2024-04-25

エリカ・ムスターマンの死 09

 ボンドに食事を与えていると、内玄関のインターホンが鳴った。まだアーニャもヨルさんも帰ってきていない。どちらかだろうと思い扉を開けると、廊下にいたのはオーセン夫人だった。
「こんにちはフォージャーさん。お夕飯どきにごめんなさいね」
 夫人はにこやかに挨拶した。手には大きな紙袋を抱えている。
 オーセン夫妻は、最近隣に越してきた老夫婦だ。越してきてすぐにアーニャとヨルさんが親しくなり、たまに一家でお茶をする仲になった。隣人との円滑な交遊も《梟》としての重要な任務だ。
「いいえ、どうされました? ――どうぞ」
 扉を大きく開けて部屋のなかへ促すが、夫人は軽く首を振って辞退した。
「実は、こちらをもらっていただけないかと思いましてね」
 ご迷惑でなかったらですけど。そう続けながら、小柄な身体には不釣り合いな大きさの紙袋を差し出す。中を覗くと、色とりどりのアルミの缶が入っていた。見たことあるパッケージもあれば、見慣れないものもある。缶自体はそれほど大きくはないが、全部で七、八缶は入っていた。
「紅茶ですか?」
 パッケージのロゴを見て尋ねると、夫人は「ええ、ええ」と頷いた。
「じーさんがまた散歩中にどこかのマーケットだかで買い込んできましてね」
「ああ」
 オーセン氏は、引退前はどこかの大学で教鞭を執っていたと言っていた。そういった職種の人間は、得てして惹かれたものをすべて手に入れたいという欲求に駆られるものらしい。
 要するに蒐集癖だ。どやらオーセン氏もご多分に漏れずにしっかりとその性質を受け継いでいるらしかった。そういえば、彼の自宅の蔵書もかなりの量だ。
「本当に、うちのじーさんは加減てもんをしらなくて。使い切る前に私たちの寿命が来てしまいますよ。これでも半分以上は息子に引き取ってもらったんですが、さすがにこれ以上は無理だって断られてしまって。フォージャーさん、ご迷惑でなかったらもらっていただけませんか」
「そうでしたか」
 まさかこれ全部じゃないだろうな。これでも半分以上ということは、氏はいったい幾つ買ったのか。茶葉なんて一家にひと缶もあれば十分だ。それに、フォージャー家ではあまり紅茶は嗜まない。
 ちょうどそのとき、廊下の先から賑やかな声がして、ヨルさんとアーニャが一緒に帰ってきた。
「ちちー、アーニャとははきかんしたー。あ、バばばだ。ふぉーじゃーけになんのようだ」
「こら!」
「こんばんはオーセンさん、どうされたのですか?」
 ヨルさんがこちらとオーセン夫人を交互に見ながら尋ねた。
「紅茶の茶葉をいただいたところなんだ」
「紅茶?」
「よかったらですけど」
 オーセン夫人がヨルさんにも紙袋の中身を見せて、先ほどと同じ経緯を説明する。
「まあ、こんなにたくさん? よろしいのですか?」
「ええ、ええ。本当にすみませんね。必要なかったらお仕事先ででも配ってくださいな。うちは知り合いはほとんどが天国に行ってしまって。なかなか配る場所もみつからなくてね」
「では、ありがたくいただきます」
 オーセン夫人から紙袋を受け取ると、夫人はほっとしたように礼を言って帰って行った。
「すごいですね。こんなにたくさん」
 家の中に入ってテーブルにもらったばかりの缶を並べる。改めて数えると、全部で十缶もあった。
 オーソドックスなものもあれば、少し癖のある通好みのフレーバーなど様々だ。オーセン氏がよっぽどの好事家なのか、店頭にあったものを手当たり次第買ったのが……おそらく後者だろう。
「とりあえず、うちにひと缶もらいますか」
「そうですね。ロイドさん、病院に持って行かれます?」
「そうですね……ただ、病院で配るなら数が微妙ですね」
 院内の「同僚」たちに渡すには数が足りない。
「まあでも、診察用にひと缶もらっておきます」
 比較的飲みやすそうなブレンドのフレーバーをひと缶もらう。
「あ、アーニャこれすき」
 椅子の上に登って興味深そうに缶を触っていたアーニャが、あまり一般的でないフレーバーを指さして言った
「どこで飲んだんだ」
