか雪が」
「好きデスよー、楽しいじゃないですか」
「雪なんかで遊んで霜焼けにでもなったら大変だろうが」
実際なったことがあった。
ウィーンで暮らしていたとき、その年の初雪が大当たりで、いつもより倍以上の雪が降ったのだ。その雪の多さに学校中興奮し、授業を中断して皆で雪合戦をした。千秋はただ楽しくて、手袋をはめるのも忘れてそれに熱中してしまい、次の日指先が霜焼けだらけになった。それを知った母は烈火のごとく怒り、雪合戦を容認した学校とクラス担任を訴えるとまで言い出した。
それ以来、学校のやつらと遊ぶのは止めた。
「あー、そしたら堂々とサボれますね」
少女はあははと笑って千秋を見上げる。その屈託の無い笑顔に思わずつられた。
「……親とかうるさいくない?」
「イエ、あんまり。辰男と洋子はこのガコ受かったらピアノ付きの部屋借りてくれるって張り切ってましたけど、ばあちゃんたちは『楽しんでおいで』って言ってくれました」
「ふーん」
楽しんで、か。
入試なのにのんきな親だなと苦笑した。それとも記念受験の類なのか。だが、不思議とこの少女にはそれで良いような気がした。
そのとき、先ほど木下のことを教えてくれた女がとんとんと階段を上がってきた。
「千秋君、あと代わるから下の片付けに行ってくれる?」
少女と千秋がいる方につかつかと歩み寄ると、千秋に向かってクイと下を指差す。
「ああ」
もう筆記会場は撤収らしい、千秋は頷いて窓を離れる。
そのとき、教室からウェーブの少女と、教師がふたり揃って出てきた。
「はい、じゃあ次の方」
「あ、ハイ!」
ウェーブ頭の少女に荷物を返してやっていると、窓際の少女が元気良く手を上げた。
「ああ、あなたの荷物は私が預かるわ」
「あ、ハイ、お願いしマス」
少女は女に荷物を渡すと、うす! と一回気合いを入れてノブを回した。
千秋はその少女を見届けること無く階段に向かって歩いた。背中越しに「野田恵デスという声と、それに続いて扉が閉まる音が最後に聞こえた。
階段を降りながら、ふと、彼女はどんなピアノを弾くんだろうと一瞬だけ思ったが、その気持は春の沫雪のようにすぐに溶けて消えた――。
「オーライ、オーラーイ!」
初春の午後に大きな声が響く。マンションの目の前に、大きな引っ越しトラックがエンジンを震わせながら止まった。
あの入試から一ヶ月が過ぎた春の日。
いつの間にか季節は緩んで、木々や鳥達が騒がしい。
まるで冬の悪あがきのように、昨日最後の雪をちらつかせた空は一変して澄み渡っていた。道路にはすでに雪はなく、ところどころ乾ききっていないアスファルトだけが昨日の余韻を止めている。
千秋はスーパーの袋をぶら下げながら小さく伸びをした。
つんと澄んだ空気と、どこからか香る若葉の匂いが心地いい。
散歩がてら日用品を買いに出かけた帰り、マンションの前を引っ越しのトラックが占拠していて先ほどから入り口を塞いでいるのだ。急ぐことは無いのでのんびりとその様子を眺めつつ、マンションに入る機会を伺う。すると、愛想の良い業者が荷物を運びながらペコペコと頭を下げて道を作ってくれた。
新入生か……。
千秋はどんどん運び込まれる荷物を見て思う。毎年恒例の風景、自分の時を入れてこれで二度目になる。このマンションは桃ヶ丘から近いこともあり、防音などがきちんとされている。そのためここに入っている人間はほぼ全て桃ヶ丘の生徒だった。
階段を忙しく行き来する業者を避けながら、千秋はのろのろと階段を登った。すると、千秋の部屋の隣が大きく開いてそこに荷物がどんどんと運ばれている。それどころか、順番待ちの荷物が彼の部屋の扉を塞いでいた。
すごい荷物だ。これじゃ運びこむのも一苦労だろう。
千秋が驚くというより呆れていると、業者のひとりが気がついて「この部屋の方ですか?すいません、いま片しますんで!」と大急ぎで荷物を持ち上げた。だがいかんせんダンボールが多すぎて時間がかかりそうだ。
「いいですよ、別に急いでないんで」
そう言って階段脇の共用廊下の桟にもたれて煙草を取り出す。
いい天気だ。
今年で何年目だろう、日本の春は。
結局、木下はこの季節を日本で迎えることなくスイスに旅立った。俺はいつもまで経っても何処にも行けずに停滞したまま。
ふーっと煙を吐き出すと、風の流れで目が煙って痛かった。
ちっと舌打ちして目をこすっていると、階段の下からひと際大きな声が響いてきた。
「あ、洋子?恵ばいー。荷物ありがとうね、さっき届いたと……うん、うん……ピアノは明日ごたー、うん……」
携帯で話しているのだろう、ひょいと覗くが、まだ踊り場まで来ていないらしくその姿は見えなかった。と、荷物が運び終わったらしい、業者の一人が「すみませんでした!」と声をかけてきた。千秋はああ、と頷いて鍵を開けて部屋に入る。
「うん、うん、へーきばい、どんたくには帰るけん……あ、ご苦労サマですー」
扉を閉める瞬間、明るく笑う声と、すっと扉の外を横切る女の姿が一瞬垣間見えた。
隣はピアノ科か……。
顔までは見えなかったが、千秋はぼんやりとそれだけ思って扉を閉める。
部屋の中に入ると、部屋がこもっているように感じだ。テーブルに買ったものを置くと、部屋を突っ切って一番に窓を開ける。
先ほどと同じ春の空気が流れ込んできて気持ちが良かった。
隣ではまだ荷物がきちんと収まってないらしい。ベランダ越しに「あぁー!そこはピアノが来るハズなんですー!」とか「あぎゃーっ!そのダンボールには宝物がーっっ!」などと言う声が騒がしかった。
新しい土地で、新しい生活。
自分には敗北の象徴のような学校生活だが、隣の人間にとっては楽しくて仕方がないのだろう、声の端々でそれが感じ取られた。
その楽しそうな声に、クサクサした気持ちが少しだけ晴れる。
「さてっと、ピアノでも弾くか!」
半ばその笑い声に背中を押されてピアノに向かった。
『楽しく弾いて――』
鍵盤に向かった途端、どこで聞いたのか思い出せないが何故かその言葉がふと心に浮かんだ。
その言葉に一瞬微笑を返すと、力強く、そして優しく指を走らせた。
開け放した窓から春の風が一陣吹き込む。
その瞬間、隣から一切の音が止まったことに千秋は気づくことはなかった。
ただ、この風とピアノの音だけが千秋の心を解していく。
楽しく、楽しく。
それだけを乗せた音は、春の空へ飛び立って、そしてどこまでも響いていった――。
end.






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