「せんせぇんとこ。おてつだいしたときにくれた。ちゃがしもんまかった」
「ああ」
 確かにヘンダーソン氏ならば玄人好みの茶葉を所有していても不思議ではない。
「もっていくか?」
「かんけいないものもっていったらおこられる」
「だよな」
 さて困った。
「フランキーさんは?」
「飲みますかね……まあでも、ひと缶押しつけるか。ユーリ君は?」
「聞いてみます」
 それでもまだ六缶もある。賞味期限はまだ先だが、さすがに全部フォージャー家で消費するのは厳しい。ひと缶手に取ってラベルを眺めていると、北部のとある地方の名が目に入った。つい午前中にも話に出てきた地名だ。
「エリカさんに差し上げてはどうですか?」
「エリカさん?」
 ヨルさんが怪訝そうな顔をして聞き返した。
「今日お会いしてきたんですよ」
「あ、そういえばそうでしたね。本当にありがとうございました。いかがでした……って聞いてはいけないんでしたね」
「ええ。まあ……でも、そんな深刻ではなさそうです。そのときに、紅茶がお好きだっておっしゃってたので」
「そうだったのですね。って、それは私が聞いてしまっても良いことですか?」
「嗜好品くらいはかまわないでしょう。ヨルさんも、彼女と一緒に食事に行かれているんでしょう?」
「ええ……」
「なにか?」
「いいえ。じゃあ、明日ひとつ持って行って聞いてみますね」
 ヨルさんは一瞬なんとも言えない表情をしたが、すぐいつもの笑顔になって、これも、比較的無難なフレーバーを選んだ。
「では、そろそろ夕飯にしましょうか。残りはまたおいおい考えればいいでしょう」
「そうですね。一度こっちによけておきますね」
 ヨルさんはフォージャー家用に取り置いた茶葉だけを残して、テーブル奥のボードに残りの茶葉を置いた。
「おなかすいたー」
「はいはい。すぐやるから着替えてこい」
「うーい」
 残った茶葉を手に取ってキッチンへ戻る。この茶葉なら飲みやすいし、普通に飲む以外にも焼き菓子やソースの香り付けに使えそうだ。あまり詳しくはないが、それでも頭の中にいくつかレシピが浮かんだ。
 とはいえ、作る時間があれば良いが……。
 今日の会議では、恩赦が施行され次第、出所者と接触する必要が出てきた。施行規模はかなり大きいはずで、必然、人数も膨らむはずだ。ある程度対象者は絞るとは思うが、自分一人ではとても無理だ。「本業」の医師らにももちろん手伝ってもらわなくては。その根回しと、得た情報を自然に集める必要もある。
 考えるだけで気が重かった。
 やっとゴーリーからVIP患者のリストをもらったところだったのに。できればそちらに専念してデズモンドに繋がる情報を入手したかった。
 だが、ぼやいていても仕方がない。一般外来のカウンセリングは断っているし、これだって院内では特別待遇なのだ。あまり業務に融通を利かせばかりいては辺に浮いてしまう。とにかく、しばらくは、これ以上患者を抱え込まないようにしなくては。
 そう考えたところで、午前中に会った女性の姿がなんとなく浮かんだ。
 品のある女性だった。
 カウンセリングを自ら受けたいというから、もう少し態度も千々に乱れているものかと思ったが、そんな様子も見受けられなかった。
 少しばかり警戒する必要はあるが、もし彼女が来院しても他の医師に任せても問題はないだろう。
 ふと、明るい庭先で穏やかそうに微笑む男女の姿が思い浮かんだ。
 ハーブが好きで、庭で育てている女性。傍らには彼女に寄り添って、穏やかに、それでいて熱心に季節折々の花々を説明する男。そんな甘ったるい映画のワンシーンのような光景が浮かんだ。
 ――優雅なことだ。
 ほんの一瞬、微かに湧き上がった憧憬は、蓋が開く前に缶と一緒に戸棚にしまった。

「アーニャ、そろそろ寝る時間だぞ」
 食事のあと、テレビの前に陣取っていたアーニャに声をかける。もう二十一時近い。アーニャはいつもと同じくように「うーい」と返事をするものの、画面から目を離さず生返事だ。まったく。
 再度声をかけようとしたところで、キッチンで洗い物をしていたヨルさんがアーニャに声をかけた。
「アーニャさん、そろそろ絵本のお時間ですよ。今日はなんの本を読みましょうか」
「まかせろ。きょうとしょかんでかりてきた」
 アーニャはぱっと振り向くと、嬉しそうにふたりで寝室へ駆けていく。
 最近、ヨルさんはアーニャが寝る前に読み聞かせをしてくれている。アーニャもその時間が気に入っているらしく、彼女が声をかけるとすぐテレビから離れるようになった。
 やっとチャンネルの主導権を取り戻せたので、すぐに報道チャンネルに変える。
 先ほどのアニメ番組とは打って変わって、落ち着いたセットの中でアナウンサーが淡々と原稿を読んでいた。
 報道といっても、検閲が厳しいこの国ではあまり中継はない。特にテロや凄惨な事件現場からの中継などはまったくといってない。あったとしても、一般的な事故現場からの報道や、国主導の文化事業の紹介くらいだ。
 中継車が出るのは、そういった国や政府にとって重要な事案のみといって良かった。ラジオのほうがよっぽど迅速性が高い。
 いたずらに国民に映像を見せて模倣犯を誘発するのを恐れているのだろうのか。
 西国が「言論の自由」という大義名分を掲げて、よりショッキングな映像を見せるようになってきているのとは真逆だ。西国の場合、それで視聴率が上がれば差し込まれる広告の効果が劇的に上がるのだから、この姿勢は過激さを増すばかりだ。正直、どちらがいいのかはわからない。
 アナウンサーは、比較的穏やかな表情で原稿を読み続けている。どうやら今日は陰惨なニュースなどはなさそうだ。ここ数日は事故はおろか、テロといった物騒な事件も起きてないようだ。テーブルに置いてあった夕刊を眺めても、さほど重大そうな項目は無かった。
 今日「隠れ家」で聞いた恩赦関連のニュースも影も形も無い。まだ施行まで少し時間があるし、そもそもああいった内容は政治テロの誘発を防ぐためにあまり公表されることもない。
 コーヒーでもいれるかとキッチン足を向ける。コンロに火をかけたところで、ヨルさんがアーニャの部屋から出てきた。
「ヨルさん、すみませんがボリュームを少し大きくして貰えますか?」
 アニメの音量に合わせていたので、キッチンからだと少し聞き取りにくい。
「ああ、ロイドさん、私がいれますよ。コーヒーで良いですか?」
「ええ、でも大丈夫ですよ」
「やらせてください。お夕飯も作っていただきましたし。どうぞゆっくりしてください」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 素直に礼を言って、彼女に場所を譲る。
 リビングへ戻ると、カップボードの脇に置いてある紅茶缶が目に入る。何気なく手にしていると、ヨルさんがコーヒーをいれてこちらへ来たので、全部持っていつもの位置に座った。
 特に申し合わせたわけではないが、アーニャが部屋に引き上げたあとはふたりでこうやって過ごすことがことが多い。ヨルさんもたいてい近くの長ソファに座って、郵便の整理だったり、アイロンがけをしたり、銘々が好きなことをしながら軽い会話を楽しむ。
「それ、分けちゃいます?」
 テーブルに並べた缶を見ながら、ヨルさんがカップボードの下の引き出しから、適当な紙袋を数枚出して渡してくれた。
「ありがとう。そうですね、行き先が決まっている物だけは。ユーリ君は?」
「さっき電話してみたら欲しいそうです」
 だろうな。あの弟が、姉の申し出を断るわけが無い。だが、顔には出さずに「良かったですね」とだけにしておいた。
「今度の休みに取りに来るって言ってましたけど。最近余計な仕事が増えたってぼやいていたのでいつになるか。あの子、ちゃんと休んでいるのかしら」
「相変わらず外交官は忙しそうですね」
 そいうえば、秘密警察の業務に警邏が加わったと言っていた。暫定的なのか恒常的なのか。それとなく情報を引き出したい。街中に秘密警察がウロウロされたのではやりにくいことこの上ない。
 それよりも、ユーリ・ブライアも警邏に加わるのだろうか。姉には秘密警察のことは隠しているはずだが。
 茶葉の缶を袋に入れ終えて画面に目をやると、ニュースは終わって天気予報になっていた。これが終われば一日の放送も終わる。少し早いが自室に引き上げるかと思いながらカップの底に残ったコーヒーをあおると、明日から天気が崩れるという声が聞こえてきた。
「あら、明日雨なのですね」
「しばらく続くみたいですね。買い出し変わりましょうか?」
 平日の追加の買い出しはヨルさんが受け持つことが多い
「いえ、明日はそこまで業務は立て込んでないので早く帰れそうです。雨足が強くなければ良いのですが――そうだ、アーニャさんの靴にクリーム塗らなくちゃ」
「ああ、やりますよ。僕のもやりたいので」
 寝る前にひと仕事出来てしまったが仕方がない。
 玄関から人数分の靴と防水クリームを出してきて適当な新聞紙を広げる。防水クリームの蓋を開けると、固まった蜜蝋の甘い成分がふわりと薫った。
 床に直に座って靴を並べると、ヨルさんも隣に座ってクリームを塗りだした。
 しばらく作業に没頭していたが、身体を動かした際に新聞紙の下から派手な文字の広告が出てきた。紙面のなかで目を引く色彩の文字が躍る。
「こういう広告って、作業しているときに限って目についてしまいますね」
「確かに」
 ヨルさんが広告記事を手に取って興味深そうに眺め始めた。横から軽く覗くと、土地や家屋のセール広告だった。
 写真や家の見取り図がいくつか並んでいる。どれも同じような謳い文句で、同じようなキャッチコピーだった。
 土地や一軒家なんて縁もゆかりもないし、興味も無い。これからも無いだろう。だが、ヨルさんはやけに熱心に見ていた。
「良い土地でもありました?」
 手を動かしながら冗談めかして聞いてみると、思い出したようにこちらを向いた。
「家を買わないかって言われたんです」
「は?」
 家?
「誰にです?」
「エリカさんです。自分の家を買わないかって言われて」
「どういった経緯でそんな話に?」
「ええっと……なんだったかしら」
 ヨルさんは上を向いて、思い出しながらポツポツと話し出す。
「ランチをご一緒してたんです、天気が良くて。シェニッツェルもすごく美味しくて。ピクニックに行きたいわねって。それで、エリカさんが遠くて大変だって言い始めて。アーニャさんも学校が遠いから、そしたら買わないかって。でも冗談かと思って」
「待って、待ってください」
 全然わからない。
「あ、ごめんなさい。私、説明が下手で」
 ヨルさんは慌てて考え込む。彼女はあまり口が達者なほうでは無い。説明になるとなおさらだ。
「ゆっくりでいいですよ。まず、そうですね、エリカさんから、ヨルさんに家を買わないかって、提案があったってことですよね?」
「ええ。エリカさん、おうちがイーデン地区にあるそうなんです。でも、本庁からは遠くて大変だっておっしゃてて。そこから、そんな話に」
「エリカさん、お住まいはイーデン地区なんですね」
「はい、そう言ってました。ご自宅から本庁舎まで一時間近くかかるっておっしゃってて。そうそう、坂が嫌いだって」
「坂?」
「ええ。毎日の上り下りが大変だって」
「じゃあ、イーデン地区の山の手のほうですね。たぶん」
 イーデン地区は大きなすり鉢のような形をしている。いわゆる円形窪地と呼ばれる地形だ。
 だが円形といっても、ボウルのように底が綺麗な正円になっているわけではなく、他地区との境目の辺りの海抜が最も低い。そこから地区の奥にかけてなだらかな丘陵になっている。ボウルが傾いた状態と考えればわかりやすいだろうか。
 そのうち、地区の半分近くをイーデン校が占めている。もう半分が政府要人が邸宅を構える、いわゆる「山の手」と呼ばれる高級住宅街だ。デズモンドの屋敷もこの辺りにある。
 そこに居を構えているということは、ある程度の地位にある人物、ないしは家系ということだ。彼女自身は役所勤めとのことなので、親か親族か。
 少し、興味が出てきた。
「おひとりで住まわれていたんですか?」
「いいえ、お母様と同居されているらしいです」
「ああ、そういえば」
 そんなことを言っていた。父親が亡くなり、寡婦となった母とたり暮らしだと。
「それで? その家をヨルさんに売りたいと?」
「いえ、結局お母様の具合が良くないからとても無理だって。そこでそのお話はおしまいになったんです。でも、冗談だと思いますよ? からかわれたのかなって思いましたし」
「からかう?」
「ええ。あ、えっと、もちろん悪い意味ではなくて。ええと、軽口、のような」
「軽口」
「はい。とても気さくな方ですし。この間も、初めて入ったお店の方とすぐ打ち解けられていて」
「へえ」
 そんなことを言いそうな性格にはみえなかったが。どちらかというと生真面目な印象を受けた。
 初対面の人間と、職場の気のおけない同僚とではまた違うのかもしれないが。
 だが――妙だ。
 長年の堪が警鐘を鳴らしていた。
 彼女から話が出た薬のこともある。もしや秘密警察、もしくは第三国の間諜という可能性も、なきにしもあらずだ。
 このまま捨て置いてもいいくらいに思っていたが、やはりもう一度直接会って探りを入れたほうが良いかもしれない。
 ヨルさんの顔を立てて、病院での診察を薦めていたのが功を奏した。
「やはり、一度ご来院いただけるよう、エリカさんに伝えていただけますか」
「なにか問題が?」
「それはなんとも……ですが、職場も急に変わられたようですし。慣れない環境で心身が崩れることもありますからね」
「わかりました。明日、エリカさんに伝えてみます」
「お願いします」
「何も無ければ良いのですけれど」
「そうですね――本当に」
 何も無ければいい。ヨルさんのためにも――。
 そう考えたところで、また私情を挟んでいることに気がつく。
 なにが「ヨルさんのため」だ。
 任務だ、あくまで。
 ヨルさんに気づかれないように叱咤する。
 気を取り直して、わざと明るい声で話題を変えた。
「でも、イーデン地区にお住まいなんて羨ましいですね」
「羨ましい……ですか?」
 何気なく発した言葉に、ヨルさんはピクリと反応した。
「ええ、まあ。……一般的には羨ましいんじゃないですかね。高級住宅街ですし」
「ロイドさん、今はイーデン地区に住みたいって思ってらっしゃるんですか?」
「え?」
 今は?
 ヨルさんは身体ごと正面にむき直して、やけに真剣な表情で聞いてきた。
「ああ、いや、どうだろう……まあ」
 会話の意図がつかめず、曖昧な返答しかできない。
「じゃあ、じゃあ……どうして、イーデン校の近くにお部屋を借りなかったんですか?」
「え? どうしてって……」
 なんだ? どういえば正解なんだ?
 解がわからず困惑する。
 正直にいえば、別に取り立てての意味は無い。
 単にこの建物の目の前がパークになっていて狙撃される心配がないこと、現在オーセン夫妻が住まう隣の部屋が、都市部に多い典型的な「バーリント部屋」(正確には“ベルリン部屋”。日当たりや採光に問題ある部屋のこと。特に窓がひとつしか取れない部屋のことを“ベルリン部屋”と呼ぶ)で、借り手が厳選されるだろうと踏んでいたというだけだが、そんな答えを期待しているわけもないだろうし、だからといって本当のことを言えるはずも無い。
「別にどうって理由も……単に、ずっと住んいるっていうだけで」
 本当はヨルさんが越してくるほんの二週間ほど前に借りた部屋だ。だが、彼女にはどう説明していたただろうか。聞かれなかったこと良いことに適当に濁していたんだったか。
 肝心なことをなおざりにしていたことに気がついて狼狽した。
 何をやっているんだ黄昏ともあろうものが! 近しい人物にこそより慎重にならなければいけないのは基本だぞ!
 そんな叱責をしながらも、頭をフル回転させる。
「引っ越さないのは……思い出があるから……ですか?」
「え?」
 ヨルさんは下を向きながら、膝の上でぎゅっと拳を握った。
 思い出? 誰が? 誰の⁉
「ヨルさん?」
 下を向いている彼女をのぞき込むように近づくと、ばっと顔を上げてこちらを見る。
 その瞳が潤んでいるように感じたのは気のせいだろうか。
「わ、私が使わせていただいているお部屋! お亡くなりになった奥さまのお部屋だったんですよね⁉」
「は……はぁ⁉」
 突拍子も無い言葉に、「独身ですが⁉」と叫びそうになって慌てて口を押さえた。いかん、設定!
「いいんです! でしたらここから離れがたいのは当然ですもの。なのに私ったら、奥さまの大切な思い出のお部屋を我が物顔で使ってしまって……!」
「いや、待って待って待ってまって!」
 なんでそんな話になる⁉
 羞恥と憂いが合わさったような顔で泣き伏す妻の手首を咄嗟に掴む。顔を隠せなくなったヨルさんは、つらそうに視線を外した。
「…………」
 顔を真っ赤にしながら泣くのを堪えているその表情は、普段、自分には存在しないはずの、嗜虐的な何かを刺激した。
「……嫉妬、してます?」
「しっ……!」
 動揺しながらこちらに振り向いた途端、どちらかの手が当たって、床に置いてあったクリームが転がった。
 どちらのだったのかはわからない。
 お互いに見つめ合っていて気にはならなかった。
 ただ、しんと静まりかえった部屋に蜜蝋の甘ったるい薫りが漂って、部屋の濃度を強くした。
 不安げに狼狽える彼女の顎をゆっくりと持ち上げた。指先から、微かな振動が伝わる。
「ろ、ロイ……」
 宥め賺すように指の腹でその顎をなぞると、ピタリと震えが止まった。そのまま、顔をそっと妻の髪の中に埋める。クリームとよく似た甘い香りが鼻腔をくすぐった。その滑らかな髪の感触をしばらく楽しむ。
 いつの間にか、ポツポツという水を弾く音が外から聞こえ始めた。
 天気予報では雨は明日の未明からと言っていたが、早まったようだ。
「ロ……」
 狼狽えたじろぐ妻の唇にそっと人差し指を置いて音を制する。
 ――番狂わせはどこでも起こる。
 雨が早まることも。
 普段なら絶対にしないような行動を取ることも……。
 そのまま目を閉じてゆっくり唇を近づけた。
 だが、妻の唇に触れるか触れないかの距離に来た途端、ヒュッと、フイゴが空気を吸い込むような音がどこかから零れた。
 目を開けて恋人の姿を捉えると、彼女はこちらを見ていなかった。
 それどころか、目の前の存在を完全に忘れたかのように後方を見ている。
 何か別のものに釘付けになっていた。
 ヨルさん? と声に出すまえに、耳が聞き覚えのある名を拾った。
 振り向くと、既に放送を終えたはずのブラウン管にさっきと同じアナウンサーが映っていた。
 その表情は先ほどとは打って変わって、緊迫と興奮を必死で抑えているかのようだった。
「――繰り返します。本日二十一時頃、イーデン地区××で住宅が燃えているという通報がありました。消防が現場に駆けつけたところ、住宅のひと棟から激しく火が出ており、現在も懸命な消火活動が続いています。この住宅は、前の国家保安庁副長官、故オイゲン・ムスターマン氏の住宅であるもようです。また、この家に住む、氏の妻のアデリナ・ムスターマンさん、娘のエリカ・ムスターマンさんと連絡が取れてないという情報が――あ、たった今、中継車が到着した模様です」
 急に映像が変わって、炎に包まれた住宅が映る。この国では珍しい中継報道が始まった。
 音の無い映像だった。
 カメラに向かって、何か怒鳴りつけている消防の男、ふらふらと視点の定まらないカメラ。
 野次馬たちの驚愕したような、それでいて歓喜を含んだような顔が、炎に照らされ醜く浮かんでいる。
 インクをこぼしたような真っ黒な夜を背にして、朱い竜のような形をした炎が空に向かって舞い上がっていた。
 赤い竜が、鱗を巻き散らしながら、怒り狂ったようにぐねぐねと伸びていく。
 まるで、断末魔のようだ。
 ――何が、起きてるんだ……?
 ふらふらと画面の前に歩み出た妻の肩をそっと支えてやりながら、同じように画面に釘付けになる。
 映像と呼応するかのように、繰り返し繰り返し妻の友人の名を伝えるアナウンサーの声だけが部屋の中に響いている。

 燃え盛る炎と窓を叩く雨音が、夜の静寂を壊していった――。

 

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